(あるいは「千年持続学、第5回フォーラム」の粗雑不完全レポート)
土曜日。朝から東大駒場へ。
開演ぎりぎりに会場に滑り込み、目立たず座っていたつもりだったのに、司会席から中谷さんに見つかり、「あとでコメント願います」というメモを見せられて思わずハイと言ってしまい、黒田さんと清水さんのレクチャーのあと、いきなり紹介して頂いて何か言えとマイクを渡されてしまい、うう、ただでさえ午前中はエンジンがかかるのが遅いうえに、いったい何を言ったらよいのやら思いつかず、大恥かいてしまった。とほほ。勘弁して下さい中谷さん。おまけに、お昼は講師の先生方と一緒にお弁当を頂いた。いったいどうしてこんなことに。
それはともかくも。長い一日、1秒も退屈しない、きわめて中身の濃い公開講座だったということを記しておきたい。僕はもう、目を丸くして、バカみたいに口を開けっ放しだったと思う。知恵熱が出るかと思った。
中谷氏が繰り返し強調していた、都市は我々のために何かしてくれているのじゃなくて、我々と「関係なく」自己生成してるんだ、というようなことについて、僕はまだ、いまひとつ正しいニュアンスを飲み込めていないような気もする。都市をメタな視点から捉えたとき、それがオートポイエーティックなシステムなんだという切り方は、じつに様々な思いつきを誘発するけれど、こういう物言いをしているとしばしば、「たとえ話」に魅了されちゃって、もともと何が切実な「問い」だったのか、忘れてしまう。それもまあ、面白いんだけどな。それはそれとして、今回、少なくともその「自己生成」のダイナミズムというか、都市の「凄味」はドキドキするくらい伝わってきた。自己生成する都市の夢でも見そうだ。
最初に、中谷氏による、「都市に正面から挑んで火あぶりにされた」ドミニコ会の説教師、サヴォナローラを引いたイントロダクション。
次に、黒田泰介氏から、イタリアの都市に散見される、まさに先行形態の見本みたいな円形劇場の様々な残存事例の研究と紹介。すげー事例がいくつも出てきた。円形劇場の遺跡は、ある都市ではまるで既存の地形のように見なされ、その「基礎」の上に住宅を生やしたり建材のストックになったりし、ある都市ではその「強い」形態が周囲の街路パターンに波及したりする。ルッカの円形劇場遺構中庭付き住宅地のペーパークラフト販売してくれないでしょうか。アセテートで。
それから、清水重敦氏による、平城京が「都」をやめちゃってからの変遷と、現代に残る「遺存地割」。グリッド・フリーの区画だった平城宮跡地に条坊の格子柄が「染みこんでいった」ところや、都市グリッドと農地グリッドの境目に建設され、異なるグリッドが武家屋敷や町人地という地政的支配システムに「転用」された城下町、大和郡山。さらに、現代でも平城京の「エッジ」が街の様子を分けていること。
驚いたのは、奈良盆地の水田地帯で、田圃の畦のパターンに平城京のグリッドが「転写」されたみたいに残存していることだった。奈良では普通に知られていることらしい(そりゃそうだろうけど)が、水田のパターンにくっきり浮かぶ「平城京」は、僕らからするとびっくりである。中谷さんも「気持ち悪い」と言っていたけれど、ほんと、都市の怨念というか、なんか不気味な感じすらする。
平城京の道路が水田化したのは古く、遷都後わりとすぐに始まったそうだ。もとの地割りから考えるに、まず道路を水田にしたように思えるが、その理由や経緯はよくわからない、という。
でも、これは単なる思いつきなのだが、幅の広い「道路」は意外と「水田化」に適しているような気がする。水田は非常に地形コンシャスである。浅い水を湛える必要があるから、田の一枚一枚はデッドフラットに作られ、畦が隣接する田とのレベル差を吸収する。圃場整備される前の水田は、数10センチ単位の土地の高低差を等高線のように描き出していることがよくある。排水のことを考えても、道路は宅地よりも少し低いレベル設定だっただろうし、大きな側溝があったらしいから水を引いてくるにも好都合だっただろう。畦に条坊の形が残っている水田地のあたりは、奈良盆地の北部で、南へ向かって緩やかに傾斜している。地図では、東一坊大路跡の水田が東西に長い長方形に割られているが、これってコンターじゃないだろうか。
そんなことを考えると、たしかにローマの円形劇場ほどには「あからさまに壊しにくい構築物」ではないにせよ、平城京の「気配の存続」も、必ずしも(会場で議論されていたように)理念だけが存続した、というわけではなく、意外と物理的な「先行形態」に依るものなんじゃないか、形態が意味のある持続を獲得するためには、すべてをレンガとライムストーンで積み上げる必要はなく、場合によっては地表にスクレイプされた数十センチのひっかき傷で充分なこともあるんじゃないか、なんて思ったりしたのだ。
お昼を挟んで、青井哲人氏による、台湾の彰化という都市を題材にした、日本統治時代に行われた「市区改正」が都市に与えたインパクトの、いわば「都市生体内反応」の報告。
既存の街路網をほとんど無視した道路整備に対して、敷地を削られたりしながらもその「位置」を変えない「廟」と、新しい街区のレイアウトにさっさとアダプトする、したたかな「ショップハウス群」との違いに現れるものを、青井氏は「地誌的定数」と「位相的定数」の二重性と呼び、「地誌的に不変たらんとする要素は、位相的な変化は受け入れなければならない」「位相的に不変たらんとする要素は、地誌的な変化は受け入れなければならない」という二つの「定理」の組み合わせが都市形態を再組織化しつつ重層化させる、という。
これは冴えてる。これは使えるぞ。むろん、これらは二項対立的な概念じゃなく、街の様々な要素はどちらもある割合で含んでいるものだろう。でも、こうした切り口で眺めてみるといろんなことが腑に落ちる。たとえば都市河川はその性格からして大きく地誌オリエンテッドであり、都市の変化に応じてその「質」を変えていってしまう。あるいはたとえば駐車場は本質的にぐっと位相寄りだから、街の変化に応じて「生える」みたいに発生したり消滅したりする。
それから、フォーラム主催者の村松伸氏による、バンコクの「近代化」に伴う変化について。水路が消滅してゆく際に、水路のパターンと似た構造で道路が造られる、システムの「憑依」。近代化のツールとして導入された「ショップハウス」が、その後、(村松先生によると)「ガン細胞」みたいに増殖してタイの高床式の住居を駆逐していった、ということ。
ショップハウスが普及してゆく過程は、まるで都市に帰化植物が増えてゆく様子みたいである。「持ち込まれたモノ」が爆発的に増えるというところも似ている。湿っていた街を「乾かした」段階で、バンコクは「位相定数の権化」であるショップハウスの「ニッチ」を用意しちゃったのだ(村松氏のお話は必ずしもそういう趣旨でもなかったが、青井氏の話のあとでこれを拝見したため、そういう文脈で理解してしまう)。
最後に、松原康介氏による、モロッコの都市を題材にした、計画の射程距離を問う「カサブランカ郊外の夢と挫折」。旧市街の歴史的景観が有名なモロッコの都市には、20世紀に行われたいくつもの実験的な都市計画の年輪が残っている。1960年代にCIAMが鳴り物入りで作った郊外住宅地があるが、離村農民の怒濤の流入やモロッコの生活様式との齟齬によって機能不全に陥った。
何をもって都市計画が「成功」「失敗」だったと評価するか、は、議論の余地があるだろう(会場でもそこが突っ込まれどころになった)。僕はしかし、スライドに映された、増築されまくったモダン住宅の様子に、イタリアの円形劇場住宅に通じるような、「空間」を「場所」に変える力みたいなものを感じて好感を持ってしまったんだけど。
いやしかし、密度の高いレクチャーだった。どれもこれも、それぞれの第一人者による、バリバリの「一次資料」ばっかりである。一日中、ずーっと「原液」を飲んでたのだ。これで無料。聴講を逸したラ系のあなた、いいものを見損なったぞ。
休憩を挟んで、田中純氏をコメンテーターに迎えた締めくくりのディスカッション。中谷さんが「ここで結論を出す」と豪語されていたし、最後まで居たかったのだが、ここで僕が時間切れになり、30分ほど居て退出した。田中純さんのお話しを直接聞いたのは初めてだったが、ものすごく魅力的な話し方をされる。聞き惚れてしまう。「継承しようとする意志」とは別に、「理念」は意図ではなく、都市を「生き残らせてしまっている」、そういう「外部化された無意識」がいわば都市の「血と肉」だと言えまいか、なんていう、切り取って持ち帰りたいキーワードがぼろぼろ出てくる。当日の講師はどなたも、テープ起こしをそのまんまタイプすればちゃんとした文章になるくらい明瞭で論理的な話をされたが、田中さんが一番すごかった。後ろ髪引かれた。。。残念。しかし、今回の中身はいずれ何らかの形でまとめられるようなので、楽しみにしよう。中谷さんともいつかゆっくりお会いしたい。
会場で、たたかうピクニシェンヌとお会いし、帰り際に南泰裕さんもお見かけした。田中浩也さんにもお会いできるかなと思って柴崎研の前を通過してみたが、室内の人たちは忙しそうだし、声をかけるのをためらってしまった。帰路、東北沢駅への途上で、ミントブッシュが生け垣状に刈り込まれて咲いているのを見つけて驚いた。ってこれはフォーラムとは関係ないけど。
関連リンク:semi@aoao 青井さんの、人間環境大学 地域・都市計画論ゼミブログ