・ゲイのある話
建築家・松原さんの日記:
http://www.ne.jp/asahi/much/art/Diary3/040226.html
僕は、ある個体の生物的性と社会的性が、その社会・時代が期待し予想するありかたで一致しないこともある、ということについては認める。そういう、例外的というか、希少なありかたをどれほど「気にせず」受け入れているかがその社会の寛容さの度合いを示すものであるようにも思うし、一方でそういう価値観はその社会というか文化の「好み」のようなものなんじゃないかと思うこともある。
僕がこのあたりのことについて、自分の日常生活の中で考え込む局面に立たされたのは、アメリカに住んでいたときだった。もう10年以上も昔の話になる(と自分で書いて慄然とした。そうかもう10年も経っちゃったのか。歳をとるわけだなあ)。
今にしてみれば、アメリカでまず感じる、公的な場での性別や人種の差別に対する潔癖さは、一方でびっくりするほど保守的で排他的で原理主義的なところがあるアメリカのカウンターバランスというか、いわば「建前」のような一面なのだと思う。それはまあ、地方都市で「マイノリティ」としてしばらく生活してみれば実感することだ。しかし、渡米した当時はその「建前の徹底ぶり」がいきなり新鮮で、自分の価値観が組み直されるような気持ちを味わった。
僕の住んでいたアパートの上の階の住民はゲイのカップルだった。特に親しくなったわけでもなく、ヘテロセクシュアルには味わえないような未知の世界へ誘われたわけでもなく(僕にはそのような素質も魅力もなかったのだろうと思われる)、廊下や階段で会うと挨拶をして軽い立ち話をする程度のつき合いだったのだが、とてもナイスに接してくれた。着ているものや乗っている車や、二人が階段を上りながらおしゃべりしている会話の端々などに、えもいわれぬセンスや生活スタイルへのこだわりが感じられる人たちだった。きわめて個人的な印象だが、総じて都会に住んでいるゲイの人たちはおしゃれで、物の意匠や料理の質にうるさい。
こんな話も聞いた。彼らは女性を異性として、というか、性的な興味の対象として扱わない。たとえば美容院で頭を触られるとき、客の女性にはそれがわかるので、とても安心して任せられる。というのだ。そういうことは確かにあるのかもしれない。僕にとってこういう話が役に立つのは、想像力を養う一種の思考実験ができるということである。たとえば、痴漢に狙われる憂鬱は、男性の僕にはわからないが、乗り込もうとする満員電車がゲイのお兄さんで一杯だったら、と考えてみる、というような。。。
ちょうど僕が滞在していた頃、アメリカの都市では、「ダウンタウンの再生」に関心が集まっていた。80年代のインベストメント・タックス・クレジット(歴史的に保存価値のあると見なされた建物を再利用するために投資された資本を税的に優遇する制度)によって多くの建築物が商業施設や住宅としてリノベーションされていて、僕もそういう、都心に近い、建物は古いが内装と設備は新しいアパートに住んでいた。でも、いかんせん、都心は犯罪率も高いし保険も高い。せっかく都心に住んでいた若いホワイトカラーの夫婦が、子供が生まれると郊外へ撤退してしまう、というようなことが起きる。
そこで、ゲイの人たちである。彼らは(カップル内での役回りはともかく)なんだかんだ言って男性だから、ダウンタウンを恐れず、都心の倉庫を改造したロフトなんかに住んでしまう。子供も生まれないし。生活財のクオリティに対する要求が高いので、そういう人たちが増えると、そのうち、その周囲にハイスタイルのレストランや雑貨店が開く。すると、スノッブなホワイトカラーがランチやディナーにやってくる。という、「ゲイ文化が牽引する都心再生」がまじめに指摘されていた。
でも、ゲイの人たちが都市に住むのは、彼らが都市生活を好む傾向がある、というだけではなくて、社会的に、都市生活を余儀なくもされるのである。それは、都市が異質なものを許容するところだからだ。アメリカの、保守的で排他的で原理主義的な田舎でゲイライフを送るのは非常に困難である(危険ですらある)。そして、アメリカの大部分はド田舎だ。
結婚について。
僕は、日本では、松原さんが言うほどには、醒めた捉え方はされていないと思う。ただ、「日本における一夫多妻の伝統」がどの時代の何を指しているかにもよるけれど、日本に限らず、多くの民族で一夫多妻は存在した。形を変えていまでも事実上存続している、という主張もある。
スティーブン・ピンカーさんによると、女性にとっても、冴えない男と単婚するよりも、絶大な資本と権力を持った男の「妻の一人」になったほうが遺伝子戦略的に優れているし、パワーのある「勝ち残った男性」がより多くの女性を占有しようとするのは進化的には自然なふるまいである。そして、一夫多妻制のもとでは、男同士は文字通り流血の争いをする。一夫一婦制は「ハーレムを作れないオスがゲームに参加することを可能にする」ことによって、パートナー獲得のための闘争を最小化するために合意されたシステムである、という。
まあ、一夫一婦制度には無視できない人類学的な根拠がある、と説かれても、何が変わるわけでもないだろうけれど、これがなくなってしまうようにはならないだろうなあ。という気はするのである。