2004年4月28日

わたしゃ音楽家、山の子リス

> 一人称は「私」とすることにした。

上記、自分自身の(今年は切りのいい数字であるところの)年齢も考慮して、まずは身振りからオトナの雰囲気を醸し出そうという他愛のない企画だったのですが、「僕」文のほうがセクシーである、というメールが殺到(1通)し、しかもそれが敬愛するそれこそセクシーな女性からのメールだったので、撤回することにしました。どのみち、そんなにポリシーのある行動ではないのです。およそ全般的に。

・季刊 d/SIGN 7号。特集「環境と視覚」。
書店で何気なく手にとってみて、橋爪紳也さんの「ジオラマ都市考」という記事に惹かれて買ったら、これは大当たり。若林幹夫さんの「浮上するエコロジー」という論考がまた、目からコンタクトレンズが落ちるような話で、これは使えそうだ。他にも面白そうな記事がたくさん。

・鷲田清一「教養としての「死」を考える」洋泉社新書y、2004
・小島寛之「数学の遺伝子」日本実業出版社、2003


連休の予定をろくに立てないまま、連休に突入。とりあえず明日は祖母の誕生会で親戚が集合する。長男が、仕込んだ芸(山の音楽家のおどり)をうまくやり遂げることを祈る今宵です。

2004年4月27日

世間が許さねえ/シベリアからの風

http://homepage3.nifty.com/kazano/200404c.html#23_t1

なるほど。

いままで目にしたなかで、もっとも腑に落ちる話だと思った。なるほどそうか。

冴えてる人っているよなあ。「子供たちを責めないで」のパロディなんて、最高だ。

国際政治学的な水準や倫理的水準とは別に、僕が疑問に思っていたことはこういうことだった、と思う。

書棚に、阿部謹也「世間とは何か(講談社現代新書、1995)」があった(なんだ、読んでたんじゃねえか。しょうがねえな)。再読すべく、来週の通勤本として鞄に入れる。

くどいようだが僕は、人質の被害に遭った3人も、そのご家族も、それに対する「世論(?)」の反応も、どれも「今回に特別なケース」にするのはいやだ。僕はこうした気質を共有する集団にいて、僕自身もそういう傾向を強く持っているしそれは抜きがたい、ということについて、それをいわば手なずけつつ、どう自覚的に批判的になれるか、というのが今後の「懸案事項」である。

ただ、これは地域的にはどの程度日本に特有(というか特殊)なのだろう。韓国やタイやインドネシアやベトナムやチベットではどうだろう。あるいは、たとえばそれこそ進化心理学的には日本の「世間」はどう説明されるんだろう。


どういう加減か、気圧配置が経度線みたいにキレイな西高東低になり、札幌では雪まで降ったらしい、肌寒い日だった。本日。

体にチカラが入らないので、午前中はちょっと休養することにし、朝から風呂に浸かって、昼までひと眠りするつもりで、布団にころがって造園学会誌をごろ寝読みしていたら、木下先生が作成され、先日僕も校正した去年のシンポジウムの記録が載っていて思わず読んでしまい、アドレナリン値が上昇して眠れなくなった。くそ。

午後は居間に製図板を持ち出して仕事をした。日没後、タバコを吸いに外へ出たら、冬の空のごとき星空だった。夕食を終えてから、子供を抱いて散歩に出、降るような星空と三日月の下、近所をひとまわりした。

新人類としてのわたし。

(ところで、今後、オンラインの駄文も含めて、私が書くものについて、一人称は「私」とすることにした。理由は聞かないで下さい)

今週の通勤本。

大塚英志「おたく」の精神史 一九八〇年代論(講談社現代新書、2004)

「おたく」の発生時、最前線でその「現場」に居合わせた(というか関与した)という希有な場所からの、「八〇年代はなんだったのか」レポート、という感じ。これはネタ満載で、しかもなんというか、自分自身思い当たるフシありまくりで、そのほとんどはきわめて個人的な、思い出したくもない(実際、読んでいるといろいろと思い出す。ううむ。自分自身の精神史を総括してしまいそうだ)過去に関わっているので、こんなところに書くことがないほどだ。ドキドキする本である。読書的には、なんか「ふたを開けちゃった」という気持ち。森川さんの本も読まんとダメかなあ。ダメなんだろうな。

阿部謹也 世間とは何か(講談社現代新書、1995)

二冊、持ち歩いているだけである。並行処理しているわけではない。


今日は給料日後だし、久しぶりに仕事をぶっちぎって帰宅することにしたし、帰路、書店に寄りそうな予感。というか寄る予定。ちょっとだけ。ちょっと寄るだけで帰るんだからな。いいな。>じぶん

2004年4月23日

自分のスペアが欲しい。でも自分が二人もいるのはいやだ。

2004-04-22、相変わらずなんだかよくわからない文章だなあ。
風邪ひいてるのに無理するからだきっと。>自分


会議と出張とがほとんど隙間なく詰まった一週間であった。

おかげで作業の時間がとれず、週末に向けて仕事を家に持って帰る羽目になった。妻も仕事があるため、土曜日はコドモ(1歳半)を保育園に預けることにした。

ゆるせ。息子よ。スズランぐみのビニールの柔らかい積み木で遊んでくれ。

そのかわり、日曜日はたっぷり本を読んであげるからな。籠瀬良明の「2000年増補版・地図読解入門」とかを。カラーの地形図がいっぱい載ってて楽しいぞお。

2004年4月22日

僕の中の邪悪な市民について

「休むに似たり」の作者の方が疑問を呈していた、クライン孝子のホームページの「日記」を見た。

こ、これはすさまじい。ちょっと認識をあらためた。

僕が大学生の頃だっただろうか、和歌山県かどこかで、知り合いに面倒を頼んでいた子供が、川に落ちて水死したという事故があった。その子の両親が、その人を訴えたところ、そのニュースに接した、全国の少なくない人たちから「他人に預けたおまえが悪いんだろう、子供の死にかこつけて賠償金が欲しいのか、あさましいやつだ」という誹謗中傷が殺到し、結局その両親は訴えを取り下げた。

こういう、胸が悪くなるような出来事は、この国では「やまない」ように思う。

以前にも同じことを書いたけれど、「異物を排除する」という行動を起こさせる気分の「根っこ」は、系の攪乱を防ぐ本能的心理装置のようなのもで、この心理は通常、役に立っていると思う。というのは、日常業務の中で誠実に生産的である人に備わった、いわば心理的なスキルと「根が同じ」に感じるのだ。だから、最初のころ「態度が悪い」と文句を言った人の気持ちが僕はわかる。「家族が生命の危機に晒され、どのような凄惨な扱いを受けているかわからないなかで、照明とカメラに取り囲まれるという異常な状況」などを思いやるようになったのは、事後的に考えを巡らせてからのことだ。

僕も、人質被害者のご家族の最初の頃の会見のニュースを見たとき、その家族の一部の人に対して、何とも言えない腹立たしいような、嫌な気持ちを抱いた。それは、他の人たちのコメントを見聞きしたり、この出来事の意味や文脈について考えてみたりする以前に、反射的に感じたもので、たぶん僕の「気分系」のわりと浅いところに仕掛けてあったスイッチなんだろう。そのとき、たとえば路上でいきなりマイクを向けられたら、相当後悔することになるような、おぞましくもろくでもないことを口走っただろうと思う。もともと「正義の人」や「善意の人」が個人的に苦手だということもあるが、何よりも、僕が咄嗟に用意できる「思考の記述モデルと語彙」なんて、限られた貧弱な種類しかなく、とりあえず手元にあるものを差し出しちゃうのだ。

多くの人はえてして、言いようのない気分を抱えたとき、なにか、「単純」で「明快」で思考の負荷の少ない図式(たとえば『自作自演』)や常套句(たとえば『自己責任』)が「都合良く望ましい形」(今回のケースが例外的なものであれば、自分が対象になるような事態に陥ることはない)で差し出されてしまったとき、自らの考えを思わずそのモデルに「鋳込んで」しまい、最初からそう考えていたかのように思いこむのではないだろうか。情報網が発達したいま、「匿名市民の意見」の流通と増幅の速度は驚くほど速い。

僕自身は、辛うじて、自分が匿名や仮名で発言することがキライだし、テレビのニュースや、オンラインの流言飛語(掲示板の記事から、海外から送られてくる英文の「イラクの真実を知って下さい」メールまで)を真に受けることはしないくらいにはスレているつもりではいるけれど、でもなお、自分の中に、容易に邪悪に転じうる「匿名市民」がいることを否定できない。一方で、日本政府の意向や政策と無関係のような顔もできない。世論が味方しそうだと察してから急に口をそろえて被害者を吊し上げることにした、あと出しジャンケンみたいな政府高官の発言群は実に気分が悪い。でも、いまの日本政府が成立していることには、僕も少なからず荷担しているのである。

あらためて心に刻んだことは、すくなくとも自分の思いつきには、しつこく検討を加えるということと、「米軍とイラク武装勢力の衝突で、米軍は武装勢力側の20人が死亡したと発表した。」というヘッドラインの向こうに、リアルな風景を思い描く想像力を養う、ということだ。来月、日本のパスポートを持って、爆弾テロ事件の実績のあるイスラム教国へ出張するんだけど、なんか、飛行機の中では一睡もできないような予感がするな。とほほ。

2004年4月19日

春風邪の宵2

なんかいまひとつ調子が出ないまま、月曜日を迎えてしまった。


五十嵐さんの日記:
http://www.cybermetric.org/50/twisted_column/index.html
> あえて不謹慎な言い方をすれば、今回の事件はイスラムにおける日本の宣伝という意味では、
> ものすごい大きな効果をもっていたはずだ(広告費に換算しても)。

試みに、検索してみた。

今回の救出活動で、総額20億円くらいという憶測がある(20億とはまた桁外れだが、何に使ったんだ?たぶん外交官僚の人件費が高いんだろう)。
http://www.asahi.com/politics/update/0416/007.html

一方、自衛隊のイラク派遣には約135億円の予算が計上されている。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b159025.htm

ちなみに、こういうのもある。観光立国・日本を目指すための「景観形成事業推進費」が200億円。
http://www.nikai.jp/news_20031222.htm

外国人観光客を日本へ誘致するための宣伝費用(ビジットジャパンキャンペーン)の予算が35億円。小泉さんが外国のテレビCMに出演しているあれである。
http://www.nikai.jp/ganbattemasu/20040114.htm
日本のPRと、お客さんを迎えて恥ずかしくない「景観」を作るために、16年度の1年間で235億円が使われるのである。これがどのくらいの波及効果を持つのか、おそらく10年単位の時間がかかるだろう。

一方、少なくとも今回の救出劇で、小泉内閣の「評価」は数日単位の間に急上昇したみたいである。読売新聞の世論調査で、今回の政府の対応を支持する人が7割に達し、派遣そのものを指示する人も6割、ついでに小泉内閣の支持率も6割に達した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040419-00000013-yom-pol

これはすごい。100億円使ったってこうはいかないぜ。「20億円」を鵜呑みにしたとしても、「観光立国」予算の1割以下である。政府としては、表向きは当人たちに費用を請求しておいて、裏で10億円ずつくらい払い戻してもいいくらいなんじゃないか?

2004年4月18日

春風邪の宵

  • 庭の片隅で、カマキリの卵が孵化し、体長1センチくらいの焦げ目の付いたクリーム色のようないかにも生まれたてという感じの、しかし生意気にカマキリの形をした小さいやつらがわき出るようにぞろぞろと出てきた。
    周囲よりも少し季節の遅い我が家の庭では、カロライナジャスミンがフェンスを黄色に塗り潰し、アジュガとオキザリスとハナニラとギョリュウバイとスミレとタンポポとシャクナゲが零れんばかりに咲いている。アリウムが大きな蕾をつけて伸びている。こうしてみると実にタマネギっぽい。クレマチスもヒメエニシダも咲きそうだ。ヤマブキはシロバナの一重に限る。タケニグサが去年と同じ場所に生えてきたが、宿根草だったっけ?タケニグサ。

  • ISSHOの「ボクセル」のオープンハウスを見逃した。。。
    メールを頂いていたらしいのだが、気がつかなかったか、不達だったか(僕のメーラーは、スパム対策のためにかなり敏感にしつけてあるので、たまに「イベントお誘いメール」の本文テキストが引っかかってゴミ箱へ直行してしまうことがある。探してみたのだが、それらしいメールは見つからなかった)らしくて、土曜日に予定を入れちゃっていたのだ。残念。佐藤さんのフォトコラ見て自分を慰めよう。

  • 読むものが切れて(本屋へいかなくちゃ)、キオスクで買った朝日新聞に「期待される家族像」というコラムが載っていた。いわく、この国には「期待される人質の家族像」がある。出征兵士の遺族が、息子をブッシュに殺された、と堂々と発言できるアメリカとは「風土」が違う。日本のそれは戦時中の「銃後の家族像」を思わせる。云々。

    僕もニュースに流れるたびにご家族の発言の趣旨や態度が変わっていったのを見て、なんだか嫌なものを見たような気持ちになったけれど、一部の家族(と拉致された当事者)の「発言」や「態度」が、こんなに反感や嫌悪を買ったのは、周囲のサポーターやマスコミの思惑と差し向けもあったように見えるけどな。家族のニュースを政府批判の材料として使い回した当のマスコミがこういうことを言うのは、腑に落ちない。

    ただ、「期待される家族像」にはちょっと考えてしまった。これはけっこう深く根強いレベルの、プリミティブな「傾向」に思える。

    僕は、今回の家族の言動への多くの人の反応に、以前、サッカーのワールドカップ・フランス大会での城選手に対する批判や、もっと以前、96年のオリンピック水泳で入賞できずに、「自分のために戦っているんだから放っておいてほしい」と発言した女子水泳選手への批判が相次いだときと同じ空気を感じた。たぶん、「期待される家族像」というよりも、社会的な文脈の中で個人の役回りを正しく演じることへの期待、というような、「身の程をわきまえる」への圧力みたいなものである。これは、発言の趣旨よりも、発言者が想定しているニッチと、周囲が想定している発言者のニッチとの「ずれ」に対して発動する。

    僕らがどれほどの歴史でもってこうしたメンタリティを育んできたのかはわからないが、日常の社会生活ではこの心情はうまく機能する。公的・社会的な立場と、私的・個人的な感情や欲望とを、その場を律している枠組みによって相対的に使い分ける、というのは、別段意識していなくても普段から実践していることだ。家族の中で、親戚一同の中で、友人のネットワークの中で、仕事のチーム?中で、プロジェクトの様々な会議体の中で、会社の組織の中で、その場に応じて、かつその瞬間のフェーズに応じて、場所と立場を「見定め」ながら、逸脱を修正しながら、行動する。社会人でありオトナであるとはそういうことだし、そういう振る舞いができないやつはコドモっぽいと言われたり、はしたないと思われる。(だから、たとえば「庭師のゴミ袋」日記が文句を並べるときに、使えない新人を叱り飛ばしているような調子になるのは共感してしまう。極端な話し、たとえば建設現場で何か問題が起きたとき、「そもそもこの開発は地球に優しくないので中止しましょう」なんて言い出しかねないような人物とは仕事したくない)

    五十嵐さんが日記で言及されていた、被害者の家族の会見は、だから、こう言っちゃなんだけど、良くも悪くも、とても「まとも」に日本的な発言に聞こえるのである。日本は自由でなくなったのか、と驚いたというドイツ人記者はちょっと勉強不足なんじゃないか?日本は以前からこんなもんである。個人的には鬱?しいこともあるし(なぜなら、僕自身は「オトナの振る舞い」の訓練が足りず、その点ではしばしば痛い目にあうからである)、今回のような形でそれが発露するのはあまり見たくないけれども。

    まあ、いまにして思えば、一部の家族の「私の家族の命が危険に晒されているのに、国家のメンツにこだわってばかりいる政府はなんだ」なんて発言も無理もなかったという気もするけれど。僕だって、自分の息子が誘拐されて脅迫映像が届いたりしたときにいきなり何か話せと言われたら、どんなことを口走るかわからない。

    むしろ、事情をわきまえる間もなく発した言葉や、咄嗟に抱いた反感や嫌悪や怒り(匿名掲示板の「世論」はすごかった)が、よく吟味されたり検討されたりしないまま気軽に「公開」されてしまうことや、それが場合によってはチカラを持ってしまうこと、いまはそういう時代なのだということをあらためて考えさせられた。これらは戦時下の異常な有り様というより、情報の広範囲への伝達の速度が格段に向上した現代に特有の現象なんじゃないか、と思う。

    追記。

    同感。というか、いつもながら、実にすっきりとまともだなあ。すこし嬉しいな。
    あとは、中溝に電話でもして話をしてみようっと。

  • 2004年4月15日

    都合の悪いことが聞こえないのはもしかして中耳炎かなにか

    考えた末、やっぱり今回は無理だなあと思い、執筆のお断りメールを送る。生まれて初めての経験である。記事の内容もさることながら、仕事がばかみたいに山積みで、おまけに海外出張とか「まとまった量のある」スケジュールが入ってきて、どうにも時間が取れそうにないのだ。面白そうな内容なんだけど。出版を楽しみに待とう。

    鷺沢萠さんが亡くなった。。。

    2004年4月14日

    文字が二重にみえるのは乱視のせいなのだが

  • 今週はなんだか慌ただしい。特に週の後半は、打ち合わせが立体的なまでに錯綜している。行く場所を間違えたり、違う物件の図面で打ち合わせようとしたりしないとよいが<自分

  • 「会社以外のお仕事でも、名指しのご依頼は断らない」がここ数年のポリシーなのだが、どうひっくり返って考えても不適任な原稿のご依頼を頂き、精神的にじたばたし、お断りのメールを書こうと思っていたら編集部からお電話がきて説得され、おもわず「一日考えます」とばかな答えを言ってしまったこの僕の性格はなんとかならんものか。

  • 大学の先生から何の予告もなく電話が来て(電話に予告は通常、ないけど)来月、先生の休講の代理でなにかやれという(無茶な)。これがまた、死ぬほどお世話になった先生なので、思わずよいお返事をし、電話切ってから煩悶する。まあ、僕一人でなく仲間と複数でできるので、なんとかなるか。。。これについては。

  • 2004年4月13日

    喜ばしいけれど、腑に落ちないニュース。

    「なるほど、あなた達の政府はただ?木偶で、あなたたちの本当の心を代表しているわけじゃないことはよくわかったので、ここはイスラムの偉い人の顔を立てることにする」

    こんなことを言われてしまっていいのかよ?と思う一方で、なんだか使えねえやつだと嘲られつつも建前と本音をなんとなく温存してしまうという、これは日本にしかできないような、実はきわめて高度な戦略なんじゃないかと妄想してしまったりもして。情けないけど。

    見積りと契約図に乖離が生じているのを承知で見切り発車して、あとから「実はウチの見積部がダメダメで、結構落としてまして。いや、こんなことをお客様に言っても仕方ないことはわかってるんですが」ってお客さんに向かって堂々と言ってしまう工事課長の顔が咄嗟に浮かんだぞ(最後のたとえ話はフィクションです)。

    追記:

    なんだかいよいよ、わからないことになってきてしまった。こうなるとどのニュースを信用していいのかわからない。ただ、家族を取り囲んで報道続けるテレビに、実に嫌な気分になる。今回のことについて、僕の周囲のオトナはみんな、舌打ちしつつシラけている、という感じで、これがまあ、少なくとも僕には、まともな反応に思えるけれど。

    渋谷でデモ行進していた若い人の「自衛隊が派遣されなければ3人が拉致されることもなかったんです!」ってそれはおまえ、話が逆だろうがよ。

    2004年4月11日

    暖かい一日だった。

  • ウチの庭は陽当たりが悪く、春が遅いのだが、ようやく本格的にエンジンがかかったという感じ。地面まで切り戻したヤマボウシが芽吹いている。これから株立ちに仕立てるつもりで、楽しみだ。タガネソウが一斉に穂を伸ばしている。ギボウシも地面から芽を出した。シモツケのオーレアの新芽が美しい。ギョリュウバイが5分咲き。
  • 拉致された被害者のひとりのホームページへのアクセスが急増し、掲示板には非難・中傷の書き込みが殺到したので閉鎖された、というニュースを見た。これはこれで暗い気分になる。でも、そもそも、家族から犯行グループへの非難や怒りの表明がないのはなぜだ?

  • 2004年4月 5日

    知的不良債権処理・現在進行形

    佐々木健一「美学への招待」は予想を大きく上回って面白く、目から鱗がばたばたと音を立てて落ちるごとき読書になり、「エスカレーターでも手放せない」状態になった。

    著者の名前が頭の中にかすかにベルを鳴らし、自宅の書棚を見たら、「濃い養分となった本」のコーナーに「タイトルの魔力」(中公新書、2001)が。

    加えて、これも虫の知らせで安西信一さんの「イギリス風形式庭園の美学」のあとがきをチェックしたら、

    「・・・特に直接の指導教官、佐々木先生に受けた公私にわたるご恩はあまりに大きく、自明なので、謝辞を省略できるほどである。・・・かりに本書からえるところのあった読者は、なにをおいても佐々木先生に感謝せねばならない。」

    と、これ以上ないくらいの賛辞と謝辞が捧げられていた。なんと、安西さんの師匠だったのだ。これを天啓といわずしてなんといおう。

    また読まなければいけない本が一気に増えてしまった。どうしてこの歳になって、自らの見識の浅さと知見の狭さを痛感し、勉強しなくっちゃという危機感を抱かねばならないのか。

    若い頃に目もくらむような不勉強生活を謳歌したからだきっと。

    2004年4月 2日

    通勤本

    大塚英志、ササキバラ・ゴウ「教養としての<まんが・アニメ>」(講談社現代新書、2001)
    これは面白い。もっと早く読めば良かった。なんか、この分野、というか世界というか、いったん分け入ったら奥が深くて際限なさそうで、気後れしてしまうのだ。森川さんの「趣都」も、レジに向かうべく手に取ったことさえ2度ほどあるんだけどまだ読んでいない。だって。なんか。

    佐々木健一「美学への招待」(中公新書、2004)
    書店でなんとなく。

    大場秀章「道端植物園 都会で出逢える草花たちの不思議」(平凡社新書、2002)
    再読。「建築あそび」のレクチャーでの、自分の道端の植物についてのおしゃべりに自分で刺激を受けて(ばかである)、また読みたくなったので。暖かくなって、路上雑草系が騒がしくなってきたし。最近。
    この本はよい。路上のいわゆる「雑草」について、その振る舞いの特徴やルーツを解説している。ルーツ、というのはその植物の原産地についてと、特にその種の分類のされかたの歴史である。植物の分類というのはなかなか難しい問題(技術的な困難さもさることながら、「分類」を突き詰めて考えていくと認識論や存在論じみてくるので)なのだが、「歴史的にどのように分類して把握してきたか」というのはけっこう冴えたアプローチだと思う。それと、文章がすごくうまいのだ。語り口はやさしいが、知性と年季を感じさせる。

    「往々にして帰化植物は原産地では決して見せることのない始末に負えない強靱さを示す。イタドリやスイカズラ、クズなど日本原産の帰化植物がどれほど手に余る帰化植物となっているかは、彼らを日本でのみ見ている限り理解できない。」

    ううう。こういう調子、どっかでパクりたいくらい。

    2004年4月 1日

    「ドア」の理不尽さ、など。

    自動回転ドアに限らない。そもそもドアは危ない。ドアというのは、建物の内部と外部とを「閉じつつ開く」「遮断しつつ通過させる」という、禅問答のような矛盾を引き受けている。建物の規模が大きくなり、高層化し、視覚的な連続感を狙ってガラスが多用され、空調は高度化して、「内部」と「外部」の環境的な差はますます広がっている。自動車/車道とか、列車のプラットホームとか、ここ100年くらいその基本的な構造がぜんぜん変わらないままに技術的な規模だけが進んでヒトの体との断絶が大きくなってしまっている(エラーの際の身体的なダメージの深刻さが増す)装置系はいくつもあるが、「ドア」もそのひとつだったなあ、とあらためて思った。やっぱり、物理的に「断ち切る」ことによってしか、建物って成立しないんだろうか。気密性も持ち合わせた「暖簾」のごとき、「やわらかい境界」なんてできないんでしょうか。>山本さん

    「作った側」をヒステリックに糾弾するメディアに嫌な気持ちになる一方で(森ビルはちょっと憎まれキャラだからなあ。事故のリスクには、一旦問題が持ち上がったら相当非難を受ける、という事態も含まれているべきだっただろうが)、事故に遭った子のご家族のことを思うと胸が痛む。いま、次第にコントロール不能になりつつある1歳半の子供を抱えているため、特に一緒にいた母親の悲嘆と自責を想像して暗い気持ちになってしまうのだ。

    けだし、子供を持つと、都市部は思っていたよりもずっと理不尽な危険が夥しいことに気がつく。じつに危ない。

    それでだ、神代植物公園前のバス停であきらかに幼児が動き回っているのに、歩道にいる人の間をけっこうなスピードで通過して、ウチの息子やバス待ちのおばあさんを危険にさらした、自転車に乗ったいかにもサラリーマン風の中年のお前。次に通るとき、俺の差し出す傘にタイヤを取られて転倒する危険を避けたかったら通勤経路を変えろ。←けっこうまじ。