2006年8月23日

Who's Afraid of the Big Bad Scape?

本日付けの毎日新聞の第一面に、「日本橋の首都高地下化」の見出し。

小泉純一郎首相の肝いりで、東京・日本橋の景観再生を検討中の有識者会議「日本橋川に空を取り戻す会」(日本橋みち会議)がまとめる報告書の原案が22日、明らかになった。橋の上の首都高を地下にもぐらせ、親水性の高い空間を造るのが柱。不動産価値の向上などで2兆円規模の経済効果が生じると試算、周辺企業に「受益者」としての費用負担を求めることを打ち出した。

2兆円のリターンがあるんだから、5000億の建設費に投資しろ、というわけだ。

委員会は、首都高をずらす案、一部区間を廃止する案も検討し、交通への影響がない地下化が最適と「判断」した。

地下移設によってできる空間は、親水性のある「賑わい広場」として整備。水質改善にも取り組み、「アユがのぼる日本橋川」を目指す

なるほど。ついでに「ふれあいプロムナード」と「だれでもトイレ」と「トンボ池ビオトープ」も一緒に作ったらどうだろう。スロープは8%以下で。むろん、ハト除けとカラス除けとホームレス除けは付けておいて。

もしこれがシアトルだったらきっと、「検討」された3案があらかじめ公開され、公開参加のワークショップがあったりするんだろうになあ。

そもそもこの「識者」集団のネーミングは「空を取り戻す会」であって、検討する対象は「景観」の「再生」だとうたわれている。
つまり、最初から「首都高が日本橋から不当に空を奪っている」という問題意識が前提となっていて、「現状のままにする」「現状のままで、首都高の機能を向上させる」「現状の首都高のさらに上部に新しい高架を建設する」「日本橋川を干して首都高にし、現在の首都高を大歩行者デッキにし、空中で周囲のビルと連結し、事業費半額なのに経済効果2兆円」というような案の可能性は、あらかじめ排除されている。

つまり、まさに太田さんの言うように「美しい景観」は方便であって、あくまでもこれは「活性化」のための構想なのである。そして、この構想を政治的に正しくするために「賑わい広場」というような、ラ系言語が動員されているのだ。

2006年8月21日

杉林のゼロゼロ。

先週、秩父に住む友人(以前にご近所だった、お世話になった方)のお宅を訪ねた折りに、秩父近郊(の山中)にある、北緯30度、東経139度へ行ってきた。

DCP: 36 degrees north, 139 degrees east (visit #2)

いや大変だった。遭難するかと思ってしまった。

アプローチを間違えて、山の反対側から登ってしまった。引き返すのが悔しくて、というか、このまま尾根を越えれば簡単にたどり着くだろうとタカをくくって、強引に杉林へ踏み込んだ。結局、小雨降る、夕暮れの急斜面の山林を1時間以上もさまよい続けた。「登山」のつもりがなかったので、きわめて軽装で。水筒も持っていなかった。足だけはなぜか軽登山靴に履き替えていたのだが。

斜面は非常に急峻で、所々浮き石があったりし、薮も深く、シャツはどろどろになり、いつの間にか眼鏡をなくしてしまった。GPSの電波はたびたび途切れるし、携帯も通じないし、足を踏み外してケガでもしたら真面目に危ないところだった。。。

「どうしてまたそこまでして、こんな役に立たないことに固執するんですか」と問われれば返す言葉もありませんが、そういう野暮なことを聞く奴には用事はないので、どうぞこちらからお帰りください(←不必要な開き直り)。

建築/都市フィールドワークメソッド重版。

「建築/都市フィールドワークメソッドが重版とのこと。

時間はかかったが、それでも3000部売ったのだ。
おめでとうございます田島さん納村さん久野ちゃん。

編集部に再校正のゲラをいただいたが、さすがにというべきか、3年以上も前の原稿にはいささか現在の気分との温度差もあったりし(あらためて目次を見るに、PhotoWalkerについて書いている田中さんとか、都市のリサーチを書いている塚本さんとかも、そうかも)、とはいうものの、それはそれとしてなお、街歩きへのイントロダクションとしてはなかなか優れた本であると、特に関東学院の建築で去年Design Studio2を履修した君らは、今年履修する後輩たちに強く勧めておくように。よろしく。

2006年8月18日

アンフィシアター・アパートメンツ

「公開講座(フォーラム)・都市の血、都市の肉〜千年持続学第5回フォーラム」を拝聴してから、ほぼ1年半。
身辺メモ: 都市の腸詰め(血と肉)

ルッカの円形劇場遺構中庭付き住宅地のペーパークラフト販売してくれないでしょうか。アセテートで。

アセテートから、「都市の血肉」がシリーズで出版される。しかも、

アセテート編集者日記

ただいま編集中の『ルッカ 一八三八年』の付録、円形闘技場遺構のペーパークラフトが本日届きました。

うおおおお。これは買うぞ。

編集出版組織体アセテート‖シリーズ・都市の血肉‖彰化・一九〇六年 青井哲人

ここ、これは買うぞ。

アセテートの「都市の血肉シリーズ」の紹介ページには、Google Mapその他の参考リンクが掲載されていて、これも非常に面白い。うーむ。中谷さんが「読みたい本が出ないなら、出版社を作ってしまえと」思ったという意味が少しわかったような。

人間のために都市があるのではない。都市のために人がいるのだ。

これが何のことやらわからないラ系の諸姉諸兄は、10+1 No. 37「特集:先行デザイン宣言」を購入して読むように。上記は、記事の終盤でいささか逆説的に述べられている「機能は形態に従う」というテーゼと同じ意味のことだ(あるいは、都市のなかで「巨樹」になっちゃったケヤキやサクラが、それ自体を保存する「運動」を誘発する強さを持ち始めたり、ケヤキの枝振りや樹高を参照することが建築の設計の「正しい作法」になったりすることを思い起こしてもよい)。件の日本橋問題にも、有用な補助線を引いてくれる視点だと思う。

2006年8月15日

Forget Me, Nuts

物覚えが悪いというか物忘れが激しいというか、何かの拍子に、よく知っているはずの地名とか、最近のプロジェクトの名前とか、自分でもびっくりするような重要な単語が、とっさに出てこないことがある。

ことに人名が弱い。顔はおぼえているし、どこでどういう状況で会ったか、というような、舞台背景は克明に微細に覚えていたりするのに、名前を簡単に忘れてしまう。最近出会った人ばかりではなく、けっこう長い間、頻繁に会っている、仕事上のつきあいのある人の名前を忘れてしまい、名刺を見ながら電話をかける際に、果たして正しい人物にかけているのか自信が持てずにドキドキする、などということがしばしばある。

かなり身近な人物の名前が出てこないこともある。たまに、相手がすぐ目の前にいるのに、名前が思い出せなくて呼びかけられない、などという信じがたいことが起きたりする(さすがに家族の名前を忘れたことはないけど)。

先日、ロンドンへ向かう機上で「明日の記憶」という映画を観て、それ自体は心にしみる映画で、出演俳優たちの演技も申し分なく、舞台設定である主人公の職場や仕事の雰囲気にも迫真の緻密さがあって楽しんだけど、中盤に出てくる「若年性アルツハイマー検出テスト」のところで、思い当たる節がいくつもあって、いささか不安になってしまった。

でもまあ、他人に「そんなことよく覚えてるな」と感心されるようなこともあるにはある。そういう意味では、記憶力が全般的に弱いというよりも、ある特定の固有名や人名、日付など、自分が記憶できない(あるいは無意識に忘れようとする?)物事や言葉に何らかの傾向があるのかもしれない。よくわからない。そもそも事例を忘れているので分析ができない。

いや待てよ、自分が「よく覚えている」と自覚している物事の範囲はしょせん、自分が覚えている範囲でしかない。つまり、自分が覚えていることだけ思い出して「俺は100%覚えている」と感じているに過ぎない。つまり、僕の記憶力が、仮に人間の標準からして30%くらいだったとしても、僕にはそれを自覚するすべがない。おお。これはおそろしい。

記憶力の低さと同じ症候なのかどうかわからないが、物を頻繁に置き忘れる。傘は言うに及ばず、手帳とか財布とか眼鏡とか電話とか免許証とか各種カードのたぐいとか、いれたばかりのコーヒー入りのマグカップとか、およそ「携帯するもの」で「身体から離して使う機会があるもの」はおおむねどこかに置き忘れたことがある。飛行機の座席にパスポートを置き忘れて出てきちゃったこともあった。これまではだいたい、一緒にいた友人や、お店の人や、拾ってくれた親切な人に助けられて事なきを得てきたが、もしかすると、どこかへ置き忘れたまま、そのこと自体を忘れてしまった、すごーく大事だった何かがあるかもしれない。
もう思い出さない大切な何か。
うう、そういう可能性を考えただけで悲しい。

「Foot Pod」

Garmin Foot Pod GPS Review

ほほう。「Foot Pod」。
GPSの電波が受信できない、屋内のような場所で、足首につけた「電子万歩計」がForerunner305に「距離」と「速度」を送信する(Garmin社のプレスリリースによれば、「調整すると99%の精度」で)。10月発売。

「位置」はさすがに、まだ無理なんだろうな。原理的には可能な気もするが。

「Geo Walker」のパクリ、じゃないだろうけど、同じようなところへやってきましたね。田中さん。

神田にて、日本橋について。

「緊急討論:首都高速埋設と日本橋川の景観を考える」が無事終了。

予想を遙かに上回って面白い、充実したパネルディスカッションであった。

最初に五十嵐さんによる、景観論の現在、というか「『美しい景観』観を正しくせんとする近年の風潮」への疑念と批判のプレゼンテーション。論旨は、「日本の現在は(特に景観が)駄目です。美しくも正しいのはこれです」というオフィシャライズを国レベルが主導しつつあることへの反発と批判。日本橋については、説得力のない、何とも胡散臭い『美』という理由だけで五千億円もの公費が投入されようとしている事実について、何か誤魔化されているような、騙されているような、これが端的に「嫌だ」ということ。

「景観の美しさはあくまで相対的な、いわば『趣味』の問題だ」という「事例」として五十嵐さんが提示した、大学のクラスで、学部1年生を対象にした「美しい景観、醜い景観を、その理由をつけて採集せよ」という課題の提出物の一部が、ほとんど衝撃的だった。あれがほんとうに「フツウの感覚」だとすると、僕自身もかなり認識を改める必要がある。それから、あの課題を提出した学生たちの、三年後の変化を、そこに現れる大学の「建築教育」の「エフェクト」を見てみたい。

その他、平壌の「美しい景観」や、ソウルの清渓川プロジェクトなど、五十嵐さん一流の「割り切れない事例」の紹介。「景観を笑う」から「景観は記号ではない」までの、ダイジェスト・フラッシュという感じのプレゼンテーションだった。

次に、太田さんによる、「今一度、都市に参加しよう」という趣旨の発表。いわゆる「景観狩り」は目くらましであって、あれに拘泥していてはいけない。たとえば日本橋の問題は「都市」の問題であり、「東京」の問題である。首都高は、都市のインフラ、高速道路ネットワーク全体からきちんと捉えるべきであるし、今後どうするかという問題は、都市の公共空間をいかに創出し、つないでゆくかという課題であり、契機なのである。

太田さんのプレゼンも、事例や参考図版が多岐に渡っていたのだが、指摘していた「問題」のエッセンスはこういうことである。1.もっと声をあげ、集まってきてよいはずの多くの(若い)建築家が孤立していること。2.そうした人たちが情報から疎外されている(というか、物を知らない)こと。3.そしてそういう人たちが集まって情報を交換したり発表したりする媒体がないこと(カーサ・ブルータスはあるのに、チッタ・ブルータスがない)。

上記、2については、太田さんらの努力がコンパクトにまとまった労作がある。
SUR | Home

太田さんに言わせれば、日本橋川に蓋をしている首都高はやはり、あの場所にあってよい公共空間を、都市のアクティビティを阻害している。その意味では、費やされる5000億はまさに都市の活性化のためのお金なのであって、それは「誰かが勝手に使う」ものではなく、「俺たち(都市に参加するデザイナー)の設計料としてその一部が回ってくるかもしれないお金」なのだった。

それから、村山さんによる、アメリカのボストン、シアトル、サンフランシスコという三都市における、高架高速道路を埋設しつつ都市再整備を行っている、あるいは計画している事例の、主に合意形成のプロセスの紹介。

市民が参加しているワークショップの様子や出てくるアイデア、絞り込まれて図化された候補案の様子、工事の過程など、大変そうだけど楽しそうで、その水準もえらく高くて、なんだか羨ましいような事例だった。

村山さんが総括していた、それぞれの「プロ」の役割は、1.建築(ラ系でもいいが)はとにかく、描いてみせることでその話題をホットにする。2.都市プランナーは「プロセス」を提案する。3.メディアやNPOはそういうステージを提供する。4.行政が責任をもってコーディネートする。

特にボストンの事例は、日本橋の話題にもよく引き合いに出される、有名なプロジェクトである。ただ、アメリカのそれぞれの事例と首都高のそれがいささか違うのは、アメリカの場合、どれも、高速道路の老朽化やどうしようもない渋滞など、インフラの機能が低下・不全化したことへのエンジニアリングとして道路の「改良」が行われていることであり、「都市再生」はそれを契機として、付随して行われているということである。その点、日本橋はやはり、お金が投下されてバラ撒かれることが先に決まって、あとから「日本のシンボル景観を取り戻そう」というお題目をかぶせたみたいな感じではある。

パネル三人の三者三様ぶりはとても有効だった。後半のディスカッションも、場所が適度に狭かった(マイクなしで充分な人数と面積だった)こともあって、指名した会場の人(主に伊藤さんや磯さんや田路先生だったりはしたのだが)も活発に応じてくださったし、あとで聞いた反応も非常に良かった。あとで知ったが、地元の商工会の青年部の人たちなども多く来られていて、けっこう地に足の着いた「会場」だったのだ。来場者の何人かでも、背中を押されたように感じてくれていたらいいなと思う。もっと造園の連中を誘えばよかったなあ。「調布市民」が唯一のラ系来場者だったかもしれない。

行きがかり上、五十嵐さんの論考をダシにして、つまり五十嵐さんの「美百批判」で釣っておいて、それを太田さんが掠って先へ連れて行く、みたいな構成になってしまったので、後半は五十嵐さんの主張があまり検討されなかったけれど、僕にとっては、それぞれの論点や対象を再確認することができ、腑にボタボタと落ちたセッションであった。

五十嵐さんは、日本橋問題を、セキュリティや祖国愛や外来生物法や、そうしたものに共通する「風潮」のひとつとして見る。そして、この問題にはそういう側面がたしかにあると思う(太田さんも、その点を否定しているわけではない)。僕はこれはけっこう重要なことだと思う。というのは、難波和彦氏がウェブ日記で指摘しておられたことでもあるのだが、都市のハードウェアの「良質な」デザインが、必ずしもそのまま都市のアクティビティを生むとは限らないからである(もっとも、ピクニック運動を実践している太田さんはその点でも強いんだけど)。

むろん、「美しい景観」と「都市のアクティビティ」も必ずしも相関しない。横浜の中華街なんか、「美百」的にはメチャクチャな「景観」だが、たとえばすぐ傍のMM21と比べれば、「アクティビティ」はほとんど「明暗」をなしている。そして、「景観」がそういう街路の賑わいや街区自体の魅力をも含むものであるなら(本来はそうあるべきだが)、中華街は断然「美しい景観」をもっている。

だから、「五十嵐さん的リテラシー」をもって太田さんの主張に接する、というのが、この議論を有用にする、と僕は思う。太田さんの主張は、理念としては、首都高が埋まるかそうでないか、とは関係ない。それは単に「手法」に過ぎない。はずである。首都高が現在のまんまでも、あるいは道路が埋設されても高架の構造物がそのまま(解体費用が節約できる)でも、アクティビティと地域の連続性とが飛躍的に向上!というようなアイデアが選択肢にあってよい。ところが現状は、やみくもに「まず首都高を埋設する」ことが「前提」になっている。話が逆なのだ。五十嵐さんが批判しているのはその点なのである。

それで、まあこういうことを書くとまた太田さんに「議論を拡散しているだけだ」と叱られそうだが、東京キャナルのとき、WEST8のエイドリアン・グーゼが提案した、首都高の上にさらに、現代の技術と意匠の粋を尽くした巨大なアーチを架構し、一方で現在の日本橋の「下」に、江戸時代の木造の太鼓橋を再現して水に沈める、というのは、いままで見聞した中では最も冴えた「案」だったなあ。皮肉っぽい提案ではあるけれども。

あと、「本題」とはいささかずれるが、五十嵐さんがプレゼンの中で触れられていた「外来種法」関連で、隊長に入れ知恵として。

「ブラックバス問題」は有名ではあるが、もっとあからさまに極端な事例がある。
和歌山混血ザルはなぜ問題か?

農作物被害防止のための野生動物の個体数管理に、「遺伝子汚染」という「理念」が入り込んできて話が逆転し、結局タイワンザルとその「混血」を捕まえて殺してしまうことになったのだ。涙が出るな。これ。「ニホンザルの純血を守る」なんていうキャッチを聞いて、前世紀のドイツのあれを思い出さないほうが無理である。

ある種の思潮がドミナントになってゆくことで受ける「抑圧」は、喫煙者である僕はすでに体験している。いや、やっぱり吸うほうが悪いよ、というヤツとは付き合うつもりはないので帰っていいぞ。

あと、これも本題とは関係ないが、生まれて初めて「司会」というのを拝命してわかったこと。
司会は、各人の発言を聞き漏らすことができないため、終始まったく気が抜けない。がっくり疲れる。おまけに途中でトイレに立ったりできないし。機転が利いて気配りが良くて我慢強い、という、僕の性格から最も遠いキャラクターが「司会」にふさわしいのだった。冷や汗をかいた三時間半であった。ふー。

2006年8月12日

機上にて。まとめ書き。

最近の月光仕事。


7月20日(木曜日)。
「東京の凸凹地図」を企画した会社の方が、同じシリーズの「日本列島の地形」の本を送ってくださった。

・千葉達朗編「日本の凸凹」技術評論社、2006。

「赤色立体図」という、独特の地形表現法で描かれた、日本の地形。
すごい。としか言いようがない。海底地形を含めた、地殻の上に乗っかってる日本列島の様子。
1mメッシュデータ(!)を立体表示した、有珠山や浅間山や三宅島。生々しい赤色と相まって、なんか、まさに地球の皮膚というか、内蔵が見えてるような感じ。

さらに、この「地表系シリーズ」の、次なる本の企画の相談に乗って欲しい旨、メール頂いた。
速諾。


7月29日(金曜日)。
韓国のテレビ局から、取材の申し入れのメールが届いた。
ネタは、やはりGPS地上絵。なんと、翌日の土曜日に撮影したいという。普通ならあっさりお断りするところだが、メールは丁寧できちんとしていたし、どうやら思わぬ事故で、日程や取材先の予定が狂ったらしくて、相当せっぱ詰まっている様子だったし、「まあ、それじゃあ、日韓交流にささやかに貢献するということで」と引き受ける旨お返事した。

そうしたら、画像ファイルが送られてきた。番組のタイトルを描いて欲しいという。ハングル文字で。

あのですね、それは無理です。線が切れてるし、僕の自宅の周囲に丸い道路なんてないし、第一、こういうの「見つける」のが一番難しいところで、最初から「お題」が決まってるのは本来のやりかたじゃない(とはいえ、これまでのメディアの取材はそういうのばっかりだったが)し、こんなの翌日にやるなんて、さっき僕が送ったメールで述べたGPS地上絵の「原理」を読んだでしょう?自転車で走る「ふり」しかできませんからね。と電話口で罵倒し、それでもつい、自宅周辺の道路地図を印刷して、通勤帰路、眺めていたら、近くの公園の一部を利用して描けそうなところを見つけてしまい、そうなると面白くなってきて地図をひっくり返して鉛筆で下書きし、自宅へ帰り着くまでにコースを計画してしまった。

そういうわけで、土曜日、1時間半くらいかけて首尾良くやり遂げた。妻が仕事で不在だったため、子供2人乗っけた自転車で。暑かった。2キロぐらい痩せたんじゃないかと思う。ハングルは感動的にうまく行った。韓国のテレビのディレクター氏は大喜び(当然だ)。

翌週、テレビでの放映後に、教わったパスワードでテレビ局のサイトにアクセスし、ストリーミングで番組を見た。自分の「外国語吹き替え」を見るのは初めての経験であった。今度、木下先生夫人に見てもらおう。どういう風に紹介されてるのやら。


8月2日(水曜日)。
大阪の忽那氏が、「マゾヒスティック・ランドスケープ」と、雑誌「OSOTO」を送って下さった。
「OSOTO」は、大阪の公園協会をスポンサーにして編集、出版している模様。紙面は最近のスローライフ雑誌風で、名前もいかにもベタだが、記事はなかなか気が利いていて、その一生懸命さに好感が持てる。「『マゾ』は駄目だけど、雑誌はいいですね」という旨、メールしたら、返信で原稿依頼を頂いてしまった。
しまった。誉めるんじゃなかった。じゃなくて、上手いなクツナさん。ううむ。


8月4日(金曜日)。
新建築の原稿をなんとか書き上げて編集部へ送る。

翌日、そのページに載せる写真を撮りに、家族みんなに付き合ってもらって自転車で府中へ行った。
さすがに、5,6世紀を経ている大國魂神社の参道のケヤキはものすごい。これに比べたら、最近やたらと奉られている明治神宮表参道のケヤキなんてほとんど「若木」に見える。

あと、府中市美術館の前庭が、ササがはびこってすごいことになっていた。株立ちのシラカシが伸びて、丸く刈り込まれていてなんとも野暮ったい。繊細なデザインだけに、維持管理が「外れる」と痛いなあ。竣工当時は目を見張るほど感動した庭だったが。


8月8日(火曜日)。
エクスナレッジ・HOMEの編集部から、「ザ・藤森照信」が届く。

目次に僕の名前があるが、これは編集部から「200字以内で一言」と依頼されて、そのメールへの返信で「はいよ」と書き送った駄文なので、飛ばし読みください。

それはさておいて、これは買いだぞ。本城直季さんの写真もおそろしいほど「はまってる」し、それぞれの記事も非常に面白い。「質問状」というコーナーでは、難波和彦氏のサステナブル建築への批判の「落とし前」もあったりする。巻末のほうの、岡崎乾二郎氏との対談がすごい。ちょっとやばいくらい。「袋とじ」にしても良かったんじゃないだろうか。ガキは読まないほうがいいぞ。まじで。

あと、先週、テレビの取材の打診をふたつ、番組の企画の相談をひとつもらった。
ウェブマガジンの取材依頼もひとつ来た。これは、いきなり日程を寄越したので、そんなの対応できないです、と書き送ったら、返信がない。


以下、最近の通勤本メモ。

・佐藤卓己「メディア社会—現代を読み解く視点」岩波新書、2006
これは面白かった。ネタ満載。新聞の連載をまとめた本なので、短編集みたいな趣だが(そのため、「議論が深みに欠ける、という批評がオンラインに散見されるが、じゃあ「深い」ってなんだよ)、少なくとも最近立て続けにいくつか読んだ、ウェブ2.0系の「いままで見たことがない世界が広がっている」と、単に「見たことがない」人が騒いでいる本よりは遙かに、256倍くらい面白かったのだ。

・大場秀章「植物学の楽しみ」八坂書房、2005
・三井誠「人類進化の700万年」講談社現代新書、2005
・小松左京「天変地異の黙示録」日本文芸社、パンドラ新書、2006
・佐伯啓思「『欲望』と資本主義」講談社現代新書、1993
・小田中直樹「日本の個人主義」ちくま新書、2006
・諸富徹「思考のフロンティア・環境」岩波書店、2003
・伊勢田哲治「哲学思考トレーニング」筑摩新書、2005
・春日武彦「奇妙な情熱にかられて」集英社新書、2005
・仲正昌樹「『分かりやすさ』の罠」ちくま新書、2006
・檜垣立哉「生と権力の哲学」ちくま新書、2006
・吉井譲「論争する宇宙」集英社新書、2006