・川合健二マニュアル
か、川合健二すげえ。
取り急ぎ。
追記予定。
こちらは、石川初(いしかわはじめ)のweblogです。
2007年11月27日
か、川合健二すげえ。
取り急ぎ。
追記予定。
2007年2月27日
トラヴァース
南 泰裕
鹿島出版会、2006
近年の南さんの、建築文化や10+1に寄稿した論考をまとめ読みでお得。と思って購入。
帰路、通勤電車のなかで何気なく広げて読み始めた。
・・・本を取り落とすかと思った。あーびっくりした。
冒頭、えー、いや、何を書いてもネタバレになるので、何も書けん。
ともかくも、驚愕体験の楽しみを味わうために、何の予備知識もなく本の最初から読み始めてみることをお勧めする。
冒頭もさることながら、近年の南さんの、建築文化や10+1に寄稿した論考をまとめ読みでお得。僕は「都市居住の今日的群像」や「遠い都市、近い眺め」とかが好きだ(初出が専門誌でなく、比較的平易に書かれているから)。
南さんの文章をして、都市から「仲間はずれにされているような」と評したのは佐藤師匠だったかな?なんかこう、外国の街でも見るみたいに、ここはどこだ、しかも俺は誰なんだ、という感じの、独特の寡黙な孤独感は、たとえば太田浩史さんが東京を語るときの、「俺の街に何をする!」という地元当事者感覚と対照的。
「トラヴァース」というと、僕が咄嗟に思い浮かべるのは登山用語である。斜面を水平移動することをいう。「トラバる」とも言った。でもいま「トラバる」って言うと、「トラックバックする」に聞こえるな。
南さんの本といえば、南さんが以前に書かれた「住居はいかに可能か」は、千葉大のキノシタ先生が「石川さんお勧めの、あの本、読みました!いいですね!」と、わざわざ僕の携帯に電話してきた本であった。そこまで納得して頂けるとお勧め甲斐がある。
他にもう1冊、キノシタ先生がわざわざ電話してきて「読みました!すばらしい」と感想くださった本があって、それは中谷レーニン先生著「セヴェラルネス」なのだった。
セヴェラルネス 事物連鎖と人間
中谷 礼仁
2006年9月18日
ここ数ヶ月、主に雑誌の記事の執筆依頼を立て続けに頂いていて、ずっと隙間なく「締め切り前」という状態が続いていたため、電車や飛行機の中で本を読む機会がほとんどなかった。どれもたいそうな論文なわけじゃないが、小さくても締め切り前の原稿を抱えていると、なんだか緊張してしまって、空き時間があるとメモやPDAを開けて考え込んでしまうのだ。それでも、書店(オンライン/オングラウンド両方とも)の前は素通りできず、つい、ほとんど定期的に本は買うので、自宅の書棚と通勤用のカバンには、記録も整理もないままに、あとで読むつもりの本と少し読んだ本と忘れかけの本と読み中の本が錯綜している。毎日、拷問のように重い。移動図書館になったような気持ち。
・四方田犬彦「「かわいい」論」ちくま新書、2006
これは一気に読んだ。これはネタ満載だ。それと、著者の四方田氏の文章が感動的にうまい。真似したくなる。ちょっと間を置いて再読しないと。
「かわいい」に関しては、以前、ガーデニングに関する文章を書く必要があったときに、少し調べようとしたことがある。もともとの意味ではなく、90年代半ば以降に日本でいささか変容した意味での、いわゆる「ガーデニング」が帯びている独特のスタイルについてである。イギリスのコテージガーデンとアメリカのコロニアルスタイルを模して混ぜたみたいな記号が散りばめられ、コビトの置物が出現したりする、あれはデザイン論というより文化人類学的題材なんじゃないだろうか、と思ったのだ。
こういうの、少し真面目に考え始めると止めどないが、僕がたまたま読んだ中では、イーフー・トゥアン「愛と支配の博物誌」と、「美術手帖」96年2月号「かわいい」特集に掲載されていた、松井みどり「偏愛のマイクロポリティクス 逸脱の記号としての「かわいらしさ」」が面白かった。
それで、その「美術手帖」を引っ張り出してきて開いてみたら、その特集に原研哉氏がコラムを寄稿されていた。
僕は「かわいい」をデザインするのが苦手である。こういうふうにいってはなんだが、僕がやるとどうしても「かっこいい」になってしまう。「かっこいい」でいいじゃないのと思われるかもしれないが、ある意味で「かっこいい」は嫌われ者である。だってかっこいいんだもの。
デザインというのはそもそもベクトルが「かわいい」のほうに向いていない。「スルドイ」とか「厳しい」のほうにはときどき向くのだけれども。・・・しかし近頃ではこの「かわいい」がいつのまにか幅をきかせはじめていて、「かっこいい」が「かわいい」に負けたりすることもしばしばである。「かわいい」には「かっこわるい」が少し含まれているわけで、穿った見方をするならば、これは実は姿を変えた「かっこわるい」の陰謀ではないかと考えることもできる。
ある筋の情報によると「かわいい」は平安時代に発明されたものであるらしい。その当時は「をかし」と呼ばれていたということだそうだ。・・・
・神門善久「日本の食と農 危機の本質」NTT出版、2006
全国のラ系諸姉諸兄に心から告ぐが、これは必読だ。特に里山族。
またのちほど。
2006年6月16日
先々週。
朝、現場に立ち寄ってから出社すべく、電車に乗ろうとしていたら、千葉大のキノシタ先生からいきなり電話がかかってきた。「お薦めされた、中谷礼仁さんの『セヴェラルネス』買って読みましたが、素晴らしいですね!あれ。」というのが用事だった。おお。そーでしょうそーでしょう、どの章がお気に入りです?「弱い技術」ですか。僕は「自尊心少年」ですねえ。桂離宮もいいですよね。そーだ、今度ラ系の有志集めて読書会しましょうよ、などと、盛り上がってしまった。。。朝の川崎駅のホームで。
今週。
久し振りに、いつもより少し早めに仕事を終えた平日、帰路、思わず書店に立ち寄った(締め切りすぎてご迷惑をおかけしている原稿もあるんだけど。。。本屋が呼ぶのだ)。
建築のコーナーに、「マゾヒスティック・ランドスケープ—獲得される場所をめざして(学芸出版社、2006)」が出ているのを発見。
「LANDSCAPE EXPLORER」というグループが編集した本。
大阪での造園学会のおりに、グループのひとり、クツナさんから「進呈します」というメールを頂いていたのだが、当日、うっかりもらい損ねて帰ってきてしまった。せっかくなので、関西のラ系集団の熱心な活動にいささかでも貢献すべく、一冊購入。帰りの電車でざっと読む。
・・・こ、こりゃダメだ。これはつまんないぜクツナさん。どうしてこんなことに。
「前書き」のテキストは、ほとんど意味不明(理想に燃えてるっぽい『確信』だけは伝わってくる)。フィールドワークも、提案されているプロジェクトも、惜しいというか、なんか学部2年くらいの課題みたいだ。
「マゾヒスティック・ランドスケープ」なんていう扇情的なタイトルは、こう、たとえば都市に痛めつけられる、けどそれを倒錯的に嬉しむ、みたいな、ちょっとキレたランドスケープ論か何かかと思わせるが、そういうことではなく、使い手の関与によってその意味や形態を変容させもするような場所のありかたのこと、のようである。逆に、一義的に使い方を強いる空間のデザインを「サディスティック」と呼んでいる。
それはいくら何でも、用語の使い方が変じゃないか?というか、どうして普通に「ランドスケープ」じゃいけないのだろう。だって、「ランドスケープ」って「そういうもの」だろう。そもそも。問題意識はわからなくもないが、それっていま、そんなに「問題」なんだっけ?
使い手に対して、ある行動を強いるとか、制限する、というような観点からなら、近年の「環境管理型権力」の議論だとか、「ランドスケープ的スキル」がそういう環境の創成と洗練に「荷担してしまうこと」だとか、もっと掘り下げるに足る話があるだろうし、「使い手の関与」に関してだって、それこそ「弱い技術」的に、もっと「作り手」と「使い手」なんていう区分けを揺さぶるような事例の発見や考察があるだろうと思うが。
いや、集まってわいわいやってる議論の場では、もっと面白い話題や視点がバシバシ出ているのかもしれない。えてしてそういうものだけど。でも少なくとも、「今さら」感漂うこの本には落胆した。と記録しておきます。
今後に期待、ということで。
2006年3月20日
先週の通勤本。
須江公美子(gaby)「gaby's kitchen」(有)眺、2006
これは「電子本」。著者は、現在オーストラリア在住の、ビジネスコンサルタント/日本語教師/言語学専攻大学院生(←しかし、他人に説明しにくいステータスだ)。知り合ったのは7、8年前、当時リクルートが運営していた在外日本人のための情報交換のメーリングリストでだった。ちょっとした応答が巧みで冴えまくっていて、独特の笑いのセンスと知性が感じられて、いい文章を書く人だなあと思っていたのだが、最近、立て続けに「本」が出た。
前者は、西オーストラリアの街を舞台にした、「バーでふと出会って、別れた」みたいな感じのオトナの恋愛短編集。小説だが、実際に見聞きしたことが大いに題材になっている。のだろうと思われる(推測)。
最近出た、「キッチン」は、料理のレシピがちりばめられたエッセイ集という趣きの本で、これは面白い(でも、帰りの電車で、空腹を抱えて読むとなかなかキツい)。読み進んで終わってしまうのがもったいないくらい。続編を希望。あるいは、拡大版で紙で出版されるとか。
PCの画面上で読むこともできるが、T-Timeを有料アップグレードすると、iPod用の連番画像に変換することができる。こんな具合に。
意外と読みやすい。画面の大きさの制約で、「1ページ」の文字数が少なくなるために、頻繁にページを「めくる」必要があるが、iPodのホイールクリックはまったく苦にならない。朝夕の、身動き取れない電車の社内でも、快適に読める(電車が快適なわけではないが)。
これを本にしたのは、「マチともの語り」というプロジェクトで、この、「地域を小粋に物語ろう」という姿勢には共感する。そうか。「物語り」なのだ。やっぱり。
2006年1月 4日
年末年始本。
「都市連鎖」、「先行デザイン宣言」、「都市の血/肉」と、ようやくにして、中谷氏の思想が(少しずつ)わかってきた(ような気がする)。
それにしても、「先行デザイン宣言」はよくできているなあ。なんか、去年は1年間そればっか言い続けてきたような気もするが。読めば読むほど、見れば見るほど、もう、いやになるほど素晴らしい。どーしてこれが、特にラ系のあいだでもっと話題にならないのかわからない。
まあいいや。原稿書かないと。
2005年11月28日
今週の通勤本。
松井章「環境考古学への招待—発掘からわかる食・トイレ・戦争 」岩波新書、2005
なんとなく「地層」つながりで。
今尾恵介「日本地図のたのしみ」角川書店、2005
今尾さんの新刊。もう、目次を眺めているだけでニヤニヤ笑いを漏らしてしまうような本である。いや素晴らしい。
著者は前書きにていわく、
地図は「現地のありのまま」だと思っている人が意外に多いようだが、デジタル時代の今となっても、一定の数値を入力すれば自動的に出来上がるものなどほとんどない。地図というものは、その企画者が手段としての記号(図式)を用いて、「何らかの意図」を表現した著作物なのである。あらゆるものをレンズを通して等価な情報として取り込んでしまう空中写真と決定的に異なっているのはこの「意図を表現」する点だ。
ついでに、「デジタル地図も使う係」として、今尾さんの見解に補足させて頂くならば、空中写真や衛星写真とて、決して「意図フリー」な、「あらゆるものを等価な情報として取り込んだ」媒体ではありえない。それはやはり、ある特定の時点で、ある特定の場所を、ある特定のやりかたでキャプチャーして、ある特定の手法で視覚化したものに過ぎない。盲信してしまうと、場所そのものを見失うのは空撮マップでも地図でも同じだし、コツを掴めばその「偏向性」を利用してより「深読み」ができるのも地図と同様である。だから、地図リテラシーを身につけていれば、空中写真もデジタル標高データもこわくないのだ。フィールドワーカーは必携。
2005年9月19日
日曜日。
急に、どうしても車があったほうが良い状況になり、レンタカーの予約が間に合わなかったため、OM氏に電話して、OMジムニー・ターボをお借りした。
僕はこの、ハンドルが重くてサスペンションが固くて、走るとキャンバスがバタバタいう軽自動車がけっこう好きである。普通の乗用車では味わえないような、舗装の凹凸や走行速度や外気温がそのまま、手足に直に伝わってくる。単車に乗ると、路面の「摩擦感」というか、気温や湿度の変化や、それによって変化するアスファルトの「固さ」まで、全身の神経に伝わってくる、あれに似てる。
そういえば、以前、太田さんに「似合ってる」と言われたことがあったけど、僕はこういう、ちっこいオフロードにでも乗ってるような雰囲気なのかもしれない。
今週の通勤本向け在庫。
・広瀬弘忠「人はなぜ逃げおくれるのか ---災害の心理学」集英社新書、2004
「911本」に関連して。
・ブライアン・サイクス著、大野晶子訳「アダムの呪い」ソニーマガジンズ、2004
ちょっとジェンダーを巡って。基礎知識も何もないのだが、差し当たって「手がかり」として。
・稲葉振一郎「『資本』論」ちくま新書、2005
・最相葉月「あのころの未来 星新一の預言」新潮文庫、2005
この著者は、着眼点はそれなりに面白いと思うのだが、何かいまひとつズレてるというか、そこここに誤射と飛躍が感じられるのと、いささか芝居がかった文章が鼻についてしまい、「絶対音感」などはけっこうくたびれる読書だった、んだけど、題材が星新一なので看過できず、文庫版化を期に、おそるおそる買った。それにしてもいくらなんでも「預言」はないだろう。編集者の誰からもチェック入んなかったのかよ。。。
2005年9月 9日
先週、今週の通勤本。
・竹村公太郎「土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く」PHP研究所、2005
荒俣さんの推薦文に釣られて買ってしまった。
都市を「読む」手がかりとして、ありがちな自然・環境決定論でなく、治水や土地造成などのインフラに注目してみる、という視点は興味深い。たしかに「インフラ」は、人の営為としての都市と、土地の自然との拮抗が像をなしたものであって、その成り立ちを解読する知識とコツを持てば、世界の都市に普遍な部分や、その土地固有のユニークな事態が浮かび上がる。のだろう。
しかし、(書名から)何となく予想していたんだけど、事象の取捨選択の恣意さと、結語への遠すぎる飛躍と、著者のなんというかちょっと芝居がかったような大仰な文章に辟易してしまった。
いや、面白いところが全然なかったわけではない。
たとえば、大正時代から行われた、石狩川の大規模な河川ショートカット改修は、洪水調節だけではなく、流速を上げることで川底が浸食させて水位を下げ、周辺の泥炭湿地の地下水位を下げて農業に適した土地へ乾かすという、流水を逆手に取った地域排水計画でもあったのだそうだ。土木って凄いなあ。オサダさん知ってた?その分野では有名な話なのかな。
・中沢新一「アースダイバー」講談社、2005
これも「恣意性」と「飛躍」は、ある意味では「土地の文明」以上に甚だしいが、目のつけどころというか、土地のどういうところに惹かれるか、という「感じ」が、東京スリバチ学会なんかと重なっていて、シンパシーを感じてしまうのだった。街歩きに出たくなる本ではある。
・田中正大「東京の公園と原地形」けやき出版、2005
これはネタ満載。著者は東京近辺の、特に「谷津」地形を巡る。それが「公園」なのは、公園にはしばしば谷津地形が「ナマ」で残っているからだ。もちろん、何もかも手つかずの地形がそのまんま残っているわけではなく、公園化される以前に大名庭園だった場所ではその庭園化の痕跡があったりする。しかし、庭園や公園は多くの場合、土地を大造成して「使える乾いた平面」を確保しようとするよりも、谷津の「谷津性」を温存する方向で利用されている。
宅地開発で失われた谷津地形も挙げつつ、愚痴っぽくなったり、文明論に飛んだりもせずに、その場所の地形の「受け取られかた」の歴史を淡々と語るような、抑制の利いた文章も気持ちいいし。今尾恵介さんの文章にちょっと似てる。冒頭、「地形は呼んでいる」と著者はいう。その「気持ち」、僕はたぶんわかります田中先生。
・進士五十八「日本の庭園 造景の技とこころ」中公新書、2005
ええと、また後ほど。。。
2005年7月26日
先週から今週の通勤本。
五十嵐太郎「現代建築のパースペクティブ 日本のポスト・ポストモダンを見て歩く」光文社新書、2005
これはネタ本として最高だ。
取っ掛かりとしてはとても良い入門編だと思う。
ただ、初出媒体への発表の時期と現在との時間差を感じる箇所もある。ことに、「最近の若手建築家」について論じたくだり。たとえばアトリエワンの都市への態度は、「ユニット派論争」のころからずいぶん変わってきているし、南さんとか太田さんを挙げるまでもなく、現代の都市に対するコミットメントのしかたはそれぞれ特徴的で、一括りにできない。
まあでも、大雑把な「傾向」を書き出してみないと「パースペクティブ」にならないしな。
中沢新一「アースダイバー」講談社、2005
まだ読んでないけど買ったので持ち歩いている。電車内では中国語漬けなので、なかなか読書が進まないのだ。しかし。目次や図版がすでにそそるな。この本。
ところで今日、タバコを買いに出た職場近くの路上で、スクーターに乗った若い男の子に道を尋ねられたんだけど、その訊き方が、いきなり背後から「すいません!ちょっと質問があるんですけど」。
・・・おまえは「生徒」かよ。