2009年7月 1日

『まちの断片』

川口にお邪魔します。

レクチャーシリーズ『まちの断片』第五回 石川 初さん

【開催日】7月25日(土)16:00 - 18:00

知っているようで知らない身近なまち・都市のはなし。
今月の「まちの断片」では小型化した情報機器とまちとの関係を考える機会として、二人のゲストをお招きします。
7月の二人目のゲストは、携帯電話にも内蔵されるようになったGPSシステムを使い巨大な絵画を描いたり、土地の高低差を細密にビジュアル化して普段気づかない地域の文脈を探る"東京スリバチ学会"の活動など、多岐にわたりまちとかかわっているランドスケープデザイナーの石川 初さんです。
現在のまちから読み解く様々な研究者の話を聞いてみませんか。

レクチャー開催概要:
【開催日】7月25日(土)16:00 - 18:00
レクチャーシリーズ『まちの断片』第五回目は石川初さんです
ゲスト:石川 初(いしかわ はじめ)
1964年、京都生まれ。地上絵師。登録ランドスケープアーキテクト(RLA)。関東学院建築学科非常勤講師、千葉大学園芸学部非常勤講師。著書に、「ランドスケープ批評宣言」INAX出版、2002(共編著)「ドボク・サミット」武蔵野美術大学出版局、2009(共著)などがある。

レクチャーシリーズ『まちの断片』第五回 石川 初さん - コミュニティデザイン協議会 : CDC

以前、大山さんのトークイベントの告知で、この施設の存在は知っていたのだが、今回、お招きを頂いて、これまでの講師の人選に驚いた。ピクニシェンヌ伊藤さん(レクチャーのレポート見るとすげえ楽しそう)、「風景学」の中川理先生、大山総裁。いいセンス。しかも僕の回の前の週には五十嵐太郎隊長。これは、頑張って準備せねば。ご期待にそえると良いが。

緑地環境学実習1 2-3

【第2週】明示的、記号的

■レクチャー

前回のまとめ:意味、機能、物体性

・「どのようであるか」ということ:変化しない形態的特徴を、ここでは「物体性」と呼ぶ。
・物体性とはすなわち、既にそこにある「固有性」にほかならない

特に使える概念
・意味→「何であるか」
・形態→「どのようであるか」
・機能→「どのようであるか」がいかに「何であるか」を支えているか

■宿題の発表とコメント

・意図された事物の記号論的な解釈へのヒント
・「座る」行為と外部環境との関係を手がかりに、「意図された事物(広い意味でのデザイン)」や「意図せざる事物」の意味について考える
・座りうる空間/環境
・対象物について、それが「座りうる」と見なされる特徴(要素、様子)は何か」という言い方で記述すること。

・あるものは一瞥で「座る」とわかる。あるものはわかりにくい。
・ひと目でその意味や機能を認識できる「様子」を、「その意味が明示されている」と言おう。

保存用定義:有意識的・自覚的に対象の意味が伝達されること

・たとえばベンチは、座る施設だということを、自他共に了解している(通じるつもりで 設置している)
・形態としての明示:「らしさ」にも通じる。期待される機能と様子が一致。「わかりやすい」。
・明示の効用:意味が明示されていることは私たちにどのように作用するか
・本棚を考えよ。すべてを自分だけで把握することは不可能。
・私たちは、周囲の環境に多くの情報を預けて生きている。
・一方で、環境が「意味」で埋まると、それはそれで息苦しい。
・鉄道施設:意味の海。あらゆる「面」を意味あるメッセージで埋めようとするかのような光景。
 →駅の場合、物体的特徴と「意味」の乖離が大きすぎる。(伝達する情報が多量で、物体に翻訳できない)
・しかし、駅のホームのベンチはひと目で「座る施設」に見える(ように作られている)

質問:これが「座りうる」に見えるのはなぜか。

■ワーキング

課題:手元にある、採集した「座りうる」事例に対して、「座る」をより強調する操作を提案してください。

■レクチャー

・座りうるように見せる:共感を得るためには、往々にして、広く共有されている「座る」イメージを引き出す必要がある
・「どのようであるか」よりも、「何であるか」という意味が、より明示されている場合を、記号的に明示されていると呼ぼう。
・記号:何らかの意味を示すもの。文字や図形、特定の形態、・・・
・交通標識:記号の典型。
・交通標識が示す物事と、標識の記号には、必然的な関連がない。
・赤色が「止まれ」を指すという意味は、交通ルールを学習した集団にしか通用しない。

記号:

・記号が示す意味と記号との間には、必然的な関連はない。(←重要)
  (「何であるか」と「どのようであるか」の関係を思い出そう)
・記号は、それを認知する集団内でしか通用しない。
  →限定された集団内のルールである
・より広く通用する記号にするほど、デザインは没個性的になってゆく
  →世界中どこでもひと目でわかる意味・・
・一般的に、記号性を強める(認知を『やさしく』する)ほど、固有性は失われる傾向がある。(ありきたりになる)
・共有されていない記号:はずすと意味不明なグラフィックになる。
・しかし一方で、記号はルールである。あくまでそのルールが通じる集団を前提とする。
・「ルール」は自動的に、そのルールが通用するフィールドを想定する。つまり、ルールはそのルールの範囲(社会)を規定する。

質問:「立ち入り禁止」を、記号的でなく実現するには、どのような物体的様態があるか?

・思わず座ることで「ベンチ性」が発見される:転用の余地があった物体
・記号的なベンチは、作る側によって、あらかじめ「意味」が限定されている。
・より記号的であることには良し悪しがある。
・使う側の心理的負担を軽減する一方で、使い方を限定し、関与の可能性を狭める。
・デザイナーはしばしば、「押し付けがましくない、でもわかりやすい」という落としどころを探る。
・記号性の強い形態は、それがあるということによって、その環境に意味が生まれることがある。
・非・記号的な明示が可能なこともある。(アフォーダンス論)

記号的なデザインが施された施設への、解析/接近のコツ:

・記号の意味を解析する(記号が示すもの、またその記号が用いられるという行為が示すメタ記号性)
・その記号が共有される集団を想定する
・物体的形態へ置き換え可能かという検証

■次週までの宿題の出題

これまでの用語による概念の応用編として、街の「境界」に注目する。

課題:付近で、明示された境界を構成する要素を採集し、その境界で意図されている選択と排除の対象を想定し、その機能を維持したまま、形態をよりフレンドリーにする操作を提案してください。

・A4たて使いのフォーマット。
・現況は写真を貼ってもよいが、提案は内容を説明できるスケッチを示すこと。
・説明のテキストを併記する。
 →選択と排除の対象。抽出した機能。提案する操作の具体的内容。

■補遺

参考文献:

ちょっと待ってくれ。



【第3週】セキュリティ:境界と排除

■野暮な注意

・デザインの美しさを評価していない。図は、それはまあ上手なほうが心は動かされはするが、それはあくまでも、内容の説明を明確にするための媒体である。
・オリジナリティ(たかだかクラスの中での他の人との違い)を評価していない。誰かと同じ対象でも全く構わないし、うまく言えている説明や描き方は素早く真似をすべき。
・明晰に、論理的な説明ができること。冴えたアイデアだけでは評価しない。
・疑問は共有しよう。時間内に質問してくれると有難い。

■レクチャー

・境界:街の風景をつくる最も大きな要因のひとつ。
・地図:線と面で描かれている。特に線である。面の表現も、輪郭を線で描くことで表している。
・地理的に表現された社会のルールが記載されているのが地図。
・地図上で最も重要な要素として記載されているのは「境界」である。地図の大部分は、土地の「利用/所有区分」が描かれている。

問い:地図には何が描かれているか。それはどのように(何をもって)描かれているか

・地図:平面に配置表現された、社会のルールが記載された図。
・運用上、地図に記されたような、「取り決め」や「ルール」を可視化し、物体的に作用するものにしておくことが有効である。
・こうした、制度や概念を、実空間のモノで作り直すことを「施設化」と言おう。

施設化された境界に課された機能:
・「選択」と「排除」の行使。
・これらをここでは「セキュリティ」と呼ぼう。

問い:写真による事例。何に対して、どのようなセキュリティが作動しているか?
・物体的?何に対してどのように作用するか?
・記号的?誰にどのように何を発信するか?

■宿題の発表とコメント

・発表者の名前
・どこで発見した物件か
・どのような境界が明示されているか
・その境界で実行される選択と排除の対象
・それを実現する要素

・提案、何をどのように操作することで、形態を友好的に見せかけるか
 (フレンドリーの解釈には幅があってもよい)

■レクチャー

・セキュリティは、ある領域の内部の秩序を維持するために、出入りする構成要素に対して選別的に働きかけるという作用をする。
・セキュリティは、「内部」を想定する。(内部が構想されることで、セキュリティのコンセプトが浮上する)

・最も規模が大きく、厳しく行われているセキュリティはどこか?(国境?)
・最も身近なセキュリティはどこか?(免疫?消化?)

・内部と外部は相対的。車道と歩道の関係。
・「歩車道境界」をフレンドリーにしようとしたデザイン:歩行者と車両の運行条件を近づける(いわゆる歩車共存)
・町の風景はセキュリティでできていると言っても過言ではない。

・セキュリティはその性格上、どうしても「攻撃的」になる。
・だから、それを見た目で穏やかにするというデザインが求められることがある。
・排除エレメントが目立つ場合、排除エレメントの存在自体がセキュリティの記号となっている。
・ここに、デザインが導入されて、機能を維持しながら記号性を消すという事例が増えている。
・今日、「制御」の機能は不可視化し、意識されなくなってゆく傾向がある。「環境化」。

■ワーキング

宿題で採集した境界のセキュリティを再度解析し、その排除性を非・記号的に下げるデザインを提案してください。

tips:
・排除される要素を、いかに取り込んで共存することが可能か?
・内部と外部の「差」に働きかけることはできるか?

■レクチャー

今週のまとめ:セキュリティを読み解くポイント。

・内部はどこか
・内部に要求される秩序の水準はどのようなものか

セキュリティのデザインの可能性
・装置のデザイン:環境化への加担・内部/外部の相対的差異への挑戦
・「外部」とのつきあいかた:一生ものの課題となりうる

■次週は休み。次々週までの宿題

「植栽」に目を向けてみることにする。たとえば、樹木が植えられていることで、どのような事態が出現しているか?

課題:付近で、何らかの意図が認められる植栽を3つ以上特定し、その植栽について、

1.その植栽があることで、どのような事態が出現しているかを、できるだけ詳しく記述してください。
2.その植栽が果たしている、あるいはその植栽に期待されている機能と効果を抽出し、植物ではない装置や施設で置き換える提案をしてください。
その際に、提案する装置のほうが優れている点を挙げて説明するように。

・A4たて使いのフォーマット。
・現況は写真を貼ってもよいが、提案は内容を説明できるスケッチを示すこと。
・説明のテキストを併記する。


■補遺

対象のスケールを変えて観察してみれば、「セキュリティの総量は不変である」という言い方ができるかもしれない。局所的に緩和したつもりでも、それはそこで見えるところから「追いやった」だけで、全体としてのセキュリティは変わっていないことが多い。住宅をオープンにすることを可能にするのは、しばしば住宅地全体のセキュリティの向上である。これを「ゲーテッドコミュニティのジレンマ」と呼ぼう。

ところで、宿題の「フレンドリーにする」という問いに対して、多くの回答が植栽を施すという手法であったことが興味深い。植栽の「フレンドリーさ」を否定はしないが、私たちは植栽のプロ(の端くれ)である(になる)のであり、できればこう、「クールに熟知している」というのが格好いいんじゃないかと思う。次回はそのヒントの共有を目指す。

今週の参考文献:

・マイク・デイヴィス著、村山敏勝、日比野啓訳「要塞都市LA 増補新版」(青土社、2008)
増補版が出ているとは知らなかった。これは買おう。

・五十嵐太郎 「過防備都市」 (中公新書ラクレ、2004)
「セキュリティの総量不変の法則」を念頭にして読んでみると非常に面白い。

・東浩紀、大澤真幸「自由を考える―9・11以降の現代思想」(NHKブックス、2003)
とても「緑地環境学実習」の参考図書に見えないな。ちなみに、マクドナルドの客用椅子が固いのは長居させずに客の回転数を上げるためだ、というのは都市伝説らしい。

緑地環境学実習1 0-1

「緑地環境学実習1」環境造園学領域担当部分、全7回

【事前課題】

身近にあるもので、それが作られた当初に意図されただろう機能とは「異なる」使われ方をされている(あるいは自分自身でしてしまっている)事例を探し、収集してください。

手順:

1.A4の紙を縦に使って、上半分に事例をスケッチする。
2.スケッチに矢印を記入し、そこに観察できる特徴をメモする。
3.下半分をさらに左右に分け、左側に「当初の意図」を書く。当初の意図とは、それが何として作られたのか、ということ。(例えば、『マグカップ』)
4.その下に、その物の物体的特徴を箇条書きする。できるだけ多く、単純な表現で。
5.右側には、観察された事例を書く。(例えば、『ペン立て』)
6.その下には、「観察された事例を支える特徴」を羅列する。
7.左側の箇条書き(その物の特徴)のうち、何が「観察された事例を支える特徴」となったか、その対応を書き出す。

*上記のうち、6.および7.の意味がよくわからない場合は、ひとまず空欄でもよい。実習時間に解説します。


【第1週】身近な転用

■概説「デザイン」のリテラシー(読解力)

作る(構想する、計画する、建設する、維持管理する)側として、同時にまた享受する側としても、環境への何らかの改変の「意図」を推察し、批評し、応用できること。狙いの背景として、「緑地環境学」、広義の「ランドスケープアーキテクチュア」に特有な「視点」は、すべての場所に、「既に固有な環境がある」という態度がある。固有性、潜在性への接近は、先入観をいかに排除・払拭できるか、にかかっている。この実習でこれへのヒントが掴めればまあよい。

■事前課題の発表とコメント

・事前課題の発表。転用の解析:転用の事例と「意味」と「物体性」の分解。
・「機能」と「形態」。事物の一義的な特徴、「何であるか」と「どのようであるか」の見分け。事物への接近は、「なんであるか」を払拭して「どのようであるか」に触れること。

例:マグカップ
・意味:約束事、共有されているルール(記号)
 →マグカップである、ペン立てである、・・・
・形態:「どのようであるか」ということ。意味が変化しても、形態は不変
 →円筒形/上が空いて底が閉じている/底が平たい/取っ手がある:片手で持てる/白い、ツヤがある/固い/持てる重さ/厚みがある(断熱)/セラミック(陶器)/角が丸い など
・機能:ルールが要求する意味、形の「理由」(記号による意味づけ)
 →液体を保持する/机上に置ける/片手で持ち運べる

変化しない形態的特徴を、ここでは「物体性」と呼ぶ。
物体性とはすなわち、既にそこにある「固有性」にほかならない

転用のプロセスを追うことで見えるもの:
・用途が変化しても物体性は不変
・プログラムは建設物よりもしばしば短命である
・対象が「何であるか」を限定するのは私たちの思い込みである(ことが多い)

■ワーキング

キャンパス内の「転用」を採集する。
・事前課題と同じフォーマット
・「転用されている」に限らず、その可能性を見出せるもの、意味が変質していると思われるものでもよい。
・結果を報告するつもりで表現すること。
  *クイックスケッチのインストラクション

採集した「転用」を報告する際のコツ:
「これは○○です」ではなく「これは通常○○と呼ばれるものです」と始めてみる。
「これの、○○としての意味(機能)を生んでいるのは、次のような形態的特徴です・・・」とか。

■レクチャー:たとえば駐車場

駐車場とは何か →駐車場の意味、機能
車両を停めておく施設、車両の保管場所、通路と駐車スペースがある、道路とは区別される施設、・・・
駐車場とされる施設はどのようであるか →駐車場の物体性
硬く舗装されている、平坦面、車両の大きさで等間隔に線が引かれている(グラフィックで成立している施設)・・・
子供:物事の物体性に素直な存在。 →社会的ルールに無知であるために、先入観を抱かない

・意味に自覚的であること
・物体に素直に接近できること
 →「デザイン」だけではない、「都市」「建設」に関わる全員が持つべき資質

■次回までの宿題

キャンパスと周辺の「転用」を採集する。
・事前課題のフォーマットの横2倍(A3)
・現状の対象に、転用の可能性を積極的に見出す。
・キーワード「すわる」。
・「座りうる」物体を探す。「座りうるを実現する操作」を想定してもよい。

■その他、実習中に伝達したこと

・実測せよ
・スケッチせよ


■補遺

参考文献:

・中谷礼仁「セヴェラルネス 事物連鎖と人間」(鹿島出版会 、2005)
いきなり読み始めると消化不良を起こすかもしれないが、ちょっと読めば、これが講師が述べた様々な定義や概念のネタであり、喋ってることがほとんどこれのパクリ・・じゃなかった「引用」だとすら言えることに気がつくであろう。つまり、レクチャーの間、居眠りしていたお前らは必読だということです。

・宮本佳明「環境ノイズを読み、風景をつくる。」(彰国社、2007)
フィールドワーク的応用編と建築的実践編。

・10+1 No.37 特集=先行デザイン宣言 都市のかたち/生成の手法(INAX出版、2004)
上記の中谷氏と宮本氏による合同ワークショップと、その過程でうまれた議論を特集した号。10+1誌は廃刊してしまったので、こういう素敵な号は、まだAmazonで買えるうちに(2009年7月現在)入手しておくことを薦めます。

・原研哉「RE DESIGN―日常の21世紀」(朝日新聞社、2000)
この後に出た同じ著者による「デザインのデザイン」(岩波書店、2003)も有名だが、「RE DESIGN」のほうが今回の趣旨としてはわかりやすい。

2009年6月30日

雨季の週末の記。

雨季の週末。

建築雑誌編集委員会の、小淵沢での合宿というか慰安旅行に、土曜日の夕食と2次会だけ参加することにさせてもらい、僕は家族旅行を兼ねて、金曜の夜から親子で清里にある叔父の別荘に宿泊。

土曜日。

朝、レンタカーで蓼科へ。途中、清里の駅前の荒廃ぶりに驚愕する。僕はこの年齢なので、八ヶ岳周辺の「高原」をめぐる生活スタイルや商品が流行し、ことに清里がプチ原宿化し、周囲の女の子たちがグループで清里へ旅行しては、ペンションに泊まって、丸文字のロゴと漫画チックな乳牛のイラストが描かれた木製のコースターをお土産に買って、小海線の駅の看板を背に記念写真とってきた、そのころのことをよく覚えている。というか、ここ10年以上清里などへ足を踏み入れてはいなかったので、僕の清里のイメージはそれ以降更新されていなかった。

高原の農村と別荘地の観光地なんて、狂騒のブームが去って静か、というくらいのほうが環境としては良くなるんじゃないかとも思うが、こういう「かつて栄えたことがある町」はその栄えた時期がいつだったかによって、風景の痛さに差がある。清里駅前はちょっと気の毒である。仮にこのまま駅周辺の建物が取り壊されずに残り続けたとしても、「昭和60年代の街並み」が古街道の宿場町のような資産になるとも思えないし。いや、なるのかもしれないが。

途中で母親をピックアップして、蓼科の恵泉ガーデンへ。この、恵泉の園芸研修センターとして作られた施設は一般公開されていないのだが、僕の母が恵泉女学園の卒業生なので、その伝手で見学させて頂いたのだ。

いや、維持管理の繊細さと植栽への配慮と知識と趣味のよさが敷地中に横溢する、素晴らしい庭園であった。いいものを見た。

ガーデンは、その土地の固有な自然環境と、庭師の介入が引き起こす生態学的攪乱との拮抗である。僕ら鑑賞者は庭師の手の痕跡を通してその場所の潜在的自然を透かし見る。庭師のイメージが単に外部化するだけでなく、その場の既存状況とがっちり「関係してしまう」のがガーデンの特徴である。緑と付き合うというのはそういうことである。つまり、その場所のベタにローカルな状況に向き合う腹を括るということだ。何が言いたいかというと、そういうスピリットが欠如している場合は造花を(以下略

日が暮れてから、家族を別荘に残して小淵沢へ向かい、建築雑誌編集委員会の食事会に合流。楽しいひとときであった。

ところで僕は飲めないくせに、周囲が飲むとそれにつれて灰になって、じゃなくてハイになって余計なことを喋りまくる悪癖があり、近年の植物つき建築が神経に障る旨を五十嵐隊長に向かってしつこく主張し、そんなに言うんなら今年の暮れにこのテーマで討論するシンポに出ませんかとオファー頂いて、あわわ、速攻で前言撤回してお断りした。危ねえ。そういえば先日、佐藤師匠からお電話頂いて、同じ趣旨の申し出をもらってお断りしたところだった。それはそれとして、もう少し説明できるように言葉を整理すべく、考えておかないといけないのだが、さしあたってもっと自重しよう>自分。

日曜日。

朝、息子の咳がひどくなり、調べても清里周辺などには救急で受け入れてくれる小児科などがなく、結局甲府市内の病院まで行くことになって急行。吸入したり点滴したりしてもらい、また清里へ戻って、予定していたレジャーはぜんぶ切り上げて帰ることにし、午後すぐに出発したのに帰路の中央高速は駐車場のように渋滞していて、帰宅したのは午後8時。

おまけに自宅についてから別荘に僕の鞄をひとつ置き忘れたことに気がついた。やれやれ。急いで必要なものは特に入っていないが、洗濯物満載の鞄なのだった。次にいつ、取りに行けるかわからないが、中身はカビだらけのシャツやパンツだろうと思われる。うげ。

イデ緑

じつは先々週に終わっちゃったんだけど、以下のイベントでレクチャーをしました。

IDEE GREEN SEMINAR Vol.1「緑の東京をつくる。遊ぶ。」 | Blog | IDEE HOUSE PROJECT

お招き下さったIDEE関係者の皆さん、会場にお運び下さった皆さん、ありがとうございました。

ご一緒した、「緑のカーテン」の伝道者にして小学校の音楽の先生、菊本るり子氏が最初にお話しされた。
菊本先生のお話は、ご自宅や学校での試行錯誤の実践のプロセスと、実際に夏季の屋内環境の緩和の実証的報告と、子供たちや自主的なサポーター群や、企業や行政や政治家を巻き込んでゆくそのパワーと、おまけに最後に子供たちの歌に乗せて学校でのゴーヤ栽培のひと夏のシーンが次々に映るという、感動的に反則技なプレゼンテーションであって、僕はもう、打ちのめされて、自分の番になる前に帰ろうかと思ったぜ。

僕が用意していたのは主に路上園芸ネタであったのだが、最初の15分ぶんくらい「米英日に見る、住宅地の前庭のありかたが示す公私の空間の扱い」というような内容の、わりと固い話題をくっつけていた。これのおかげで、僕自身の気持ちの切り替えというか、心の準備になって、最後は結構いいノリで喋れたのであった。あー、これ用意しといてよかった。

菊本先生の当日のログ:
IDEE GREEN SEMINER-緑のカーテンのある暮らし

2次会にも参加し、緑のカーテン応援団の皆様や、写真家の瑳山ゆりさんらとお会いした。

IDEEから関係者に案内メールを送るという、必ずしも一般公開ではないイベントだったので、こちらで告知しなかったのだが、それでも会場に何人も知り合いがいて嬉しい驚きでした。皆さんどうもありがとう。

小林さん身に余るレポートありがとうございます。
バドン|マニアパレル:イデ緑

会場で配布していたゴーヤの苗を4ポット頂いて帰宅。さっそく我が家の菜園の横に地植えした。
あと、建築家は造花使えよ造花(関係ないけど)。

2009年6月10日

パワーポイントの鬼

庭先にアジサイが咲き、葉にカタツムリが這い、雑木林は緑に湿るこのごろ、お6月ございます。>各位

インドネシアへ1週間出張。現地で、藤村龍至さんと大学時代に同級だったという人とご一緒する。
なんという狭い世界であろう。

翌週、今年から非常勤でお手伝いすることになった千葉大園芸学部で「緑地環境学実習1」が始まった。

何をどのように行うかという内容は決めてあったものの、実習の合間にレクチャーするスライドの材料や講義ノートなど、細かい資料の作成が間に合わず、往復の機上で作業。電話もかかってこないし、他に何もできないので、実に集中して作業ができる(肩は凝る)。

火曜日、松戸へ。予定外の事で職場を出るのが遅くなってしまい、初回からあわや遅刻かというくらいギリギリに教室に着き、最後は終了時間を間違えて、受講している学生に「先生、時間オーバーしてます」と指摘されて慌てた。

でも、千葉大キッズは予想よりもずっと手ごたえもあったし積極的(予想よりは)だったし、70人というのは恐れるほどには膨大な人数というわけでもなく、なんとか射程距離に収まる範囲だということもわかったし、顔見知りの院生がふらりと手伝いに来てくれたりして、今後が楽しみなスタートでした。

消耗して帰宅。
息子(6歳)が食事に付き合ってテーブルについてくれた。

僕 「今日はもう、70人と対決して、くたびれたよ」
息子「タイケツってなに?」
僕 「戦うってこと」
息子「70人とどうやってタタカウの?」
僕 「パワーポイントで。」
息子「パワーポイント。ポイントを教えながら逃げる。」
僕 「逃げる?」
息子「ポイントを教えな・が・らだよ。それで、追いかける人はポイントを聞くまで動いちゃいけないの。」
僕 「なんだそりゃ」
息子「いま思いついたゲーム。」
僕 「ポイントって何だよ。位置情報みたいなもんか」
息子「たとえば木とか。それで、『木!』って言ったあとは木に触るとセーフなわけ」
僕 「だってそれじゃあ、自分のすぐ近くのモノをポイントにすれば簡単じゃんか」
息子「でも追いかける人はさっきまで鬼だったんだよ」
僕 「?」

この話のズレ具合はどうよ。というか、パワーポイント→応用型鬼ごっこ、という飛躍は、いったいどういうイメージの喚起のされ方なんだ。

2009年5月19日

尻軽ケーブル

先日、知人の結婚式からの帰路、地図メカとの話のメモ。

・iPhotoは、もうOKである。

最近、やや忸怩たる思いもしていたのだが、地図メカもiPhotoユーザーだと聞いてちょっと安心。

実は昨年秋、久しぶりに自宅用にiMacを購入した(我が家のメインマシンの更新は5年ぶり)のだが、これにプリインストールされてきたiPhotoがあまりに使い心地が良く、ついに軍門に下ったというか、この便利さ手軽さに降伏したというか、デジカメデータ群をそっくりiPhotoに「委ねる」ことにしちゃったのだ。ささやかなクラウド化。

僕はべつに情報技術に詳しいわけでも何でもないし、ツールとしてのデジタル機器は深く考えずに(できればマニュアルも読まずに)容易に使えればそのほうがいいと本当に思っているのだが、一方でできることなら『中の様子』をぜんぶ把握しておきたい、という抜きがたい欲望を抱えていて、ハードディスクの中のファイル群は必ず何かの分類で、自分の手でフォルダーに分けて階層化しておかないと落ち着かない。タグをつけてフラットに投げ出しておくgmailのようなノリが駄目なのだ。写真ファイルも、「オリジナルの所在」が明確でないとイヤで、フォルダの作成やファイル名の変更やなにやら、画像ファイル整理ソフトに任せておけず、全部自分で整理していた。おそらく、フィルム写真のネガやプリントを整理するようにしようとする傾向があるのだろう。

でも、「ファイル」とか「フォルダ」も、「例え話」である。「どこに保存した」の「どこ」がすでに、比喩でしか語れない。しょせん、僕のレベルの知識では、中身を把握しているような気がしているだけで、それはあくまでもグラフィックインターフェース的世界の中で辻褄があっているように見えるだけだ。要は、どこで見切るというか、諦めるというか、開き直るかである。

僕は時代的年齢的に、かつてウィンドウズが登場したときとか、システム7が登場したときとか、ブログが登場したときとか、見かけ上の「例え話」が巧妙になるときは必ず、機器や回線の速度が追いついていかずに、コマンド打ったほうが速いとかHTML書いてるほうが軽いじゃんか、というストレスを味わう、という目にあってきたのだが、最近はなんか、ハードウェアの性能の更新が早くて、そういう「込み入った仕組み」がさっさと背後に退いてしまうため、以前よりはずっと諦めやすくはある。箇条書きのテキストをわざわざdocファイル添付してメールで送られてくるのにも、いい加減に慣れないといけないのだろう。


・アナログ写真のデジタルアーカイブ化

上記に関連して。

我が家は世紀の変わり目くらいに「デジカメ期」に入り、数年前からまったくフィルムカメラを使わなくなった。

それ以前の「アナログ期」の写真群は、妻が几帳面にも、ネガのロールごとにIDを振って、プリントと一緒にアルバムに分類して保管していた。この、「リアル写真データベース」のディレクトリ構造とアクセスが非常に良かったため、むしろ手軽に素早く「一覧」できないデジカメのデータ(PowerBookのハードディスクがすぐに一杯になるため、主にMO(!)に保管していた)のほうが「死蔵」され気味になってしまい、しかも気付いたら我が家にフロッピーディスクを読み取る機器がもはや不在だとか、デジタル化されることで開放されたような気になっていた「物体の制約」が実は意外に強く、かつ脆い、などと思ったりしたのだが。

ここへ来て、またぞろ、手元のアナログ写真群のデジタル化について考え始めている。というのは、そのiPhoto的状況の変化のために、デジカメ写真ファイル群の閲覧が飛躍的に容易になったからだ。

たしかに、デジタルアーカイブ化は必ずしもそのデータの永続性を保障しない。しかし、デジタル化の意義というか、データがデジタルになることで開ける可能性はそこではない。

それでも消えるものは消えるでしょう。それは仕方がない。でも、やり方次第で紙の書物よりもはるかに多くの情報を残せる「可能性」がある。その可能性は消したくない。
そのためには結局のところ、みんなが「アーカイブ」の意識を持つようになればいいんだ、というのがいまのところの結論で、若者にもそれを刷り込みたいなあと思って先日の発言に至りました。

jm@foo: 記録と移動

地図メカによれば、キモは、データの「ケツを軽くしておく」ことである。ハードウェアの性能とインターフェースの巧妙化とネットワークの速度とが向上すればするほど、ケツの軽いデータは情報網の中で「ツルツル」になってゆく(そして、ツルツルとGoogleに集まってくる...)。

しかし、ツルツルに浮かせるには、最低限、データがそのような「様態」になっている必要がある。いま、世界中の住宅の地下室や押入れで色あせていきつつある膨大な人類の記録画像のケツを軽くするポイントは、あまり心理的な抵抗感なく、簡単にツルツルと35mmフィルムをスキャンできる装置なんじゃないだろうか。

僕の個人的な記録について言えば、70年代くらいまでの、両親が節約して大事に撮っていた写真群は、あるいはそれなりのフィルタリングのすえに、丁寧に保存されている。21世紀のぶんはすでにデジタルだ。80年代、90年代の写真、特に中途半端に古くて、感慨も抱かないために、アーカイブ化しようという動機が薄い80年代後半の写真が最も危ない。もしかしたら今は、アナログ写真をデジタルアーカイブ化する最後のチャンスかもしれない。今なら、デジカメになる前の写真アルバムの「記憶」と、デジタル化のガッツが辛うじて残っている。やっぱりスキャナ買おう。

2009年5月12日

結婚のプロトコル

週末、友人の結婚式/披露宴にお招きいただいて出席。よい結婚式であった。おめでとうございます。

いかにも月並みな感慨だが、娘を持って以来、キリスト教式の結婚式の、あの、父親が花嫁を連れてきて花婿に引き渡すあれ、あれがやばい。

新郎の属性からして、世界のギークが集合するデジタル先端技術系カンファレンスの打ち上げパーティのごとき様相なんじゃないかと、それなりの覚悟をしていったのだが、式場は五十嵐太郎隊長がフィールドワークしそうな徹底的な「結婚式教会」であったし、式も披露宴もとても真っ当で、むしろそうした「いわゆる結婚式・披露宴」への出席経験の浅い地図メカが、いちいち物珍しそうに式次第に感心している様子が面白かったりした。

チャペル内部はゴシック風の、カトリック教会を模したもので、しかし司式は「牧師(日本語が非常に上手な、白人の牧師先生だったが)」が行う。牧師先生は「ひとりバイリンガル」で、フレーズごとに日本語と英語で話される。中西さんによるとこれはおそらく、あまりに日本語がペラペラなので、そのままでは「外国人牧師のありがたみが薄れてしまう」から。

チャペルを飾る大きなステンドグラスの下端部に、「DONATED BY JOSEPH HARTZ AND FAMILY」という文字が入っていて、こりゃあきっと、これを作るときに取材したオリジナルの教会のステンドグラスにあれが入っていたのを、そのまま入れちゃったんだろうな、律儀なコピーだぜ、と思っていたのだが、あとでウェブサイトを見たら、英国のどこかの教会堂のものをそのまま移設したものであった。

キリスト教式だから、牧師が神様の名において、二人の結婚を「宣言」し、会衆に紹介する、という形式である。本来、キリスト教会は地縁コミュニティの象徴である。日本のキリスト教式結婚式がモデルにしているアメリカの教会は特にそうだ。教会での結婚は「神に誓う」という側面もさることながら、地縁共同体の構成員に「これから仲間になる若い二人をよろしく」と仁義を切る、挨拶の場でもある。だから、アメリカの教会では、会衆に向かって牧師が「この結婚に異議のある人はいますか」と尋ねる手続きがある。日本の結婚式教会での式では、この部分が省かれている。

まあ、新郎新婦が式に呼びたい知り合い=お世話になっていると感じている友人知人たちがかつての地縁共同体に代わるものであるわけで、そうであるなら、地域の文脈というか、その土地の場所性から思い切り切り離された「フィクション教会」を会場とするのは正しいプロトコルなのである。

施設のデザインや素材、ディテールは、もうネタ満載というか、細部にいたるまで僕はかなり楽しく拝見した。そして、フィクションの景、ということに関連して、LD誌の「テーマパーク特集」について、後ほどに。

頑張れヒラドくん。

東京都町田市木曽東の市道わきで、電柱を支えている鉄線を保護する黄色いカバーの上からツツジが満開の花を咲かせ、近所の話題となっている。

"ど根性"ツツジ満開、道路わきのカバーからニョキ : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

おお、ストリートビューに写っている。

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関東学生ランドスケープデザイン作品展・2008

関東学生ランドスケープデザイン作品展2008の運営委員会から、まとめ冊子を送って頂いた。

これは首都圏のラ系学科の大学生らが主催して行っている作品展で、今年で4回目である。僕は今回、会期中に行ったワークショップのお手伝いをした。

誰に命じられたわけでもないのに、学生たちで自主的に継続しているところが素晴らしい。今年は、講評会に栗生明さんや佐々木葉二さんなど、これまでと違って「外部」の先生を招いていて、この心意気は買う。その「効果」がちゃんと出たというべきか、講評会の記録を読むと、たぶんこれまでの作品展で一番、厳しいことを言われている。議事録でこうなんだから、当日、実際はもっとずっと辛辣なクリティークを受けただろう。

先生方の指摘に共通してるのは、「提案が中途半端だ」ということである。リサーチが具体的な場所の提案に結びついていない。というか、そのジャンプがなく、提案の「具体」がないまま、なんとなくプレゼンが終わってしまう(どこかで聞いた話である)。

キッズの作品展として、もっと歯ごたえのある、のけぞるようなプレゼンテーションを持って来い、という叱咤激励ならば、それは僕も同意する。僕も立場が違えば、あるいは講評会とかに居合わせれば、似たようなことを発言したかもしれない。

掲載されている「作品」群を眺めて感じるのは、ひとつには、その抽象度の高い安易なもっともらしさである。

地形や植生や土地利用など、国土の基盤デジタルデータが容易に入手できるようになり、パソコンの画像処理能力が向上したために、地域解析の真似事をして、写真をコラージュして、それ風のプレゼンテーションに仕上げるのがとても楽にできてしまう。楽にできる事自体は別にいいんだけど、というか、ここで、それってあんたがいつもやってる事でしょう、という突っ込みには返す言葉もないのだが、キッズの「練習」として問題なのは、なんか、それだけで何か意味のあるものを作ったような気がしてしまうことである。

もうひとつは、提案の「動機」が希薄というか、つまり何がやりたくてわざわざ「提案」しているのか不明なことだ。

通りいっぺんの「良いこと」を、既存の都市空間に挿入することが、ラ系的「善」の実現であるというような、「木植えて解決!」みたいなやりかたを、都市や地域レベルのスケールでやっている、という感じのパネルが多いように見える。近年の土木や建築にしばしば見られるような、「エコロジズムとエコノミカルとエコロジーの混乱」に対して、ラ系キッズこそ敏感にそれらを峻別して欲しいと思うし、自分がどうしても見たい「場所像」の構築のためのバックアップ理論としてそれらを使いまわすくらいのクールさがあってほしい。講師の先生方の歯がゆさが伝わってくる。

でもしかし、一方で、そういうのに辟易してしまった現代の若い連中の気分にも共感してしまうのだ。

講評のテキストにあった、大量消費主義の論理で「風景なるもの」が粗製乱造されている、という言い方はわからなくはない(まあこれも議論の余地がある言い方ではあるが)が、そこに含まれている、「真に優れたデザイナーの関与が不在だからだ」という危機感(たぶん)に、素直に添うことはできない。だって、「消費主義的風景」を「デザイン」してるのも「デザイナー」だぜ。真に優れた連中と、劣悪なデザイナーたちを分ける線なんか引けないだろう。無関係だとは言わせない。

宮城さんの、ランドスケープは「非・建設的な方法で作られる」という試論からもう10年だが、まだしかし、私たちは「建設する」以外の冴えた方法を見出していないんじゃないだろうか。というか、学生展に横溢している「決め打ちへのためらい」というか、この逡巡は、「非・建設フェーズ」への過渡期の序章としての混沌なのかもしれないぞ。って、あまりに良く言いすぎだとナカツ先生あたりに突っ込まれそうだが、学生メンバーと一緒にやったGPSワークショップがあまりに楽しかったので、LDSE2008については僕は心情的にかなり学生サイドに立っているのである。お疲れ様でした。よくやった。

あと、次からは、イベントのタイトルから「関東」を取ったらどうだろういっそ?「関東」なんていう手がかりを出すから、京阪神近畿からの先生とかに関西と比べてどうの、というような面倒なことを言われてしまうんじゃないだろうか。いいけど。

それとあと、それこそ京阪神で活躍している若手ラも、いわゆる「デザイン」とはいささか異なる、それこそ「非・建設」的な方法を模索しているようにも見えるぜ?いーけど。