2005年6月26日

これはえーとどこだったっけ機能

こ、これはまた。

jm@foo: Google Mapsから地図を探す

さっそく、ブックマークレット登録。
Firefox(OSX)でも問題なく使える。
livedoor地図を「スクロール地図」にすると、なんかgoogleMapっぽいし。

ただ、つい、地図をスクロールして表示位置を移動させちゃうと、livedoor地図からGoogle衛星写真へは戻って来られない(笑)。

2005年6月25日

深遠な言葉。

(あるいは、難問としての山手線のホームの電車待ちの列)

一時期、下火になったのだが、最近また、やたらと英語の単語や文章を使ったデザインのTシャツが目につくようになってきた。

近頃のやつは、昔よく見かけた、明らかにでたらめな単語を並べたものや、スペルが間抜けに間違ってるものと違って、なんとなくそれなりに意味の通じるテキストになっていたりする。

デザイナーがそのへんの英文(blogにでもありそうなカジュアルな文章に見えるが)からコピーしてきたんだろうという気もするんだけど。

あらためてこう、こんなのを目の前に突きつけられると、なんか問いかけられているよーな感じがして、考え込んじゃうわけである。

彼女は何を逡巡しているのだろう。
誰かに言ったほうがいいのに、でもそもそも「言ったほうがいい」ってどうしてだ?と自問するようなたぐいの物事というのは何だろう。

コドモができちゃったとかそういうんじゃあるまいな。

2005年6月24日

頑張れ仁徳くん。

グリッド補正の歪みがあるので、画像そのまま、大きさや形を比べられないのはわかっているんだけど、これだけ世界中を「等倍」で閲覧できると、切り取って並べてみたくなるのだ。

日本が誇る、巨大環境ノイズエレメント。愛情を込めて「仁徳くん」と呼ぼう。

まずはお約束の対決。

エジプト。ピラミッド。仁徳くんの勝ち。


パリ。ラビレット公園。意外に大きいな。


天安門前広場とも堂々と渡り合っている。


ニューヨーク、セントラルパーク。これは相手が悪かった。。。

2005年6月23日

地表の虎馬(台湾編)

実は僕もすでに仕事に使ってしまったGoogleMap衛星写真。

青井さんの作られた、新旧重ね描き:
semi@aoao 青井ゼミ: GoogleMapでお空を暴走。

これは面白い。これは本当によくわかる。
ほとんど暴力的な市区改正と、「都市計画的無関心」によって残存した旧市街の線形。
敷地をケズり取られても頑に位置を変えない「廟」。
雑草みたいに、新しいニッチに張り付いて隙間を埋めてるショップハウス。

この、時間差の地図、同じような絵を見たなと思ったら、これだった↓。
Suburban Landscape Search Engine - Chofu edition

本日の衛星写真

三重県。鈴鹿あたりか。

面白いのを見つけた。

画面を白い線が斜めに横切っている。
どうやら飛行機雲のようだ。
地面にその影が落ちているのが見て取れる。

2005年6月21日

鵜の目鷹の目

Motoe Lab, MYU: Google Maps 世界対応

おおお。待ってたぞグーグル世界地図。

>Google Mapsでみる宮城大学

なーるほど。これ見ると、「プロジェクト・ブック」にあった、本江史門氏の手描き地図が、泉パークタウン周辺だったんだ、ってことがよくわかる。

東京も高解像度の写真が載っているし、中国だと北京なんかも詳しい衛星写真がある。これは天安門。

中東、イラク周辺だけ、妙に詳細画像が多いのは偶然ではあるまい。バグダッド。空港。

ジャカルタ。緑を背景に広がる赤い瓦屋根。

イースター島発見!

ナウル共和国は、これか?

アンコールワット。これはでかい。

いけねえ。だからこんなことしてる場合じゃないんだって。


・・・でも、これだけはどうしても我慢できなかったので、追記。

先行形態/環境ノイズエレメントの権化、ルッカのアンフィテアトロ広場。
キレイに写ってるなあ。
屋根の色が揃ってるから、余計に建物の「配置」が描くパターンが際立っている。
このルッカという街、古い城壁に囲まれていて、この街の形自体も面白い。

台湾北西部、彰化の街路模様(位置から見て彰化だと思うんだけど確信はない)。
地誌定数と位相定数のコンポジション。たしかによく見ると、街区のブロックの「内部」には、ブロック割りと関係なさそうな路地が錯綜している。「先行デザイン」の「市区改正」案である。
これ、街のアクティビティを存続させるには、ブロックの「規模」が効いてくるんじゃないだろうか。それこそビオトープみたいに、ブロック内に「都市住居的生態系」のプチ・システムが成立するくらいの大きさがないと、建物タイプも住形態も単純化してしまい、街の「強靭さ」が失われるような気がする。

あと、こんなのを偶然に発見。
城南島上空通過、羽田へ、ファイナルアプローチ!
影が水面に落ちている。この高度からだと、船に衝突しそうに見えるな。・・・


追追記:
青井さんのご指摘で彰化の場所訂正!
ほんとの彰化。

ついでに、台北の空港近くで、離陸直後の飛行機発見。

追追追記:
本江さんところの、権力装置としての都市計画の系譜:Motoe Lab, MYU: 空からNew Delhiも見てね。

2005年6月20日

「良いペンギンは地上に描かれたペンギンだけだ」

(タイトルに深い意味はありません)

ページを作っている時間がないので、差し当たってこちらで。



調布市と三鷹市にまたがるペンギン。
全周18.07km、所要時間2時間4分。



番組用に、軌跡を黒で表示してジオパッドで着色したもの。

背中の「トゲ」みたいに尖った部分は、コースを間違えたところ。

20km以下の小規模な行程は初めてだったが、このくらいの規模のほうが、焦らずに回れるということがわかった。とはいえ、この大きさだと、道路の形が大きく効いてくるので、よっぽど何かのカタチにハマったものを見つけないと、絵にならない。今回、たまたまクチバシの部分が浮かんで、そのあとはするすると絵にできたんだけど、収録に間に合うようにできたのはほんとにラッキーなのだった(ディレクター氏を直前までやきもきさせた)。

2005年6月19日

「熱中時間」

僕がゲストで出た、NHK BS-2の「熱中時間」が放映されました。
番組中で紹介された新作「調布ペンギン」は、後日公開します。

何度見ても、自分がテレビに映ってるのは冷や汗だ。
これで、去年の10月の朝日新聞土曜版「be」以来のマスコミ取材/出演は一段落。やれやれ。

今回は、取材されたディレクター氏のご理解もあって、「地上絵」だけでなく「GPSを使った地表系の楽しみ」のサワリまで紹介できたので、こちらも楽しかった。ありがとうございました。

でも、以前「住宅都市整理公団」の総裁がコメントされていたごとく、やっぱり大幅に編集・カットされていて、収録の際に盛り上がった部分とか、惜しくも消えていたのが残念。

僕の出演分はまあ、勝手に熱弁してた部分がばっさりカットされていただけだったが、僕の次に紹介された「マンホール熱中人」、飯田真三さんの場合、ご愛用の、マンホール採集用に使われた広島市の住宅地図(マンホールを探して通った道路にマーカーで色がつけてあったのだが、なんと、文字通り『すべての道路』に色が付いていた)とか、飯田さんが選んだマンホールベスト3、なんてシーンがまるごと、消えていた。マンホールベスト3は、スタジオの隅に、わざわざブロック塀と電柱とアスファルト道路のセットまで作ってあって、そこに3つのマンホールのダミーが置いてある、という、実に手のかかった凝った撮影をしていたのに、ごそっとカット。うー惜しい。

飯田さんとは、収録の後に休憩コーナーでお話しする機会を得たのだが、あの、淡々とした様子に秘められた「凄味」が、視聴者に伝わってるかなあ。お題がコアすぎたのかなあ。左時枝さんの油絵なんか半分でいいのにさ。

僕が掲げていた地上絵や衛星写真のフリップは、ほんとは中川緑アナウンサーの役目だったのだが、結局僕が説明しないといけないし、中川さんが地理に弱い(とご自分でおっしゃってたのだ)ということも判明し、リハーサル後、急遽、僕自身がやることになった。

「ペンギン」はこの番組のために作った。コースを発見したのはロケの直前で、これはほとんど僥倖だった。テレビの取材では、毎回必ず「新しい作品を作るシーン」の要求があるが、これ、大変なんですからね。費やす労力からいって、出演料なんかぜんぜん割が合わないし。いいけど。

画面に「カシミール3D使用」って出してくれなかった。くそー。NHKだからか?
(上記訂正。追記参照)

NHKのスタジオで番組の収録を体験してみて、あらためて「タモリ倶楽部」がいかに、和気藹々とリラックスした雰囲気で撮影しているか、よくわかった。

アリtoキリギリスの石井さんは気さくな芸人さんで、廊下で向こうから声をかけて下さって、立ち話をしてしまった。しかし、これで、タモリ倶楽部の時の石塚さん(地図マスカラス)と合わせて、コンビの両方とそれぞれ共演したことになる。なんかもう、他人とは思えん。アリtoキリギリス。

ともあれ、なかなか、得難い体験であった。息子もずいぶん映してもらったので、いい記念になるな(逆に、恨まれたりして)。

■追記:

これ読まれたディレクター氏からのメールに、kashmir3Dのクレジットがちゃんと入ってるとご指摘があった。
朝っぱらからビデオで見直してしまった。。。

おおおお。たしかに、最初にGPS軌跡を再生する画面で、(小さいけど)「Kashmir3D」と入ってる。
よく見ろ。>自分

ありがとうございましたK村さん。
ふっふっふ。「カシミール勝手に営業部」的喜び。

2005年6月17日

今尾さんの新刊と田中さんの新研究室

今尾恵介のページ
新刊が出た!
これは早速買わねば。
明日、書店へ行こう。


アートスケープ、ミュージアムIT情報:影山幸一 05年6月
うわ。驚いた。こんなページのいったいどこからリンクが張られているんだろうと、探してしまった。
田中さんがSFCに行かれたのは何かの拍子に知っていたのだが、

SITE-ORIENTED DESIGN LAB

今期(2005年春学期)、田中研究会のテーマとしているのは「ネイチャー・センスウェア(NATURE SENSEWARE) ver.1」の制作です。これは、昔の「風鈴」や「ししおどし」のように、自然を感じるしつらえ・あるいは道具を現代的に作るという課題です。現在、インタラクションデザインは、人とコンピュータ、人と人(コミュニケーションの問題)が主要トピックとして挙げられていますが、少し視野を広げて、「人と環境とのかかわり」を作り出す道具をデザインしていこうという観点です。

自然という極めてプリミティブな存在と、最先端の現代性・技術性を融合し、新たな美学を創出するというチャレンジングな試みです。2005年夏には、「ネイチャーセンスウェア」展覧会と、その議論を収録したデザインの辞書「DESIGN ELEMENTS IN NATURE」の冊子制作を予定しています。

くー!
うらやましい。生徒になりてえ。
「オープンフィールドワーク」とか、やってくれないかしら。
(いや、忙しいんだった。そうだった。俺)

2005年6月 9日

枯れない花、刈れない芝。

明治から続く「造花店」の経営者の方から、僕のサイトの造花に関するページについて、丁寧なメールを頂いた。

ひとつは、「ホンコンフラワー」という言葉についてで、これが正しくは『香港フラワーは、昭和37年頃から昭和48頃まで輸入された、ポリエチレン素材のちゃちな40センチ位の造花で装飾使用品ではない』、つまり、造花を指す一般名詞としてこの言葉を使うと誤解を広げるのでやめてほしい、というご指摘。

上記については、実は認識していたのだが、自分のサイトを探したらうっかり使っていた箇所を2つほど見つけた。これは「造花」に訂正し、その旨お返事した。

もうひとつは、造花を作る側として、あまり造花を「笑いモノ」にして欲しくない、という趣旨のメッセージ。

これは心外である。僕は造花の味方だ(まあ確かに、いささか皮肉っぽく語ってはいるが、それは僕の癖、というか、抜きがたい「芸風」なので、その点は簡単には変えられない)。

そこで、僕は決して造花をバカにしているわけではないこと、「建築あそび」の記録などでは造花をネタに笑いを取っているが、少し注意して読んで頂ければ、造花そのものを貶めているわけでは全くなく、むしろ下手な植栽などよりもずっと親近感を憶えるものとして紹介していること、聴衆の皆さんは造花に対してよりも、むしろ僕の偏執狂ぶりに半ば呆れ、面白がっている、という構造になっていること、さらに、造花自体よりも、造花が用いられる場面の、大げさに言えば人類学的背景に興味が向いていること、などをお返事差し上げた。

ただ、ちょっと気になったのは、そのメールに、造花は高度な工芸品であり、葬儀の花輪ふぜいと一緒にするな、というようなニュアンスがあったことだ。

ある種の造花がきわめて精巧にできていたり、場合によっては造形作品の素材として申し分ないほどの品質であるということは、わかる。でももし、造花業界的に、花輪や、商店街しだれ飾りが「ちゃち」なもので、精巧で本物に近いものが「えらい」というような価値観があるとすると(そういう心情は理解できないわけじゃないが)、それは悲しい。

だって、こう言っちゃなんだけど、造花は「造花」である。本物に近いことに造花の価値を置いてしまうと、それが精巧に、本物に近いほど、その「本物じゃなさ(偽物性)」が際立つという逆説的な存在になってしまう。何かの「代替品」であるとはそういうことである。というか、仮に造花が「造花にしかありえないような独自性」をその価値にしようとするなら、本物に近い精巧さをもって「良い」としてはいけない。それは結局、自らを代替品に貶めると思う。「葬儀屋の花輪」や「商店街のサクラ」の凄みは、これらはそうした「何かのふり」への意志が既に欠落していて、もはや「模造フリー」である(のに、あくまで植物としての最低限の記号性を帯びている)、というところなのだ。

でも、あらためて考えると、僕の造花への興味は、その参照先(オリジナルの植物)の何を「似せるための特徴」として抽出し翻訳しているか、というところなのだった。だとすると、造花業界的価値体系は置いておいて、精巧さとリアルさを追求する造花のモデルアップの過程を観察するのも面白いかもしれない。メールを下さった方は、造花の生まれる「動機」が、「きれいなものを手元に長く留めておきたいという思い」なんじゃないか、とおっしゃっていて、なるほど、そういう「ドライフラワー的造花」という範疇もたしかに、ありうる。

ところで、造園では、材料としての「植物」が「造花化」の圧力に晒される、という、逆の現象が起きている。維持管理の手間が軽く、常に瑞々しく緑色で、落葉したりせず、あまり成長もせず、過酷な環境に耐え、安価で、初期完成度が高く(つまり、植えた時から『理想的な樹形』であること)、大量生産品的に形状が安定して揃っていること、こうした植物材料への「要求」は、まるで造花のスペックである。で、花壇にはサフィニアが咲き、街路樹にハナミズキが並ぶ一方で、ホテルのロビーには近くで眺めても判別できないようなリアルなアレカヤシの「剥製」が飾られる、という。

「人工芝」が初めて登場したのはアメリカの競技場だが、これには、一般家庭へのカラーテレビの普及が大きく関与したそうだ。視聴者が天然色でフットボール観戦をするようになり、茶色い芝では絵にならないので、塗料を撒いて枯れた芝を緑に染色したり、いろいろと工夫を重ねた末に、ナイロン製の「芝」が開発された。これなんかまさに「造花化圧」の側から生まれた造花である。人工芝を「造花」とはあまり呼ばないけれど、あれは造花だぞ。