・Tokyo according to Kenzo
土曜日。
江戸東京博物館|「東京エコシティ—新たなる水の都市へ」展のオープンにあたって開催された、『展開催記念シンポジウム・第170回江戸東京拡大フォーラム』の末席に出席するべく両国へ。
「総指揮」は陣内先生。展示もシンポジウムも、コンテンツ満載。田島さんによれば、陣内先生は「人格者だし知識も豊富でキレも鋭いし話もわかってくれるし気遣いもこまやかだが、唯一の欠点は、プロジェクトへのその豊富な持ちネタの注入をやめないこと」なのだそうだ。あおりを食らった展示関係者は、これ以上準備が続いたら全員息が絶えるんじゃないかという状況に追い込まれた。
「東京キャナル」は展示の一角に「未来へのビジョン」という趣旨でいくつかの提案を掲示したが、これもまた(このプロジェクトの抜きがたいノリとして)直前まであーだこーだと議論してプロダクションのスケジュールを圧迫したため、制作チームの最後の数日間は「死の行軍」になったようであった。「ようであった」と他人事なのは、今回は僕は申し訳ないけど制作に関わるのをお断り申し上げたからなのだ。経過は何度か拝見したけど。
しかし、ディスカッションの過程で共有されていたイメージというか、描こうとしていた「風景」は、こうやって展示品としてライトが当たる模型とパネルになっちゃうと、あまり「目をむくような提案」に見えなくなるのがちょっと残念。最後の仕上げに「建築模型的美学」が働いてしまうからかもしれない。しかしまあ、とは言うものの、最後にカタチに持って行った恐るべきパワーには素直に拍手。あらためて見直したぞsfc.keio.ac.jpおよびsoc.titech.ac.jp。
びっしり並んだ展示品群が訴えているのは、とにかく、江戸/東京はその始まりから、現代の価値観から見れば「エコシティ」としか呼べないような水の都市であって、そういう都市だった時代の方がずっと長く、かつそれはつい最近までそうだった、ということである。僕はかねてから、現代の東京の水辺が損なわれているという議論に必ず登場する「浮世絵」が嫌いで、そんなもん見せられて「こうでした」と言われても困惑するだけだと思っていたのだが、今回の展示みたいに手を替え品を替え時代を超えて畳みかけられるとさすがに、見終わった頃はへとへとになって、一礼して「御意」と言いたくもなる。かもしれない。ま、東京を重層的立体的に「感じる」にはよい展示かもしれん。
もうひとつの見どころは、「建築家たちによる東京湾の未来像」というコーナーである。渡辺真理氏のコーディネートで、丹下さん大高さん菊竹さん黒川さん槇さん磯崎さん川添さんら、名前を並べただけで背景に「メタボリズム」という文字がウキボリになるような大御所によるそれぞれの「東京計画」、および石川幹子さん宇野求さん隈研吾さん長谷川逸子さん石山修武さん篠原修さん庄野泰子さん小島一浩さん塚本由晴さんみかんぐみ、による東京の水辺への提案が並んでいる。それぞれへのインタビューのビデオも上映されている。
実は僕は模型を直接拝見したのは初めてだったのだが、過去の計画も現代のものも含めて、丹下さんの「東京計画1960」が一番かっこいい、などと思ってしまった。あれはやっぱり尋常じゃないな。シンポジウムで、1960年代に盛んに提案された東京湾に対する将来構想案をいくつも渡辺先生が紹介してくださった。どれもこれも、どういう形で「埋め立てるか」という計画案だったのだが、ひとり、丹下案だけが、地面から全体が「浮いている」。その姿勢が、先行デザイン会議で「あと出しジャンケンで、しかも負けてる」と(あらためて)批判されていたものでもある。でも、あれはあれで、たとえば水辺的にはエコロジカルな提案ではあった、と言えもする。首都高の大部分は「東京計画1960」的に建設された。日本橋川は水が淀んでいて水質が悪いそうだ。つまり、あの川は水流としては役立っていない水面なのである。だとすると、日本橋川を干して、そこに高速道路を通す、というオプションもあり得たわけだ。高架にしたからこそ明治の「地層」が温存された、のかもしれないじゃんか。いやさすがにそれは違うか。違いますね。