「休むに似たり」の作者の方が疑問を呈していた、クライン孝子のホームページの「日記」を見た。
こ、これはすさまじい。ちょっと認識をあらためた。
僕が大学生の頃だっただろうか、和歌山県かどこかで、知り合いに面倒を頼んでいた子供が、川に落ちて水死したという事故があった。その子の両親が、その人を訴えたところ、そのニュースに接した、全国の少なくない人たちから「他人に預けたおまえが悪いんだろう、子供の死にかこつけて賠償金が欲しいのか、あさましいやつだ」という誹謗中傷が殺到し、結局その両親は訴えを取り下げた。
こういう、胸が悪くなるような出来事は、この国では「やまない」ように思う。
以前にも同じことを書いたけれど、「異物を排除する」という行動を起こさせる気分の「根っこ」は、系の攪乱を防ぐ本能的心理装置のようなのもで、この心理は通常、役に立っていると思う。というのは、日常業務の中で誠実に生産的である人に備わった、いわば心理的なスキルと「根が同じ」に感じるのだ。だから、最初のころ「態度が悪い」と文句を言った人の気持ちが僕はわかる。「家族が生命の危機に晒され、どのような凄惨な扱いを受けているかわからないなかで、照明とカメラに取り囲まれるという異常な状況」などを思いやるようになったのは、事後的に考えを巡らせてからのことだ。
僕も、人質被害者のご家族の最初の頃の会見のニュースを見たとき、その家族の一部の人に対して、何とも言えない腹立たしいような、嫌な気持ちを抱いた。それは、他の人たちのコメントを見聞きしたり、この出来事の意味や文脈について考えてみたりする以前に、反射的に感じたもので、たぶん僕の「気分系」のわりと浅いところに仕掛けてあったスイッチなんだろう。そのとき、たとえば路上でいきなりマイクを向けられたら、相当後悔することになるような、おぞましくもろくでもないことを口走っただろうと思う。もともと「正義の人」や「善意の人」が個人的に苦手だということもあるが、何よりも、僕が咄嗟に用意できる「思考の記述モデルと語彙」なんて、限られた貧弱な種類しかなく、とりあえず手元にあるものを差し出しちゃうのだ。
多くの人はえてして、言いようのない気分を抱えたとき、なにか、「単純」で「明快」で思考の負荷の少ない図式(たとえば『自作自演』)や常套句(たとえば『自己責任』)が「都合良く望ましい形」(今回のケースが例外的なものであれば、自分が対象になるような事態に陥ることはない)で差し出されてしまったとき、自らの考えを思わずそのモデルに「鋳込んで」しまい、最初からそう考えていたかのように思いこむのではないだろうか。情報網が発達したいま、「匿名市民の意見」の流通と増幅の速度は驚くほど速い。
僕自身は、辛うじて、自分が匿名や仮名で発言することがキライだし、テレビのニュースや、オンラインの流言飛語(掲示板の記事から、海外から送られてくる英文の「イラクの真実を知って下さい」メールまで)を真に受けることはしないくらいにはスレているつもりではいるけれど、でもなお、自分の中に、容易に邪悪に転じうる「匿名市民」がいることを否定できない。一方で、日本政府の意向や政策と無関係のような顔もできない。世論が味方しそうだと察してから急に口をそろえて被害者を吊し上げることにした、あと出しジャンケンみたいな政府高官の発言群は実に気分が悪い。でも、いまの日本政府が成立していることには、僕も少なからず荷担しているのである。
あらためて心に刻んだことは、すくなくとも自分の思いつきには、しつこく検討を加えるということと、「米軍とイラク武装勢力の衝突で、米軍は武装勢力側の20人が死亡したと発表した。」というヘッドラインの向こうに、リアルな風景を思い描く想像力を養う、ということだ。来月、日本のパスポートを持って、爆弾テロ事件の実績のあるイスラム教国へ出張するんだけど、なんか、飛行機の中では一睡もできないような予感がするな。とほほ。