・今週の通勤本
内田樹「映画の構造分析」晶文社、2003
レナード・ムロディナウ著、青木薫訳「ユークリッドの窓」NHK出版、2003
どちらも「作者/訳者買い」。
「映画の構造分析」は半分くらいまで読んでいるけれど、すでに「エスカレーターでも読み続ける」モードに突入。毎回思うことだけれども、建築や造園にこういう分析手法をアプライしてみたい。ぜったい面白いと思うんだけどなあ。
「ユークリッドの窓」は目次をみるとデカルトからひも理論まで並んでいて、読む前から目眩がする。
ところで、通勤時、満員電車で読書するためには、自分の前に本のための空間を確保しなければならないので、他の乗客と軋轢を生まずにスペースを取るために、車内に立つ位置に工夫が要る。身動きできないくらい混んでいる場合は無理だけど、そこそこ隙間のある車輌でなら、うまい位置取りをすれば快適に本に没入できる(すぐ隣に立った人がイアホンから漏れる大音量で音楽を聴いていたり、電話に出て大声でしゃべったりしていなければ)。
しかし、特にここ最近、電車に乗っている若い人たち、高校から大学くらいの年齢に見える連中は、実にこう、気配を察して人をよけたり道を譲ったりしなくなった。特に悪意があるという風でもなく、ドアの近く、人の流れの真ん中にいて、自分が誰かの動きの邪魔をしているという事態に無自覚であるような様子なのだ。周囲への気遣いとか、配慮とか、そういう社会的・倫理的なルールがどうのこうのというよりも、自分の置かれている環境を察知して次を予測して、合理的に振る舞う能力が発達していないのではないか、つまり「バカ」なんじゃないかと思う。
反面、狭い場所に、見ず知らずの他人とびったり接触するほどスシ詰めにされるという、人間行動学的に異常な状態に対して、自分のまわりの情報をシャットアウトして「無関係な風景」にしちゃうというメンタリティを発達させた、いわば都市生活に「より適応した」世代なのかもしれない、なんて思ったり。
こんなふうに感じるのは僕だけだろうか?僕の感覚が変わってきたのか?(そうかもしれない。それは大いにありうる)わかんないけど。
(「流れの邪魔」的に悪意のありそうなヤツもいるけど。ドア際に立ちたくて、奥へ行かずにわざと突っ張って立ってるやつとか。こういうのは学生風よりも、20代後半か30代前半くらいの、SPAでも読んでいそうな様子のスーツ姿が多い。←偏見)
あと、通勤と関係ないけど、関連して思い出したこと:
ため息をつきたくなるのは調布パルコの「ドア」だ。たぶん調布で一番賑やかな商業施設なのに、出入り口がガラスのスイングドアなものだから、前の人が開けて無造作に手放したドアが勢いよく閉じてくるのを手を出して止めないといけない。ベビーカーだって車椅子だって出入りが大変だ。小さい子供が通るときなど、見るたびにいつもひやひやする。うっかりよそ見をしたままだと僕だって「前の人の手から戻ってくるガラスドア」にぶつかりそうになる。ほんと、みんな見事なくらい後ろを気にしない。
だから、僕はドアを通過するときはいつも、思わず背後を振り返って、すぐ後ろに人が続いているときはドアをちょっと支えたりする。これでまた目を見張るのは、かなりの割合の人が、まるで僕がドアボーイか何かのように、僕にドアを支えさせたまま無言ですり抜けて行っちゃうことだ。特にオヤジに多い。たいした労力じゃないんだからさ、ちょっと手を出せば、「次の人のためにドアを開けてあげてる連鎖」がうまれて、人の流れ的にはより合理的になる、くらいの「読み」をしろよ。
それと、調布パルコは自動ドアを検討するように。

