2007年12月28日

サーバー引越し。

これは快適だ。

しかし、 ついでにMT4にしたのだが、なんだか、あまりに変わりすぎていてよくわかんなくなってしまった。
またこれから時間をかけて馴らさないといけない。うむ。

2007年12月24日

平和な時代の野放したち

あなたはどの指導要領?

なるほど。つまりおまえらは、小学校1年から6年まで真性ゆとりな世代の最初の大学生であって(以下略)


いやいやいや。全身「現代化」されたはずの俺がこのありさまだ。学習指導が全部を決めるわけじゃないや。


年代といえば、僕の周囲の、60年代から70年代前半くらいにかけて生まれの年代の連中には、「すぐ年上の怖いお兄さんお姉さんたちがいなかった」という実感が共通しているようで、この間、田島さんたちと「俺たちは『野放し世代』なんじゃないか」という話が出たのだが、これはなぜだろう。ある学問分野では、20年周期くらいで人材が一種の縞枯れ現象を起こしているという説があるらしい。必ずしも悪気があるわけではないのだが、若い人たちに対してもつい本気を出すというか、余裕がない我々の年代は、少し年下の連中にとっては相当に鬱陶しいアニキ・アネキなんじゃないか、と先日、地図メカが言っていたのを思い出す。

・・・いや。やっぱり、世代も年齢も、なんのアドバンテージにもならないな。みんな、手抜き禁止。


via:昔から「ゆとり」だった (Motoe Lab, TU)

Habitation of the Dragon

Das Otterhaus:『ジャンクション』

竜の生態は都市の高速道路とそっくりである。だから悪い景観とか言っている場合ではない。これはむしろお祭りしなければいけないと思う。何でも地下に隠し、地表は西欧を模した街並にする、なんてことしたらせっかく住み着いた竜が逃げることになるぞ。

そそそそそうか、ジャンクションは竜だったのだ。だから川に棲むのだ。千鳥ヶ淵から三宅坂へ曲がってくるところなんか、「昇り竜」だな。あれは。

以前、大山さんが、高速道路って車の流れだから、川と一致してるのは自然なんじゃないんですかね、と言っていたことがあった。たしかに、地形と「流れのインフラ」が合ってるところはそれぞれがハマって見える。飯田橋のあたりなんか、外堀通りと首都高と中央線が重なって、インフラの「束」になった箇所があるが、外堀のあの部分は神田川の谷の流路にばっちり合っていて、地形的には余裕で受け流している。

首都高の日本橋あたりはその「流れ」にいささか無理があって、不要な減速を強いているという指摘もあるらしい。日本橋川は江戸時代に付け替えた人工河川だから、そういう「軋み」があるのかもしれない。だとするとむしろ、都心環状線は、日本橋川が建設から300年を経て、ようやく竜の生息場所にまで成熟した証なのかもしれないぞ。

そういえば僕は辰年生まれだった。関係ないけど。

2007年12月21日

Googleのバックアップは誰が取るのだろう。

先日、Googleの「デベロッパー・カンファレンス」でお会いした古旗さんと、似たような場所でお会いする機会があり、その際に出た話。というか、古旗さんのひとことに目から不透明なウロコ群が音を立てて流れ落ちた話題。

古旗さんいわく「1000年もしたら、いまのデジタル情報なんていっこも残ってないんじゃないか」

ちょっとショックだが、考えてみたら確かにそうかもしれない。普段はあまりそういう風には考えないが、情報がデジタル化されることは、その情報の永続性をぜんぜん保証しない。

僕の手元には様々な媒体に記録した(つもりの)、業務上の、あるいは個人的な、情報アーカイブがあるが、そのうちのいくつかは3.5インチのフロッピーディスクであって、すでにこれを読み出す装置が会社にも自宅にもない。僕の両親の家に行けば父親のPCに確かドライブがついていたが、あれはWIN機だ。MacのOS、それも漢字talk6なんてので作ったディスクはもう、読めないだろう。せっせとコピーして保存したのはほんの10数年前のことだ。そういえば先日、数年前に手伝ったプロジェクトの図面を参照する必要があって、データを探したら、媒体がMOで、MOドライブを探して大騒ぎしてしまった。これもそのうちに、記録はある(はずだ)けれども読み出せないメディア、になってしまうかもしれない。ラベルが書いてないディスクなんか、何が保存してあるのかすらわからない。思えば自宅にも、8ミリビデオやベータのテープが箱に入ったままどこかに仕舞ってあるが、少なくとも家の中にはあれを読み出すすべはない。デジタル記録媒体の「トレンド」に沿って、つねにコピーし直して保存していればそれは「再生可能」な形式として残っていたのだろうが、そしてまさに僕も最近、VHSに記録した様々なビデオ情報をハードディスクやDVDに移してみたりしつつあるが、実際にそうやって新規に保存するものなんてほんの一部だ。そんなにマメにやっている人なんてあまりいないだろう。そのうちにカビでも生えて、物理的に劣化してしまうかもしれない。その際、そこに保存してあったはずの何かはどこへ行っちゃったのかというと、単に「失われた」のだ。

先日の元永さんのお話で、非常に気軽に驚くほどの量の記録を残すことができる時代だということに目からウロコだったのだが、古旗さんの話はそれはそれでかなり考えさせられる。わが家は4年前あたりから完全に「デジカメ期」に入り、子供の成長や家族の記録のほとんどは「データ」になった。住所録から講義のパワーポイントからGPSのログまで、ここ最近の「記録」はほとんどデジタルデータだ。そして、そういう大事な記録群は、うっかり外部に置きわすれて雨にでも濡れたら一発で消えちゃうくらいの「もろい」装置に入っている。CDだって、何かの拍子に踏んづけたらお終いだ。「もろい」というなら、たしかにフィルムや紙も物体としては脆い。でも、100年も昔の、祖父の幼少時の写真なんてのは、実家の納戸に物理的に残存している。閉じた本や手帳は火事に遭っても中までは燃えないらしいが、ハードディスクやCDなんて、炎天下の自家用車内に放置して変形しただけで読み出し不能になる。データが「データ」であるのはその「再生」による再現が前提である。しかし、その保持と再生の仕組みは、実は弱い装置に頼っている。ネットに「上げた」画像やテキストだって、つい、ローカルに保存するよりは永くありそうに思ってしまうが、それもネットを漂っているわけではなく、結局はどこかの記録媒体に「物体的に」保存されているのであって、それがどのくらい永く保存されるかなんて、誰も何も約束していない。記録は容易にできるようになったが、同時にとても脆弱になった。なのに、「データで残ってるから」、出力した「物体的媒体」は簡単に捨ててしまう。

何かの事情でわが家が無人の廃虚になったりしたら、100年後、発掘調査者は家族の記録が2003年ごろにぱったり途絶えているのを発見するはずである。何だかんだ言っても、僕らは「物体的な世界」で生きている。最後の勝負は「物体としての強度」である。いやもちろん、そんなに永続的に自分の記録が残らなくってもいいじゃんか、という話もあるんだけどな。

■追記:

コメント頂いた数人の話がそれぞれ面白い。

僕は必ずしも、記録の「不死」を願っているわけではなく、「デジタルデータだって、その存続の寿命は物理的には意外に脆い」ということに、端的にびっくりしちゃった、ということだったのだ。なぜそんな、考えてみれば当たり前だったことに驚いたのかということを後になってから考えるに、何となく、記録がデジタルになったことで、その記録が「メディアの物体的制約」から逃れたような気がしていたからじゃないかと思う。

情報のありかたを、「メディア」と「コンテンツ」に分けるという捉え方自体がもしかすると、「デジタル登場期」の、ややはしゃいだ一時的な見方なのかもしれないよな。ある友人が「ほんとうに大事なことは寓話として伝承される」と言っていたのを思い出したが、問題は「媒体の物体的強度」じゃなく、「作者の意図」ですらもなく、コンテンツ自体にあとから発見される「いくつか性」なんだったりして。

2007年12月14日

Japanese Ultimate Nerve-racking Kingdom (JUNK)

Amazonから今日届いた。
ジャンクション
ジャンクション
大山顕著、メディアファクトリー (2007/12/12)

いやもう、総裁の「新景観」愛が横溢する、高速道路のジャンクション・写真集/観賞ガイド。同じ出版社から出ている、萩原雅紀さんの「ダム」と同じ装丁になっている。

全体を通して眺めてみて思ったが、僕は、邪魔物のない平地でゆったりと最適化されているジャンクションよりも、河川や既存のビルや住宅地に挟まれて立体的にのたくっているキツキツのやつのほうが好きなようだ。なんかこう、エンジニアリングの苦心が物体化しているような緊張感がある。その、こっちを向いて笑いかける余裕のなさが、禁欲的でよろしい。

ジャンクションの写真群はウェブサイト:日本ジャンクション公団でも見られるが、やっぱりこう、製本されて手に持てるのはいい。「本」のインターフェースってほんとに良くできていると思う。来年にはいよいよ「団地」が、「工場萌え」を出した東京書籍から出版される(はず)だが、どこまでゆくのかこのシリーズ。次に「グリーンベルト」なんてのが出たらすごいな。

さて、僕はこの写真集には、前作の「工場萌え」とはいささか違った感慨を抱いた。ページをめくりながら、なんか、ジャンクションに向かって静かに佇んでいる「鑑賞者の孤独」みたいなものを感じちゃったのだ。いや、「工場萌え」の場合、写真撮影とテキストと、複数の著者が役割分担をしたために、ややはしゃいだ感じがするだけなのかもしれない。「恋する水門」の佐藤淳一氏が、

工場とかダムとかって、何て言うか、栄養ドリンクみたいな使い方できるじゃないですか。見てて元気出るようなところがある。それに対して水門って、見てて元気が湧いてくるようなものじゃないんだよね。むしろ鎮静剤とか、睡眠導入剤の類に近い。(中略)『恋する水門』は癒し効果を狙ってお使いください。ダムや工場のように、にぎやかに盛り上がったりはしませんよ。

via: Das Otterhaus:使用法にご注意

と書かれているが、そしてたしかに、「工場見学ツアー」などでは、移動中は、半分は照れ隠しで、半分はお互いに気を遣って、「工場なんぞ観賞しに来ている私たち」自身のセルフアイロニカルな笑い話に盛り上がっていたりするのだが、実際に工場に見とれているときは皆、誰も彼もすごく無防備に孤独に静かに工場と向き合っている。

最後のページ、著者があとがきのように記している一文が素晴らしい。引用するのがもったいない。みんな買え。

2007年12月12日

良い植生、悪い植生

「住宅都市整理公団」別棟:偽物の、本物の樹

最近ようやく気がついたのは、郊外とか工業地域とかそういう場所の何ともいえないあの雰囲気を作っているのは、実は郊外建て売り住宅の列や大型店舗や工場そのものじゃなくて、植栽なんじゃないかと。
ほったらかしで盛大に茂ってるんだけどかなり人工臭いあれ。個人的にはかなりぐっとくる。

工場緑地の「奇妙さ」に気付くというのは炯眼です。あれはいろんな意味で興味深い存在です。しかも、造園関係者も含めて、まだ誰もあれらを「そういう目で」見ていない。

以下、僕は特にこれに詳しいわけではないのだが、イントロダクションとして。
スコK先生、訂正・補足お願いします。

>「この土地でほったらかしにしたらどういう木がどういう風に育つのか」
というのは、「潜在自然植生」と呼ばれるコンセプトである。私たちが見た16号線沿道の工場緑地が潜在自然植生に基づいた計画がされているかどうかは正確には知らないのだが、あの様子からして、高い可能性で、少なくともそれに近い樹種の構成だろうと思ったのだ。

「工場緑地」は、昭和40年代に公害が社会問題化するとともに、盛んに作られた。昭和49年には工場立地法が改正・制定されて、計画敷地面積のなかの一定の割合を「緑地」として造成しなければならなくなった。当時、緑地は「公害防止のための緩衝・環境緩和のための性能と量」が最優先された、いわばインフラだったのだ。近年、生産施設や研究施設が施設の性能としてあんまり公害を出さなくなり、工場緑地は企業のイメージや施設のより良好な環境の確保というような、付加価値的な「ランドスケープ」にその性格を変えた。近年では生物多様性というようなエコロジズム価値観からの「生態系基盤」施設という役回りが期待されつつある。ラ系用語でいえば「用」から「景」へのシフト。団地がたどった「団地からマンションへ」という歴史と似ている。「向こうに土木が透けて見える」という点で、あのなんとも宙吊りな「工場緑地」はたしかにちょっと面白い景観である。

「潜在自然植生」に基づいた緑地、というのは、そういう工場緑地の「建設」にあたって、しばしば参照された緑化手法である。もともとはドイツで提唱された概念で、宮脇昭という植物生態学の先生が留学していち早くそれを持ってかえって多いに広めた。簡単に押さえておくべきは以下。

  • ある程度の規模の植生(植物の群れ)は、放っておくと、一定の方向へ少しずつその構成種を変化させてゆく、ということが知られている。これを「遷移」という。空き地が草むらになり、薮になり、そのうちに雑木林になってゆく、というように。
  • 変化の過程で、いくつかの段階に特徴的な植物構成が見られ、そうした「組み合わせ」に名前が付けられて分類されている。「ウリカワーコナギ群集」とか「クヌギーコナラ群集」というように。それらはさらに、大項目に分類されていて、生物種の分類表のようなツリーを描いている。植物群は様々な種で組み合わさって一種の共同体を形成している、という知見を植物社会学という。
  • 植物社会学は、人の手が入らないで成立している植生と、人為が加わることで変わってしまっていると思われる植生を区別している。前者を「自然植生」、後者を「代償植生」と呼ぶ。
  • 最終的には、植生はその土地の環境条件のもとで、ある「相」に達して安定する、と考えられている。これを「極相」という。聞いた話だが、千葉だと、千葉大の園芸学部の南側の斜面が極相林らしい。
  • この観点からは、現在そのへんに見られる代償植生は、遷移を途中で止められた、いわば「極相への途上」だと考えられる。
  • 「潜在自然植生」というのは、この究極の植物相を、現在の気候や土壌や現存する植生の断片などから推測したもの。土地の条件は気候変動などによっても変化するため、厳密には「現在の潜在自然植生」という。

    環境省が提供している、第6回・第7回自然環境保全基礎調査 植生調査 情報提供ホームページにある、「用語解説」とか、「植生図について」(自然植生と代償植生のコンセプト)もわかりやすい。

    ウィキペディアにも、いくつか妥当な説明が載っている。基礎的な用語としては、このあたり。
    遷移 (生物学) - Wikipedia極相 - Wikipedia植生 - Wikipedia潜在自然植生 - Wikipedia

    宮脇先生の「日本植生誌」というものすごい労作があり、これについている「潜在自然植生図」が有名である。この図はちょっとした見ものである。

    「現存植生図」。植生が「都市化」をよく反映していることがわかる。ちなみに、薄いオレンジ色の部分は主に農地なのだが、植生図の凡例には「耕地型雑草群落」とある。農作物はあくまでも「植生」ではなく、農地は「農地に生える雑草が生育している土地」と記載されているわけだ。この厳密さは面白い。

    「潜在自然植生図」。

    これによると、たとえば首都圏のほとんどの地域は潜在自然植生的には「シラカシ群集」である。つまり、私たち人間がいなければ、そのへんは見渡す限りシラカシの常緑樹林で覆われることになっている。僕は、この図の、埋め立て地もあっさりタブノキ群集の濃緑色で塗ってる徹底ぶりもけっこう好きである。

    このコンセプトは、いくつかの興味深い「観点」を私たちにもたらす。ひとつは、潜在自然植生を補助線とすることで、植物群落を動的な「プロセス」として観察できること。いわば、「成熟したオトナ」というイメージを持つことで、若者を「若者」、子供を「子供」として見ることができる(そうでなければ、これらの人たちの様態は単に「小さい」だけだ)みたいなものである。

    さて、宮脇先生の活動の特徴は、こうした研究成果を学説として発表する一方で、この価値観をもって日本の国土を改善する「実践」を行ったことである。宮脇先生はこう主張する。潜在自然植生は、つまりその土地本来の植生であるからして、最も自然な「自然」なのである。しばしば、長年人の手が禁じられてきた場所、たとえば古い神社の境内などに、そういう植生に近い森が成立していることがある(鎮守の森)。自然な「自然」はつまり、その土地に最も合った植生であるわけで、強健であるし、その土地の地域性をよく現している(ふるさとの森)。急速な都市化によって破壊されつつある環境を緩和し、私たちが生きる基盤を守るには、このような「森」を多く広く育成することが重要であり効果的である(緑化)。本来は100年とかをかけて成熟するものではあるが、潜在自然植生の研究によって、もう「ゴール」がわかっているわけだから、最初からひとっとびにその「究極の森」の主要樹種を植えてしまえばよい。ドングリを蒔いて(トトロの森)ポット苗を多量に作り、高密度で植えまくる。最初の数年は雑草取りなどの管理が必要だが、その後は放っておけばあっという間に「良い森」になる。

    これは、「緑化」すべき広大な面積を抱えた企業や自治体には、夢の植栽手法である。初期コストが低い(ポット苗だから)。維持管理の負担も軽減される(放って置けばよいから)。道徳的に正しく、社会的に善である(地域の自然を回復するわけだから)。植栽基盤の造成にはプロの工事が必要だが、ポット苗を植えるのは素人でもできるから、住民参加や子供たちの動員ができる。おまけに「郷土の森」とか「ふるさとの森」と、タイトルがキャッチーだ。第一、趣旨が非常にわかりやすい。

    工場立地法の制定前後に作られた緑地は、いまでは多くが鬱蒼たる「濃い樹林」に育っている。京葉工業地帯では、君津の製鉄所の緑地なんか、ものすごいことになっているが、

    View Larger Map
    これは場内に種子から苗木を育てる圃場まで作って緑化した、典型的な「潜在自然植生緑化」として知られている。

    「ふるさとの森」づくり運動は、いまでも各地で盛んに行われている。この企業の「森づくり」はけっこう有名。各地の工場もさることながら、青山の自社ビルの周囲も同じコンセプトで緑化されていて、ちょっとした眺めだ。
    「ファスト風土」などと揶揄される、地方都市の均質化の先兵みたいに挙げられるこの企業も、非常に熱心に「ふるさとの森づくり」に取り組んでいるし、最近は新聞社の後援で小学生に参加させて行う「学校の森づくり」というキャンペーンもある。

    一方で、批判もある。「潜在自然植生」というのはあくまで現在の状態を手がかりに「推測」したものである。つまり誰も本物を見たことがない。なのに、この強烈なイメージが「正しい自然」として置かれてしまうと、現存するあらゆる植生がそれを軸に序列化されてしまう(より潜在自然に近い植生が偉い)。大山さんのいう「パラレルワールド」である。「良い植生と悪い植生」。でも、たとえば農村とその周辺で、人為的な撹乱を長年にわたって受け続けてねじ曲げられた「ゆるく管理された植生」のほうが、下手な極相林よりも生態的に多様であるとして注目されたりしている(いわゆる里山)。生物群はけっこうしたたかで、その状態が恒常的に維持されていれば、それなりのユニークな生態系が成立する。また、「究極の森」の予定調和的なイメージとは違って、近年では、極相林も倒木やその他のハプニングによって生態的な空白ができ(撹乱によってギャップが生じる)、森のあちこちで常に「プチ遷移」が進行したりし、ぼこぼこ沸騰するみたいに更新が行われているダイナミックな「系」であると見なされている。極相林であっても、決してそこで完結した「静かな森」ではない。おまけに、温暖化にともなって、地域の環境基盤自体が変化しつつある。いつまでもタブノキが「潜在自然」として通用するかどうかもわからない。また、常緑樹の濃い緑地は必ずしも「好ましい緑」にはならない。「本来の自然」っていったって、私たちの先祖は1万年以上も、それなりに手の入った緑と接してきたのだ。だいたい、人が暮らす以前から氷河期もあったわけで、どのポイントを「本来」と呼ぶのか、難しいところだ。

    ラ系は特に、「ふるさとの森」運動の実践が嫌いである。「損保ジャパン環境財団」の市民公開講座で、東京農大の近藤三雄教授は、セイタカアワダチソウだってキレイだぞ、とラジカルな主張をしている。
    環境公開講座2005.08.30 緑化の視点から外来種、在来種について考える

    ある学者が30年くらい前から「ふるさとの森づくり」という運動をしております。日本の西南の自然林の多くは常緑樹のスダジイやシラカシの林で、それらを使って緑化する活動を展開している。しかし常緑樹が生い茂る公園は薄暗く、公園として利用しづらいものになってしまった。本来、公園は人が利用する場であります。

    (ただし、ラ設計では、植栽デザインの「理論的補強」として「潜在自然植生」はよく持ち出される。僕もよく使う)

    参考図書:

  • Amazonで「宮脇昭」と検索するとぞろぞろと本のタイトルが並ぶが、内容はどれもまったく同じなので、どれを読んでもよい(笑)。

    近年の保全生態学的な植生の見方の入門書としては、↓が読みやすかった。

  • 鷲谷 いづみ「生態系を蘇らせる (NHKブックス)」日本放送出版協会 (2001/05)

    一般的な「植生」や「生態学」への入門として「クラシック」なのは、

  • 沼田真「図説 日本の植生 (講談社学術文庫)」
  • 沼田真「景相生態学--ランドスケープ・エコロジー入門」朝倉書店 (1996/10)
    特に後者は、沼田先生の「射程距離」に圧倒される。地形学の貝塚先生のような感じ。

    ラ系学生は最低、↓これを買うように。

  • モニカ・G. ターナー他「景観生態学--生態学からの新しい景観理論とその応用」文一総合出版 (2004/09)

    あと、手前味噌ながら、10+1のグラウンディング特集でこのサブジェクトに触れているので、お手元にあった場合はどうぞ。

  • 「10+1 No.42(2006)」INAX出版 (2006/03)