2011年8月23日

5mメッシュ東京スペシャル

Kashmir3D、数値地図5mメッシュ(標高)東京都区部表示用のパレットの一例です。

標高5m以下を青系のグラデーション、7mから100mまでを黄系のグラデーションで表示するように調節したもの。
日本地図センターの「東京時層地図」の地形表示用としても使われているものです。

表示結果はこんな風です。

5mtokyo.jpg

以下、区切り線より下の行をぜんぶコピーして、テキストファイルにペーストし、「.pal」の拡張子で保存(ファイル名は何でも)、kashmir/pal/ のディレクトリに保存して、Kashimir3Dを起動してください。


5mメッシュ東京スペシャル

KASHMIRPALETTE
;
; Palette color list for Kashmir.
;
Sub=5mメッシュ東京スペシャル
;
SeaArea=0,0,0
; Sea Color (R,G,B)
Level0=27,27,27 ; Color at Altitude: 0m (R,G,B)
Level10=24,31,31 ; Color at Altitude: 10m (R,G,B)
Level20=33,41,41 ; Color at Altitude: 20m (R,G,B)
Level40=84,107,107 ; Color at Altitude: 40m (R,G,B)
Level50=126,154,154 ; Color at Altitude: 50m (R,G,B)
Level70=68,60,28 ; Color at Altitude: 70m (R,G,B)
Level100=75,66,31 ; Color at Altitude: 100m (R,G,B)
Level150=98,86,40 ; Color at Altitude: 150m (R,G,B)
Level200=125,107,51 ; Color at Altitude: 200m (R,G,B)
Level300=177,152,73 ; Color at Altitude: 300m (R,G,B)
Level400=216,203,158 ; Color at Altitude: 400m (R,G,B)
Level1000=253,249,236 ; Color at Altitude: 1000m (R,G,B)

2010年5月31日

14.5kmの木陰。

千葉大の木下先生の主催による、港北ニュータウンの公園緑地を見学するフィールドワーク(事実上は、延々とグリーンマトリクスの緑道を行く強行散歩)に参加した。前半だけの参加だったが、「そういう目」であらためて歩きまわった港北NTについて、取り急ぎメモ。

・あとで思い出したが、もう10年以上むかし、職場の同僚が港北NTの北部に住んでいて、お邪魔したことがあったのだった。今回は、当時の、いかにもできたばかりの住宅地や公園や造成中の宅地や、なんとなく憶えているそういう印象とはまるで違う一面を目撃した。

・「グリーンマトリクス」という計画思想について、またそれに基づいた土地利用については、その気になれば夥しい資料があるので、参照されたい。少なくともラ系学生の皆さんは基礎教養として勉強し、何度か現地へ足を運んで、「マスタープランの威力が個人住宅の裏庭にまで及んだ稀有な好例」をよく見ておくといいと思う。ほんとに励みになるから。

・「ナマ・グリーンマトリクス」の凄みは、公園をつなぐ線状に伸びた緑地や歩経路をずーっと辿ってみるとよく実感できる。

・林地の多い、宅地化していない土地がうねうねと連続し、街のそこかしこでその緑が見え隠れする様子で、ある種の「地域感覚」が湧く、という、この感じは僕にはよくわかる。これは、野川や国分寺崖線のそばに住んでいる人は共有できる「感じ」なのではないかと思う。

・「グリーンマトリクス」の「グリーン」の中身は、ほとんどがクヌギコナラ系の雑木林か竹林である。いわゆる「里山」のコンテンツ。多摩丘陵南部の、農村の土地利用の遺産である。地形との関係はよく論じられるが、「農」的に見れば、あれは広い意味での「農業用地」のうち、燃料供給や肥料供給という、もう役に立たない生産部門の土地だけ切り取って残したわけだ。

・なんだかんだ言って、宅地や道路として利用しにくい形状の土地が「グリーン」に用いられている。その場その場での緑地の「局所的な形状」が湧き水の谷戸だったり尾根だったり急斜面だったりするため、多様性が高いように見えなくもないが、全体としてみるとあくまで「縦割り」の土地利用ではある。しかし、その縦割りの「無理の少なさ」によって、システムがより強度を増している、のは言うまでもない。

・緑地から逸れて住宅地の中へ入ると、住宅の建ち方に、「直接緑地に接しているか、近くに見える」場合と、「緑地はさらに1本の道路の向こうにあって見えない」場合とで、随分と違いがある。グリーンマトリクスが住宅地を横断していることで、むしろ地域を分断してしまっているように見える、という建築学生のコメントがあったそうだが、僕に言わせればどう見たって、地域を分断している最大の要素は「住宅」それ自体である。隙間なく建っている住宅群が、それよりも背後の住宅地に対して、連続する斜面林との関係を遮断している。道路や歩経路だけでなく、宅地内南側の庭や駐車スペースなども含めた「隙間」をうまくレイアウトして、住宅地の奥まで視線を通すような配置計画が有効かもしれない。と思った。

・あとまあ、以下は課題として、今後へのメモ。緑道や公園の中にある、階段やベンチや休憩所やトイレや橋や、そういう様々な施設の「意匠」の、「グリーンマトリクス的文脈」との関係なさがすごかった。それぞれの「デザイン」がいちいち、その場所と断絶している。計画のスケールが見事に機能しているだけに、余計に「設計のスケールの齟齬」が目立つ。「計画」と「設計」を二分法みたいに語るのは語弊があるけれども、例えば多摩ニュータウンあたりだと、施設の意匠の力の入れ方に、1/5000スケールでの「やり切れなかった不備」を1/100で護る、というような必死の役割を感じてしまって、それはそれで納得できなくはない。しかし港北の場合は、「計画が上々なので設計は無駄に遊んでみた」みたいな感じがしちゃうのだ。なぜだ。様々な事情があっただろうことは容易に想像できるが、そこが残念でもあり、一方で興味深くも感じた。抽象的な言い方だが、「計画レベルに遡及しうる設計行為」は確かにあるし、それは、たとえば「結果としてここに相応しい意匠はどのようなものか」という演習課題にしても面白いかも。

・ここもまた、「エッジ」が面白い。多摩ニュータウンの「エッジ」は相当に面白い場所だったが、港北ニュータウンも、計画範囲の縁と、すぐ外側の農業専用地域あたりの「ニュータウン尽きるところ」が面白い。

・次回は多摩ニュータウンではなくて、千葉ニュータウン見に行ってみたいな。

2010年2月14日

バレンタインデイ2010(以下とは関係ないが)。

主に、twitterにかまけたりしている間に、もう2010年の2月も半ば。

昨年末以降、主なものだけでも、

・横浜・北仲スクールでのラ系シンポジウム
・関東学院大学建築学科、デザインスタジオ2最終回終了
・グラウンディング忘年会withキャンパー@深歌舞伎町中華料理店
・瀝青会・新年会&2010年決起集会@ローマ料理店
・建築雑誌編集委員会打ち上げ@建築会館
・LD誌掲載用対談withキャンパー@恵比寿
・SFC加藤研展示会
・横浜・北仲スクールラ系シンポジウム2

などがあり、ひとつひとつ、内容を残しておきたいのだが、上記、差し当たって項目のみメモ。
それぞれ、また新たに素晴らしい出会いもあり、今年もいきなり新年明けから充実の予感に包まれているのだった。追ってまた。

それから、タモリ倶楽部の『「東京スリバチ学会」と共に四谷を観察。凹んで楽しい荒木町研究成果発表』が放映されました(東京、および東京と放映日が同じ地域にて)。僕は「スリバチ学会副会長」という肩書きで、主に会長・皆川の横にいて、「時々合いの手を入れる係」として出演しました。

収録の当日、ロケには2時間くらいかけていまして、言うまでもなく放映されたのはかなり編集の手が入った「一部」のものです。制作会社の皆様、お疲れ様でした。当日のGPS軌跡とか、荒木町の地図とか、若干の「訂正」とかを用意してあるのですが、まだ放映されていない地域もあって、ややネタバレになっちゃうので、もう少しあとに投稿することにします。

ご覧頂いたみなさま、当日の夜からメール下さったりした皆様、ありがとうございます。いや、お陰さまで、僕の周囲では評判もよくて、僕もそれほどには間抜けに映ってもいず、ほっとしましたやれやれ。

2009年11月 4日

Treat Us! But We Trick Anyway.

10月末日。娘の保育園の運動会とご近所を巻き込んだハロウィン・イベントが重なって、慌しくも楽しい週末であった。

午前中、ほとんどこのために新調したデジタル一眼(Pentax k-x)にキットの望遠レンズをくっつけて、「保護者席」のレジャーシートから、踊ったり綱引いたり走ったりする娘を追い、昼過ぎに自宅へ走り戻ってコドモらの「菓子強盗」の準備。

今年は、たまたま31日が土曜日なので、懇親会もかねてやりませんかとご近所に声をかけたところ、皆が面白がって下さって話が大きくなり、これまで個別に散発的に楽しんでいた子供の変装行列が合同されることになった。何軒ものご家庭が、子供らの急襲にご協力下さることになり、誤爆を避けるべく、イラストが上手なお母さんの一人にお願いして、サインを作ってもらってそれぞれの玄関に吊るした。

たしかにハロウィンは、たとえばバレンタインデイだとかクリスマスに比べると、同じような「輸入系季節祭事」としてはまだマイナーな行事である。でも、特にここ数年、わりと熱心にこれに関わってきた実感として、この数年間のハロウィンの認知度と普及の速度と規模は凄いものがある(HJIのHamachi先生など、特に強く感じておられるでありましょう)。

「ご近所の祭事」へのディマンドなんて、けっこうあるじゃんか、というのが、ハロウィンに限らず、ここ最近のご近所づきあいのなかで実感することである。ハロウィン関係の情報を漁って検索すると、いまでも「日本にハロウィンが定着しない(または『しなかった』)のはなぜか」というような記事を目にすることがあるが、もしかすると、ハロウィンが地域共同体的・家庭的行事として拡がりつつあるために、若い単身者には交点がないのかもしれない。

むしろ、古くからの「お祭り」よりも、自発的に参加できるイベントとして、ハロウィンという形式はなかなか使える(ように編集されつつある)。加えて、『地縁への回帰』とか、その証左というべきか、ある種のヤンキー的・7人の小人問題的テイストとか、興味深い論点も引き出しうる。もっと、文化人類学的に注目を浴びてもいいと思う。ハロウィン・ジャパン。

ウチの玄関前。今年は自宅の装飾が手抜きになってしまった。

長男の変装。自分の首を切って持ち歩く人。

ママ・カメラの列。

「受け入れ側」にもそれぞれ趣向が凝らしてあって、楽しいご近所ツアーになった。

コスチューム。「犬」。

「ティガー」。電池切れ。

バズと消防士がいる。

押し寄せるトリック・オア・トリート軍団。

ディスニーランドか。ここは。

自宅裏庭で。子供らのカボチャ彫刻体験。

打ち上げ懇親会の様子。

さて。次はクリスマスだぜ。なんてふざけて書いていると、そのうち、心理的な掛け金がはずれて「浮かれ電飾」をするようになるかもしれないな。洒落にならん。やばいぞ。

2009年11月 1日

メモ(追記のみ)

この記事は、

1.当事者と個人的な友人のblogがいわゆる「炎上」しているような事態にあって、ひとこと「友達表明」をしたい。

2.とはいえ、それはそれとして、DPZ的「かっさらって消費」のスタイルは僕も好きじゃない。

3.あと、「DPZ掲載のテトラポット型紙意匠の剽窃」と「テトぐるみの企画・製作・販売」は話が別で、それを混同してしまうのは惜しい。

という主旨でしたが、特に3についての指摘が、型紙の原作者の方のサイトの記事でなされましたので(そもそも僕などが指摘する話ではなかったのだが)、話をややこしくしないために削除しました。まあ、僕自身がどう思っているかについては、僕を直接個人的に知っている人はよくご存知のことで、それで充分であるし。

2009年10月16日

ヒグレカメラ

(あるいは、エアタグの「時間性」について)。

「セカイカメラ」のエアタグについては、つい「位置」に関心が向きがちだが、もうひとつ見逃せない属性として「時間」がある。ポストされるひとつひとつのタグには、「時間」が刻印されている。これらは、位置の情報と同じくらい「固有」な情報である。タグは、タギングの瞬間の「時刻」を切り取って固定する。ポストすることは、その時刻を位置にマップすることである。つまり、「エアタギング」というのは、「固有の時間を固有の位置に結びつける」という行為なのである。

ようするに、これって「場所に時刻スタンプを押してゆくみたいなものだ」ということだ。

と、そのように考えてみると、ひと目で時間の推移が写真の様子に表れるような、たとえば刻々と色が変わる日暮れ時の空などを、移動しながら撮影してポストして、あとでそれを眺めると、「時間の流れが空間の奥行きになって見える」みたいな風景が見えるんじゃないか、と思ったわけだ。

そこで実験。

職場の前、向こうにミッドタウンを望む街路。
IMG_0767

日没時を狙って、空の色が濃くなってゆくのを見ながら、10mずつくらい前進しては空を入れた写真を撮って、ポストしてゆく。

ある程度時間間隔をあけないと空の色が変わらないため、仕事をしながら10分おきに事務所の外へ走り出たり戻ったり、不審な動きを繰り返してしまった。

日没後。
IMG_0768

また、エアタグの表示フィルタを「自分のタグ」だけにし、西方向をセカイカメラで見る。
IMG_0770

おお。これはきれいだ。これは面白い。
遠い写真ほど、夕焼けが濃く、空が暗くなっている。キャプチャーで再現しきれないのが惜しい。
IMG_0771

「さっきの夕焼け」と「いまの夜空」を重ねてみる。
IMG_0774

面白いのは、ポストした写真群を辿りながら西へ歩いてゆくにつれて、画面に流れてくる空の写真の時間が「進む」ことだ。
歩くことで時間が早回しに進む。
遠くほど、あとの時間。
この、「移動」と「時間」が結びついた、不思議な感じ。
IMG_0777

IMG_0776

多摩川の土手とか、そういう大きなスケールで開けた場所などで、」もっとずらっと並べてやると、さらに効果が現れるかもしれない。
IMG_0778

ちょっと眩暈がするような実験であった。

最近、同じような機能をもった「Layer」というアプリがリリースされたことで、セカイカメラの特性が逆に浮き上がったように思う。デジタル地図を実空間の映像に効率よく重ねることを主眼にしたらしい「Layer」(地面にグリッドが描かれているのは象徴的だ)と比べると、セカイカメラには「普段眺めている世界の見方を少し奇妙に引っ張って広げる」というような不思議さがある。僕は、たとえばGoogleマップよりもGoogleEarthのほうに感じるような、その「不思議さ」にこそ惹かれるし、ツールとしての可能性を勝手に感じちゃうのである。頑張れセカイカメラ。

2009年10月14日

虫の目(ミミズ編)

セカイカメラが何なのかを知らない方には恐縮だが、以下はほとんど、iPhoneと、最近話題の「セカイカメラ」というアプリの(潜在的)ユーザー向けの記事なのです。

  • セカイカメラはどうやら、標高には厳密ではないようだ(まあそれはそうだろう)。

  • 一方で、普通のGPS受信機とは違って、地下でも(携帯の電波圏内でありさえすれば)それなりに位置を同定するようだ。

  • ということは、地下街のある地上で路上風景の写真を撮って、それを地下で表示するという、「電子潜望鏡」みたいなことができないだろうか。

    ということを思いついたわけだ。

    実験。東京駅から皇居へ向かう「行幸通り」地上部。
    ここは、丸の内口から日比谷通りまで、新しいピカピカの地下道が通っていて、そのCGのような地下風景と、地上で見える皇居やお堀端の風景とのギャップが激しく印象的な場所である。
    IMG_0743
    まず、地上を、東京駅側から歩いて、10歩おきくらいに写真を撮り、その場に投稿。
    風景写真を「撒いてゆく」ような感じ。
    撮影/ポストしながら日比谷通りまで歩き、いったんそこで引き返して、地下へ下りる。


    地下。この、ニセモノめいた艶やかな光景。
    IMG_0744

    セカイカメラを起動。
    IMG_0745

    丸の内はけっこうエアタグが混雑しているので、表示フィルタを「自分のタグだけ見る」ようにセットする。
    IMG_0746

    おおお。潜望鏡浮上! 位置表示の誤差があるが(厳密には一列に並ぶはず)、それなりに奥行きのある写真群になった。
    IMG_0747

    画面のキャプチャーだと、エア写真の浮遊する様子を伝えるのが難しいが、画像はどちらも実際の風景を捉えているのに、この何ともいえない非現実感というか。背景の地下道のCG風のせいもあるかもしれない。
    IMG_0751

    写真のひとつを通過するところ。
    IMG_0752

    ひとつを捕まえて表示。ほぼ同じ位置の地上が見えている(ただし、現在ではなく、先ほど自分が撮った、少し過去の風景)
    IMG_0750

    揺れてる。
    IMG_0753

    予想していたよりも面白い眺めであった。もっと写真を撮りまくっても効果があるかもしれないが、やりすぎると「タグ汚染」になるかもしれない。

    アンドロイドケータイだと、ストリートビューで「現在位置表示」ができるらしいから、もっと連続的な潜望鏡風景を見れるのかもしれない。銀座線で青山通りの地下を走りながら地上のストリートビューをシンクロさせて見る、なんて面白そうだと思うのだが、圏外になっちゃうからだめか。

  • 2009年9月29日

    tweet the radio

    アーティストの彦坂尚嘉さんと語る、こたつ問題1970~2009/建築と美術のあいだ
    に、twitterで参加した。8時過ぎくらいまで職場を離れられない用事があったのだが、結果的にはストリーミング配信視聴+twitter打ちまくり、という体制は実に仕事の邪魔で、ほとんど進まなかった(少しは進んだ)。

    今回、取り上げられた「作品」とそれをめぐる言説、いわゆる「こたつ問題」についてはまあ、もういいだろう。いちおう、製作者本人と「ラジオ側」との一種の「和解」が決着していて、事前に僕が思っていたほどの後味の悪い結末にはならなかったらしい。ということは記しておく。

    ■ポッドキャストで配信する、という情報発信のプロトコル:

    これに関しては今回、様々な意見を聞きながら考え直した。以下、自戒も込めつつ。

    僕は当初、あの、人を馬鹿にしたような「語り口」に対して沸いた「ラジオという形式に相応しくない」「美術作品批評の水準に達していない」という非難にむしろ反発を覚えたのだった。

    それは今でも変わらないが、ただ、今回学んだのは、摩擦抵抗が少ない「オンライン」媒体に、官能的/感情的に高効果な「肉声」が載っている「ポッドキャスト」というメディアは、単なる「身勝手フリーペーパー的カジュアルメディア」では済まない潜在力があって、ある条件が揃うといきなり爆発してパワフルな(場合によってはおぞましい)ものになることがある、ということだ。深夜ラジオ番組の「オールナイトニッポン」をイメージしているというような話が2次会で出たが、ポッドキャストは深夜ラジオとはちょっと発火点が違う。ブログが「炎上」したりしたとき、ネット環境に無自覚そうな運営者ほど、「こんなに反響があるとは思わなかった、驚いた」とか「こんな弱小な、カジュアルなブログなのに」などと言うが、今回のラジオ・サイドの反論はそれに似ていたな。

    tweetで何度も投げかけた、「ポッドキャストが従来のラジオなどのメディアとは異質だという自覚はありますか」という趣旨の質問を取り上げて、松田さんが「メディアの違いによって、言っていいことと悪いことに差がある、というのは違うと思う」と答えていて、話を逸らしやがった、と田中さんたちと憤慨したんだけど、確かにパブリシティの自覚はある種の「無法地帯的なヤバさ」を色褪せさせはするだろうし、そのへんの加減は難しくはあるが、モデルがないんだから、試行錯誤を繰り返しながらより良いものへチューニングしてゆくしかない。今回のことは、開き直るばかりではなくて、フィードバックするように努めてほしいなと思う。

    それと、これも今回、シンポを聞いてみてわかったが、ラジオのメンバーは決して一枚岩ではなくて、それぞれ少しずつ違うことを主張している。よく聞くと、一人ひとりは一貫しているが、まとめて聞くと、なんか、言うことをころころ微妙に変えてるみたいに聞こえるのだ。個人的な思いの発露こそが本来の批評だ、と言ってるのは主に彦坂さんで、批評の形式は様々にあってよい、とは五十嵐さん、俺は批評してるつもりはない、とは山田さんの主張。お互いの話を聞かないのはオヤジの特徴だが、もう少しリスナーが咀嚼できるようにする司会進行役がいてもいいんじゃないかと思うが。

    ■ストリーミング配信&twitterのイベント:

    このやりかたは面白かった。技術的なことや、会場との関係の作り方など、改善の余地はまだまだあるが、それほど大げさな機材の準備をしなくても、ライブ映像を配信しつつ、視聴者の参加を促せる。「シンポジウム」の新しい可能性を感じた。映像担当、実況担当、みなさんお疲れ様でした。

    フェイルセーフのため?映像が2種類あったが、これが意外によかった。会場でも気を利かせて、片方で発言者、もう片方で上映スクリーンを狙っていて、なかなか臨場感があった。

    テキストによる逐次実況は、担当者にけっこう負担を強いたようで。「実況用アカウント」を新しく取ってもよかったかもしれない。

    彦坂氏のレクチャーが普通に面白かった。これは思わぬ収穫であった。アースワークとの関係性とか、いかん、これ迂闊に書き始めるとラ系へ来るぞ。

    首都大の渡邉英徳さんによる明快簡潔な、感想と、改良のアイデアの記事:
    wtnv.studio: 「こたつ問題」 on Stickam + Twitter

    ・あと、あまり誉めてもなんだけど、外部からの視点のひとつとして:

    コタツ問題の経緯を見ていると、批評が炎上になるオンラインメディアの特性に対して、建築やデザインの人達が無理くりでもそれなりのコンテンツに仕上げてしまうのが面白い。これが文化的、歴史的な批評精神なんだろうなと思うと、炎上なんて精神年齢問題だと良く分かる。 #kotatsu


    失礼な言い方をすると「おじさんの言い訳」に聞こえるのですが、まぁ、それネタに会をして前に行こうとするのだからすごい(他業界だから言いたい放題)。こういう意味不明気味な信念こそ若者が持つべきでは #kotatsu

    鈴木雄介 (yusuke_arclamp) on Twitter

    ・平塚さんによると、2009/9/28のハッシュタグ人気2位(1位セカイカメラ)だったそうだ。
    Twitter / Search - #kotatsu

    追記:衝撃的に印象深かったのは、後半のディスカッションだったが、山田さんが、「(製作条件が決定的に悪化した時点でケツをまくって)降りるという選択肢だってあった」と述べたのを受けて、彦坂さんが言われた「アーティストの場合、『降りる』はありえない、それは死ぬことだ、もしダメなものを作ってしまったら、現場にずっと居続けたほうがいい」という意味の発言であった。

    あと、「参戦者」が増えてくるにつれ、ハッシュタグで書き込んでいる参加者同士の間に一種の連帯感が生まれ、会場に突っ込みながらタグ無しのお喋りを始めたりしたのが面白かった。従来のBBSやストリーミングのチャットなどとtwitterが微妙に違うのは、参加していない人にも漏れ聞こえるところとか、twitter上の「顔見知り」とオフラインの知人がなんとなく交じり合うという、この「融通」にあるな。と思った。

    ■オフライン(またはオンザグラウンド):

    その後、遅くなったが、会社を出て会場へ向かい、2次会に間に合った。初めての方ともお会いして、話も聞くことができ、参加してよかった飲み会でありました。

    ・ディテール侍・山田さんのアレは、ご本人は「演じている」とおっしゃるが、完全に「素」である。

    ・田中元子さんと初めてお会いした。気風の良い、じつに素敵な女性であった。ブログやtwitterでまともに批判し、こういう場にもちゃんと出てきて、リアルで面と向かって喧嘩売って罵りあうのが素晴らしい。

    ・彦坂さんは、一見、とても温厚なお父さんのように見えるところが余計に怖い。例のあれを「公共の利益のため」と書かれていたが、あの歩くエキセントリックみたいなアーティストが考える公共って僕らの知ってるあの公共かしら。

    ・田中さん木村さん平塚さんら、三賢美に囲まれて座って浮かれて、せっかく会って話しましょうと約束していた実況ボランティア石川くんたちとろくに喋れなくてすまん。またいずれかの機会に。

    ・関係者各位、お疲れ様でした。ありがとうございました。

    2009年9月22日

    村おこしアートの悲しみ3

    ■追追追記(2009.09.27):

    この件に関して、当該作品を「批評」した一人のブログで、出展者の私信が無断で公開された。それも、公開した人宛のものではなく、参考までにと転送されたもののようだ。引用(というか全文コピペ)された私信には、公開しないで欲しい旨も書き添えてあるが、それまであげつらってあり、読んでいて気分が悪くなる。これはさすがに、あんまりだ。

    下記、僕は批判が集中した口調を「芸風」だと書いているが、語りかたに引っかかるより、そこはスルーして、「専門分野の勝手な責任感」の妥当性とか、村おこしアートシステム自体の批判とか、そっち行こうぜと言いたいつもりだったのだが、それは今でもそうは思っているが、今回の所業はどうやったって「芸風」とは呼べない。もしも僕が、ラジオの「語り」を肯定することで、それこそ今回のような「オヤジの暴走」にいくらかでも加担したんだったら本当に申し訳ない。

    残念きわまる。


    ・こたつ問題を問題化する集団のありかたについて

    僕は(以前にも同じことを書いたけれども)、ダメなアート作品には単にダメだと罵ればいいのであって、何もそのダメさを建築のプロが業界を代表して「建築の問題」として引き受けなくったっていいじゃんか、とは思う。先日、大山さんが、あれは建築業界内部の問題をわざと外部に発信する(ように見せる)ことで、逆に内部の結束を固めようという意図があるみたいに聞こえる、と言っていたのだが、そういう、「いや、誰もそんなこと頼んでないけど」という困惑というか、建築系の人たちというのは世界が建築系だと思い込んでるんじゃないかという違和感はよくわかる。

    もっとも、そういう「引き受けたがり」は建築の業病みたいなもので、地縁共同体問題から地球環境問題まで、その時その時に脚光を浴びている様々な問題を我が事のように悩んで「建築の課題」として背負い込もうとする抜きがたい傾向が建築にはある。そこがまあ、鬱陶しいところでもあり、愛すべきところでもあるんだけれども。むろん、それは建築だけではなく、ある「社会的使命」を自覚している専門領域はみんな、多かれ少なかれそうした傾向を持っている。

    あえてこれを議論の俎上に乗せる、「自他ともにそれが建築系だと認知された状況で異種格闘技的アート祭りに貧相なものを出展することの責任と、それを看過できない背景」については、五十嵐隊長から直接、少し話を伺った。もちろん議論の余地はあるにせよ、分からない話ではなかった。来るシンポジウムでも言及があるとのこと。とはいえ、僕はどちらかというと、建築系をアート的に鍛える議論にとどまらずに、「村おこしアート祭りシステムの有効性と是非」に議論が発展すると面白いなと思う(そうしないと、作者もちょっと可哀想だ)。

    ・こたつ問題を問題化する「取り上げ方」をめぐる議論について

    僕自身は心情的に山田さんの側に立っている。ということをまずは表明しておきたい。そのうえで。

    山田さんの「喋り」調子を批判(非難)する意見の「根拠」として、しばしば「ラジオという媒体で配信するべき内容の水準に達していない」から、と述べられているのを見かける。「むしろ語り方問題のほうが深刻だ」とまで表明してるものもある。でも「ラジオ」と銘打っているものの、あれは電波で番組を放送する従来の意味での「ラジオ」じゃなくて、音声ファイルをブログに掲載してるだけの「ポッドキャスト」である。あれを「公共の」というなら、細かい内容まで検索にインデックスされて蓄積されてゆくブログやBBSのほうがよほど公共的な情報であって、かつよほど低俗で劣悪な誹謗中傷に満ちているが、それに「作法」を要求するのはまるで「ブログだって公共のネットに公開しているなら、そのへんのマクドナルドでケータイで入力なんかするな。机に向かって正しい姿勢でテキスト作成しろ」と言っているみたいに聞こえるが。

    というか、これ、そういう意味でわざと「ラジオ」というタイトルを入れているとしたら、なかなか巧妙なツカミだけれども(いや、そこまでは考えていなかったかもしれないが)、少なくとも今回、この「ラジオ」という言葉は、批評のありかたとかいう議論以前に、「それぞれのメディアにふさわしい内容と作法とノリ」について、僕らのイメージは意外に強固で保守的だ、ということを露呈した。と思った。

    まあ、ディテール侍のあれはもう「芸風」であって、キライな人はキライだろうが、そうなら「あの喋り調子は嫌いだ」と言えばいいと思うな。「ダメなアート作品には単にダメと言えばいい」というのと同じ話で。

    ■追記:

    ネット上の反応を見て、おもしろいと感じたのは、どうも若い人のほうが、批評について保守的なイメージをもっていること。

    TWISTED COLUMN

    批評についてのイメージもそうだし、若い人ほど、引用の仕方だとか語り口だとかに対して、「ネットリテラシー」とか「モラル」などと言って、察してやれよ的な物言いをしているような気がする。オヤジが暴走しているのか、キッズがやけに射程距離の短い「空気読む世代」なのか。もちろん、オヤジをオヤジたらしめるのは、多少の社会秩序にもとることをしても周囲には叱る人なんかいない、という開き直りというか甘えでもあるのであって、キッズもあと15年もすればみんな空気が読めなくなってくるのかもしれないが。

    ■追追記:
    松田さんの日記でなんだか遠回りに公開されている「意見」を拝見して、「違うよばか、読めねえのかよ」という趣旨でつらつら書き始めようとしていたところで、彦坂氏の「リーク」に気がついてひっくり返った。いやはや、オヤジとしての僕の「情け容赦ないつもり」なんて実は大したことはなくて、僕もしょせんキッズの一人でしかないことを思い知った。。。うっかり「世代」なんて書いてしまってすまん。キーボードが滑った。
    まあその、自分が広い世界だと思い込んでいたものが意外に偏狭な領域だったことに気付くとか、そもそも自分の視野の偏狭さを思い知らされるうちは、成長している(どういう方向にせよ変化している)証である。と思って、今後も勉強を続けることにする。

    2009年9月18日

    i Phone me

    先月、迷ったあげくに、アンドロイド電と比較検討するべく、まずは近所のソフトバンクの営業所へヒアリングに行き、実物を触って見ているうちに気付いたら契約してしまっていたという、カモ消費者の見本みたいな振る舞いに出てiPhoneユーザーになっちゃった経緯については、これまで語ってこなかった通りである。

    以下、使い始めて1ヶ月で少しわかったこと:

    ・ネットへの接続はWi-Fi環境に限り、パケット代を節約。などという構想は購入3日目に崩壊して消失した。iPhoneは何よりも「オンラインでいる」ことを強く促す。機能的にも心情的にも、オフラインでいることのほうが難しい。割引前の「生のパケット代」を事前に確認できるのだが、んもう見たこともないような金額になっていてひっくり返る。

    ・iPhoneはiTuneを介してパソコンと連携しないと、ほとんど役に立たないというか、単に不恰好な電話になってしまうということがわかった。逆に、以前の携帯ではいかにパソコンとの連携に余計な苦労を強いられていたのかということがわかった。

    ・まずはいろんなテキストエディタを試し、次いで評判のいいスケジューラやタスク管理やファイル同期アプリを片っ端から入れたり消したりし、試行錯誤の末、いまのところ、テキストエディタはGoogleドキュメントと同期できる「iNote」と、咄嗟のメモ用に「OneNote」、デフォルトの「カレンダー」をGoogleカレンダーと同期、タスク管理は「domo Todo+」をこれもGoogleカレンダーと同期、あとは「メール」をGmailに、という組み合わせに落ち着いた。既にもう、それ以前を思い出せないくらい便利になった。

    ・なんだかアップルとグーグルの子供のようでアレだが、僕は自宅がmac、職場がwin、ケータイがiPhoneで妻はauという環境なので、データを一元化しようとすると畢竟、クラウディな解決法に向かってしまうのだ。

    ・日本語の入力は意外にもなかなか快適だ。むろん長文の作成には向かないが、メモ程度ならば、それほど苦痛ではない。少なくともケータイよりははるかにましだ。ポメラと直接ファイル交換ができれば言うことないんだけど。こうしてみると、あのキーボードつきのCLIEはテキスト入力装置としてはよかった。出張時にあれで普通に議事録書いてたもんな。

    ・購入してから暫くはスケジュール帳等の整備に没頭し、その後に写真関係の、色調を変えたりポラロイド風にしたりといった画像を加工するアプリを色々と入れてトイカメラ風の写真を撮ったりし、1週間で飽きて、次に音楽やらオーディオブックやらポッドキャストを入れてみたり音声関係のアプリを入れたりし、最近はMemory Treeとか、写真撮影してジオタグをつけてフリッカーへそのまま送る、Eye-fiのソフト版みたいなアプリとか、位置情報で付近のtweetを探すとか、そういう「世界観拡張系」のアプリにハマるようになった。

    ・多機能手帳→多機能カメラ→多機能iPod→複合型多機能GPS、という使い方の変遷ですね。

    ・twitter再開した。以前、なんだか煩わしくなってやめちゃったのは、ひとえに「入力装置の貧弱さ」のせいだったことがよくわかった。 twitterならば余裕でiPhoneの守備範囲である(もっとも、やめてる間に日本語のtwetter界に普及したらしい『なう』って言い方が苦手なのだ。個人的に苦手なだけなので、好んで使う人に対してどうこう言うつもりはないが、できれば『なう』という単語だけ隠蔽するフィルタが欲しい)。

    今後は、テキスト入力の、量的/速度的向上が課題である。現在のソフト的入力に慣れて不フリック達人になるか、専用キーボードが発売されてそれを買う、とか、あるいはSDカードやUSB経由でポメラと繋がるんでもいいのだが。