2005年8月29日

2:30 (tooth-hurty)

日曜日。

新築なった知人の家にお招き頂いてお邪魔した。

お宅は、丘陵地の斜面に造成された、化粧型枠の擁壁が建ち並ぶ新興住宅地であった。丘の「麓」には30年くらい昔に開発された一戸建て住宅地があり、その先に、カーポートの上が木デッキになっていたりするピカピカの住宅群がごそっとある。友人によると、その一角では、住民はみんな30歳台か40歳台前半で、同年齢の子供がいたりする、ほとんど判で押したみたいに同じような家族なんだそうである。一方で、住宅地全体からすると30年前住宅地の戸数のほうが圧倒的に多いため、地区の自治会の役員さんたちはみんなご老人なんだそうだ。

帰路、妻が見つけた、日曜日の夜まで開いている、ネット予約できる歯科へ。

奥歯に詰めてあった金属片が剥離脱落しちゃったので、ついでに現状をチェックしてもらって、治療すべきところを見てもらおう、と、軽い気持ちで行ったのだったが、久しぶりに歯科の椅子に座って、自分の歯のレントゲン展開写真を見せられて、愕然とした。なんか、知らない間にシロアリに食われてやばい状態になっている木造住宅の基礎みたいであった。こここれは。

下がった骨は戻らないし、もちろん歯ももはや生えて来ないし、現状維持しかない。ううむ。日常メンテナンスの問題なんだろうなあ。hamachi先生お勧めのブラシとかジェット水流装置とか、導入しようかなあ。とほほ。

まわりぶろぐ: じょうぶな歯 いつもごはんが おいしいね

お秋うございます>各方面

土曜日。
妻は仕事に出かけ、僕は家に引き子守りつつ、連中が昼寝に落ちた隙に、久しぶりにソファーにひっくり返って造園学会の学会誌「ランドスケープ研究 Vol.69 No.1」を読んだ。

造園学会作品賞の「受賞者業績要旨」が掲載されている。
物件は「晴海トリトンスクエア」と「飯田町アイガーデンエア」。
日建設計のワンツーフィニッシュ。どちらも再開発のプロジェクトであるところが、時代を反映してる。

「飯田町アイガーデンエア」は、できてから間もなく、平賀さんのご案内で見せて頂いたことがある。細長い街区の長さを目一杯使ったオープンスペースが印象的な、細部までさほど押し付けがましくなく作られた、いいプロジェクトで、僕はけっこう好きだ。

掲載されている、いささか長い文章のなかで平賀さんは、今回のプロジェクトも含めた、ここ最近のランドスケープが大きな役割を果たしたプロジェクトの実践を通じて、対外的な評価を得て、大きな建築設計事務所の中での、ラ系の「地位」を向上さしめたことを「成果」のひとつとして挙げている。

まあ、事務所の内部の事情は、外から見ればはっきりいってどうでもいいことなのだが、僕も数年前までデカイ建設会社の中に居たから、大きな組織の中でのランドスケープ系の「扱い」をして、業界の縮図のように感じるという「感じ」はわかる。働いている場所と、自分の専門の領域(というか、組織を超えたプロ同志のつながりというか)との二重性を自覚するようになったのは、最近、小さい事務所へ移ってからだ。

文章のタイトルには「自分の信じるランドスケープの実現を」とある。たしかに、この再開発プロジェクトのランドスケープが、プロジェクトの初期からのたゆまぬ「ランドスケープ的働きかけ」によって実現したのなら、驚嘆していいような出来映えだ。ただ、この「よい環境」は、投下した量以上の資本を回収できる見込みがある土地への建設行為を「契機」として、その機に乗じてランドスケープ的事態として産出されたのであって、その逆ではない。つまり、そこに「地域の環境の向上のためのオープンスペース」や、「地域に潜在する緑を接続して網状に生かす樹林群」をつくるために再開発が行われたわけではない。ランドスケープ的事態が生まれていることが、あらゆる建設行為を「正当化」するわけではなく、そう言う意味ではどっちかというと「共犯」である。だって、「理想」をいうなら、この再開発区域に舗装も建築も何もせずに、ただ樹林帯にしたほうが、地域環境的にはずっと良いに決まってるわけだし。いや、それはわかってることなんだけどさ。

同号に掲載の、赤坂信「1930年代の日本における『郷土風景』保存論」。

関東大震災後、東京の郊外の宅地化が急速に進むなかで、武蔵野の農村風景はすでに「郷土風景」と見なされていて(このあたり、明治期につくられた『ふるさとのイメージ』と考え合わせると興味深い)、それが物理的に消滅しつつある、という危機感を、当時の「識者」は持っていたそうである。制度への批判や、その地域の住民が主体的に関わるべきだとする主張や、都市化・変貌してゆくダイナミズムも郷土風景であるというちょっとラジカルな見方など、これを読むと、今日の郊外や里山なんかをめぐる議論の原型はこの時期にぜんぶ出ていたんじゃないか、と思えてくる。

ところで、こういう議論に先立って、すでに1920年代に「郷土造園」なる、一種の地域主義的手法を提唱していた人がいて、これが上原敬二先生なのだった。時代に対する感度といい、上原先生はやっぱりちょっと只者じゃないな。

2005年8月23日

秋風に子供ら風邪ひきぬ

OCM一級建築士事務所 <酔余漫筆> 建築家の日記

おおお。建築ツウがタモリ倶楽部ご出演だそうである。都内の工事現場を解説して回る「建築ツウ街歩き」企画のようだ。9月9日(金)放映。これは要チェックだ。いまから録画予約しておこう。

建築ツウとは、いつかどこかでお会いする機会があると勝手に夢想しているのだが(いままでこういう夢想をした場合、ほぼ実現している)、これで、共通の話題ができたわけである。芸人さんのカメラ回ってるモードも素人には真似できないけど、タモリさんって、カメラ回ってても回ってなくても様子がぜんぜん変わらないのが、逆に凄いですよねとか。こんなことここに書いてどうする。


今週の通勤本:

中尾佐助「栽培植物の世界」中央公論社、1976

古書店で買ったのだが、これは面白い。収穫の秋へ向けて、佐藤師匠の、高山建築学校作品講評/菜園プロジェクトの「締め」をお手伝いすべく、あらためて勉強中。

田中正大「東京の公園と原地形」けやき出版、2005

どこかで読んだ書評が良かったためと、今尾恵介さんの本を多く出しているけやき出版には好感を持っているので、そういうメタ情報だけでアマゾン買いした。これから読む。


追記。

タモリ倶楽部で思い出したんだけど、テレビ局から出演の打診を頂いているのだった。
送って下さった番組の紹介や企画を拝見するに、面白そうな内容なんだけど、場所が大阪なので、そのために出かけるのはちょっとキツいんだよなあ。9月から中津先生のお手伝いで関東学院の非常勤も始まるし。

あと、今週頭の日曜日、ライターとカメラマンのお二人が、あるウェブサイトの記事の取材に我が家へ来られた。「ユニークな人の暮らしぶりを紹介する」という趣旨の取材であって、変わったヤツだと呼ばれるのはもう慣れた。のだが、我が家(古い借家)の内外なんか撮影して、絵や記事になるんでしょーか、と聞くと、カメラマン氏が「いいんですいいんです、この前○○さん(←けっこう有名人)のお宅に伺ったときなんか、寝室と居間だけのマンションだったんですけど、ぜんぜん平気だったんですから」とよくわかんないことをおっしゃり、庭や本棚の写真をバシバシ撮ってゆかれた。

一応、片づけはしたんだが。なんか、変なものが写っていたらどうしよう。

2005年8月22日

ecology inside

(夏休み自由研究企画:僕の体と水道)

アセテート編集者日記

なんでこの話にぎくっとしたかと思うと、人間の皮膚を介した外側のより単純かつ有限なかたちと、その内部にある複雑、怪奇、かつ無限とも思えるオルガンとの対比が、人間が解明できないのひとつの根源的な差異としてあるのではないかと思ってきたからだ。もしかしたらそんなこととっくに誰か言っているな。まあいいや。もっと勉強しよう。

外の世界がきれいになるほど、人を殺したくなる人が増えたり
ひびでぶと音がして、顔がくずれるシーンが子どもに人気があった(僕の時代ね)も
全部そのおおいなギャップに起因しているのではないかと。
でここから空間論をはじめたら、どんなに根源的なのだろうかと。


僕も最近、似たようなことを考える。

きっかけは二つほどあって、ひとつは、子供のオムツを替える際に、毎日のようにウンチを眺めることである。乳幼児のいるご家庭のかたはよく実感されていることだと思うが、ウンチは、自覚体調を言葉にできない乳幼児の健康状態を最も端的にあらわすメディアなのであって、だからほとんどの育児書には大便に1章が割かれてあり、様々な色や形のウンチの写真が、さながらウンチ図鑑のように載っている。

子供が生まれるまでは、日常、こんなに排泄物と鼻つき合わすことはなかった。こういう目に遭ってみると、「入るもの」、つまり食べることと、「出るもの」が一続きなんだということが、手応えとしてよくわかる。そして、同じ「消化器系の行動」でも、「入るもの」の操作、つまり「食べること」がきわめて文化的になされていることに気づく。食事という行為そのものも高度に儀式化されているし、食事に供される「料理」において、ことに動物系の食材は原型を留めないほどに加工されている。

その点、「排泄」はずっとプリミティブでワイルドである。むろん、それは身体の状態を推測する様々な手がかりのひとつの「兆候」に過ぎないが、口へ入って咀嚼される直前までの「入ってくるもの」の洗練性(だから何かの拍子に、一旦飲み下した食物が逆流して口から出たりすると、とてもプリミティブでワイルドな光景を呈する)と比べると、体内を通ってきた「出てくるもの」のむき出しの野生性は凄い。

いつごろから僕らはこれを「忌避」するようになったのだろう。行動を見ている限り、乳幼児の時点ではネガティブな意味でもポジティブな意味でも排泄物にそれほどこだわりがあるようには見えない。僕らはほとんど反射的にこれを汚物視するが、これはどれほど文化的刷り込みなのだろう。排泄物の匂いをして僕らに顔をそむけさせるのは、あるいは「摂取できないもの」を感知するためにデフォルトで実装されている本能なのかもしれない。でも、考えてみれば、納豆だのクサヤだの、僕らは相当やばい匂いのする発酵食品も平気で食っている。

排泄物の状態が身体の状態を端的に表すのは、それが自分の意志の力ではどうにもできないものだからだ。僕らは石鹸で体を磨き、体毛を剃り、毛髪を切りそろえて染め、下着で体型を矯正し、衣服を羽織って、自分自身の身体の制御不可能な部分を覆い隠して、その「表面」を環境に晒している。僕らは人為的なアウトフィットによって、身体を都市に適合させている。あるいは、僕らの人為的な身体のアウトフィットの都合の集積が都市的環境を周囲に作り出している。

ところが、ほんの薄皮一枚の内側で、僕のささやけきアウトフィット構築の試みを無視して「身体のエコロジー」は独自の論理で遷移し、うっかり風呂に入り忘れたりすると、体中から「制御不能物」が分泌され、ナチュラルでエコロジカルなニオイを発し始める。どれほど文化的に洗練されまくった食事を摂っても、数時間後に出てくるのはおぞましくもプリミティブでワイルドな排泄物である。そして僕らはその、どうしようもなく「自然」な、結像した身体のエコロジーを、素早く、文字通り水に流して、「なかったこと」にしてしまう。

もうひとつのきっかけは、去年の暮れ、「東京キャナルプロジェクト」の展示品のひとつとして、上水道と下水道について調べてみたことだった。

西村佳哲による、「水道は川?」フィールドワークの記録:
Route of Water

上水道は、網状に張り巡らされて圧力のかかった水タンクなのである。上水道に「出口」はない。
一方で、下水道はあくまでも「流下」するものだ。どちらかというと下水道が「川」である。

都市地図くらいの縮尺で、上下水道の本管の配置を見比べると、この差が顕著である。
上水道は、配水施設から都市の隅々へ、途切れずにまんべんなく行き渡ることを目的にレイアウトされている。インフラの設計思想としては「道路」に似ている。

上水本管だけで描いた東京都心部

実際、上水本管の配置は都心の道路の配置にほぼ重なっている。

主要道路と重ねたもの

下水道は、土地の傾斜に沿って集めて流すという原理上、地形の「谷間」を描くことになる。

下水道本管だけで描いた東京都心

等高線を重ねて見ると、まさに「川」である。

1m等高線と重ねたもの

同じ「水道」ながら、上水道に比べて下水道は非常に自然に近い、「プリミティブでワイルド」な様態なのだ。これは、わかっていたことだし、予想していたとはいえ、あらためて図にしてみるとちょっとした驚きだった。

上下水道を重ねて見ると、「人体の不思議展」の血管標本みたいである。

(これらの図版協力:川添善行、栗生はるか、小牧正英、斉藤隆夫、斉藤太郎、新川藍。企画のクレジットはTokyo-Canal Project)

上水道も下水道も、それぞれの論理があり、それぞれの事情に対して合理的な建設をした結果、こういう配置になったのではある。しかし、それぞれの論理を成り立たせている、もとの「理由」を辿ると、それは「食事」と「排泄」を区別している僕らのありかた、僕らが操作しようとする身体のありかたに帰着するんじゃないだろうか。

ことに、汚物を流し去る下水道のほうが「自然」に親和している、というところが、なんか象徴的である。この二つの、性格の異なるインフラが接するところ、水道の蛇口からシンクの排水溝までのほんの短い間に介在しているのが、僕らの身体なのである。水を飲んで排泄する。あるいはシャワーを浴びる。僕らの身体をちょこっと通過しただけで、水はそのモードをぜんぜん違うものに変えて出てゆく。これが上水と下水の差を作っている。つまり、僕らの「身体の自然」の扱いが、都市のインフラに拡大投影されているわけだ。


ところで、若林幹夫氏のこんな考察もある(のを見つけた)。

かくして、環境の近代の環境において、社会-環境関係や人間-環境関係は、科学的な予測や技術的な制御、シミュレーションが可能になったにもかかわらず、旧来の社会よりも大きな予測不可能性と不確実性を、その内部に産出してしまうのである。
この予測不可能性と不確実性の中から、現代的な環境のリアリティの二つの極が迫り出してくる。
一方では、あらゆる予測不可能性と不確実性を自らの周囲から消失した後に残る確実性の根拠としての、人々にとってもっとも身近な自己の身体と心理状態が、唯一の確実なリアリティをもつ極小化した環境として現れてくる。「心とからだのエコロジー」とでも呼ぶべき心理学やカウンセリングの興隆は、そうした現実の広がりを指し示している。そして他方では、本論の冒頭に述べたように、あらゆる存在の予測不可能性や不確実性を自らの内に引き込みながら、そのすべてを包含し統合するものとしての「エコロジカルな環境」をめぐる諸観念が召喚される。エコロジカルな環境観の様々な形での普及は、環境の近代の環境が実際に生み出した環境の破壊(=環境に対する予測不可能性と知識の不確実性の暴露)に対応していると同時に、そうした破壊を生み出す環境の近代に孕まれる予測不可能性と不確実性に対する人々の不安と救済への願望に対応している。(若林幹夫『浮上するエコロジー---環境の近代と、その環境』季刊d/sign no.7、2004)

「自然としての身体」への志向が、近代の社会/環境の「わからなさ」に起因する、という指摘は興味深い。生態系や身体の自然性の「わからなさ」は、近代の社会/環境のそれよりも頼りになる、信頼に足る「わからなさ」だと見なされるのかもしれない。「自然の無謬性」(Motoe Lab, MYU: アーキテクトニクスからホーティカルチャーへ)というのはそういうことなのかもしれない。

2005年8月19日

アーキテクトニクスからホーティカルチャルガーデニングランドスケーピングアーキテクトニクスへ

Motoe Lab, MYU: アーキテクトニクスからホーティカルチャーへ

・・・はい。こちら、ラ系本流から逃げ回っているランド・エスケーピストです。すたこら。

確かに。「アーキテクチャ」が、箱を作っておしまい、という行為の比喩でしかないとしたらそれはあんまりだ。本江さんのおっしゃるように、「いまでは「建築」それ自体が「ホーティカルチャー」的なものとして認識しなおされてきている」し、第一、それこそ1900年代半ばのアメリカでだって、建築が初期設定のままの「ビルディング」を作るだけ、だったことなんてないんじゃないだろうか。建築生産のプロセスは、建築自体の性格からして、今も昔も、一般に思われているよりもずっとインタラクティブである。構想や設計や施工の過程で条件や事情が変化しないことのほうが考えにくい。むしろ、ここで建築の比喩として挙げられている「リサーチ・デザイン・プロダクション・納品」のフローは、自動車や航空機の大量生産に似てると思う。というか、軍事技術として開発の進んだこういうプログラミングの手法が、あとで建築生産に応用されたような気がするが。

さらに言えば、園芸や造園も、変化したり多様化したりする要求に応えることに「自覚的」になったのはつい最近のことだ。いまビオトープが設置されている校庭の片隅には、以前は花時計があったのである。つまり、園芸も以前から「園芸的」だったわけではない。

まあ、気持ちはわかるが、「○○から●●へ」的な新語を導入することで概念のリニューアルを図るワナに陥ると、一種の無限後退が起きて、「造園からランドスケープへ」を大々的にやっちゃってドツボに嵌った今日のラ系を取りまいている、何かの話をしようとする度にそれぞれの用語についていちいち暫定的な但し書きを述べねばならない混乱と似たような面倒くささを招くことになるぜ、と警告申し上げておきたい。例え話を取り替えるよりも、今まで付き合ってきた「アーキテクチャ」という言葉自体の刷新を図って鍛えるほうがずっとしたたかで長持ちすると思うけどなあ。「これまでアーキテクチャという呼び名でイメージしていたのはこういうことでした。でも、アーキテクチャ自体もこう変化しつつあります。これからのソフトウェア・アーキテクチャとは、このような行為と意味の広がりを指すのです」とかね。

ともあれ、「ソフトウェア・ランドスケープ」などという言葉が一人歩きして流行らないことを祈る(「landscapist」って検索すると早くもその徴候が見られる)。名詞に「システム・ランドスケーピスト」だとか「メディア・ビオトーピスト」なんて刷ってあるSEがやってきて、「ソフトもネットワークも生き物ですからねえ。まあ、一緒に育てていくつもりでやりましょうよ」なんて口走ったら僕はすぐさま業者を替える。

だいたい「ホーティカルチャー」と「ガーデニング」と「ランドスケープ」ってそれぞれ意味が違うぞ。というツッコミは置いておいても、そもそも、「ランドスケーピスト」って、このための造語でない限り、変な言葉だよなあ。あの論考の文脈でいえば、普通に「ガーデナー」でいいと思うんだけど。

ランドスケープ・デザインは建築を変えるか?ん?

建築雑誌(建築学会の学会誌)の8月号が「ランドスケープ・デザインは建築を変えるか?」という特集を組んでいて、マーク・トライブ、宮城俊作、大野秀敏、三谷徹、と、半分くらいお馴染みのお名前が並んでいる。

またどういういきさつで、あらためていま、ランドスケープデザインが建築を「変える」のかという議論をしようと思ったんだ建築学会。

などと言いつつ、ばしばしコピー取ってしまった(借り物だったので)。

三谷徹さんの論文「60'sアヴァンギャルド再考 建築とランドスケープの閾(いき)」。
いわく、建築に「ランドスケープ」という言葉が浸透し、頻繁に用いられるようになったのはいいのだが、「さて、屋上緑化という鎧を着込む建築、コンター模型のような建築、饒舌な曲面を多用する建築が次々と現れ、建築家自らもそれを地形としての建築であるとか建築生態などと呼んだりしているのを見ると、なにか釈然としないものを感じているのも事実である」。

三谷さんは、60年代、建築のボキャブラリーを拡大しようとした試みの一端が有機物の比喩へ向かっていたことを引きつつ、今日の、形態が有機的だったり、「動態内施設」的プログラムを前面に押し出した建築が「ランドスケープを装う」のは、問題のすり替えだ、と述べている。

 あらためて、コンクリートが成長することはなく、樹木が高層建築の構造になることがないーーー建築は、建築であってランドスケープではないーーーという素朴な視点に戻れば、建築がオールマイティにランドスケープを包含することはあり得ず、またその逆に、ランドスケープが建築となり得ないことも自明の理である。問われるべきは、むしろ相互の「相似」ではなく「相違」であり、互いの立脚点の再認識ではないだろうか。60年代アヴァンギャルドのドローイングは、一見建築がランドスケープに限りなく近づけることを示しているように見せかけながら、逆に建築が建築でしかあり得ないこと、建築に行き着けない領域をわれわれに突き付けていると読み解くべきではないだろうか。
 中村敏男は『a+u』(No.83)でA.A.スクールを中心とする若手建築家のプロジェクトを編集し、「アンビルト・イングランド」というタイトルのもとにまとめた。そして編集後記でこう述べている。「建設可能と不可能の領域のヘアラインのような境界・・・このふたつの領域の電圧が高まれば高まるほど、緊張が高まれば高まるほどこのヘアラインの意味は重要になるであろう」と。ところが今日設置されつつあるランドスケープ的建築の多くは、緊張を高めるものというよりは調和を求めるものとして語られている。しかるに緊張が解決されたのかというとそうではなさそうであるし、むしろ急速な建築技術の展開が境界の存在と意義を拡散してしまいかねない様子である。彼らの問いを今日翻訳し直すとすれば、アンビルドかビルドかではないであろう。建築自身の問題を外在する問題にすり替えぬように監視すること、言い換えれば建築とランドスケープの間に横たわる、ヘアラインのような境界ーーー閾(いき)ーーーをあらためて発見していく作業なのではなかろうか。

建築の問題は建築でしか解決できないはずで、あるいは建築に建築では解決できない問題があるとしても、それを安易に「ランドスケープ」の「例え」を引いて誤魔化してはいけない、というわけだ。

いやまさに。そうなんですよ。僕もまったく同じ主旨を書こうとした。というか、似たようなことを主題にして、どうして僕はこんな風にストレートにキレイに書けないのであろうか。くそ。しかも、業務の大半が「屋上緑化という鎧」の建設を支援する設計だったりする僕には、いささか耳が痛い。

僕は、建築家はそれほど(一時期ほどには)ランドスケープランドスケープ言っていないようにも思えるけれど、やはり建築は建築で落とし前をつけようとしてほしいと思う。建築の問題に、建築そのものがなんとかして答えようとするところ、三谷さんの言う「閾」に、建築が輪郭を現すんじゃないかと思う。だって、その部分こそが建築をして建築たらしめるところで、建築の面白いところじゃんか。建築ではないものへの志向が建築を免罪するかのように説明されたり、「もはや建築ではない何かになっている」なんて評が誉め言葉になったりしたら、それは思い違いも甚だしい。

少なくとも僕には、たいていの場合、建築家の文章の方が、造園/ラ系のそれよりもずっと面白い。たぶんそれは、あるいは時代状況のためもあってか、建築がいちいち、「そもそもここで、どうして建築じゃないといけないのか」というような、根元的な意味の問いから始める傾向があるからだ。悩める建築家には申し訳ないけれど、その切実さが建築や建築を巡る言説をスリリングにしているんである。

翻って、ラ系の文章が得てしてつまんないのは、あらゆる角度から「善」のカタマリで、その点を保証されていて、わざわざ考えずに済むからだと思う。「閾」はほんとはランドスケープにとっても切実な問題になるはずである。でも、ランドスケープ研究(造園学会の学会誌)で「建築はランドスケープを変えるか」なんて特集は見たことがないし、ラ系唯一のジャーナリズムでは、建築家の設計した庭を造園の専門家が訪問してあれこれ評するという、なんだかズレた記事が連載されている。

ところで、特集の冒頭で、

日本においては、80年代になって、都市における公共空間への意識の高まりとともにランドスケープ・デザインという領域が認識されるようになり、アメリカで教育を受けた多くのランドスケープ・アーキテクトがさまざまな分野で活躍を始めるようになった。それまでとかく外構として、都市の残余、敷地の残余を埋める以上の役割を担っていなかった空地は、こうしてデザインの対象であることが認識されるに至った。また、建築家とランドスケープ・アーキテクトがコラボレーションをすることが当たり前になったのも、この時期以降である。(下線は引用者による)

・・・あのう。こんな「総括」があっさり書いてあるんですが。木下先生。これって「釣り」でしょうか。

2005年8月17日

Road to the Degree Confluence

日曜日は西村夫妻のご厚意で、宿泊の予約を譲ってもらい、内藤廣氏設計のフォレストイン益子に宿泊し(二人して主に雨落ちの収まりや外部の排水のディテールをバシバシ撮って回るという野暮な宿泊客になってしまった)、翌日、東北自動車道をすこし北上して、那須を目指した。

なぜなら、那須には、海上も含めて93あるうちのひとつ、東京から2番目に近い「緯度経度交差点」があるからである。最初にここを訪れた若狭さんらの報告を見ると、子供連れでも簡単にアクセスできそうだったし、せっかく栃木県まで来たんだからこれは行こう、と計画していたのだ。

結果からいうと、ポイントはあっさり見つけた。地図で場所を特定し、カーナビをセットして、那須インターチェンジで高速を降りて、南西へ引き返すようにして那珂川を渡って、ポイントのすぐそばまで車で近づけた。そしたらなんと、沿道に「那須野ゼロポイント 北緯37度線と東経138度線が交わるところ 入り口 徒歩60m先」と大書きされた看板が立っていた。いったいどうしたんだ那須野。

でもおかげで、余計な迷いもなく、子連れのまま、林の中でポイントを首尾良く捕まえた。沿道からポイントまで、下草がキレイに刈ってあって、どう見ても「歓迎・ディグリー交差点ハンター様」という設えであった。ありがとうございました那須野のどなたか。

北緯37、東経140、オフィシャル訪問記

ふっふっふ。久々の、手応えのある地表系。最近、メディアの取材にかこつけた地上絵ばっかりやっていたので、この「独りよがり感」を忘れかけていた。見たかおりゅう。ゼロがひと桁違うぜ。

緯度経度交差点訪問はこれで2度目である。一度目は4年前、これに参加するために初めて買ったGPS、黄色の素のeTrexを持って行った筑波近郊の田圃だった。

DCP: 36 degrees north, 140 degrees east

写真には写っていないが、このとき、長男が妻のおなかの中にいた(まだ僕も妻も気付いていなかった)。つまり長男は生まれる前からディグリー交差点ハンターをしていたのだった。今回の写真と見比べるとなんか、「ファミリーアルバム」みたいである。

Window to the Living World

日曜日。

Living Worldの展示会「窓」を見に行くべく、レンタカーを借りて益子へ。

カーナビが常磐自動車道経由を勧めたため、迂闊にそれに従ったら、首都高を抜けて三郷から利根川を渡りあたりまでがやたらと渋滞し、えらく時間がかかってしまったが、久し振りに東京から東北方面への街と農地と森林へのグラデーションをたっぷり味わって、それはそれで楽しいドライブだった。

展示会の開かれている「STARNET ZONE」というギャラリーは、益子の街を少し外れた丘陵地の、丘の上にある。周囲はコナラっぽい二次林にスギやヒノキの植林が混ざった、典型的な「里山」である。

陶芸の盛んな地域というのは、地になっている農村に「都会の衛星」みたいに陶芸家の文化が入り込んで点在し、日本に定住して数十年のアメリカ人が藍染めの作業着を着てろくろを回してる、みたいな、田舎のリソースを使いながら、それなりに都会的な生活ができそうな、ちょっと独特の「良い田舎暮らし」的雰囲気をしていることがある。

この地域もいささかそういう匂いはある。ただ、益子の陶芸には江戸以前から続く骨のある歴史と、益子焼きそのものの名の強さがあって、それが、STARNETのような気の利いた「文化」を受け入れつつも、ある種の別荘地に感じるようなあざとさを押しとどめているような感じがした。いい場所だ。

「窓」については、なんかもう、ここにだらだら書き連ねるのがもったいないような体験だった。お昼過ぎに到着し、途中で温泉に行ったりしつつ、結局閉館時間までだらだらと居続けた。

会期は8月25日まで。特にラ系のあなた。万難を排して行くように。後悔しないことは僕が請け負う。

リビングワールド
リビングワールドの仕事展 blog(2005/7/23-8/25)

藤崎圭一郎さんがブログDesign Passageでお薦めされているとおり、

この展覧会はまず明るいうちにひと通り見て、夜の「風灯」を見に、もう一度訪れましょう。周辺に時間を潰す場所はいくらでもあります。スターネットのカフェで食事かお茶をしたり、近く温泉でひと風呂浴びたり、濱田庄司ゆかりの場所を見に行ったり、陶器のお買い物したり、サクッと歩いていける距離にある内藤廣設計の宿泊施設フォレスト益子を見に行ったりできます。

藤崎さんの記事がまた、美しくまとまってる。作品群を評して「宇宙のログ解析法」と述べているが、いやそうなんだよな。「例え話」がどのくらい冴えてるか、ということなのだ。さらに、「エンジニアリングをそっと添える」というのは、Living Worldの作品全般に通じてる、ある「作法」をうまく言い当ててると思う。エンジニアリングを補助線にして、デザインは「デザインできないもの」に思いを馳せるきっかけになるのだ。

今回もまた、聴診器みたいに世界の地上で採音されたサウンドを聴くテーブル「音卓」や、風に点滅する「風灯」を眺めながら、あらためてまたネジが巻き戻ったような気持ちになった。西村佳哲と初めて会ってからもう18年にもなる。いまだに僕の名前を彼がアドレス帳に載せてくれていて、こういうときに「来いよ」と声をかけてくれるというのは、代え難くラッキーなことなのだった。

後味を噛みしめつつ、風灯を予約し、展示作品のひとつ、世界に100人の子供が生まれる時間の砂時計を購入して帰った。このようにして僕は、周囲の冴えた人たちから定期的にフィードされて、食いつないでゆくのである。西村くんたりほさんありがとう。

あと、会場で太田さん伊藤さん紫牟田さんら、東京ピクニッククラブで顔見知りの面々とご一緒した。ピクニシェンヌ伊藤さんは、グルービジョンズの手になる、全身芝生柄のsmartという、ピクニシェンヌ以外のドライバーを思いつかないような車で来られていた。。。

2005年8月 9日

寺・インコグニタ

今週の通勤本。


・小島独観「珍寺大道場」イーストプレス、2004

週末、自宅近くの書店で、「人文・思想」コーナーを眺め、その隣の「宗教」を眺めていたら、「仏教」の本が集めてあるなかにちょっと奇妙な装丁の本を見つけ、手に取って目次をめくり、そのままカウンターへ走って行って買った。これを仏教本に混ぜて置いてあった東八道路沿いの本屋さんのラジカルさがたまらん。

のけぞるような写真満載の濃い本なんだけど、これはこれでけっこう考えさせられることがいろいろとある。
さしあたって、紹介している物件への抜きがたい「愛情」と、それらを揶揄しつつ、同時にそれらに惹かれて止まない自分に対しても呆れてる、それを隠さない著者の態度にとても好感を持ったのだった。
あと、この訪問記にずっとつき合っておられるらしいご家族に敬礼。


・埴原和郎「人類の進化史」講談社学術文庫、2004

ウチの1歳2ヶ月の娘も、つかまり立ちするようになってきたよルーシー。

代替案:また日は昇る計画

周囲の若い人たち(リソースが限られているのできわめて少ないサンプルだが)に訊いてみたところ、例えば昭和50年代生まれの連中にとって、「昭和30年代的風景」は、たとえば僕ら昭和30・40年代生まれの連中が感じるような「ノスタルジー」を必ずしも喚起せず、彼ら/彼女らは、むしろ漫画に出てくる風景とか、テレビで見た風景とか、両親の思い出話、というような「2次風景」として見ているようなのだ。

そうだとすると、ある景観が「ノスタルジー」を感じさせる要素は、年齢や世代に対する相対的な時間差なんじゃないか、という気がするわけだ。昭和30年代商品がターゲットにできる「ノスタルジーマーケット」は、ある限られた世代層であって、それは年を経るごとに推移してしまうかもしれない。つまり、「特定の時代のテイストの郷愁感」の賞味期限は意外に短いかもしれない。

時間性を欠落させている(ずっと夕暮れのまま)というのはもちろん、昭和30年代商品の戦略ではあって、なぜならそこに郷愁を感じ、惹き付けられる人たちが味わいたいのは「あの日」だからである。

でも、「ずっとあの日のままであり続けている昭和30年代」って、昭和30年代的にヘンじゃないだろうか。だって、そもそも昭和30年代というのは停滞とはほど遠い「激動」の時代である。55年体制が成立し、道路公団が発足し、神武景気が来て、水俣病が確認されて、岩戸景気が来て、三池争議があって、ベトナム戦争が開戦し、安保闘争があって、カラーテレビが放送開始されて、キューバ危機があって、締めの39年に新幹線開通と東京オリンピックがあった。30年代的風景の「貧しさの中の豊かさ」っぽい輝かしい「感じ」は、「頑張って働けばもっと豊かになる」という見込みと希望に支えられていたのだ。明日はもっと良くなる、という手応えのないまま、縁側や路地裏やガード下に甘んじていたわけではない。

そういうわけで、「30年代」に固定するのはやめて、いっそ「50年前村」にしたらどうだろう。時代設定はあくまで相対的で、つねに「現在から50年前」が再現されているという。

今年は2005年だから、「50年前村」はちょうど昭和30年。これから9年後に行ってみると、「50年前村」はオリンピックで沸いている。さらに9年後の2023年、「50年前村」はオイルショックで呆然としている。それから15年くらい経ったころ、「50年前村」はバブル真っ盛りで、路地の町家は地上げで取り壊され、空き地が目立っている。さらに15年くらい過ぎると、「50年前村」は不景気ながら都心再開発が盛んで、コンビニや100円ショップに変わった昔の駄菓子屋の向こう、再開発された「怪しい洋館」跡地に超高層マンションがにょきにょき建設されていたりし、そういう景色を見て、そのころ50歳代に突入している僕の長男のような21世紀生まれの客が「ああ、こんなんだったよねーなつかしー!」と言うのだ。

2005年8月 7日

暮れない夕暮れ計画

Motoe Lab, MYU: 昭和30年代村計画経由にて。

「昭和30年代村計画」

うわ。ここ、これは。

住民になりきったスタッフに「住んでもらう」というのは、オーナーが求めるところの、このテーマパークの風景の「リアリティ」の強度の問題だろう。
だとしたら、「イメージ画」に描かれている施設群はちょっとチープに過ぎる。
もっと、普通に生活できるような住宅地にしちゃったらどうだろう。

僕は似たような事例を知ってるぜ。
Seaside

「30年代タウン」も、ドゥエニー&ザイバークを呼んできて、裏も表もないようにきっちり作ったらどうだろう。「古き良き30年代的地縁コミュニティが実現していたこと」を、歩行距離に小商店があるとか、住宅と街路の空間的関係とか、建築物の意匠のテイスト、というような「街のハードウェア」に(手を抜かずに)翻訳するのだ。

ただ、「30年代のテイスト」は、「貧しさ」が大きな要素としてあったわけで、いくらリタイア老人や身よりのないコドモとはいえ、それをいまさら生活として引き受けるのは無理だろう。だいたい、訪れた観光客が「現代人」だから、それだけで路上の風景の魅力は半減だし、紙芝居の途中でケータイなんか鳴ったら興ざめだ。気温も50年前よりも上昇してるから、夏なんか空調なしでは辛い。

いっそ、街全体をドームで覆って、気候ごと昭和30年代を再現したらどうだろう。そうしておいて、それこそ「身よりのない子供」を赤ん坊の時に連れてきて、この街で育ててしまうのだ。これ以上の「リアリティ」はないぞ。これなら、その子以外のスタッフは全員「通い」のプロでOKだし、街中に隠しカメラをつけてその子の「30年代的人生」を生中継すれば、そのほうが儲かるんじゃないだろうか。

The Truman Show (1998)

(野暮な注:The Truman Show のロケ地はフロリダ州Seasideです)

1,000,000 tunes to go

初日に登録し、いきなりガンズ・アンド・ローゼズをダウンロードしました。
ええ、何とでも言って下さい。

しかし品揃えがちょっと、新刊と雑誌だけ置いてある駅前の本屋みたいな感じなんだよな。
いつまでもこうだと嫌だなあ。

2005年8月 4日

シメキリ

「シメキリ」とカタカナで書いてみると、なんか鳥の名前のような。

スズメ目シメキリ科の留鳥。
雑食性で、人家の近くに営巣し繁殖する。

・・・ついに、ひとつ遅れてしまった。ひとつは出したけど。

木下先生は間に合ったのかなあ。

追記。

一丁上がり! って、3日遅れてしまった。がっくり。
しかし今回も七転八倒だった。たいしたことを書いているわけじゃないのにさ。

しかも、いちおう上がったのは深夜1時なのだった。
こういう時間帯に、最後は勢いで書き上げたテキストはだいたい、「夜ラブレター効果」がかかっているので、翌日の日中などに推敲し直そうとして再読するととても入稿できなくなる。こういうときは、その場でさっさと送信してしまい、あとはゲラが送られてくるまで忘れるに限る。

ところで木下先生はちゃんと間に合って入稿されているようであった。

ああ。「急に頭冴えたヤツになるクスリ」があったら買うんだが。

先駆性樹木

House & Atelier Bow-Wow : 巨大植物
塚本さんそれは「キリ」です。

2005年8月 2日

庭というギャップ、庭というニッチ

(メモその2)

家は庭の一部である。庭は家の周辺環境である。つまり家は周辺環境の一部である。住宅の経験はそのどちらにも属している。そう言えるだけ、庭のある住宅の経験は潜在的に豊かである。あとはその豊かさにどうやって、生身の身体を参加させるかである。家と庭の関係性に対して、どのように身体をレイアウトするかである。(塚本由晴「現代住宅研究」INAX出版、2002)
庭が(建築に対して)「豊か」であると感じられるとすれば、その豊かさは、「庭」が、建築が供しきれないものを生成し許容する、というところにあるように思う。

「建築が供しきれないもの」は、住宅の建物から「はみ出してくる」形で、また敷地の外部から「侵入してくる」形で、庭にあらわれる。庭は建物よりも極端に、内部からの進出や外部からの侵入に「表現形として」反応する。

住宅の建物からは様々なものがはみ出してくる。空調の屋外機や電気・ガスの計器類のように、建物の内部の住環境を成立させるために外へ配置せざるを得ない装置(もちろん、住宅のデザインにうまく組み込まれている場合もある)。ゴミ箱や物置など、建築計画の「想定外」のプログラムの結果物。家族の人数分の自転車、バーベキューグリル、幼児の玩具のたぐい。多くの住宅の庭の、けっこうな割合の面積を占めていたりする「カーポート」もまた、自家用車がすでに「住まい」の一部をなしているという現状を考えれば、住宅が「建物的に納められない」はみ出しものだと言える(むろん、『曲り家』のごとく自家用車を建築的に取り入れた住宅もある)。

一方、庭は敷地の外からの「環境圧」に晒される。端的には、雑草が生えてくる。今日、いかに都心の立地でも、あるいは埋め立て地のような「白い土地」に見える場所であっても、土壌にはほぼ例外なしに帰化植物系の雑草の種が混入している。それらが芽吹くと同時に、隣家の庭のナガミヒナゲシやトリが運んできたトウネズミモチが生え始める。元来、相の異なる生態系が接した場合、それらは相互に干渉しながらある均衡へと向かう。原理的には、その庭の「意図された生態系」が周囲に影響を及ぼしうる。しかし、たとえば「新築」の庭の場合は、規模的にも時間的にも、その土地の生態系にとっては単なる「ギャップ(生態的空白)」でしかない。

しかしやがて、はみ出しものは敷地境界(や、それに準じる暗黙のテリトリー)に当たり、ギャップに侵入した植生は庭主の介入が引き起こす生態学的攪乱(一般にガーデニングと呼ばれる行為)を受けて、次第にその庭特有の均衡状態を得てゆく。それはまるで、住宅が庭を介してその土地のニッチに収まってゆく過程のようである。

ところで、住宅建築系の雑誌の写真を拝見したりするに、ことに建築家が設計した住宅の前庭や中庭には、ぽつんと樹木が植えられていることが多い(本当に多い)。

植物の存在は、そこに植物の生存を保証する環境系が存在することを端的に示す。だからそれは、それこそ住宅が建築的に提供しきれないもの:「自然」が据えられてある、と見なすこともできる。ただ、「住宅の中庭」的樹木の特徴は、そのほとんどが、(まるで版で押したみたいに)株立ちの落葉樹であることだ。単木で緑量が多いうえ、細い幹が林立する様子がどこか現代風であって、そうした様子が意匠的に好まれるのでもあるだろう。かつて、しばしば「庭」に植えられた、仕立てたマキやクロマツなどは、ほぼ見られない。

株立ちの落葉樹は、成長しかかった苗木を一旦根元まで切り戻し、萌芽させることによって育成される。もともとは農村の薪炭林、いわゆる「雑木林」において、10年単位の間隔で切り戻された樹木がなしていた樹形であった。和風の庭に植えられた「仕立物」が、100年単位の老木を模していたのに比べると、それがどこまで意識的であるにせよ、「中庭の株立ち」に期待されている時間のスケールの短さもそれはそれで象徴的である。う。字数多すぎ。