今年頭のムーンライティングが二つ、立て続けに終了。
ひとつは、中谷レーニン先生率いる「日本の民家再訪」プロジェクトの、僕が担当することになった回の記録と考察文。10+1の次号に掲載される予定。
当初、必要な文字数を適当に切り分けて、調査の参加者の何人かに割り振って、僕は図版を作る係とかでいいや、「担当」というのはそういうのを決めるのが仕事ってことで、などと安直に考えていたのだったが、胴元にはぜんぜんそういうつもりはなく、おまえが全部書くのだ、とあっさり言い渡され、先月はほとんど頭の中が甲州街道・新宿ー代田橋間で埋まり、いつものごとく精神的・身体的に相当じたばたし、たまに早く帰宅して子供らを寝かしつけているときでさえ、何かお話しをしてくれと長男にせがまれ、
「むかしむかし、あるところにコンワジロウという若者がいました。あるとき、コンワジロウは拡大する都市の端っこを見てみようと思いついて、甲州街道に出かけました」
「トシってなに?」
「・・・そりゃまた、いきなり核心を突いた質問だなミノリ。」
「カクシンってなに?」(以下略)
ところで、話がそれるが、最近、子供らを寝かしつけながらしばしば「いやいやえん」を読むのだが、あらためて読んでみると、淡々と穏やかな語り口なのに、じつは結構ぶっとんだ話である。クジラ狩りのエピソードといい、野生の子熊が保育園に入園してくる話といい、いかにも日常的な保育園の光景から何気なく逸脱していって暴走してゆくスピードがすごい。僕自身が子供のころに、これに魅了されたわけが何となくわかった。
さて、もうひとつの月光ジョブは、秋葉原UDXで開催されているこれのお手伝いであった。
http://www.sfa-exhibition.com/taikin.html
三谷さんからいきなり電話を頂き、こりゃスケジュール的に甲州街道と被るぞ、とは思ったものの、まあ新建築の連載ももう僕はやることないし、大学の演習も1月で終わりだし、声をかけて頂けるうちがハナなので、ぜひ、と安請け合いしたのだった。
当初、僕のプレゼンテーションは、これまで作ったもの(多摩ニュータウン解体撤去計画とか、東京下町水没計画とか)を出せばよい、という話だったのだが、これら、いい加減使い回し過ぎて自分でも飽きてきたし、今回の「ファイバーシティ」にまったく触れないのもあまりに芸がないので、少し、新しいネタを作って持って行くことにした。そして案の定、直前まで何をすることもできず、前日、ほとんど徹夜になってしまった。
「ファイバーシティ」というのは、東大の大野先生らが作られた、「今後、縮小してゆく都市をどう計画するか」という試案である。
http://www.fibercity2050.net/jpn/fibercity.html
いくつかの「戦略」メニューのうち、僕らラ系がもっとも目を引かれるのは、「グリーンフィンガー」という名前の、「東京計画・緑版」のようなマスタープランである。単純にいうと、交通体系を鉄道と徒歩に限ってしまい、駅からの徒歩圏・半径800mに「都市」を回収し、残りの「圏外」を「緑地」にしてしまう、というプランである。
会場にも展示されている、2050年の東京を描いた大きな模型では、建物が集中している鉄道沿線以外の部分には緑色のスポンジが敷き詰められている。そこで、こういうのを目前にすると、普段、その「緑色のスポンジ」の中身を担当している僕らとしては、例の「ラ系の困惑」を抱くわけだ。
「こういうふうに、駅を囲むコンパクトシティの連続として郊外を再編するのです」
「なるほど。それで、この残りの緑色は何になるんでしょうか」
「森です」
「・・・・え?」
とはいえ、あらためて見直すと、僕自身がこういう場で時々提案する「将来像」も、(半ば皮肉を込めているつもりではあれ)「残りを緑色に塗ってしまう」というオチが多い。その「中身」を検討してみるというのは、ラ系の貢献としてはそれなりに生産的ではある。
模型の端っこには調布市も入っているが、僕の現在の自宅も、今後引っ越す先も、両親が住む家も、ぜんぶこの緑スポンジの中に入っている。そこで、この「森」が実際にはどのように維持されうるのか、維持管理費の試算と、維持可能だと思われる面積をざっと試算してみたのだ。なぜなら、計画趣旨には、「圏外に住み続ける住民に、圏外のインフラの維持費を負担してもらう」という怖いことが書いてあるからだ。我が家のノリからして、僕らはこの「圏外」にあえて住む可能性は高いし。
すると、調布市に現存する農地や大学のキャンパスや都立公園などを除いても、常識的な管理費負担を前提にすると、まともに公園的に維持できそうなのは緑色の2割くらいのボリュームであって、残りの8割は「放置」せざるを得ないかもしれない、という結果になった。
僕のプレゼンでは、つい、まあ市街地の廃墟にワイルドな自然が回復してくるという風景もそれはそれで面白いんじゃないでしょうかという画像にして持参したのだが、やっぱりそこが突っ込まれどころになった。
たとえば近年、耕作放棄された農地や薪炭林で植生の遷移が進んでワイルドな状態になってゆく、いわゆる「里山の荒廃」が多く報告されている。もともと農村部のこうした土地利用は、植生の遷移のダイナミズムにいわば便乗して、地面が森になろうとする傾向に介入し編集することで成立している。だから、その介入が停止すると、「もとの自然」に戻ってゆく、とは言えるわけである。
しかし、実際に増えているそうした「空白地」、特に都市近郊にすでに拡がりつつあるこの生態的ギャップに「回復」しつつある「自然」というのは、資材置き場化したり不法投棄の山になったり、モウソウ竹が優占したり、クズなどのマント群落が暴走して林地の高木を枯死させたり、あんまりろくなものになっていないみたいなのである。
しかもそれも、農地という、相対的に「森林」に近い様相の「土地態」においてなのである。一旦、「乾いた平坦な広がり」を半永久的に確保する意図で整備された、完全に宅地化した土地が、破棄されてからいったいどういう「遷移」を見せるか。そのままでは「森」にはならなそうなことは予想できる。いや、1万年くらいのオーダーなら話は別だが、少なくとも2050年には、あんまり牧歌的な風景は出現していなさそうである。
大野先生は、縮小してゆく都市というのはこれまで誰も経験していない事態なのだ、ということを強調されていた。だが、マスタープランを拝見するに、そこに描かれている「都市の部分」はあくまでも「これまで見たことのある」風景に似せてある。
土地の「意味」という観点でみれば都市の本質はじつはそこにあって、「都市化」とは土地を「理解可能な範疇に置き換えてゆくこと」である、と言ってみるとすれば、コンパクトシティ化というのは、「これまで経験したことがない」事態の発生にあたって、先手を打って、都市域を「手の届く範囲」に限定してしまい、少なくともその範囲は「理解/制御」の対象とする、つまり、「これまで誰も経験したことがない」というリスクを、あらかじめ都市の外へ追い出してしまう、という構想だと言える。
そして、それは広大な「蹂躙されたあげくに見捨てられた地表」を作ることでもあるわけである。縮小する都市の「未経験さ」は「圏外」にこそあらわれるし、それは「徒歩で到達できるハッピーな森」にはならない可能性が高いのだ。
と、ここで締めくくればいかにも、「屋外機の目隠し植栽は建築工事ですからね」的なラ系からの批判というか愚痴というか、お約束の着地ではあるのだが、実は僕はこの緑色のスポンジの下に横たわるテラ・インコグニタのことを考えると、やっぱりある種のわくわく感というか、これはこれで面白いと相変わらず思ってしまうのだった。「団塊の世代」問題みたいに、「いずれ広大なリタイア土地が出現する」という設問はなんか、時流にも即しているし、長谷川さんが議論のなかで述べておられたように「維持管理」の「読み替え」はデザインの対象としてこれまであまり論じられなかったわりには重要な題材でもある。
農地や宅地や国分寺崖線や多摩川が入り組む調布を対象に、ファイバーシティをネタにケーススタディするのは面白そうだ。と思いませんか>調布在住の地表系諸姉諸兄。