2009年5月12日

結婚のプロトコル

週末、友人の結婚式/披露宴にお招きいただいて出席。よい結婚式であった。おめでとうございます。

いかにも月並みな感慨だが、娘を持って以来、キリスト教式の結婚式の、あの、父親が花嫁を連れてきて花婿に引き渡すあれ、あれがやばい。

新郎の属性からして、世界のギークが集合するデジタル先端技術系カンファレンスの打ち上げパーティのごとき様相なんじゃないかと、それなりの覚悟をしていったのだが、式場は五十嵐太郎隊長がフィールドワークしそうな徹底的な「結婚式教会」であったし、式も披露宴もとても真っ当で、むしろそうした「いわゆる結婚式・披露宴」への出席経験の浅い地図メカが、いちいち物珍しそうに式次第に感心している様子が面白かったりした。

チャペル内部はゴシック風の、カトリック教会を模したもので、しかし司式は「牧師(日本語が非常に上手な、白人の牧師先生だったが)」が行う。牧師先生は「ひとりバイリンガル」で、フレーズごとに日本語と英語で話される。中西さんによるとこれはおそらく、あまりに日本語がペラペラなので、そのままでは「外国人牧師のありがたみが薄れてしまう」から。

チャペルを飾る大きなステンドグラスの下端部に、「DONATED BY JOSEPH HARTZ AND FAMILY」という文字が入っていて、こりゃあきっと、これを作るときに取材したオリジナルの教会のステンドグラスにあれが入っていたのを、そのまま入れちゃったんだろうな、律儀なコピーだぜ、と思っていたのだが、あとでウェブサイトを見たら、英国のどこかの教会堂のものをそのまま移設したものであった。

キリスト教式だから、牧師が神様の名において、二人の結婚を「宣言」し、会衆に紹介する、という形式である。本来、キリスト教会は地縁コミュニティの象徴である。日本のキリスト教式結婚式がモデルにしているアメリカの教会は特にそうだ。教会での結婚は「神に誓う」という側面もさることながら、地縁共同体の構成員に「これから仲間になる若い二人をよろしく」と仁義を切る、挨拶の場でもある。だから、アメリカの教会では、会衆に向かって牧師が「この結婚に異議のある人はいますか」と尋ねる手続きがある。日本の結婚式教会での式では、この部分が省かれている。

まあ、新郎新婦が式に呼びたい知り合い=お世話になっていると感じている友人知人たちがかつての地縁共同体に代わるものであるわけで、そうであるなら、地域の文脈というか、その土地の場所性から思い切り切り離された「フィクション教会」を会場とするのは正しいプロトコルなのである。

施設のデザインや素材、ディテールは、もうネタ満載というか、細部にいたるまで僕はかなり楽しく拝見した。そして、フィクションの景、ということに関連して、LD誌の「テーマパーク特集」について、後ほどに。

関東学生ランドスケープデザイン作品展・2008

関東学生ランドスケープデザイン作品展2008の運営委員会から、まとめ冊子を送って頂いた。

これは首都圏のラ系学科の大学生らが主催して行っている作品展で、今年で4回目である。僕は今回、会期中に行ったワークショップのお手伝いをした。

誰に命じられたわけでもないのに、学生たちで自主的に継続しているところが素晴らしい。今年は、講評会に栗生明さんや佐々木葉二さんなど、これまでと違って「外部」の先生を招いていて、この心意気は買う。その「効果」がちゃんと出たというべきか、講評会の記録を読むと、たぶんこれまでの作品展で一番、厳しいことを言われている。議事録でこうなんだから、当日、実際はもっとずっと辛辣なクリティークを受けただろう。

先生方の指摘に共通してるのは、「提案が中途半端だ」ということである。リサーチが具体的な場所の提案に結びついていない。というか、そのジャンプがなく、提案の「具体」がないまま、なんとなくプレゼンが終わってしまう(どこかで聞いた話である)。

キッズの作品展として、もっと歯ごたえのある、のけぞるようなプレゼンテーションを持って来い、という叱咤激励ならば、それは僕も同意する。僕も立場が違えば、あるいは講評会とかに居合わせれば、似たようなことを発言したかもしれない。

掲載されている「作品」群を眺めて感じるのは、ひとつには、その抽象度の高い安易なもっともらしさである。

地形や植生や土地利用など、国土の基盤デジタルデータが容易に入手できるようになり、パソコンの画像処理能力が向上したために、地域解析の真似事をして、写真をコラージュして、それ風のプレゼンテーションに仕上げるのがとても楽にできてしまう。楽にできる事自体は別にいいんだけど、というか、ここで、それってあんたがいつもやってる事でしょう、という突っ込みには返す言葉もないのだが、キッズの「練習」として問題なのは、なんか、それだけで何か意味のあるものを作ったような気がしてしまうことである。

もうひとつは、提案の「動機」が希薄というか、つまり何がやりたくてわざわざ「提案」しているのか不明なことだ。

通りいっぺんの「良いこと」を、既存の都市空間に挿入することが、ラ系的「善」の実現であるというような、「木植えて解決!」みたいなやりかたを、都市や地域レベルのスケールでやっている、という感じのパネルが多いように見える。近年の土木や建築にしばしば見られるような、「エコロジズムとエコノミカルとエコロジーの混乱」に対して、ラ系キッズこそ敏感にそれらを峻別して欲しいと思うし、自分がどうしても見たい「場所像」の構築のためのバックアップ理論としてそれらを使いまわすくらいのクールさがあってほしい。講師の先生方の歯がゆさが伝わってくる。

でもしかし、一方で、そういうのに辟易してしまった現代の若い連中の気分にも共感してしまうのだ。

講評のテキストにあった、大量消費主義の論理で「風景なるもの」が粗製乱造されている、という言い方はわからなくはない(まあこれも議論の余地がある言い方ではあるが)が、そこに含まれている、「真に優れたデザイナーの関与が不在だからだ」という危機感(たぶん)に、素直に添うことはできない。だって、「消費主義的風景」を「デザイン」してるのも「デザイナー」だぜ。真に優れた連中と、劣悪なデザイナーたちを分ける線なんか引けないだろう。無関係だとは言わせない。

宮城さんの、ランドスケープは「非・建設的な方法で作られる」という試論からもう10年だが、まだしかし、私たちは「建設する」以外の冴えた方法を見出していないんじゃないだろうか。というか、学生展に横溢している「決め打ちへのためらい」というか、この逡巡は、「非・建設フェーズ」への過渡期の序章としての混沌なのかもしれないぞ。って、あまりに良く言いすぎだとナカツ先生あたりに突っ込まれそうだが、学生メンバーと一緒にやったGPSワークショップがあまりに楽しかったので、LDSE2008については僕は心情的にかなり学生サイドに立っているのである。お疲れ様でした。よくやった。

あと、次からは、イベントのタイトルから「関東」を取ったらどうだろういっそ?「関東」なんていう手がかりを出すから、京阪神近畿からの先生とかに関西と比べてどうの、というような面倒なことを言われてしまうんじゃないだろうか。いいけど。

それとあと、それこそ京阪神で活躍している若手ラも、いわゆる「デザイン」とはいささか異なる、それこそ「非・建設」的な方法を模索しているようにも見えるぜ?いーけど。