2003年6月26日

今週の通勤本

内田樹「映画の構造分析」晶文社、2003
レナード・ムロディナウ著、青木薫訳「ユークリッドの窓」NHK出版、2003

どちらも「作者/訳者買い」。

「映画の構造分析」は半分くらいまで読んでいるけれど、すでに「エスカレーターでも読み続ける」モードに突入。毎回思うことだけれども、建築や造園にこういう分析手法をアプライしてみたい。ぜったい面白いと思うんだけどなあ。

「ユークリッドの窓」は目次をみるとデカルトからひも理論まで並んでいて、読む前から目眩がする。

ところで、通勤時、満員電車で読書するためには、自分の前に本のための空間を確保しなければならないので、他の乗客と軋轢を生まずにスペースを取るために、車内に立つ位置に工夫が要る。身動きできないくらい混んでいる場合は無理だけど、そこそこ隙間のある車輌でなら、うまい位置取りをすれば快適に本に没入できる(すぐ隣に立った人がイアホンから漏れる大音量で音楽を聴いていたり、電話に出て大声でしゃべったりしていなければ)。

しかし、特にここ最近、電車に乗っている若い人たち、高校から大学くらいの年齢に見える連中は、実にこう、気配を察して人をよけたり道を譲ったりしなくなった。特に悪意があるという風でもなく、ドアの近く、人の流れの真ん中にいて、自分が誰かの動きの邪魔をしているという事態に無自覚であるような様子なのだ。周囲への気遣いとか、配慮とか、そういう社会的・倫理的なルールがどうのこうのというよりも、自分の置かれている環境を察知して次を予測して、合理的に振る舞う能力が発達していないのではないか、つまり「バカ」なんじゃないかと思う。

反面、狭い場所に、見ず知らずの他人とびったり接触するほどスシ詰めにされるという、人間行動学的に異常な状態に対して、自分のまわりの情報をシャットアウトして「無関係な風景」にしちゃうというメンタリティを発達させた、いわば都市生活に「より適応した」世代なのかもしれない、なんて思ったり。

こんなふうに感じるのは僕だけだろうか?僕の感覚が変わってきたのか?(そうかもしれない。それは大いにありうる)わかんないけど。

(「流れの邪魔」的に悪意のありそうなヤツもいるけど。ドア際に立ちたくて、奥へ行かずにわざと突っ張って立ってるやつとか。こういうのは学生風よりも、20代後半か30代前半くらいの、SPAでも読んでいそうな様子のスーツ姿が多い。←偏見)

あと、通勤と関係ないけど、関連して思い出したこと:

ため息をつきたくなるのは調布パルコの「ドア」だ。たぶん調布で一番賑やかな商業施設なのに、出入り口がガラスのスイングドアなものだから、前の人が開けて無造作に手放したドアが勢いよく閉じてくるのを手を出して止めないといけない。ベビーカーだって車椅子だって出入りが大変だ。小さい子供が通るときなど、見るたびにいつもひやひやする。うっかりよそ見をしたままだと僕だって「前の人の手から戻ってくるガラスドア」にぶつかりそうになる。ほんと、みんな見事なくらい後ろを気にしない。

だから、僕はドアを通過するときはいつも、思わず背後を振り返って、すぐ後ろに人が続いているときはドアをちょっと支えたりする。これでまた目を見張るのは、かなりの割合の人が、まるで僕がドアボーイか何かのように、僕にドアを支えさせたまま無言ですり抜けて行っちゃうことだ。特にオヤジに多い。たいした労力じゃないんだからさ、ちょっと手を出せば、「次の人のためにドアを開けてあげてる連鎖」がうまれて、人の流れ的にはより合理的になる、くらいの「読み」をしろよ。

それと、調布パルコは自動ドアを検討するように。

2003年6月24日

したたかなヤツ

先月、庭の草取りをしていて、間違ってオオケタデを抜いてしまい、今年はあのものすごい草姿を見られないのかと残念だったのだが、今朝、家の北側の道路との隙間に2つほど生えているのを見つけた。あまり日当たりがよくないので、今年は地味目かもしれないが、盛夏に花を付けたら種を採集して、来年に備えることにしよう。

オオケタデ(Polygonum orientale)は東南アジア原産の1年草。夏、目を剥くような成長を遂げて、1mから2mくらいの高さになって濃紅の花をつける。帰化している。こういうスピード感のある帰化植物の雑草はわりと好きだ。

やっぱり「雑草」は、音を立てて伸びるみたいに成長したり、目を離した隙に地面を覆い尽くしたり、アスファルトと縁石の隙間とかブロック塀の途中とか、こんなところにどうやって生えたんだ、というような無茶な場所に根を張ったり、というような、ちょっと極端な「手に負えない感じ」がないといけない。

http://had0.big.ous.ac.jp/~hada/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/polygonaceae/ooketade/ooketade.htm

2003年6月22日

エナジー・ビジブル

平日が忙しいと、私的な用事が休日に集中しちゃうため、結局週末も慌ただしいスケジュールになる。とは言っても、僕の場合、休日の予定は分刻みじゃなくて、用事と用事の間に数時間のインターバルがある(ように予定をセットする)ので、ソファーに身を沈めて本を読んだりする。

今日はガス屋さんが来て、器具、配管のガス漏れその他をチェックし、警報器を新しいのに取り替えて行った。我が借家はプロパンガスなので、こうした定期点検があるのである。

プロパンガスの歴史は、実はそれほど古くない。戦後、1950年代に登場し、都市ガスの配管が整備されていなかった地域に急速に普及した。現在の普及率は全世帯の約50%だそうである。

インフラという意味では、都市ガスの配管が行き渡っているほうが効率がいいのだろうけれど、個人的には、ガスボンベを積んだトラックがやってきて、それぞれの家のガス管に取り付けてゆくプロパン方式は好きだ。見えない地中管を伝って届くよりも、それぞれの住宅のエネルギーの「もと」がカタチになって見えているのが、なんか好ましいのだ。

もちろん、プロパンガスだってどこか知らないところで製造されて配達されるという「見えなさ」は都市ガスと似たようなものだけれども、「陸送」というアナログさがなんかこう、「使ってる」という実感をわかせてくれるのである。100円ライターみたいに容器が透明で中のLPGの残量が見えるとか、あるいは風船みたいにパンパンに膨らんだヤツが配達されて、交換される頃にはシワシワに萎んでいるとか、だともっといいと思う。

そういう意味で、貯留槽を使った雨水利用とか、太陽光や風力による発電というような、「エコロジカル」なエネルギーの供給方式も、そのエコロジカルさもさることながら、個別の施設や住宅に、取って付けたみたいにアカラサマにくっついていて「エネルギー作ってます」っていう洗練されてないデザインのやつが結構好きだ。

2003年6月 8日

コンフォルト66号

コンフォルト7月号は「庭」の特集。

http://www.japandesign.ne.jp/HTM/MAGAZINE/confort/66/index.html

前半、重森三明氏による重森三玲の紹介。

前田紀貞さんの、中庭のある住宅。かっこいい。でも、住む人にハイスタイルを要求しそうな雰囲気。プランのダイアグラムが、手塚義明・小池ひろのさんらによる調布の住宅(30X30X30にも出ていたやつ)にすごく似てて、一瞬それかと思ってしまった。坪庭つき町屋の形式なのかな。

南泰裕のパークハウスもいい感じで紹介されている。
建築家、佐藤敏宏さんによるパークハウスのレポート:
http://www.spacetimedesigns.org/soko/parkhouse.html
(要Shockwave Plug-in)

日陰のグランドカバー植物図鑑。すごくプロっぽいというか、当を得たラインアップだなと思ったら、執筆者が近藤三雄さんだった。

「ばかけんちく探偵」古井さんによる路地庭観光案内や、ぽむ企画による京都路地庭観光案内もあり。

そういうわけで、今号のコンフォルトはよいぞ。買いなさい。


でも、『次世代の造園クリエーターたち』といって紹介されている人たちが、なんだかよくわからない。ポール・スミザー氏がメディアに持ち上げられる理由が、特にわからん。(ご本人はいいヒトである)

2003年6月 5日

もっと自然な権力装置。

東浩紀・大澤真幸「自由を考える 9.11以降の現代思想」NHKブックス、2003
若林幹夫 「都市の比較社会学 都市はなせ都市であるのか」岩波書店、2000
若林幹夫「未来都市は今 〈都市〉という実験」廣済堂ライブラリー、2003

なんか、3冊も持ち歩いている。若林さんの「都市」本は2冊ともとても面白い(というかネタ満載)。

「自由を考える」の中に、ここ10年の特徴として、権力が「規律訓練」から「環境管理」へ急速に流れている、という指摘があった。「環境化する権力」。マクドナルドの椅子は固いので長時間座っていられず、結果として回転率が良くなるそうだ。そういえば、コールハースのSHOPPINGの本にも、アメリカのモールでは空調に干し草のような「気分が高揚する匂い」を混ぜているとか、買い物客のテンションが落ちる午後2時だか3時だかに元気のいい音楽をかけるとかしている、という記述があったような気がする。

この傾向には僕も荷担している。ビルの公開空地などに設けられたベンチに、ホームレスの人が寝ないために取り付けられた「仕切り板」みたいなやつをよく見かける。最近まではいかにもあとから攻撃的に取り付けた感じのものが多かったが、最近はその「寝邪魔板」込みでうまくデザインされているベンチが多くなった。

先日の造園学会分科会のプレゼンで、GSDのスタジオのプロジェクトがいくつか紹介されたのだが、メキシコシティを対象にしたプロジェクトの中に、水辺の土地を勝手に占拠して住んでしまう住民をコントロールすべく、灌漑用の池にわざと水位の浅い部分を作る、というアイデアが提案されていた。
これは、エコロジーの知見を都市計画に応用するという話だったんだけど、確かに道徳や規則や経済的なインセンティブで制御するよりも、人間の「思わぬ」行動を「誘導」する、というのは、池を作って昆虫を呼ぶとか、実のなる木を植えて野鳥を呼ぶ、みたいな「より自然な」コントロールではあるのだけれど、見方によってはこれは、あからさまでないだけに余計に「巧妙な権力のありかた」ではないだろうか、と思った。

けだし、僕らは「芝生立入禁止」というサインを立てることを野暮だと思い、人に侵入してほしくない場所には、なんとなく入りにくいような工夫をデザインするほうを好む。ことに、最近のランドスケープデザインの「オフィシャルな目標」、空間のモノやカタチよりもむしろ自然のプロセスや人々の振るまいを「デザインの対象にする」という傾向は、容易にこういう「環境化された権力」の巧妙さを洗練させる方向に向かうんじゃないだろうか。まあ「公共の庭」なんてもともとそういうものなのかも知れないけど。