2004年12月20日

We are not in Kansas any more...

穏やかな天気の週末。妻が用事で出かけ、僕は自宅に「引き子守り」つつ、年末年始にかけての様々な用事を片付け(ようとし)た。庭仕事も少し。今年はなんだか暖かいまま冬に突入したので、草花の様子がいつもと違って、花をつけたまま枯れていたりする。グラスの根元の地面には、早くもキク科系「外来種」がいくつもロゼットを広げている。しかし暖かい。このまま、暖かい冬が続くようになって、霜柱なんて過去のとこになったりするんだろうか。明治神宮内苑ではキウイの自生が問題になっているらしいが、神宮内苑や浜離宮で、シメコロシクワノキがタブノキを襲う、なんていうのも時間の問題かもしれないぞ。表参道のケヤキ並木からスパニッシュモスが垂れ下がったりとか。トレンド先取りしてウチの庭にもパパイヤでも植えるか(たぶん枯れる)。


■宮崎政雄、麻生恵「多摩丘陵におけるフットパス計画による里山景観保全への取り組み」(ランドスケープ研究 68(2), 2004, pp126-129)

多摩丘陵の一部、町田側に残る谷戸地形の農村景観を保全する試みの一環として、大学の研究室と地元NPOが協力し、イギリスの「フットパス」を参照しつつ、散歩道ネットワーク地図を作って活動した成果報告。こういう地表系のプローチは好き。「歩き」が手がかりとして(というか足がかり)使えるツールだ、というのは、以前、オタベらが「抜け道フィールドワーク」で気がついていたことだった。そうか、「散歩させろ」も結構、ツカミとしてはいいかもしれないぞ。田中さんの「ジオウォーカー」にも繋がるかもしれないし。

風景を制度に絡め取る装置化だ、とか、こうしたガイドブックは「教化」だとか、そういう指摘はありそうだが、まあ「取ったもん勝ち」である。開発に任せておいて、あとになって浮世絵に描いてみせるよりはずっと好感が持てる。むろん、こういう「観光資源型」作戦に、開発の論理に対抗しうるようなチカラは期待できないけれど、逆にこのくらい「弱い」ほうが安心できるように思ったり。「取り返し」がきくので。

僕自身は里山と心中する気はないが、この報告が対象にしている地域の様子にはびっくりしたことがある。多摩ニュータウンの南端の「尾根道路」を超えた裏側の一帯で、ほんとに絵に描いたみたいな「谷戸」の風景が残っている。キノシタ先生の「和ストラル・ミシュラン」でも★を一杯もらえそうなくらいである。また特に、ニュータウン側から尾根を超えて入ってゆくとその「落差」がすごい。あんな、オズの魔法使い的風景展開は他ではなかなか味わえないんじゃないだろうか。雪でも降ったときにまた行ってみたいな。

2004年12月14日

風景の哲学、ほか

今週の通勤本。

■安彦一恵、佐藤康邦編「風景の哲学」ナカニシヤ出版、2002

ちょっと思うところがあって再読。「哲学者」による風景論考集。しかし、最近、電車の中で眠くて、なかなかページが進まない。就寝前の布団の中、朝のトイレ、通勤行き帰りの電車の中、というのは僕の3大読書時間なのだが、疲れているからか、横になるとすぐに眠り落ちてしまうし、電車の中でも眠くなったりすると、貴重な読書時間が大幅に減ってしまう。たいへん困る。

安彦氏は滋賀大の先生で、オンラインでもとても面白い論文も読める。風景論関係の書籍文献データベースもある。青弓社から「景観を再考する」という、パルテノン多摩が主催した連続講演を記録した本が出ているのだが、これが面白い。都市景観、特に電線の地中化などについて積極的に発言している経済学者、松原隆一郎氏が安彦氏の論旨に文句をつけていて、ちょっとした論争の体裁になっている。

そういえば、先週、五十嵐太郎さんや佐々木葉さんと、「どうして松原氏はあんなに電線地中化にこだわるのか」という話になったとき、佐々木先生いわく「きっとさ、小さい頃に、一生懸命手作りした凧が電線に引っかかって破けちゃったのよ。あ、それとも、始めてのデートのあとで彼女を送っていったとき、電線にとまってたカラスの糞が頭に落ちたとか」

(追記: でも僕は、「ふつうに空を見せろ」から出発している松原氏の議論には共感するわけです。やっぱりそれがないとさ。)

■難波江和英、内田樹「現代思想のパフォーマンス」光文社新書、2004

■志村史夫「『水』をかじる」ちくま新書、2004
いや、もう、先週までのように、「都市と水」関係の本を何冊も鞄に入れて持ち歩く必要もないのだが、なんとなく。

■日本造園学会誌「ランドスケープ研究」VOL.68 No.2, Nov. 2004
通勤「本」じゃないのだが、今号は興味深い内容なのだ。なにせ、特集が「美しい国づくりとランドスケープ」。特集とは関係ないが、三谷徹さんの、品川セントラルガーデンの「形態言語」に関する論文が面白い。いろいろと思いつくことがある。これはまたあとで。

2004年12月 8日

「消えろ首都高」

『日本橋コンぺ』入賞作決定:解説記事(東京新聞)

キャナルで話題になっていた「首都高のデザイン的再評価」みたいな既往研究はないんだろうか。

建築系の人(あくまで僕の周囲に限った話だけど。)に質問を差し向けると、たとえば日本橋の上の首都高について、みんな実に歯切れが悪い。なんか、建築の人は、エンジリアリング的リアリティに弱いというか、畏れを抱くというか、「強い必然性」へのコンプレックスのような傾向があって、土木的構造物のデザインに対して口ごもってしまうんじゃないかという気がする。往々にして、建築を律している(場合によっては具現化する)のは、いわば「弱い必然性」である。だから、建築家自身による「作品」解説の文章はえてして、それぞれがいかに必要なものであったかという説明に費やされている。そういう意味では、首都高なんてまさに「必然性の権化」である。

でも、「高速道路の、優れたデザインと劣悪なデザインの事例」が語られるようになったりしたら、土木はあわてて「景観的に良いデザインにするためのガイドライン」とかを作りそうで(目に浮かぶ)こわい。

造園/ラ系は、もともと嗜好としてアンチ近代みたいなところがあり、実際の仕事のフィールドの多くが、あんまり必然性と恣意性の確執が起きるような場合が少ないことが多いから、本音を言わせればほとんどみんな「取っちまえ」と言うだろう(『取っちまえ』という意見が主流だろうということを見込んでわざと天の邪鬼なことを発言する場合を除けば)。

2004年12月 7日

ざわめきマップ

リンク元を辿って見つけたウェブログのコメント欄にあったURLで、もしかしてフライング紹介かもしれないんだが、
terrane.beta.01
付箋がかわいい。それぞれの付箋に記された情報が多くて、地図上のリンク集というような趣。

こちらは、少し前に公開された、本江さんらによる、「Urban landscape search engine(ULSE)の地区版」:
バーチャル卸町ブログ

どちらも、建物の形や配置がわかるくらいのスケールの街区地図を使っている。

ULSEはどちらかというと検索対象になるくらいの情報の集積に重心がかかっているために、地図のスケールが大きいのだが(それだけになんとも独特なざらざら感があってそれはそれで好きなんだけど)、個人と集団の中間くらいの「ざわめき」の「リアルタイムさ」を楽しむには、「丸の内」「卸町」「渋谷」くらいの範囲と縮尺が、地図の解像度的に焦点が合っていると思う。

この「ざわざわした感じ」(ULSEがアクティビティと呼んでるもの。たぶん)は、地図に載っていないものである。こうした「場所ブックマーキング」は、「ざわざわ」を地図的なものに少し近づけてみる(マッピングしてみる)ことで、これがじつは街の主要コンテンツなのだ、ということを思い起こさせるものだ。

僕はどっちかというと「ざわざわの下に静かに横たわっているもの」に関心が向いてるような気がする。これも普通、地図には載っていないもので、あぶり出す作業が楽しいもののひとつである。

■取り急ぎ追記:

と、ULSEの新しい試みが。
jm@foo: 動くULSE
おおお。「ざわざわ」してる。
時間も同期して、たとえば上映速度を調節できたら、各地で日が暮れて風景写真が夜景に変わってゆく様子とか、早回しで全国的に秋になってゆく様子が映し出されたりするかも(←素人外野が勝手に言うだけは簡単)。

2004年12月 6日

悪いやつらは外からやってくる

五十嵐さんが触れている「特定外来生物被害防止法」について、取り急ぎ補足を。

これは「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律(外来生物法)」という。
http://www.env.go.jp/nature/intro/gairaihou.html
http://www.gov-online.go.jp/publicity/tsushin/200403/topics_e.html

外来種の定義について、専門家グループによる審議の過程で、候補の種を「明治以降に絞った」という経緯が記されている。ただ、条文からは「明治以降」と特定する語句は除かれている。
http://www.env.go.jp/nature/intro/sentei/index.html

いきなり「近代に移入したすべての動植物を駆除」するわけではない。
従来の日本の生態系に害を及ぼすと認められる生物種について、ブラックリストを作って(特定)、輸入や栽培飼育を禁じたり、駆除をしたりすることを可能にする法律である。生態系的なセキュリティの強化。

いや、わかってますってば。僕は、生物多様性の維持を掲げる趣旨については充分理解しているつもりだし、浅学ながら、日本の生態系について、その観点からの現状や問題点は、関心のない人よりはずっと知っている。セイタカアワダチソウが既に日本の秋の風情となっているとか、明治以前の外来種だってたくさんあるとか、都市部ではこうした在来種/外来種の区別は事実上無効であるとか、そういう物言いによってこの法の「コンセプト」を相対化しようとするものでもない。個人的な意見としてはともかく、問題意識をつぶす目的で外来生物法批判をしようというわけでは決してない。正直に言えば、してやったりという気持ちもいくばくかはあったりするのである。

それでもなお、これがあくまで「衣食足りて」浮上した問題であることと、「特定」にはある線引きが必要であることと、どのような心情がこれを支えるか(一部で盛り上がっている、ブラックバス釣り愛好家への痛烈な攻撃)ということを想像するに、景観法やカウンセリングや愛国心の法制化とツウテイするような感じを禁じ得ないのだ。気をつけていないとちょっとやばいぞと。