新建築12月号の巻頭論文、五十嵐太郎さんの「景観を笑う」。
ちょっと、書きたいことがありすぎて、時間がないので後日。
でも、ラ系の諸姉諸兄は是非、お読み下さい。
巻末の太田浩史さんの月評「あきらめちゃだめだぜ」と合わせて読むのをお薦め。
取り急ぎ。
そんなことを言っているといつまでも書かないので、とりあえず書きなぐり。論文の主旨のひとつは、今日の日本の国土の「破壊された景観」が人心の荒廃を生んでいる、という思潮への疑問。そして、景観法の成立に寄せて、こういうふうに「景観」が行政府によって「オフィシャル」なものになることへの危惧。もうひとつは、その際の「美しい景観」の「美しさ」の「根拠」(とされるもの)から漂ってくる焦げ臭い匂いについて。
論旨にはほぼ全面的に賛成。「景観」は様々な事態の絡み合いの「結果」、というか、ひとつの「断面」であって、「原因」じゃないだろう。景観を操作したって物事が全面的にハッピーになるわけではない。人心に「景観」が作用する力を見くびる訳ではないが、「景観」を「景観」たらしめるものをなんとかしようという気概のないまま、景観の改良が万能特効薬のように語られるのは、「間取りが家族を駄目にする」というような主張に対するのと同じようなバカバカしさを感じる(もっとも、「新建築のページ数が2倍になるほど優れた建築が続出する」ことによって良い景観が作られてゆく世の中というのも、それはそれで僕はなんかイヤだけど)。
それと、僕も、行政が考える「よい景観」は、少なくとも現在のところは、ぜんぜん信用できない。「景観配慮型」の舗装(うねる色彩のインターロッキングかもしれない)とガードレールと街灯(衝突に優しい古タイヤ再生合成ゴム製の擬木かもしれない)と排水側溝(バリアフリーでアースカラー)と街路樹(花も咲き紅葉もする季節感あふれる成長の遅い管理が楽でウドン粉病にも強いハナミズキの改良種かもしれん)と地域のシンボルが印刷されたマンホールに満ちあふれた、想像するのもおぞましい街に住むくらいなら、電柱だらけで首都高が日本橋の上を通っているほうがましだ。景観に限らず、「ハズした、デザインされたもの」よりも、機能に徹したもののほうが、精神的な苦痛がずっと少ないと思う。僕はいまだに、駅で妙におもねった電子音楽に囲まれるたびに、かつてのプレーンな発車ベルを懐かしむ。行政の(って一括りにするのも気の毒だが)「道徳的政治的に正しい良い景観」が駄目な景観になるのは、景観デザインのプロセスの構造的な宿命なような気もするし。
一方で、景観法をめぐっては、「『景観』は経済を活性化できるか」という言説が目につく。そういう観点から景観を考えても質は向上しないだろうなあ。儲け話から離れて、趣味のいい風景の中で生活する豊かさに目を転じよう、というのが本来の主旨なわけだろ?
景観法を支える思潮は近年のナショナリズムの文脈で捉えうる、と僕も思う。というか、風景論はそもそも地域主義の表現のひとつみたいなものだから、「美しい国土の風景」が称揚されるということは心情的にリージョナリズムが勃興しつつある時期なんだということだろう。五十嵐さんが警戒の声を発しているのは、これが「国家」という輪郭を与えられつつあるというところである。
文中では「心のノート」にも言及があったが、「癒し」も「スローなんちゃら」も、同じような「構造」をしていると思う。あと、五十嵐さんが触れていないことで、僕が似たような焦げ臭い感じを抱く法律が、来春に施行される特定外来生物被害防止法である。この法律は、「日本の本来の生態系を構成する生物」と、それを破壊する外国産の生物を「特定」するのである。
それでだ、これは相変わらずの逡巡なのだが。
毎朝、2歳の長男を自転車に乗せて保育園へ送る。武蔵境通り沿いにはファミレスやコンビニの派手な看板が「ファスト風土」性を醸し出している。加えてここ数年、拡張工事のため、周辺の土地が買収されつつあり、建物や樹木が撤去された跡がアスコンに覆われてワイヤーの柵に囲まれた、実に殺伐とした広がりになっている。たしかに、息子はこの風景をそのままこういうものだと受け入れて育つだろうが、それを僕は(もう)嬉しがることができないのである。景観のデザインの水準なのか。あるいは、バイオフィリア仮説のような、そのへんのアスファルトや電柱などには突き崩せない「原・原風景」みたいなものなのか。電線やハイウェイの交錯する都市風景が私の「原風景」だ、などという賢しげな言い回しにむかつくが、里山にも、「行政の景観」にも困惑する僕はいったい。