・「見えるものの先に、見えないものを見ようとする思い」に報いるということ。
(締め切り直前の原稿のためのメモ)。
哲学者・菅原潤氏が、「風景の哲学」(ナカニシヤ出版、2002)におさめられた「風景/風景化と倫理」という論考のなかで、加藤典洋氏の風景論を引用しつつ「風景化」という概念について述べている。
「わたし達は、さまざまなものを眼前に、そのうちの一つの対象を注目している限り、「風景」を見ているという意識を生じないのだった。一つ一つの対象へのデガージュマン[身の引き離し(菅原氏の注)]があって、そのデガージュマンがそのままアンガージュマンを形成するような場所に「風景」は生まれる。しかし「風景」は、いったん生まれると、今度はそれ自身が注目されるもの、見ることの対象になる。もしこの後者を「風景」と呼ぶなら(そして事実わたし達が日常「風景」と呼んでいるのはこちらのほうだ)、この対象としての「風景」の成立のうちに、・・・・「風景」は消えるのである。風景論の混乱が、この相反する二つのものを同じ「風景」の名で呼ぶことからきていることははっきりしている」(論文中より孫引き)
「風景化」が「デガージュマン」を通して生まれる、ということころが示唆的である(ていうか「デガージュマン」ってなんか凄い響きだ。『風景戦士デガージュマン!』)。「風景化」とは、「既知のものを未知のものにする」ことであり、それは「見る側の能動的なはたらき」によってなされる、というのである。
たしかにこれは、風景(ランドスケープ)をめぐる議論に補助線を引いてくれる。あらためてこれを「風景」と呼ぶことにすれば、これと区別される「それ自身が注目されるもの」としての「風景」を、たとえば「景観」と呼んでもいいだろう。今日、多くの「景観」の議論はほとんど、「目前に広がる風景のみを」対象として、それをいかに「われわれにとって快い知覚経験をする場」とするか、が問題にされている。むろん、美しい「景観」の探求と建設が無益だとは思わないが、現実にその「美しさ」を実現しようとするとき、その過程が安易な地域主義や教条主義に短絡する危険を孕んでいることは、しばしば指摘されている。一方で「風景化のロジック」は(風景の『美しさ』ではなく、風景化の契機を共有することによって)「一定の風景に拘束されない新たな共同を呼びかける倫理を提起している」。それを、「原風景を確定しそこから導出される伝統的な生活の様式を押しつける風景の倫理に対して「風景化」の倫理と呼ぶことができよう」と菅原氏はいう。
この「風景化のロジック」とまったく同じことを、風景を「デザイン」する、という立場から宮城さんが述べている。
「ランドスケープというのは、われわれを取りまく環境のある状態・状況を指しているものであって、その状況のもとにおいてデザインという行為が表象するものと、表象が指向する対象の間にわれわれの感覚、多くの場合は視覚つまりビジュアルなものだと思いますが、それを媒介としたコミュニケーションが成立している」
というのが(ご本人によれば暫定的な)定義であった。これは1998年の新建築の巻頭論文にも使われているし、『ランドスケープデザインの視座』のあとがきにも出てくるが、初出はTNプルーブ「再発見される風景」である(いや、「そこで宮城さんですか」というツッコミは無用である。黙れ)。この時期、宮城さんは三谷徹さんや佐々木葉二さんらと共同したりしつつ、こういう基礎理論の整備みたいな仕事をよくされていた。「視座」本はわりと注意深く一般的な記述に直されているが、TNプルーブのレクチャー録はその点ナマというか、説明がけっこうベタなところがあって、むしろわかりやすい。
ポイントは、ここでいう「デザイン」が、「風景」をあくまで「志向」する対象と見なす(いま気が付いたが、初出で「指向」だった箇所が、「視座」では「志向」に直されている)というところである。上記の用語を借りるなら、そこに意味のあるつながりを見出す観察者による「風景化」の「契機」の生成を試みる。つまり、ランドスケープデザインが「デザイン」しうるのは「風景」それ自体ではない、というわけだ。
これは、「定義」というよりも、「態度」の表明みたいなものである。というか、これを、あるプロフェッション特有の方法論ではなく、一種の世界観だと見ることが、じつは重要なんじゃないか、という気がするのだ。
「ランドスケープ」は、デザイン「できない」ものが「ある」ということを前提にする。「ランドスケープ的アプローチ」をとるなら、何よりもまずはそこに「デザインできないもの」の存在を認めるところから始める。そして、それを「デザインできるもの」に置き換えたり、覆ったりするのではなく、そういう「デザインできないもの」「コントロール不能なもの」を示唆することを目論む。
けだし、どのような場所であれ、いかに人為的に制御されたように見えるものであれ、その背後に「制御不能なもの」があってそれを支え、成り立たせているのだ、というのが「ランドスケープ的世界観」なのである。ランドスケープにはしばしば「自然」が引き合いに出されるが、それはたぶん、「自然」が「制御不能」の代表選手だからである。あるいは、ランドスケープはしばしば、「敷地」に対する「地形」、「空調」に対する「気候」、「植栽」に対する「植生」や「生態系」、「外観」に対する「景観」、というような、「より大きなスケール」との関係性で語られるが、それは物理的・相対的な規模の問題では必ずしもなく、それらがより「コントロール不能」だからである。
また、制御不能なものを認めることは、対象を制御することを破棄するものでもない。むしろ、制御しうる範囲を明確にし、そのスコープの範囲において「制御」や「デザイン」の落とし前をつけることを促すものだ。
解決不能なもの、複雑で記述が困難であるものを、単純化し、矮小化して図式にしてしまうことなく、「そのまま」で対峙すること。ランドスケープ的であるということは、そういう態度のことである。それは(いささか陳腐に響くことを覚悟の上で言うなら)(というかすでに全体が充分陳腐な気もするが)「より大きな秩序系」への畏敬の念とでも言うべきものだ。
「ランドスケープ」をこのように考えれば、これは既存の職種や産業や職能の枠を超えて敷衍される、あるいはすでに共有されつつある「思考」だと言えないだろうか。
中谷礼人氏らによる「先行デザイン」の試みなど、まさにランドスケープ的であるし、LivingWorld/西村佳哲の活動や、それこそ田中浩也氏の「ネイチャーセンスウェア」なんてまさしくランドスケープ的である(造園の人にそんな評価をされることを、ご当人がどう思われるかはともかく)。そういえば、先日の講評会では、いくつかの「センスウェア」のターゲットが、「わたしの気持ち」や「わたしの身体」に向けられていたことが印象的だった。たしかに、「制御不能」は「より外側」だけにあるのではない。「わたし」は灯台もと暗し的に、もっとも身近にある「制御不能な自然」であり「未知なるもの」である。
そんなわけで、時として、建築の論評において、従来の建築のイメージを逸脱したスケールや形態のものを、それをもって「建築と言うよりもランドスケープだ」なんていう物言いを見つけたとき、僕はいつも違和感をおぼえる(というかむかつく)のだ。
いや、こんな結語になるつもりじゃなかったんだが。