2004年12月 8日

「消えろ首都高」

『日本橋コンぺ』入賞作決定:解説記事(東京新聞)

キャナルで話題になっていた「首都高のデザイン的再評価」みたいな既往研究はないんだろうか。

建築系の人(あくまで僕の周囲に限った話だけど。)に質問を差し向けると、たとえば日本橋の上の首都高について、みんな実に歯切れが悪い。なんか、建築の人は、エンジリアリング的リアリティに弱いというか、畏れを抱くというか、「強い必然性」へのコンプレックスのような傾向があって、土木的構造物のデザインに対して口ごもってしまうんじゃないかという気がする。往々にして、建築を律している(場合によっては具現化する)のは、いわば「弱い必然性」である。だから、建築家自身による「作品」解説の文章はえてして、それぞれがいかに必要なものであったかという説明に費やされている。そういう意味では、首都高なんてまさに「必然性の権化」である。

でも、「高速道路の、優れたデザインと劣悪なデザインの事例」が語られるようになったりしたら、土木はあわてて「景観的に良いデザインにするためのガイドライン」とかを作りそうで(目に浮かぶ)こわい。

造園/ラ系は、もともと嗜好としてアンチ近代みたいなところがあり、実際の仕事のフィールドの多くが、あんまり必然性と恣意性の確執が起きるような場合が少ないことが多いから、本音を言わせればほとんどみんな「取っちまえ」と言うだろう(『取っちまえ』という意見が主流だろうということを見込んでわざと天の邪鬼なことを発言する場合を除けば)。

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コメント

1000円払った価値は十二分にあったと思います。ありがとうございました。ぐるぐる考えていたことで、まとまっていないのですが、

東京カナルの考え方の中に工学、エンジニアの部分はないのか?ないと土木の人たち納得しないと思います。エンジニア的に見るとなると、何で測るか。○○は0.001PPMとすべしみたいな規制とか河川法とかの法律もある(ある、というより、作成した)。0.001PPMを境とするネガポジ?河川法の規定を境とするネガポジ。そういうところ、ランドスケープにもないですかね?もしくは話が全然違うのでしょうか。

ネガポジといえば予算もネガポジの切れ変わり目ではないか?

時間スパンは、土木構造物はすごく長い、土木は先のことをやっている。新宿地下に成田新幹線用の地下ホーム計画(もしくはコンクリート構造物がすでに)があったりする。

危機管理だったり、防災っていうことだと、うーん。やっぱり死んじゃいけない。木津川と東京とはそもそもちがう?のでは??

東京とそれ以外を一緒くたに論じるとダメなのだと思う。三面張りの護岸じゃなくて、水があふれてくるのもいい。やってみたい。でも、そうすると「今の」東京だと影響が大きすぎて、もし壊れたら、という安全側の(工学的)視点に立つと、できない。安全と予算とを手がかりにして、環境を解くとこうなってしまう、という例のような気がします、護岸。美しさと安全どっちが大切ですか?美しさと予算、どっちが大切ですか?と聞かれて、出した答え。土木で扱う予算は公共のお金を使うのもあって規模が大きいし重要な要素だと考えていると思います。予算のことでしばられるのは好きじゃないので、何とかならんかなあと思う次第です。

じゃあ、安全かつ低予算で美しいものを。美しいといった場合にそれぞれ人によって価値観が違うのなら、なおさら説得力のあるものを考えないとなあと思います。
土木の人たちを納得させるために、良さの方程式、美しさの基準を決める方程式をつくるとか、論文を書くのはどうですか?
って、言おうか考えてたら、なりそうで怖いと先にいわれてしまいました、残念。


長くなりすぎました。失礼しました。

せっかくなので、僕も書きなぐり。乱文失礼。

森本君の違和感というか指摘は実に当を得ていると思います。
たとえば神田川を改造して親水性を増そうという提案は、経済とエンジニアリングがタッグ組んでいる近代最強のチームに対して「伊達や酔狂や洒落」で挑むという竹槍攻撃なのだ、ということを、東京キャナルはよく自覚しておく必要があると思います。それは、「伊達や酔狂や洒落を考える係」としては、悪いことじゃないと思います。ほんとに、ある程度の損失や犠牲を払っても美しい街に住むことが幸福であると確信するなら。でも、その部分をいまひとつ開き直れずに、経済やエンジニアリングのキレッパシを貼付けて「リアリティ」とか言ってるのが不満です。というか、「説得力」っていったって、たかが知れています。これは東京キャナルに限ったことじゃなく、「酔狂係」全般に言えることなんです。美しい街のほんとの実現のためには、経済のシステム(つまり都市生活の様式そのもの)が大きく変化する必要があるだろうと思います。ならば、それ「込み」で「見てみたい風景」を描いた方がいいですよね。あきらめずに。エンジニアリングはエンジニアリングなんだから、それが守っているものが変われば応用の仕方ががらっと変わっちゃうわけで、そうなるしか、このタッグを解散させるやりかたはないわけですから。逆にいえば、伊達や酔狂の提案に対してエンジニアがする批判はしばしば、あくまでエンジニアが現行の「エンジニアリングへの要請」の枠の中でだけしか考えられないということをも示していると思います。

まとまりのない文章だったにもかかわらず、レスポンスしていただいてありがとうございます。「近代最強のチーム」「○○という係」と「エンジニアリングという枠の中」という単語がキーワードで気になります。メールでのやり取りみたいで恐縮です。

>たとえば神田川を改造して親水性を増そうという提案は、経済とエンジニアリングがタッグ組んでいる近代最強のチームに対して「伊達や酔狂や洒落」で挑むという竹槍攻撃なのだ、ということを、東京キャナルはよく自覚しておく必要があると思います。

伊達や酔狂や洒落で挑む係っていうレベルでしかないのでしょうか。それ以外に、美しいとかきれいを公共物に求めることとか他には住みやすいとか自分に近いところに持ってくるということとかをよりどころにして攻める係もあるのかなあと思うのですが。建築の人たくさんいるんだし。内部にいなかったので、よくわからないけど、やって欲しい。美しさや住みやすさが経済とエンジニアリングの「近代最強のチーム」にわりこんでトライアングルをなすっていうことをめざすような・・・。東京カナルがちゃんと大きさ決めて整理してキレイに考えられるレベルなのだから…うーん。やっぱり無理なのでしょうか。

>エンジニアリングはエンジニアリングなのだから、それが守っているものが変われば応用の仕方ががらっと変わっちゃうわけで、そうなるしか、このタッグを解散させるやりかたはないわけですから。逆にいえば、伊達や酔狂の提案に対してエンジニアがする批判はしばしば、あくまでエンジニアが現行の「エンジニアリングへの要請」の枠の中でだけしか考えられないということをも示していると思います。

「エンジニア」が、「現行」の「エンジニアリングへの要請」の枠の中でしか考えられない(もしくは考えがちである?)というのは大変的確だと思います。個人的に感じました。プレゼンのボードたちを見て、ああ、自分のいる分野と違う方向を向いているなあ、と思ったので。教授の方たちがボードたちを見て、何をいうかを想像したときにも、エンジニア的側面から絶対突っ込みいれるだろうな、と。

経済とエンジニアリング。個人的に思うのは、このタッグは「作る」ときにはすごいんですが、「作った後」を考えると、あんまり良くないのではないか。

それから、既往の研究、ってことですが、例えば 東京のインフラストラクチャー って検索すると、いろいろ講義ノートやらなんやらいろんなサイトがけっこうあって、びっくりです。

すみません、また書きすぎました。

>美しいとかきれいを公共物に求めることとか他には住みやすいとか自分に近いところに持ってくるということとかをよりどころにして攻める

でもさ、それって結局、コアは「美」だろ。

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