2007年11月27日

川合健二マニュアル

か、川合健二すげえ。
取り急ぎ。
追記予定。

2007年4月 2日

郊外で郊外本を読む

東京から考える—格差・郊外・ナショナリズム 東 浩紀、北田 暁大、NHK出版、2007

お二人が、東京と近郊のいくつかの地域をサンプルにしつつ、いわば郊外化する都市・東京について、その現在と今後とそれが映し出す社会の趨勢について対談。なお、僕は、北田氏の発言や「あとがき」に多く共感した。

青葉台とか池袋とか荻窪とか、それぞれの地域の「分析」には、東さんの家探しに付き合わされているみたいでいささか辟易する部分もあるが、「都市を覆ってゆく人間工学的デザイン」とか「観念的ナショナリズムから地のナショナリズムへ」とか、その「言い当てかた」が冴えてるし、都市(あるいは郊外)への、何らかの「計画的関与」を生業としている人にはとくに、使えそうなネタは満載。いくつかのキーワードは、例の「環境管理型権力」のように、現在の(多少でも公共的な正確を帯びた)デザインが直面する社会的課題への補助線として使い回せそうだ。

ことに、「善意で」都市の郊外化に荷担し加速せしめることが「業(ごう)」であるラ系は、このへんのことをマジメに俎上に乗っけておいたほうがいいと思うな。「下北沢」をデザインすることはできないのは、先日の「団地愛問題」と同様の議論である。ラ系の場合の、団地愛問題に似た構造の問題は「地域性」とか「自然」とか「風景」というタームで浮上する。

以下をまだ読んでいない場合は、セットで読むといいかも。

自由を考える—9・11以降の現代思想 東 浩紀、大澤 真幸、NHK出版、2003

僕自身は、国道16号線的風景を称揚する物言いが嫌いで信用できないが、誇張された「地域の個性」もなんだかイヤである。

ちなみに、六本木ヒルズをして、あれは「郊外」だ、と最初に言ったのは(僕の知る限り)ぽむ桂さんだ。
ぽむ日記 2003年4月27日


郊外の社会学—現代を生きる形 若林幹夫、ちくま新書、2007

「東京から考える」を読んだ直後にこれを書店で見つけて購入。
「東京から考える」も面白かったけど、こちらはそれ以上に、もう心に染みいる読書であった。これまでの若林氏の「郊外本」よりも、ずっと当事者的な立場で書かれている。なんか、郊外への「愛」を感じてしまった。

・・・そのような生の集合性の場所として、郊外という社会はある。そんな郊外を生きてきたひとりの社会学者をゴーストライターとする、個人的であると同時に集合的=社会的でもある”郊外の自叙伝”として、この小さな本は書かれたのである。
うう。もう一回読もう。


科学はどこまでいくのか 池田清彦、ちくま文庫、2006

文庫化されていたのを見つけて購入。あらたに加えられた「やや長いあとがき」のためだけにでも買ってよかった。


・「ランドスケープ研究 Vol.70 No.4」

造園学会誌。特集;近代ランドスケープ遺産の価値とその保全。ここに掲載の、小野良平「近代の公園の文化的価値とその保全の意義」。いやこれは、学会誌では久し振りに面白い論文であった。
土木構築物や建築物が文化的「遺産」となるとき、しばしば「公園化」して存続する。でも「公園」はすでに公園であって、つまりたとえそれが文化的遺産とされたとしても、公園が公園であるためには、現役であり続けるしかない。そして公園が現役であるためには、その時代・その地域が公園に要求する様態に応えて改変されなくてはいけない。のか?というジレンマ。

下記も参照。
スケッチ・オブ・ザ・デイ ランドスケープ研究 Vol.70 No.4

2007年2月27日

トラバ

トラヴァース
南 泰裕
430607255X
鹿島出版会、2006

近年の南さんの、建築文化や10+1に寄稿した論考をまとめ読みでお得。と思って購入。
帰路、通勤電車のなかで何気なく広げて読み始めた。

・・・本を取り落とすかと思った。あーびっくりした。

冒頭、えー、いや、何を書いてもネタバレになるので、何も書けん。
ともかくも、驚愕体験の楽しみを味わうために、何の予備知識もなく本の最初から読み始めてみることをお勧めする。

冒頭もさることながら、近年の南さんの、建築文化や10+1に寄稿した論考をまとめ読みでお得。僕は「都市居住の今日的群像」や「遠い都市、近い眺め」とかが好きだ(初出が専門誌でなく、比較的平易に書かれているから)。

南さんの文章をして、都市から「仲間はずれにされているような」と評したのは佐藤師匠だったかな?なんかこう、外国の街でも見るみたいに、ここはどこだ、しかも俺は誰なんだ、という感じの、独特の寡黙な孤独感は、たとえば太田浩史さんが東京を語るときの、「俺の街に何をする!」という地元当事者感覚と対照的。

「トラヴァース」というと、僕が咄嗟に思い浮かべるのは登山用語である。斜面を水平移動することをいう。「トラバる」とも言った。でもいま「トラバる」って言うと、「トラックバックする」に聞こえるな。

南さんの本といえば、南さんが以前に書かれた「住居はいかに可能か」は、千葉大のキノシタ先生が「石川さんお勧めの、あの本、読みました!いいですね!」と、わざわざ僕の携帯に電話してきた本であった。そこまで納得して頂けるとお勧め甲斐がある。

他にもう1冊、キノシタ先生がわざわざ電話してきて「読みました!すばらしい」と感想くださった本があって、それは中谷レーニン先生著「セヴェラルネス」なのだった。

セヴェラルネス 事物連鎖と人間
中谷 礼仁
4306044602

2006年9月18日

移動図書館的鞄

ここ数ヶ月、主に雑誌の記事の執筆依頼を立て続けに頂いていて、ずっと隙間なく「締め切り前」という状態が続いていたため、電車や飛行機の中で本を読む機会がほとんどなかった。どれもたいそうな論文なわけじゃないが、小さくても締め切り前の原稿を抱えていると、なんだか緊張してしまって、空き時間があるとメモやPDAを開けて考え込んでしまうのだ。それでも、書店(オンライン/オングラウンド両方とも)の前は素通りできず、つい、ほとんど定期的に本は買うので、自宅の書棚と通勤用のカバンには、記録も整理もないままに、あとで読むつもりの本と少し読んだ本と忘れかけの本と読み中の本が錯綜している。毎日、拷問のように重い。移動図書館になったような気持ち。

・四方田犬彦「「かわいい」論」ちくま新書、2006

これは一気に読んだ。これはネタ満載だ。それと、著者の四方田氏の文章が感動的にうまい。真似したくなる。ちょっと間を置いて再読しないと。

「かわいい」に関しては、以前、ガーデニングに関する文章を書く必要があったときに、少し調べようとしたことがある。もともとの意味ではなく、90年代半ば以降に日本でいささか変容した意味での、いわゆる「ガーデニング」が帯びている独特のスタイルについてである。イギリスのコテージガーデンとアメリカのコロニアルスタイルを模して混ぜたみたいな記号が散りばめられ、コビトの置物が出現したりする、あれはデザイン論というより文化人類学的題材なんじゃないだろうか、と思ったのだ。

こういうの、少し真面目に考え始めると止めどないが、僕がたまたま読んだ中では、イーフー・トゥアン「愛と支配の博物誌」と、「美術手帖」96年2月号「かわいい」特集に掲載されていた、松井みどり「偏愛のマイクロポリティクス 逸脱の記号としての「かわいらしさ」」が面白かった。

それで、その「美術手帖」を引っ張り出してきて開いてみたら、その特集に原研哉氏がコラムを寄稿されていた。

 僕は「かわいい」をデザインするのが苦手である。こういうふうにいってはなんだが、僕がやるとどうしても「かっこいい」になってしまう。「かっこいい」でいいじゃないのと思われるかもしれないが、ある意味で「かっこいい」は嫌われ者である。だってかっこいいんだもの。
 デザインというのはそもそもベクトルが「かわいい」のほうに向いていない。「スルドイ」とか「厳しい」のほうにはときどき向くのだけれども。・・・しかし近頃ではこの「かわいい」がいつのまにか幅をきかせはじめていて、「かっこいい」が「かわいい」に負けたりすることもしばしばである。「かわいい」には「かっこわるい」が少し含まれているわけで、穿った見方をするならば、これは実は姿を変えた「かっこわるい」の陰謀ではないかと考えることもできる。
 ある筋の情報によると「かわいい」は平安時代に発明されたものであるらしい。その当時は「をかし」と呼ばれていたということだそうだ。・・・

「枕草子」については、四方田氏がおんなじことを(それが起源だとは言っていないが)書いている。
いやまったく冴えてる原研哉さん。

・神門善久「日本の食と農 危機の本質」NTT出版、2006

全国のラ系諸姉諸兄に心から告ぐが、これは必読だ。特に里山族。
またのちほど。

2006年6月16日

いくつかの通勤本。

先々週。
朝、現場に立ち寄ってから出社すべく、電車に乗ろうとしていたら、千葉大のキノシタ先生からいきなり電話がかかってきた。「お薦めされた、中谷礼仁さんの『セヴェラルネス』買って読みましたが、素晴らしいですね!あれ。」というのが用事だった。おお。そーでしょうそーでしょう、どの章がお気に入りです?「弱い技術」ですか。僕は「自尊心少年」ですねえ。桂離宮もいいですよね。そーだ、今度ラ系の有志集めて読書会しましょうよ、などと、盛り上がってしまった。。。朝の川崎駅のホームで。

今週。
久し振りに、いつもより少し早めに仕事を終えた平日、帰路、思わず書店に立ち寄った(締め切りすぎてご迷惑をおかけしている原稿もあるんだけど。。。本屋が呼ぶのだ)。

建築のコーナーに、「マゾヒスティック・ランドスケープ—獲得される場所をめざして(学芸出版社、2006)」が出ているのを発見。
「LANDSCAPE EXPLORER」というグループが編集した本。

大阪での造園学会のおりに、グループのひとり、クツナさんから「進呈します」というメールを頂いていたのだが、当日、うっかりもらい損ねて帰ってきてしまった。せっかくなので、関西のラ系集団の熱心な活動にいささかでも貢献すべく、一冊購入。帰りの電車でざっと読む。

・・・こ、こりゃダメだ。これはつまんないぜクツナさん。どうしてこんなことに。

「前書き」のテキストは、ほとんど意味不明(理想に燃えてるっぽい『確信』だけは伝わってくる)。フィールドワークも、提案されているプロジェクトも、惜しいというか、なんか学部2年くらいの課題みたいだ。

「マゾヒスティック・ランドスケープ」なんていう扇情的なタイトルは、こう、たとえば都市に痛めつけられる、けどそれを倒錯的に嬉しむ、みたいな、ちょっとキレたランドスケープ論か何かかと思わせるが、そういうことではなく、使い手の関与によってその意味や形態を変容させもするような場所のありかたのこと、のようである。逆に、一義的に使い方を強いる空間のデザインを「サディスティック」と呼んでいる。

それはいくら何でも、用語の使い方が変じゃないか?というか、どうして普通に「ランドスケープ」じゃいけないのだろう。だって、「ランドスケープ」って「そういうもの」だろう。そもそも。問題意識はわからなくもないが、それっていま、そんなに「問題」なんだっけ?

使い手に対して、ある行動を強いるとか、制限する、というような観点からなら、近年の「環境管理型権力」の議論だとか、「ランドスケープ的スキル」がそういう環境の創成と洗練に「荷担してしまうこと」だとか、もっと掘り下げるに足る話があるだろうし、「使い手の関与」に関してだって、それこそ「弱い技術」的に、もっと「作り手」と「使い手」なんていう区分けを揺さぶるような事例の発見や考察があるだろうと思うが。

いや、集まってわいわいやってる議論の場では、もっと面白い話題や視点がバシバシ出ているのかもしれない。えてしてそういうものだけど。でも少なくとも、「今さら」感漂うこの本には落胆した。と記録しておきます。
今後に期待、ということで。

2006年3月20日

you're really cookin'

先週の通勤本。

須江公美子(gaby)「gaby's kitchen」(有)眺、2006

これは「電子本」。著者は、現在オーストラリア在住の、ビジネスコンサルタント/日本語教師/言語学専攻大学院生(←しかし、他人に説明しにくいステータスだ)。知り合ったのは7、8年前、当時リクルートが運営していた在外日本人のための情報交換のメーリングリストでだった。ちょっとした応答が巧みで冴えまくっていて、独特の笑いのセンスと知性が感じられて、いい文章を書く人だなあと思っていたのだが、最近、立て続けに「本」が出た。

理想書店:「ある日、パースで」

理想書店:「gaby's kitchen」

前者は、西オーストラリアの街を舞台にした、「バーでふと出会って、別れた」みたいな感じのオトナの恋愛短編集。小説だが、実際に見聞きしたことが大いに題材になっている。のだろうと思われる(推測)。

最近出た、「キッチン」は、料理のレシピがちりばめられたエッセイ集という趣きの本で、これは面白い(でも、帰りの電車で、空腹を抱えて読むとなかなかキツい)。読み進んで終わってしまうのがもったいないくらい。続編を希望。あるいは、拡大版で紙で出版されるとか。

PCの画面上で読むこともできるが、T-Timeを有料アップグレードすると、iPod用の連番画像に変換することができる。こんな具合に。

意外と読みやすい。画面の大きさの制約で、「1ページ」の文字数が少なくなるために、頻繁にページを「めくる」必要があるが、iPodのホイールクリックはまったく苦にならない。朝夕の、身動き取れない電車の社内でも、快適に読める(電車が快適なわけではないが)。

これを本にしたのは、「マチともの語り」というプロジェクトで、この、「地域を小粋に物語ろう」という姿勢には共感する。そうか。「物語り」なのだ。やっぱり。

マチともの語り - ABOUT US

2006年1月 4日

年末年始の「いくつか」の本。

年末年始本。

  • M. G. Turner, R. H. Gardner, R. V. O'Neill著、中越信和・原慶太郎訳「景観生態学」文一総合出版、2004

  • 調べたいことがあって再読。

  • 野中健一編「野生のナヴィゲーション 民族誌から空間認知の科学へ」古今書院、2004

  • カラハリのブッシュマン、極北の雪原のイヌイト、マレーシア熱帯雨林のオランアスリ、ミクロネシア・カロリン諸島の海の民、といった狩猟採集民族が、どのように空間を認知して広大な土地を正確にナビゲーションしながら移動しているか、という報告。たとえば、ジャングルのオランアスリが身につけている、河川の流域の認知地図は、個人の出生やエピソード、そのときの集団のキャンプ位置など、「個人と川とを結びつける」クロノロジーとして記憶されるという。「海の民」のナビゲーションはちょっとすごい。周囲に島も何も見えない大洋上で、星座によって「方向」を把握しつつ、「エタック」という「見えない(想定された)島」を支点にした「仮想グリッド」に乗ってカヌーは進む。
    「移動するUCS」とでも言いましょうか。にわかには想像できないような「認知地図」。
    僕なんか、eTrexの電池が切れた時点で完全にロストして、その日のうちにサメの餌になるであろう。
    きっと、スリバチ学会長の皆川や、浅草キッドの水道橋博士は、この「エタック」が見えているんだろう。

  • 中谷礼人「セヴェラルネス 事物連鎖と人間」鹿島出版会、2005

  • 「いついかなるときにも、私たちは何かに触れている。これは実に驚くべきことではないだろうか。」

    「都市連鎖」、「先行デザイン宣言」、「都市の血/肉」と、ようやくにして、中谷氏の思想が(少しずつ)わかってきた(ような気がする)。

    それにしても、「先行デザイン宣言」はよくできているなあ。なんか、去年は1年間そればっか言い続けてきたような気もするが。読めば読むほど、見れば見るほど、もう、いやになるほど素晴らしい。どーしてこれが、特にラ系のあいだでもっと話題にならないのかわからない。

    まあいいや。原稿書かないと。

    2005年11月28日

    地図の読解力についてなど

    今週の通勤本。

    松井章「環境考古学への招待—発掘からわかる食・トイレ・戦争 」岩波新書、2005
    なんとなく「地層」つながりで。

    今尾恵介「日本地図のたのしみ」角川書店、2005
    今尾さんの新刊。もう、目次を眺めているだけでニヤニヤ笑いを漏らしてしまうような本である。いや素晴らしい。

    著者は前書きにていわく、

    地図は「現地のありのまま」だと思っている人が意外に多いようだが、デジタル時代の今となっても、一定の数値を入力すれば自動的に出来上がるものなどほとんどない。地図というものは、その企画者が手段としての記号(図式)を用いて、「何らかの意図」を表現した著作物なのである。あらゆるものをレンズを通して等価な情報として取り込んでしまう空中写真と決定的に異なっているのはこの「意図を表現」する点だ。

    これが「地図のリテラシー」である。無限にありうる地上の情報の組み合わせを、ある観点のみから選択的にマッピングしてある媒体である、という点で、地図はそのまんま作者の世界観の表明でもあり、高度に政治的・権力的なメディアでもある。でも、だからこそ、「わかってて」使うなら、それは強力な「地表への接近」のツールになるのである。

    ついでに、「デジタル地図も使う係」として、今尾さんの見解に補足させて頂くならば、空中写真や衛星写真とて、決して「意図フリー」な、「あらゆるものを等価な情報として取り込んだ」媒体ではありえない。それはやはり、ある特定の時点で、ある特定の場所を、ある特定のやりかたでキャプチャーして、ある特定の手法で視覚化したものに過ぎない。盲信してしまうと、場所そのものを見失うのは空撮マップでも地図でも同じだし、コツを掴めばその「偏向性」を利用してより「深読み」ができるのも地図と同様である。だから、地図リテラシーを身につけていれば、空中写真もデジタル標高データもこわくないのだ。フィールドワーカーは必携。

    2005年9月19日

    ようこそ地球さん。

    日曜日。

    急に、どうしても車があったほうが良い状況になり、レンタカーの予約が間に合わなかったため、OM氏に電話して、OMジムニー・ターボをお借りした。

    僕はこの、ハンドルが重くてサスペンションが固くて、走るとキャンバスがバタバタいう軽自動車がけっこう好きである。普通の乗用車では味わえないような、舗装の凹凸や走行速度や外気温がそのまま、手足に直に伝わってくる。単車に乗ると、路面の「摩擦感」というか、気温や湿度の変化や、それによって変化するアスファルトの「固さ」まで、全身の神経に伝わってくる、あれに似てる。

    そういえば、以前、太田さんに「似合ってる」と言われたことがあったけど、僕はこういう、ちっこいオフロードにでも乗ってるような雰囲気なのかもしれない。

    今週の通勤本向け在庫。

    ・広瀬弘忠「人はなぜ逃げおくれるのか ---災害の心理学」集英社新書、2004

    「911本」に関連して。

    ・ブライアン・サイクス著、大野晶子訳「アダムの呪い」ソニーマガジンズ、2004

    ちょっとジェンダーを巡って。基礎知識も何もないのだが、差し当たって「手がかり」として。

    ・稲葉振一郎「『資本』論」ちくま新書、2005

    ・最相葉月「あのころの未来 星新一の預言」新潮文庫、2005

    この著者は、着眼点はそれなりに面白いと思うのだが、何かいまひとつズレてるというか、そこここに誤射と飛躍が感じられるのと、いささか芝居がかった文章が鼻についてしまい、「絶対音感」などはけっこうくたびれる読書だった、んだけど、題材が星新一なので看過できず、文庫版化を期に、おそるおそる買った。それにしてもいくらなんでも「預言」はないだろう。編集者の誰からもチェック入んなかったのかよ。。。

    2005年9月16日

    102分なんてすぐだ。

    今週後半の通勤本:

    ISBN:4163674306
    9・11生死を分けた102分 崩壊する超高層ビル内部からの驚くべき証言
    ジム・ドワイヤー、ケヴィン・フリン著、三川基好訳