2004年3月29日

はじめての「建築あそび」

新幹線を使えば、東京から福島なんて1時間半くらいで着いてしまう。建築家の佐藤さんのご自宅は福島駅から車で10分くらいの住宅地にある。すごく近い。

なのに、なんだか遠い温泉地にでも保養に来たような気分になってしまうのである。田中さんが「あの五十嵐太郎さんをして、一度参加すると癖になると言わしめた」と言っていたが、あの居心地の良さというか、細かいことにあくせくしている自分がばかに見えるような気分になる一方で、こりゃこうしちゃいられんぞ、という刺激も受けてしまうような。ひとえに佐藤さんの「徳」だな。佐藤さんに賞を贈ったエディフはさすがだ。

というわけで、床暖房の効いた、やたらと天井の高い大きな窓の部屋に十数人、座卓を囲んで地酒をあおりつつ、まず藤村龍至さん、ベラ・ジュンさんのプレゼンテーションを拝見した。

藤村さんはツカモト研がペット建築のリサーチをしたときのメンバーだったそうだ。イギリスやオランダやニューヨークにも?つけたペット建築を紹介された。ああいう、隙間に建つ個人的な規模の建物は、周囲の状況を極端に反映しているので、それぞれ、その都市の事情が浮き立って見えて面白い。

なんか、街の野草の話みたいだな、と思った。都市部に限らないが、表層土壌にはたいてい、植物の種子が混入している。中には、発芽条件が揃うまで何年間も休眠し続ける種類がある。街で、建物が壊されたり舗装がはがされたりしたときに急に草むらができるのは、どこかからタネが飛んでくる以前に、土そのものがすでに植物の種子をたくさん含んでいるからなのだ。こういうのをシードバンクと呼ぶ。街は実は「草むらが生える」というポテンシャルに満ちていて、隙間ができるとそこに「生える」が噴出してくるわけである。

それで、ペット建築を見ていると、街には「建てる」という気持ちが潜在性として満ちていて、何かの拍子に環境条件がそれを「ゆるす」と、いきなりその「建てる」が生えてくるんじゃないか、という感じがする。ペット建築のフィールドワークは造園で言うと「植生調査」みたいなもので、一種のエコロジカルなアプローチのように見えたのである。

それから、量販店などの商業施設の売り場空間で、「見出し」と「コンテンツ」が高さ1.5mくらいを境に、ドレッシングが分離するみたいに上下構造になっている、という発見についての話があった。ヒトの体の構造と建物とが折り合った「接点」である。というか、「夥しい種類と数をいっぺんに並べて消費してもらう」という商業の論理が、ヒトの身体を標的にして空間を最適にチューニングしたらそういう「層」が形成されたのだ。

商業建築も、建築空間そのものを必ずしもデザインの対象にせず、「売る」が空間に「物体化する」という意味で、「無意識の建築」のようなところがあり、リサーチはどこかエコロジカルである(←僕が自分の理解のために、例えているだけだが)。

そして、そういう「含有する情報の質が異なる分離層」を、たとえば「気配」や「ざわめき」と、「クラスの仕切り」に翻訳して、小学校に応用する試みとか、「外部の風景」と「私的な生活」との分離層を、住宅の窓の高さの設定に自覚的に適用するデザインの紹介があった(学生のためのアパートなんか、ストイックでいい感じの建物だ)。さらに、それをワークスペースに応用した、0Studioの松川さんたちと共有するオフィス、Syncの「鉄の内装」。

それから、ある大学の先生のご自宅を「いつでも荷物を畳んで逃亡することができるような家」に改修するために、収納スペースを小さいピクセルに分解して壁を埋めるという建設中のプロジェクト。藤村さんやベラ・ジュンさんの落ち着いた話しぶりと相まって、なかなか心にしみるプレゼンテーションであった。

そんな話のあとに、しかも仙台から八重樫直人さんらがどやどやと到着されたあとに、僕の話の順番が回ってきた。まあ、開き直って覚悟を決めるしかなく、「甘酒の酔い」にまかせ、造花や都営スタイルやGPSの話をした。

収穫は二つ。ひとつは、話しながら自分自身について「発見」をいくつかしたこと。今後にも使えそうな。
もうひとつは田中さんがPhotoWalkerのGPS対応版を開発する、と言ってくれたこと。これはヒットだ。とプレッシャーをかける。
しかし、最大の収穫はやっぱり、興味深い人たちと交流することだった。僕は佐藤さんと出会ってからまだ1年も経っていないのに、すでに多くの面白い人たちと、佐藤さんを介して知り合う機会にめぐまれた。佐藤さんには今後ともお元気で活躍して頂かないと困る。

佐藤さんいわく「サポーター」のKさん、佐藤さんの奥様、お嬢様(研修医でいらっしゃる。いまは小児科だとかで、コドモの医療の話で盛り上がってしまった)には大変お世話になりました。ごはんもおいしかったし。佐藤さんがご自宅をプチ公共圏にしてしまう、それを支えて実現されているのは佐藤さんのご家族や友人の方々である。

「仙台組」の皆さんとはあまりお話しする時間が無くて残念だった。でも別れ際、八重樫さんが「佐藤さんつながりだったらまた会う機会ありますよね」とおっしゃっていた、あれがじつに「建築あそび」のスピリットをよくあらわしている。

2004年3月24日

「ピクニジェンヌ」ってあなた(改)

検索したら、paint/noteという日記が引っかかった。

そんなにマジメに罵倒しなくても。あれは「ツカミ」なんだからさ。それと「ピクニシェンヌ」「ピクニカビリティ」です。

実をいうと、たしかに「携帯型芝生で屋内でもお手軽にピクニックしようね」という提案みたいに見えちゃうんじゃないか、という危惧はちょっとはあったのだ。

でも、「空調の効いた美術館のフロアに、生きた芝生が切り取って置いてあるということ自体に、都市に基本的にオープンスペースが不足している、という事態に対する皮肉混じりの嘆きを感じる」とか、「天気も季節もいいのに、金払ってタワー最上階の美術館へ『作品』を『鑑賞』なんかに来てる人たちを外へ誘うインデックスになっている」とかさ、深読みしてよ(←それは無理)。

むろん、太田さんたちは、「多少の距離を億劫に感じてはいけない」などとは主張していない。ピクニックのために「多少の距離」を一生懸命移動しないといけない、という「現実」に対して、そもそもそれは違うんじゃないの、と言っているのです。

僕がピクニッククラブの趣旨について面白いと思うのは、「公園」を評価する視点として、けっこういいところを突いていると思うからだ。僕自身、都市に公園を、都市公園に「まともさ」を、求めることは、まったくやぶさかではない。ことに、木曽川の河原に作った木曽川のミニチュアのテーマパークが「公園」として賞をもらってしまう(2003年ランドスケープコンサルタンツ協会賞、一般部設計部門最優秀賞)という、おぞましい事態を考えれば。

ただ、「解放された芝生の広場をよこせ」とストレートに主張することにはいささか、ためらいがある。個人的に、アメリカでさんざん見てきたオブセッションのカタマリとしての芝生のイメージを抜きにして芝生を見るのは難しいし、オルムステッド経由のパストラルの掌中に素直に下るのもなんか悔しいし。東京の気候では、芝生の管理は結構ガッツが必要だ。もっと維持がラクな、意外な空地のありかたと楽しみ方を思いつけると面白いなと思う。たとえば雑木林の「ピクニック的」使い方、といふうに。

ピクニッククラブでは、特に昨夏のフィールドワーク以降、「都市・東京のために、高密度に住んでやってるんだから、せめていつでも利用できる芝生のフィールドくらい、すぐ近くによこせ」というまともに大上段な主張と同時に、「都市に意外なピクニックフィールドを発見して楽しむ、自分自身の心情を獲得することも大切だ」という主張も並列していて、僕はどちらかというと(自分のキャラ的にも)後者に興味があるのである。

上記への追記:

あらら。なんか妙なことになっちゃったな。(それにしても早い。ネットの検索はあなどれん)

まあ、もちろん受け取りかたは多様だろうけれど、「内輪の甘え」というのは、ある意味ではそのとおりである。もともと長い話があって、今回はその「一部」とか「片鱗」でしかないのです、という「不完全な表現」は、「表現において、問題となるのは実際の作品だけ」が要求される場では、メッセージとしては不誠実なものになるだろう。特に、「この作品は(ここで表現し切れていないところの)これまでのお話が前提になっている」などという「解説」を、作った側が加えたりすると、その不誠実さはなおさら際だってしまう。そういう余計なことを書いたのは僕である。僕がここに書いた「あれはツカミです」という主旨の発言はぜんぶ僕に帰する。ピクニッククラブの皆さんすみません。

あえて書いておくと、「むろん、・・・・」以下の部分は、あの展示の「作品」に関しての「補足」や「解説」ではない。なぜ僕が「ピクニッククラブ」の趣旨を面白がっているか、という話なのだ。だから「そんな趣旨はあの作品からは伝わってこない」と応答されても、そうでしょうねと言うしかないんだけど、paint/noteの書き手のひとの「批評」に引っかけて書いたのは悪かったですね。あんまり怒らないでね。(2004-03-25)

追記2:
いま読み返すと、なんかむかつくな。まあいいけど。(2004-11)

2004年3月23日

ヴェリイディスアポインテッドゥ

・村越真「地図が読めればもう迷わない 街からアウトドアまで」岩波アクティブ新書、2004

これは大きく期待はずれ。まあ、「まるで地図が読めない」と引け目を感じている人にはそれなりによいガイドブックかも知れないけれど。文章もなんだかくどいし。あと、「ナヴィゲーション」「カーナヴィ」という書き方をやめてほしいなあ。普段から「ヴィ」なんて発音してるのかな。

(そういうあんただって「ヴァリエーション」とか書いてるじゃねーか、という突っ込みは甘んじて受けます。とほほ。だって10+1だと、編集部に直されちゃうんだもの。入稿データは毎回「バ」なんだけど)

地図に関して書き始めると長くなるのでまた今度。

2004年3月19日

さて。帰らないと。

この週末、日曜日は森美術館でワークショップがあるが、土曜日は久しぶりに予定がなく、のんびりして、かつ家族で買い物にでもいくかと妻と話していたりしたのだが、福島の佐藤師匠主催の「建築あそび」が実は次週に迫っていることを思い出した。なんということだ。準備せねば。

再度、佐藤さんのサイトの「建築あそび」のこれまでの講師のラインアップを見てみるに、

http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/asobi/kentikuasobitobira.htm

あらためて、あまりの人選のすごさに打ちのめされる。
ほんとうに僕なんかが末席を汚してよいものか?

ま、賑わいを添えることにしよう。ということで。

ところで、月曜日は朝早くからお客様にプレゼンテーションである。(←自分に言い聞かせている)

2004年3月18日

今日のサクラ。

おお。始まった。

http://www.tiroli.jp/sakura04/index.cgi

このサイトのオーナーは、一緒に線路際や都営住宅なんかを見て回ったりする仲間の一人である。なんともセンスのいい女性で、園芸の趣味も渋くて、いつも敬服している人。

毎年、サクラの季節になると、彼女のサイトに、新井薬師の境内のサクラを定点観測して写真を毎日更新するコンテンツが掲示される。これが出てくると、いよいよ春本番だなあと思うのである。

「建築マップ東京2」に、編者のひとりの藤本壮介さんが「東京の桜」という、なんだかいい感じの文章を載せている。都会にいると、かすかな自然の気配に鋭敏になる、そういうところへ桜がはたらきかけてくる、建物が朽ち果てた未来の廃墟に桜が「都市の歴史の痕跡として」毎年咲いている、という風景を想像してみたくなる、という。

でも、残念ながら、いま見かける桜の大部分を占めているソメイヨシノの寿命は、100年そこそこである。下手すると建物よりも短命だ。種をほとんど作らない中間種なので、勝手に殖えることもなく、人が挿し木で殖やすしかない。だから、そのへんのソメイヨシノはみんな「クローン」である。温度と日照によって開花時期がこんなにキレイにグラデーションを描くのは、日本中のソメイヨシノが「同一人物」だからである。

というわけで、桜の風景を維持するには「植え続け」なければならない。東京が廃墟になったら、桜も消えてしまう。(野暮な突っ込みですみません。つい。)

2004年3月15日

Street

10+1の最新号、No.33「特集:街路」を編集部が送って下さった。「街路への視座」という項目のなかの、「車道の論理」と「 Where the streets have no name」という記事を寄稿したからです。よろしければお手にとってみてくださいまし。

先日、千葉大の木下先生と一緒に、編集部へ(締め切りぎりぎりでその原稿を入稿しに)お邪魔した際に、新刊の塚本由晴+西沢大良著「現代住宅研究」を頂いた。それもまた10+1に連載していたのが1冊にまとまって出版されたもので、いくつかは読んだことがあったし、面白そうだなと思いつつ、なんとなく本棚に預けてあった。この週末、何の気なしに手にとって開いた。

おおお。これは面白い。ネタ満載。

ご両人ともいつも通り冴えているが、とくに塚本さんは「新しい見方」のきっかけを作る「キーワード」が上手だなあ。と思う。「豪邸問題」とか「ローデッド」なんて、思わず膝を打つような。

2004年3月12日

「癒し」の風景

人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れたものはみないやされた。(マタイによる福音書、14:35-36、新共同訳新約聖書)

しつこく、LD誌の「新春対談」に思うこと。の一部。
(つまり、以下は「ランドスケープデザイン」誌の「新春対談」を読んでいない方にはまったく意味をなさない文章であること請け合いです)


僕は個人的に、「癒し」は避けて通るようにしている。「愛」とか「平和」とか「ふれあい」と同じように、「癒し」には正面から出会いたくない。ついでに言うと「エコなんたら」とか「ユニバーサルどうのこうの」とか「ビオトープ」「里山」「アメニティ」「原風景」「地球にやさしい」「環境共生」からも、可能な限り逃げ回っているのだが、仕事柄、これは時として、いかんともし難くつき合わねばならないこともある(さらにいえば、非線形や複雑系や自己生成からも逃げているのだが、このへんはあまり執拗に追いかけてこないので、逃げるにそれほど努力を要しない)。

「癒し」そのもの、というか「癒し」という言葉に対しては別に好きも嫌いもない。僕が苦手なのは、特に僕の仕事に関わる分野において、非常にしばしば「癒しを主題に掲げる人」が身に帯びている、向かうところ敵のない「全面的に善」な雰囲気と、その「全面的善性」によって自らのプロフェッションと自分とを(議論の余地なく)肯定しようとする態度があからさまなところである。だから、厳密に言えば「癒し」を避けて通っているというよりも「やたらと癒しって言うひと」を避けて生活するようにしている、のである。

園芸療法という手法は、たしかに注目を浴びるほど手応えがあるのだろう。涌井さんは大学の施設で、園芸療法的空間のなかでの人の生理的反応のデータを収集しているそうだ。宮城さんのいうように、どうしてそういう研究がこれまでなかったのか不思議なくらいではある。しかし、逆に、これまでこんなに注目されてきたにも関わらず、そういう研究がなかった、という点に、なんとなく「バックデータなんかなくったって、園芸は良いにきまってる」みたいな態度を感じてしまうんだよな。セラピーやリハビリの現場にいる人は充分わかっていることだろうし、もちろん涌井さんもわかって言っておられるのだろうが、いわゆる西洋医学的医療行為以外の「療法」は、なにも園芸に限らない。僕がその「科学的分析」によって見てみたいのは、「園芸療法はたしかに効果がある」という、「わかっていたこと」を裏付ける「エビデンス」ではない。食事療法とかペット療法とか、歌療法とか、ひょっとすると建築療法とか土木療法とか、さまざまな「療法」の選択肢がありうる中で、もしも園芸が特別に何かに対して「効く」とすれば、それはどのようなもので、他のメソッドに対してどのような特徴的効果があるのか、ということだ。

でも、園芸療法を「療法」の側からでなく「園芸」の側から研究するかぎり、ペット療法と組み合わせるともっと良いとか、お菓子作りが草花育てよりも効くとか(たとえばの話です)いう知見は出てこないだろう。そして、あくまで園芸の側から語っているその言い方に、それによって園芸/造園/ランドスケープ系の素晴らしさと正しさを補強しようという、なんかそういう気持ちが見えちゃうのである。僕が必要以上に屈折しているのかもしれないが(そういう可能性は大いにある)。

涌井さんは、ランドスケープが医療健康技術的な使命も帯びているということは、公園の歴史を見てもわかる、という。たしかに、都市公園を成立させた背景に公衆衛生の思想があったことは有名な話である。でも、同時にまた、公園はきわめて政治的な、あからさまな権力装置として計画されたという側面も持っている(小野良平「公園の誕生」)。そもそも、公衆衛生のコンセプトそのものに、国民を健康たらしめることで国力を増強するという、政治的な思惑の匂いがある。アメリカで運動公園が盛んに作られるようになったのは、第1次大戦の徴兵の際の「身体測定」で、多くの若者の体格や健康が貧弱だったことに政府が危機感を抱いてからのことだ(Georges Teyssot, The American Lawn)。

立ち戻って考えたいのは、いったい「癒し」とは何か、ということ、あるいはむしろ、いま多く使われる「癒し」という言葉は、どのような物事を指しているのか、ということである。そして、「癒された」という状態があるとして、それはどのような局面でどのように発露する作用なのか、ということだ。さらに、いま、この現代の日本の社会で、「癒し」が「浮上」しているのはなぜか。誰がどのように必要とし、あるいは「癒されていない」と感じるのか。「癒し」が不要な状態(があったとして)とは、どのようなものであったのか。いま言われる「癒し」と似たような意味や文脈で使われる(使われていた)言葉は何か。ということだ。時間かかりそうだなあ。諸賢の蓄積もあるだろうし。でも、造園のような「その思想的基盤が時代と社会と地域の要請にものすごく左右される」専門領域で、いったいいま「どのトレンドの手先(あるいはサブシステム)になっているのか」を自覚するのは、大切なことだ。それこそ、精神衛生上。

記事の半ばで、宮城さんが非常に興味深いことを言っている。宮城さんは、人が、自然が人為的な攪乱から回復してくるその様子に自然の美を感じる、というギルピンの言葉を引いて、我々に園芸療法が「効く」のは、それによって患者が「癒されて」いる「風景」に共感する、という作用なのではないか、という。これはつまり、癒しは一種の比喩として、メタに作用するものなんじゃないか、ということだ。その、癒し「そのもの」は操作したり計画したりする「直接の」対象ではありえない、というストイックさというか謙虚さというか(思わせぶりというか)、その点には僕は共感を覚える。(ただし、主旨は対談の相手にはぜんぜん届いていない、ように見える。特に司会の編集部に届いていない。)

宮城さんは、以前に別な本のなかで、科学技術が作り上げた人為的な基盤に侵入してくる「自然」に接する態度を「緊張関係」と呼んだことがある(ランドスケープ批評宣言)。もちろん、自然を「見知らぬもの」とするという態度は、「解析できる範囲については死ぬほど解析する」という態度と矛盾するものではない。射的距離の問題だ。

ただし。たとえば地面から生えてくるものに接しながら、そこに何か、「自然」なものへの「恢復」を感じる、という僕自身の「傾向」や「実感」はたしかに「ある」し、他の人たちとこの「感じ」を共有しうるという確信も「ある」のである。というわけで、このあたりで「最後の問い」に至ってしまうのである。「本来的なもの」は、そのような文明的文化的社会的価値観と美意識によってそう「思いこまされている」相対的なものなのだろうか、あるいは僕らの心に原初的に宿っているところの、普遍なものなのだろうか。あるいは、それらはこういうふうに2分法的に分けるものではなくて、フクザツに組み合わさっているものなのだろうか(たぶんそんなところだろうけど)。

2004年3月 9日

お持ち帰り書類

妻が、「ヨドバシカメラのカードのポイントが15,000くらい貯まっているが、間もなく期限が切れてしまう」ということを発見した。

期限が切れてしまうのはもったいない。そこで、帰宅途中、ヨドバシカメラに立ち寄って、ポイントを使い切るべく「Documents To Go」というソフトと128MBのメモリースティックを買ってきた。レシートを見ると、まだ1300円分くらいポイントが残っていたため、残りのポイントに300円ほど現金を足して、カラーフィルムを買った。

なにも、無理にポイントを使い切る必要はないし、お金を足してまで買わないといけないような、緊急に必要なものでもないのだが。ヨドバシの販売戦略にうかうかと乗せられているのである。小市民消費者としてのわたし。

帰宅して早速「Documents To Go」をインストールして、ファイルをクリエに転送してみた。こりゃ便利だぞ。WordやExelのファイルをそのまま読めるし、編集もできる。まだ試していないが、Win機からだとPowerPointのファイルも転送して編集できるらしい。いやあ、これは便利だな。

次は地図とGPSだな(こればっか)。

ウイルスマシンとしての鶏。

「庭師のゴミ袋」日記:

http://d.hatena.ne.jp/asgardstrand/

僕もまったくそう思う。僕は普段から民放のニュースはほどんど見ないが、それは、何を報道してもセンセーショナルな調子になるあのノリが苦痛だからである。

それにしても、なんだかいまひとつよくわからないんだよなあ。知りたいのは、「ウイルスが丹波にやってきた経路としてどういう可能性があるか」「丹波で食い止められたとしたらどのような対策によってか」「仮にもう数日、対策が早かったとしたら、何がどの程度、現状と違ったのか」ということだ。そしてなによりもまず、これがどの程度危険なのか、どういう心構えで鶏肉や鳥に接したらいいのか、という判断材料が欲しいのだ(差し当たってあんまり危険じゃなさそうだけど)。なんだか、ほんとに必要だったり知りたい情報がろくに伝えられないまま、鶏が大量死する、野鳥にも感染した、というような「ショッキングなニュース」だけが先行していて、実に苛々する。

確かに、通報が遅れたために拡大してしまった分もあるだろう。1日くらいの差で納品されちゃった受け入れ先にしてみたら、たまんない気持ちだと思う。でも、そのことについて出荷元の農場主が「どう責任をとるか」なんてことはほんとに、どうでもいい。「鳥インフルエンザと知っていて出荷したんじゃないか、という疑問にはどう答えるつもりですか!?」と突っ込んでいたレポーターがいたが(これは辛うじてNHKニュースにも流れた)、てめえのその『自分は社会(というか視聴者)の疑問をよく知っている』という思い上がりはなんだ。

しかしながら、ウイルスから見れば、この流通が発達した世の中は実に都合が良いだろうなあ、と思う。ウイルス感染が「システマチックに」広がってゆくという事態は、流通ネットワークが高度に発達しているという印だ。

ウイルスは自分自身では増殖できないから、宿主の細胞のコピーシステムに「乗っかって」増える。でも、悪のりして宿主の体内で繁栄してしまうと、宿主のシステムが耐えきれずに破綻して、死んでしまう。宿主が死んじゃったらウイルスも道連れだ(実に破滅型の生き様である)。だから、ウイルスとしては、宿主が死ぬ前に、次のフレッシュな個体へコピーを送ることが文字通り「死活問題」になる。ウイルスにとっては「感染すること」が「生きていること」である。

そんな、命を張って刃を研いでいる「感染くん」にとって、閉鎖環境で何万羽もの個体がぎっしり飼育されていて、隣の個体もその隣の個体も同じ種類だから変異なんかしなくても簡単に進出できるし、頼んでもいないのに遠くまで運んでいってくれる、これはもう「夢の環境」だよなあ。「根絶」することはおそらく無理だから、課題は、どういうふうにブレーカーを仕掛けておくか、ということになるだろうな。

2004年3月 8日

日記アンテナ

山本さんが「ガーデン」を検討しているのかと思った。(←ばか)

プロスペクター日記、面白いんだけど、ひと月ごとにURLが変わると、アンテナ張りにくいんだよなあ。最新ファイルは常に同じ名前で、アーカイブだけが蓄積されてゆく、という仕組みだと、すごくいいんだけどなあ。。。(などと言ってみる)。

佐藤さんの日記も実はそうなのだ。

ところで、3月の「建築あそび」のタイトルが「街・庭・自然」などという、いかにもそれっぽい思わせぶりな言葉が並んでいるが、あれは佐藤師匠からのご提案が
タイトルは
『 はじめまして 初 です @ ピクニシャン. kajima. 景観. パパ 』
ということにしておきます。

という恐ろしいものだったため、慌てて変えてもらった結果です。深い意味はぜんぜんありません。

2004年3月 7日

Pigs on the Wing, Part 2

五十嵐太郎著「読んで旅する 世界の名建築」光文社新書、2004

ちゃんとした書評はどこかに出るだろうと思うけれども、少し感想を。

たぶん、初出が新聞の連載だったからだろう、ひとつひとつの項が短く、とても平易に書かれている。なかなかいい「建築入門」にもなっているんじゃないだろうか。

帯には「これが世界の三ツ星建築だ!」と、ちょっと扇情的に書いてある。むろん、中身は「世界の名建築」の紹介なのだが、「建築MAP東京」とか「アメリカ建築案内」などの名作カタログとは、おもむきが違う。香港のエスカレーターとかアイルランドの廃墟とか東武ワールドスクエアとか、ちょっとマニアックというか、渋めのものも入っていて、それぞれの「建築」も、台湾で李祖原の集合住宅と伝統的な民家を見比べながら、近くて遠い見知らぬアジア考えたり、ミラノでマクドナルドのサイン越しにピレリのビルを眺めつつ、グローバルなもののなかに浮かび上がる文化の差異(が建築に反映されること)について考えたり、と、「なぜ、わたし五十嵐太郎がこの建物を、どういうふうに見に行ったのか」という体裁で紹介されている。掲載写真はおそらく、全部本人の撮影によるものだ。構図がすべて「目線」である。航空写真や模型や平面図なんかが一切ない。紀行文のような感じである。まさに読んで旅する。

ネパールで野良犬に噛まれ、狂犬病の注射を打ちながら旅行を続け、スリにカメラを盗まれて、そのカメラで撮影した建築をあらためて撮りに戻ったりするところなんか、失礼だけど笑ってしまった。建築の専門家の建築への執着は、時としてユーモラスでもある。

ただ、ひとつひとつの項が完結していて、それぞれにちゃんと起承転結があるので、一気に通して読もうとすると、半分ほど読み進んだところでちょっとお腹一杯という感じになる。日を変えて少しずつ読むといいかもしれない。

興味深かったのは、都市にも建築にも動物がうじゃうじゃいるインドを紹介したくだり。近代の都市は動物を排除して成り立っていて、それは建築にも当てはまる、という。現代の「建築」に動物が登場してはいけない。『これに違反すれば、たちまち悪いジョークとして片づけられてしまうだろう』。でも、そこらには「悪いジョーク」な建物はいっぱいある。建築の素人が見れば、「悪いジョーク」と「すぐれた建物」は特に切れ目なく、グラデーションを描いている。逆に僕らが興味を持つのは、建築がどこに『ここから先は「建築」とは呼ばないからね』という線を引くか、である。五十嵐さん自身もそのあたり(いささか皮肉っぽく)自覚的らしいのだが、そういうところに、僕は勝手に好感を持っちゃうのである。

余談だが、この話、「雑草」に似ているな、と思った。「自然」の中には「雑草」はない。「雑草」は農地や庭園において、「意図された植物のみが占有する空間」が作られたときに発生した。その後、都市のオープンスペースが「植栽」という庭園に作り替えられるに従って、雑草は都市にも発生することになった。五十嵐さんの言い方を借りるなら、「(植生という点で)勝手に生えてくるものを雑草と見なすことで、近代の都市はつくられている」。最近では「生物種の多様性」という、「いろんなものがいること」にも価値が見出されているけれども、しばしばそういう「自然」には「本来の日本の生態系」という物差しが当てられるため、新参の帰化植物は「雑草」になる。

あと、個人的にヒットだった箇所。

バターシー発電所について、僕はまったく似たような経験をした。あの、なんかレトロ未来的な建物が、まさか本当に存在するとは思っていなかった。空港から都心へ向かう列車だったか、車窓からテムズ越しにあれがどーんと見えたとき、思わず立ち上がってしまった。たぶん口も開いていたと思う。さきほど、掲載写真はすべて筆者撮影だろう、と書いたけど、唯一の例外は134ページに載っているアニマルズのジャケットである。いや、いいですね。このノリ。これ、若い人も笑ってくれるかなあ。少なくとも僕の職場では2人くらいしか思いつかないな。アルバムが「レコード」だったころ、30センチ角のジャケットの絵に惹かれる、という買い方があった時代もあったのだよ。

2004年3月 6日

たなごころ

Clieを携帯するようになったら、あっというまに手書きのスケジュールノートを使わなくなってしまった。そのかわり、職場のパソコンで、Palm Desktopの「予定表」の画面を常に表示しておく習慣がついた。近日中に、「Documents To Go」という、Microsoft Officeの書類を編集できるソフトを、貯まっているヨドバシカメラのポイントで購入予定。

Palm DesktopというのはPalm機とパソコンを連携させるためのもので、予定表や住所録やメモ帳やら、要するにPalmの中身をパソコンで再現するソフトである。これを入れておいて、「同期」させておけば、職場や自宅のパソコンと、持ち歩くPalm(互換機のClie)とが、同じシステム手帳を共有している状態になるわけである。

Clie純正のソフトはWin版のみなので、Macで使うには工夫がいる。Palm Desktopの日本語Mac版は、つい最近まではPalm社の日本語サイトから無料でダウンロードできた、らしいのだが、最近、会社の組織が変わってどうのこうので、ダウンロード先が消滅している。アクセスしても、なんかやる気のないような看板に当たるだけである。
http://www-5.palmone.com/jp/

やむをえず、英語版をダウンロードして、予定表のタイトルが文字化けしたりするのを我慢してしばらく使っていた。ところが、アスキーが出している「Palm Magazine」という雑誌を買うと、付録のCD-ROMにはMac用の日本語版が収録されている、という記事を、Clieのユーザー掲示板で発見した。なんだか妙な話だけど、入手できるのはいいことだ。早速、最寄りの書店に行き、ついでに新書のコーナーに迷い込んでしまい、その雑誌の他に3冊手にしてレジに並んだ。

・五十嵐太郎「読んで旅する 世界の名建築」光文社新書、2004
・黒田龍之助「はじめての言語学」講談社現代新書、2004
・小田中直樹「歴史学ってなんだ?」PHP新書、2004
並べてみたら、著者の名前がみんな5文字だな。

2004年3月 4日

公園くん

「公園情報センター」というウェブサイトがある。
http://www.kouen.info/
なんだか、ものすごい愛と熱意でもって、「公園」をプロモートしているサイトである。

以前、
  > リンクについてはメールにより必ず許諾を受けて下さい。許諾のないリンクは一切認めておりません。
 > 無断リンクについては大至急、公園情報センターの許可を受けて下さい。
という「注意書き」がトップページに書いてあった。

最近、何かの拍子にアクセスしたら、
 > 当サイトはリンクフリーとなりました。
に変わっていた。

山崎眞という人の「公園論」が掲載されているが、実にダメだ。小野さんの「公園の誕生」を読んだほうがいいと思うな。というか、どうせならこんな真面目っぽく書いた論考なんか載せなければいいのに。こういうところが、「公園系」の野暮なところだ。繰り返し書くようだけれども、公園が前提になった公園論はダメである。

でも、「公園のトイレ写真コレクション」はちょっとすごい。

東京23区編:
http://koueninfo3.fc2web.com/koueninfo3-toilet/23ku.html
市町村部編:
http://koueninfo3.fc2web.com/koueninfo3-toilet/shichouson.html

実に様々な公園の夥しい数のトイレの外観写真が、ただ、ずらりと並んでいる。ここまでくると、ほとんどシュールな感じもする。公園のトイレというのは実に、デザインから見捨てられている施設だなとあらためて思う。でも、誰かが「デザイン」しているのだ。個人的には、23区よりも、ひとつひとつの差が極端に激しい「市町村部」のほうが面白い。

これはちょっとベンチューリの母の家みたいなかんじ。
http://koueninfo3.fc2web.com/koueninfo3-toilet/P72500851.jpg

これは一見、レトロモダン。
http://koueninfo3.fc2web.com/koueninfo3-toilet/Pb1800911.jpg

これは和風というか。建築の作法を踏みにじっているデザインだ。いろんな意味で。
http://koueninfo3.fc2web.com/koueninfo3-toilet/P90901231.jpg

2004年3月 3日

主は私たちを緑のまきばに伏させ、憩いのみぎわに伴われる。

・昨夜は8時に集合し、六本木クロッシングの会場へ、展示の芝のローテーションと水やりに行った。

作業員は太田さんと僕、畑野くん(太田さんが徴した学生さん)、佐々木(職場で石川が徴兵した手伝い人)。

芝がまた、頼もしいばかりに緑色に伸びていて、ほおずりしたくなるほどの瑞々しさであった。3月のワークショップが楽しみだ。ワークショップを開催する楽しみというよりも、芝ユニットをくっつけてそこでピクニックをすること自体が楽しいということを発見してしまったので、要するにピクニックが楽しみなのである。すっかり感染してしまった。

・LD誌の例の「新春座談会」があいかわらず納得いかねえ。言いたいことがありすぎて困る。ま、少なくとも読者の一人(わたし)を「熱くする」効果は上げた記事だったのである。むかつく。

・今週の通勤本:John Grisham 'The King of Torts'。ペーパーバック。

グリシャムの本はいつも、ペーパーバックになるのを待って片っ端から読む。だって、英語が一番簡単なのだ。小説の舞台がいつもテネシーとかミシシッピーとかルイジアナとかバージニアとか、「南のほう」なのもよい。街の「空気」がなんとなくわかるから。

グリシャムのペーパーバック一冊読むと、頭の中の英語圏のエンジンがかかって、その勢いでもっと難しい英語の本が一気に読めてしまう(こともたまにある)。