2005年6月27日

食事だけは楽しみなのですが

今週の通勤本:
今尾恵介「生まれる地名、消える地名」実業之日本社、2005

今週欲しい本:
「コンサイス造園・建築・土木用語表現辞典、日英中対訳版」
あったら絶対に買う。

では、中国大陸へ1週間ばかり。再見。

2005年6月26日

これはえーとどこだったっけ機能

こ、これはまた。

jm@foo: Google Mapsから地図を探す

さっそく、ブックマークレット登録。
Firefox(OSX)でも問題なく使える。
livedoor地図を「スクロール地図」にすると、なんかgoogleMapっぽいし。

ただ、つい、地図をスクロールして表示位置を移動させちゃうと、livedoor地図からGoogle衛星写真へは戻って来られない(笑)。

2005年6月25日

深遠な言葉。

(あるいは、難問としての山手線のホームの電車待ちの列)

一時期、下火になったのだが、最近また、やたらと英語の単語や文章を使ったデザインのTシャツが目につくようになってきた。

近頃のやつは、昔よく見かけた、明らかにでたらめな単語を並べたものや、スペルが間抜けに間違ってるものと違って、なんとなくそれなりに意味の通じるテキストになっていたりする。

デザイナーがそのへんの英文(blogにでもありそうなカジュアルな文章に見えるが)からコピーしてきたんだろうという気もするんだけど。

あらためてこう、こんなのを目の前に突きつけられると、なんか問いかけられているよーな感じがして、考え込んじゃうわけである。

彼女は何を逡巡しているのだろう。
誰かに言ったほうがいいのに、でもそもそも「言ったほうがいい」ってどうしてだ?と自問するようなたぐいの物事というのは何だろう。

コドモができちゃったとかそういうんじゃあるまいな。

2005年6月24日

頑張れ仁徳くん。

グリッド補正の歪みがあるので、画像そのまま、大きさや形を比べられないのはわかっているんだけど、これだけ世界中を「等倍」で閲覧できると、切り取って並べてみたくなるのだ。

日本が誇る、巨大環境ノイズエレメント。愛情を込めて「仁徳くん」と呼ぼう。

まずはお約束の対決。

エジプト。ピラミッド。仁徳くんの勝ち。


パリ。ラビレット公園。意外に大きいな。


天安門前広場とも堂々と渡り合っている。


ニューヨーク、セントラルパーク。これは相手が悪かった。。。

2005年6月23日

地表の虎馬(台湾編)

実は僕もすでに仕事に使ってしまったGoogleMap衛星写真。

青井さんの作られた、新旧重ね描き:
semi@aoao 青井ゼミ: GoogleMapでお空を暴走。

これは面白い。これは本当によくわかる。
ほとんど暴力的な市区改正と、「都市計画的無関心」によって残存した旧市街の線形。
敷地をケズり取られても頑に位置を変えない「廟」。
雑草みたいに、新しいニッチに張り付いて隙間を埋めてるショップハウス。

この、時間差の地図、同じような絵を見たなと思ったら、これだった↓。
Suburban Landscape Search Engine - Chofu edition

本日の衛星写真

三重県。鈴鹿あたりか。

面白いのを見つけた。

画面を白い線が斜めに横切っている。
どうやら飛行機雲のようだ。
地面にその影が落ちているのが見て取れる。

2005年6月21日

鵜の目鷹の目

Motoe Lab, MYU: Google Maps 世界対応

おおお。待ってたぞグーグル世界地図。

>Google Mapsでみる宮城大学

なーるほど。これ見ると、「プロジェクト・ブック」にあった、本江史門氏の手描き地図が、泉パークタウン周辺だったんだ、ってことがよくわかる。

東京も高解像度の写真が載っているし、中国だと北京なんかも詳しい衛星写真がある。これは天安門。

中東、イラク周辺だけ、妙に詳細画像が多いのは偶然ではあるまい。バグダッド。空港。

ジャカルタ。緑を背景に広がる赤い瓦屋根。

イースター島発見!

ナウル共和国は、これか?

アンコールワット。これはでかい。

いけねえ。だからこんなことしてる場合じゃないんだって。


・・・でも、これだけはどうしても我慢できなかったので、追記。

先行形態/環境ノイズエレメントの権化、ルッカのアンフィテアトロ広場。
キレイに写ってるなあ。
屋根の色が揃ってるから、余計に建物の「配置」が描くパターンが際立っている。
このルッカという街、古い城壁に囲まれていて、この街の形自体も面白い。

台湾北西部、彰化の街路模様(位置から見て彰化だと思うんだけど確信はない)。
地誌定数と位相定数のコンポジション。たしかによく見ると、街区のブロックの「内部」には、ブロック割りと関係なさそうな路地が錯綜している。「先行デザイン」の「市区改正」案である。
これ、街のアクティビティを存続させるには、ブロックの「規模」が効いてくるんじゃないだろうか。それこそビオトープみたいに、ブロック内に「都市住居的生態系」のプチ・システムが成立するくらいの大きさがないと、建物タイプも住形態も単純化してしまい、街の「強靭さ」が失われるような気がする。

あと、こんなのを偶然に発見。
城南島上空通過、羽田へ、ファイナルアプローチ!
影が水面に落ちている。この高度からだと、船に衝突しそうに見えるな。・・・


追追記:
青井さんのご指摘で彰化の場所訂正!
ほんとの彰化。

ついでに、台北の空港近くで、離陸直後の飛行機発見。

追追追記:
本江さんところの、権力装置としての都市計画の系譜:Motoe Lab, MYU: 空からNew Delhiも見てね。

2005年6月20日

「良いペンギンは地上に描かれたペンギンだけだ」

(タイトルに深い意味はありません)

ページを作っている時間がないので、差し当たってこちらで。



調布市と三鷹市にまたがるペンギン。
全周18.07km、所要時間2時間4分。



番組用に、軌跡を黒で表示してジオパッドで着色したもの。

背中の「トゲ」みたいに尖った部分は、コースを間違えたところ。

20km以下の小規模な行程は初めてだったが、このくらいの規模のほうが、焦らずに回れるということがわかった。とはいえ、この大きさだと、道路の形が大きく効いてくるので、よっぽど何かのカタチにハマったものを見つけないと、絵にならない。今回、たまたまクチバシの部分が浮かんで、そのあとはするすると絵にできたんだけど、収録に間に合うようにできたのはほんとにラッキーなのだった(ディレクター氏を直前までやきもきさせた)。

2005年6月19日

「熱中時間」

僕がゲストで出た、NHK BS-2の「熱中時間」が放映されました。
番組中で紹介された新作「調布ペンギン」は、後日公開します。

何度見ても、自分がテレビに映ってるのは冷や汗だ。
これで、去年の10月の朝日新聞土曜版「be」以来のマスコミ取材/出演は一段落。やれやれ。

今回は、取材されたディレクター氏のご理解もあって、「地上絵」だけでなく「GPSを使った地表系の楽しみ」のサワリまで紹介できたので、こちらも楽しかった。ありがとうございました。

でも、以前「住宅都市整理公団」の総裁がコメントされていたごとく、やっぱり大幅に編集・カットされていて、収録の際に盛り上がった部分とか、惜しくも消えていたのが残念。

僕の出演分はまあ、勝手に熱弁してた部分がばっさりカットされていただけだったが、僕の次に紹介された「マンホール熱中人」、飯田真三さんの場合、ご愛用の、マンホール採集用に使われた広島市の住宅地図(マンホールを探して通った道路にマーカーで色がつけてあったのだが、なんと、文字通り『すべての道路』に色が付いていた)とか、飯田さんが選んだマンホールベスト3、なんてシーンがまるごと、消えていた。マンホールベスト3は、スタジオの隅に、わざわざブロック塀と電柱とアスファルト道路のセットまで作ってあって、そこに3つのマンホールのダミーが置いてある、という、実に手のかかった凝った撮影をしていたのに、ごそっとカット。うー惜しい。

飯田さんとは、収録の後に休憩コーナーでお話しする機会を得たのだが、あの、淡々とした様子に秘められた「凄味」が、視聴者に伝わってるかなあ。お題がコアすぎたのかなあ。左時枝さんの油絵なんか半分でいいのにさ。

僕が掲げていた地上絵や衛星写真のフリップは、ほんとは中川緑アナウンサーの役目だったのだが、結局僕が説明しないといけないし、中川さんが地理に弱い(とご自分でおっしゃってたのだ)ということも判明し、リハーサル後、急遽、僕自身がやることになった。

「ペンギン」はこの番組のために作った。コースを発見したのはロケの直前で、これはほとんど僥倖だった。テレビの取材では、毎回必ず「新しい作品を作るシーン」の要求があるが、これ、大変なんですからね。費やす労力からいって、出演料なんかぜんぜん割が合わないし。いいけど。

画面に「カシミール3D使用」って出してくれなかった。くそー。NHKだからか?
(上記訂正。追記参照)

NHKのスタジオで番組の収録を体験してみて、あらためて「タモリ倶楽部」がいかに、和気藹々とリラックスした雰囲気で撮影しているか、よくわかった。

アリtoキリギリスの石井さんは気さくな芸人さんで、廊下で向こうから声をかけて下さって、立ち話をしてしまった。しかし、これで、タモリ倶楽部の時の石塚さん(地図マスカラス)と合わせて、コンビの両方とそれぞれ共演したことになる。なんかもう、他人とは思えん。アリtoキリギリス。

ともあれ、なかなか、得難い体験であった。息子もずいぶん映してもらったので、いい記念になるな(逆に、恨まれたりして)。

■追記:

これ読まれたディレクター氏からのメールに、kashmir3Dのクレジットがちゃんと入ってるとご指摘があった。
朝っぱらからビデオで見直してしまった。。。

おおおお。たしかに、最初にGPS軌跡を再生する画面で、(小さいけど)「Kashmir3D」と入ってる。
よく見ろ。>自分

ありがとうございましたK村さん。
ふっふっふ。「カシミール勝手に営業部」的喜び。

2005年6月17日

都市ちゃん

福島の佐藤師匠のブログが始動。
Toshi-Chan Blog

今尾さんの新刊と田中さんの新研究室

今尾恵介のページ
新刊が出た!
これは早速買わねば。
明日、書店へ行こう。


アートスケープ、ミュージアムIT情報:影山幸一 05年6月
うわ。驚いた。こんなページのいったいどこからリンクが張られているんだろうと、探してしまった。
田中さんがSFCに行かれたのは何かの拍子に知っていたのだが、

SITE-ORIENTED DESIGN LAB

今期(2005年春学期)、田中研究会のテーマとしているのは「ネイチャー・センスウェア(NATURE SENSEWARE) ver.1」の制作です。これは、昔の「風鈴」や「ししおどし」のように、自然を感じるしつらえ・あるいは道具を現代的に作るという課題です。現在、インタラクションデザインは、人とコンピュータ、人と人(コミュニケーションの問題)が主要トピックとして挙げられていますが、少し視野を広げて、「人と環境とのかかわり」を作り出す道具をデザインしていこうという観点です。

自然という極めてプリミティブな存在と、最先端の現代性・技術性を融合し、新たな美学を創出するというチャレンジングな試みです。2005年夏には、「ネイチャーセンスウェア」展覧会と、その議論を収録したデザインの辞書「DESIGN ELEMENTS IN NATURE」の冊子制作を予定しています。

くー!
うらやましい。生徒になりてえ。
「オープンフィールドワーク」とか、やってくれないかしら。
(いや、忙しいんだった。そうだった。俺)

2005年6月16日

「メディア・ビオトープ」

■今週前半の通勤本:
水越伸「メディア・ビオトープ メディアの生態系をデザインする」紀伊国屋書店、2005

ううむ、こりゃ駄目だ。啓発されるところもあるけれども、ビオトープの喩え話があんまりだ。装丁も洒落てるし、良い評判も聞こえてきたのに、残念。取り急ぎメモ。くわしくは後ほど。

the spirit of construction documents

■図面を支える「キモチ」について。

若いヤツが描いていた図面が杜撰で、ちょっと途方に暮れる。

言うまでもなく、図面は「絵」ではなくて、特定の場所に、特定の手法で、特定の材料を使って、加工したり組み立てたり設置したりするための、口頭や文章で伝えたり記録したりしきれない複雑なメッセージを、紙というハンディな媒体に写し取るべく、独特のルールに従って翻訳・表記した「手紙」みたいなもんである。

描く側と読む側とが共通で了解している「ルール」をよくわきまえておくことは最低限必要だし、それは覚えるより他ない。誤記や意味不明の線や必要な情報の欠落はまあ「赤入れ」で修正できるし、ルールに無知な部分は「教える」ことができる。

でも、図面を図面たらしめているのは、その図面によって何を伝達しようとするか、っていう部分である。何かを「ただしく効果的に伝えよう」という意志というか、「スピリット」が欠けてると、図面は何とも言えない不親切なものになる。それはその図面の「図的品質」以前の問題である。もともとそういう気持ちのない人に「こういう気持ちを持て」と言い聞かせても、のれんに腕押しだし、「他人とのコミュニケーションへの誠意」なんか育成してるヒマはないんだが。いったいどーしたものか。

もしかして、2次元への「作図」っていう作業、設計意図をすべて「無理矢理抽象化して紙媒体に落とし込む」という伝達方法そのものが、時代錯誤になりつつある、そういう兆候なんだったりして。これから設計は、粘土をこねたりチョークで描いたりするみたいに意図を直接、感覚的にデジタル化し、それがデジタル情報のまま制作へ回す、というような行為になり、図面のリテラシーなんか養成しても役に立たないようになるとか。

いや、やっぱりそれは甘いな。プロセスがどう変化しようが、「意図を伝達できる情報形態に転換する」ところはアナログな「能力」以外にありえないし、そうした能力が図面の良さにも端的にあらわれるのだ。わかったか。詳細図はラブレターだと思え。ディテールに愛を込めろ。(←どういう飛躍なんだ)


■やばい状況について。

足向けて寝られないくらいお世話になった編集部から、新しい本への執筆の打診と、以前から懸案になっていた(というか、僕が勝手に寝かしつけて黙っていた)企画の再確認のメールを頂いた。こ、これは危機的だぞ。まだ返事してない。うーどうしよう。

2005年6月14日

財布、運賃、子供服

間抜けにも、財布を忘れて出勤した。
自宅から駅までは自転車に乗り、駅からは通勤定期を使うので、途中で雑誌でも買おうとしない限り、朝の通勤時、財布の出番はない。気づいたのは職場に着いてからだった。

幸い、昼食の弁当は持参していたし、タバコもなんとか1日保ちそうな本数が残っていたし、午後に行く予定だった現場での打ち合わせがキャンセルされて交通費を使う予定も消えたので、「置きグリコ」さえ我慢すれば現金なしでも過ごせそうだった。こういうとき、誰かにお金を借りたりするのも悔しいので、あえて「無銭日」を過ごすことにした。

なんか、お金を「ぜんぜん使わない」というのは、それはそれで、それなりに緊張する。なんとか一日が過ぎ(でも結局タバコは切れて、O久保くんに合計2本、恵んでもらった。O久保くんありがとう)、無事に帰りの電車に乗った。

疲れていたものだから、読みかけの本を開いたまま、字面も追わずにぼーっと考えごとをし、3年目にしてようやく豊かに花をつけた、自宅の玄関先に植えたニワナナカマドの、あの穂咲きの小さい白い集合花序は、よく見るといかにも、なるほどバラ科だという様子をしているが、イチゴとかシモツケとか、ああいう「咲いたらバラ科」系の花は、可憐ながら野趣もあって好ましい、ヤマブキも白花の一重に限る、なんてことを思いめぐらしていてすっかり油断し、乗り過ごした。

慌てて降りた駅は京王多摩川。向かい側のホームの照明はもう消えている。ひと駅歩いて調布へ戻るしかない。でも所持金ゼロ。

寂しい改札口で駅員さんに申し出たところ、そういう客のための「運賃貸出し帳」とでもいうべき用紙を持ってきて(そういうのがあるってことは、そういう人は結構居るんだろう)、名前と連絡先を書かされ、いわく「いつ返しに来られます?」。

いつ、ってさ、乗り過ごしたんだって言ったじゃんか、120円の運賃払いに、往復240円かけて来いってのかよ、とは言わずに、「調布駅で返してもいいですかね?」と聞いてみると、それでいいというので、では明日の朝返します、と言いおいて、終電も過ぎた京王線沿いの道をとぼとぼと歩いて帰った。とほほ。

自宅に帰ってみると、廊下に大きな紙袋が置いてあって、中には子供服がぎっしり詰まっていた。

妻によると、先日、コドモ2人を保育園へ迎えに行った帰り、バスに乗り合わせた見ず知らずの初老の御婦人が、わたしの家に、最近まで一緒に住んでいた孫の服が捨てられずにたくさん取ってあるので、もらって欲しい、お家はどこですか、といきなり声をかけてきたんだそうだ。自宅のだいたいの場所を教えたところ、ほんとにいきなり山盛りの子供服とともに訪ねてきたんだそうである。近くの路上で、たまたま、僕らを良く知っているご近所のおばさんに行き当たり、このあたりに、2歳くらいの男の子と1歳くらいの女の子のお子さんのいらっしゃるお家は、と尋ねたんだそうで、すごいなその熱意というかガッツが。

コドモの服は、あっという間にサイズが合わなくなるし、すぐに汚れたりするので、頂けるのはたいへん有り難いのだが、なんだかいろんな人が子供服の古着を送って下さったりするんだな。これが。意匠ケースは古着で一杯。ウチの子供らは、当分、服には困らなそうだ。

誤記訂正: 意匠ケース→衣装ケース。

誤変換の誤字って、普段どういう文章を書いているかという傾向が反映される。
さっき、ある建築家のブログで「欄の花」というのを見た。

こっちの芝生。

農大:シラバス検索

JDくんありがとう。

うむ。なかなか手堅いというか、骨太な講義が並んでますな。

ていうか、なんか自分が学生だったときのことを思い出しちゃうな。これ見てると。

サプラーイズ、サプラーイズ

Life is beautiful: アーキテクトという職種

・・・なぜこれがびっくりなのか、というのはちょっとこっちの話(内輪受け)なんですけれど。

2005年6月13日

府中・プチグリッド

日曜日の午後、かねてから地形図上で注目していた、「浅間山公園」をチェックすべく、自転車にコドモを乗せて府中方面へ。

そうしたら、浅間山の手前にあった多磨霊園内の道路のレイアウトが面白いということに気づき、つい霊園内を走ってみたら止まらなくなってしまって、結局、浅間山公園へ行くまでに霊園内を20km以上もぐるぐる、2時間も「寄り道」してしまった。



軌跡ログだけで描いた多摩霊園。
GPSの位置取得の頻度を「距離、10m」などにしておくと、こういうロータリー道路の形も細かく残って面白い。



鳥瞰図。ちょっと、本家のGPSDrawingのノリに似てる。

「墓地」とはいえ、地形はフラットだし、緑は多いし、車の通行も少ないので、コドモ連れサイクリングにはなかなか良い環境であった。
ちょうどヤマボウシの花が満開で、濃くなってきた落葉樹の樹冠に映えてきれいだった。
秋の紅葉や落葉も楽しそうだ。
手前左側が、浅間山公園の頂上の神社へ、石段を登って行ったところ。



空撮に重ねたもの。
霊園内での走行距離22.6km、所要時間2時間3分、平均移動速度11.1km/h。
(描画:カシミール3D & スカイビュースケープ)

隣の芝生(だけじゃないが)

こういうページを外部から閲覧することができる。
千葉大学 授業シラバス

ラ系専門課程のいくつかには、じつに魅力的な講義内容が記されていて、
公園計画論
とか、
地域環境管理論

教科書・参考書:教科書は特に指定しません。授業の度に内容をまとめたレジュメを配付し、そのレジュメの中で参考文献を紹介します。授業内容のリソースとして併読・復習をお勧めします。サブテキストとして、landscape network 901*編『ランドスケープ批評宣言』INAX出版を講読すること。課題はこの中から設定されます。

おい、ちょっと。いいなあこの講義。

他にこんなのもあったりし、
庭園材料論
これから、千葉大のランドスケープからは、木下先生に都市ラを批評的に見る視点を教わり、三谷先生にディテールやデザインの作法を教わった、また小生意気な連中がぞろぞろ、じゃなくって優秀な若い人たちがいっぱい出てくるわけである。これは楽しみだなあ。いま専門課程にいる千葉大ラ学生は、希有な境遇にいるのだということを自覚するように。

農大のシラバス閲覧できるページを誰か知っていたら教えて下さい。

2005年6月 9日

枯れない花、刈れない芝。

明治から続く「造花店」の経営者の方から、僕のサイトの造花に関するページについて、丁寧なメールを頂いた。

ひとつは、「ホンコンフラワー」という言葉についてで、これが正しくは『香港フラワーは、昭和37年頃から昭和48頃まで輸入された、ポリエチレン素材のちゃちな40センチ位の造花で装飾使用品ではない』、つまり、造花を指す一般名詞としてこの言葉を使うと誤解を広げるのでやめてほしい、というご指摘。

上記については、実は認識していたのだが、自分のサイトを探したらうっかり使っていた箇所を2つほど見つけた。これは「造花」に訂正し、その旨お返事した。

もうひとつは、造花を作る側として、あまり造花を「笑いモノ」にして欲しくない、という趣旨のメッセージ。

これは心外である。僕は造花の味方だ(まあ確かに、いささか皮肉っぽく語ってはいるが、それは僕の癖、というか、抜きがたい「芸風」なので、その点は簡単には変えられない)。

そこで、僕は決して造花をバカにしているわけではないこと、「建築あそび」の記録などでは造花をネタに笑いを取っているが、少し注意して読んで頂ければ、造花そのものを貶めているわけでは全くなく、むしろ下手な植栽などよりもずっと親近感を憶えるものとして紹介していること、聴衆の皆さんは造花に対してよりも、むしろ僕の偏執狂ぶりに半ば呆れ、面白がっている、という構造になっていること、さらに、造花自体よりも、造花が用いられる場面の、大げさに言えば人類学的背景に興味が向いていること、などをお返事差し上げた。

ただ、ちょっと気になったのは、そのメールに、造花は高度な工芸品であり、葬儀の花輪ふぜいと一緒にするな、というようなニュアンスがあったことだ。

ある種の造花がきわめて精巧にできていたり、場合によっては造形作品の素材として申し分ないほどの品質であるということは、わかる。でももし、造花業界的に、花輪や、商店街しだれ飾りが「ちゃち」なもので、精巧で本物に近いものが「えらい」というような価値観があるとすると(そういう心情は理解できないわけじゃないが)、それは悲しい。

だって、こう言っちゃなんだけど、造花は「造花」である。本物に近いことに造花の価値を置いてしまうと、それが精巧に、本物に近いほど、その「本物じゃなさ(偽物性)」が際立つという逆説的な存在になってしまう。何かの「代替品」であるとはそういうことである。というか、仮に造花が「造花にしかありえないような独自性」をその価値にしようとするなら、本物に近い精巧さをもって「良い」としてはいけない。それは結局、自らを代替品に貶めると思う。「葬儀屋の花輪」や「商店街のサクラ」の凄みは、これらはそうした「何かのふり」への意志が既に欠落していて、もはや「模造フリー」である(のに、あくまで植物としての最低限の記号性を帯びている)、というところなのだ。

でも、あらためて考えると、僕の造花への興味は、その参照先(オリジナルの植物)の何を「似せるための特徴」として抽出し翻訳しているか、というところなのだった。だとすると、造花業界的価値体系は置いておいて、精巧さとリアルさを追求する造花のモデルアップの過程を観察するのも面白いかもしれない。メールを下さった方は、造花の生まれる「動機」が、「きれいなものを手元に長く留めておきたいという思い」なんじゃないか、とおっしゃっていて、なるほど、そういう「ドライフラワー的造花」という範疇もたしかに、ありうる。

ところで、造園では、材料としての「植物」が「造花化」の圧力に晒される、という、逆の現象が起きている。維持管理の手間が軽く、常に瑞々しく緑色で、落葉したりせず、あまり成長もせず、過酷な環境に耐え、安価で、初期完成度が高く(つまり、植えた時から『理想的な樹形』であること)、大量生産品的に形状が安定して揃っていること、こうした植物材料への「要求」は、まるで造花のスペックである。で、花壇にはサフィニアが咲き、街路樹にハナミズキが並ぶ一方で、ホテルのロビーには近くで眺めても判別できないようなリアルなアレカヤシの「剥製」が飾られる、という。

「人工芝」が初めて登場したのはアメリカの競技場だが、これには、一般家庭へのカラーテレビの普及が大きく関与したそうだ。視聴者が天然色でフットボール観戦をするようになり、茶色い芝では絵にならないので、塗料を撒いて枯れた芝を緑に染色したり、いろいろと工夫を重ねた末に、ナイロン製の「芝」が開発された。これなんかまさに「造花化圧」の側から生まれた造花である。人工芝を「造花」とはあまり呼ばないけれど、あれは造花だぞ。

2005年6月 7日

新・稀少言語の予感、および雨の朝のマグノリア。

中国大陸とのやりとりで、なんだかへとへとだ。
それぞれの言葉を使えず、どっちにとっても母国語じゃない「英語」でコミュニケートしようとするものだから、けっこう簡単なことを伝えて了解を取るのに、えらく手間と精神的なエネルギーがかかる。でも、先月に比べると、お互いがお互いの英語表現の「くせ」に慣れてきて、歩み寄るようになってきて、少しマシな会話(電話やメール)ができるようになりつつある。もしかすると、このまま我慢して続ければ、そのうちに僕らの間でしか通用しない、英語と中国語と日本語の混じった「北京ー東京ピジン」が形成されるかもしれない。


浮き床
「G日記」シリーズに注目中。

BANE(バネ)
「ランドスケープ界隈を学ぶ学生のための情報掲示板」ということです。
「宣伝して下さい」というメールを頂いた。でも、ここで広報しても内輪だけどな。

■今週の通勤本:
北田暁大「嗤う日本のナショナリズム」NHKブックス、2005
加藤典洋「僕が批評家になったわけ」岩波書店、2005

■日曜日、NHK BS-2の「熱中時間」:
これまで登場した熱中人が集合する「熱中サミット」というのをやっていた。公団の総裁のご登場を予想して、テレビをつけた。いや、なかなか面白い回だったぞ。

■タイサンボク
自宅の近くの道沿いで、タイサンボクが花を咲かせている。
モクレンを拡大コピーしたみたいな、赤ん坊の頭ほどの大きさのこの花は、とにかくデカくて、毎年、そうと知っていながら、あらためて驚いてしまう。透明感のある白い花びらの付け根がかすかに紅色をしていて、ちょっと妖艶な感じもする。
タイサンボクのある場所は、雨降りの朝にバス停へ歩くコース沿いで、自転車では通らない道なので、タイサンボクを眺めるときはいつも雨が降っている。ここ数年、僕の中でタイサンボクは、艶やかな花と葉から滴を落としている、「雨の木」のようなイメージである。
名前の響きや、常緑の葉の様子から、なんとなく中国あたりが原産の、渡来の古い種のような感じがするが、実は明治に導入された、アメリカ原産の樹木である。おお、「連載エッセイ・日々の花」とかいう感じの文章になってしまった。

人形の家

こ、これは。
明子の秘密基地:工事現場事務所

これは冴えてる。そーか、「現場事務所」は盲点だった(って何のだよ)。やられたぞ。素晴らしい。
工事写真用の黒板とか、でかい懐中電灯とか、小物に凝ってるところも嬉しい。
卓上、使い込んだっぽい施工図の向こう、ファイルに「VE案」とあるのが、泣ける。

Motoe Lab, MYU: 工事現場事務所のドールハウス経由にて。

拝見するに、ドールハウスの面白さ、というか、「良さ」を決める「味わい」は、ドールハウス化する対象から、適度に一般化して、「いかにもそれらしい」要素を抽出する「テーマ」と、個々の要素を、単にスケールモデルでなく、可愛らしく角が取れたデフォルメを施した「造形」にあるみたいである。本江さんのいう「キャラが立ってる」というのはそういう、共感を得られる「それらしさ」のきっかけが濃い空間、ということだろう。昭和レトロのフィギュアとか、サツキとメイの家、と同じで。

そういう観点では、たとえば「ガーデニング」という作品で、どのような要素が「いかにもガーデニングっぽい」ものとして選ばれて配置されているか、なんてことが興味深い(レンガの床、サイディングのような壁にはヘデラのグレイシャー、地植えはチューリップの混植で、プランターにはスイセン)。

共有イメージの典型化が可能なら、「いかにも建築家がつくったみたいな住宅の吹き抜け螺旋階段前面ガラス窓ドールハウス」なんてのもできそうだ。むしろ、ドールハウスになりにくいのは、その成立がそもそも「共感を誘うイメージの典型」であるような、例えば「マンションのモデルルーム」とかかもしれない。

2005年6月 6日

ERふたたび

Shine on your babies, crazy parents. - entee memo
ここまで丁寧に暴露されると、グウの音も出ません。グ。
他人の、「反論を封殺するレトリック」には過敏に反感を抱くくせに、自分が使うことに無自覚でいるんじゃ駄目だなあと、著しく反省。まあ、正直なところ、コドモは親の喜びだ、と信じ込まないと「やってられない」ということもあるんだが。

土曜日(以下、また子供の話題なのは偶然です)。
妻は朝から、個人邸の庭園工事の現場へと出かけた。間もなく1歳になろうとする娘が、2日前から風邪をひいたらしく、熱が上がっちゃったので、連れ出すわけに行かず、この週末も僕が自宅に子守ることになった。

いつものように騒がしい朝が過ぎ、絵本やらクレヨンやらが文字通り「散乱」し、やがて子供らが昼寝に落ちてうそのように静かな午後のひととき(一度に昼寝してくれないので、両方寝ているのは有効20分くらい)があり、やがて2歳の息子がむっくり起きてきて、バスの運転手さんがどうのこうのと意味不明のことをわめきながら家中を走り回り、おかげで目を覚ましてしまった娘を膝に抱き上げてあやしながら、「(息子)ギューニューノムー!」「(僕)牛乳が欲しいんなら、頂戴って言いなさい」「ギューニューホシーンナラチョーダイ!」「わざとボケてんのかよおまえ」などと親子漫才みたいな会話をしていたら、娘の動きが突然おかしくなった。

膝の上で、ぐたっとうつ伏せになったので、あれ?と思って抱き上げようとしたら、体が痙攣していた。見ると顔には表情がなく、目があらぬ方向を向いている。息をしていない。

いや、動転してしまった。抱き上げて名前を呼び、床におろして口から2回くらい息を吹き入れた。電話に飛びついて妻の携帯にかけ、これから救急車を呼ぶ、と告げた(後で思うに、先に救急車を呼べっちゅうに)。
幸い、娘が1分もしないうちに息を吹き返して泣き始めたため、僕は2%くらい冷静さを取り戻し、母子手帳だの保険証だのをそのへんのバッグに詰め込んで、息子に靴を履けと命じた。ただならぬ雰囲気にのまれたらしく、息子は文句も言わず、ぐずりもせずにひとりで玄関へ行って靴と格闘した。

救急車が到着し、娘を抱いて走ってゆき、救急隊員に託し、また走って息子を連れに戻った。息子は雨の日の外出にいつも着る黄色い合羽を引っぱりだしていて、なぜかシャツを脱ごうとしてもがいていた。靴を左右逆に履いて、脱げかかったシャツを着た息子を小脇に抱えて、雨の中、救急車に乗り込んだ。酸素吸入をつけられて、でっかいストレッチャーに寝かされた娘がすごく小さく見えて、目眩がした。さすがに救急隊員の皆さんは落ち着いていたが、たぶん最も慌てていなかったのは、救急車に乗っているという事態に目を輝かせていた息子だった。。。

というか、あとで病院に合流した妻も含め、なんか僕以外の全員が妙に普通に落ち着いていたのが、いま思い返すと癪に触るな。なんだ、泡食ってたのは僕だけか。

結局、娘の痙攣は「熱性痙攣」という、高熱を出した幼児に時々見られる一過性のもので、むろん予防したほうが良いものの、それ自体が危機的な症状だというわけでもないものだった。あとで自宅にあった「赤本」を見るに、熱性痙攣のときは脳が不安定なので、人工呼吸や急な解熱剤投薬やその他、余計な刺激を与えるのを避けろ、とあった(全部やっちゃったんですけど)。

ところで、救急車が運んでくれたのは、杏林大学病院の救急救命センターだったのだが、ここは、以前、長男の出産直後に呼吸困難になった妻が産院から移送された病院なのだった。どうしてこう、我が家の女性たちは、カラダを張って僕の心臓の寿命を縮めようとするんであろーか。やれやれ。

「念のため」の血液検査のあと、暗くなってから家族4人で帰宅し、一同、倒れるように寝てしまった(夜、佐藤さんに電話頂いたんだけど、すいません、こういう状況だったもんで)。

2005年6月 1日

「他者」としての乳幼児、とかね。

アエラ6月6日号、「ART BIT」という美術欄、橋本麻里さんによる記事の中の一文に、ちょっと引っかかったので。

紙おむつメーカーのCMに登場するエンゼルは幻影である。うんこ&しっこを垂れ流し、適切な世話と食事を要求しては泣きわめく、情理いずれも通じない、「生きる」という欲望全開の存在に、人はただボーゼンとするしかない。

これはまあ、こう言っちゃなんだけど、コドモを生んで育てた経験のない人の言い草だよなあ(あるいは、コドモをよく知らない読者に対してこういう物言いが共有されるだろうと予想した文章である、でもいいけど)。「人は」なんて一般化しないでほしいな。泣いている幼児を前にただ「ボーゼン」としてるなんて親失格だぞそれは。

「CMに登場するエンゼルは幻影である」という言い方はありうるが、その幻影は何も根拠のないものではない。幼児がまさに「エンゼル」としか言いようのない存在である時もたしかにあるし、そうした瞬間の「エンゼルネス」は、それこそCMの映像なんぞで伝わるような生半可なものではなく、抱いている自分が、ほとんど人生の目的に達したような目眩がするほどの「至高の瞬間」である。でなきゃ人類なんて存続するものか。

もちろんそうした「親心的幸せ」そのものが「幻想」であるという言い方もあるだろうが、それなら「乳幼児は、実は生むき出しの理解不能な存在である」という説だって同様に幻想である。というかむしろこっちのほうが知的に響くだけ、なんか神経に障るんだ。

ええと、上記、記事の主旨についての話ではないのだが、そうです僕は親バカです。