2007年4月17日

Who knows "all the facts"?

全米ライフル協会からのお知らせ

The National Rifle Association joins the entire country in expressing our deepest condolences to the families of Virginia Tech University and everyone else affected by this horrible tragedy.

Our thoughts and prayers are with the families.

We will not have further comment until all the facts are known.

Andrew Arulanandam
Director of Public Affairs
National Rifle Association


「狂った奴はどっちみち、どんな手段でも同じことをしたはずだ」という知ったようなことを言うやつが必ずいるが、ツールの力を見くびってはいけない。

2007年4月16日

スリバチ学会フィールドワーク、4月21日(土)

次回のフィールドワークは今週土曜日です。

以下、「東京のスリバチ地形を世界遺産に登録する」を目標に活動する、会長からのメールです。

みなさま
下記のとおり、スリバチ学会の春のフィールドワークを開催いたします。
お誘い合わせの上、奮ってご参加下さい。

日時:4/21(土)
集合:10:30に東急大井町線、等々力駅改札出たところ(改札は1ヶ所)

等々力渓谷公園を南下、野毛の団地や大塚古墳を経由して多摩川崖線に分布する、スリバチと神社を交互に横断、
13:00ごろ九品仏あたりでランチ、宝来スリバチ公園を経由して、田園調布へ
16:00ごろ田園調布駅にて解散予定。

スリバチ原形と高級住宅地を巡る、春のハイキングコースです。
いつものように、雨天決行、途中抜け、途中参加OKです。

ちなみに春のフィールドワークの予定は、
5/26(土) 大塚-茗荷谷の公園系+下町系スリバチ
6/23(土) 東十条-赤羽のスリバチ
です。

東京スリバチ学会
会長  皆川典久

ちなみに、今回は、画期的にも、会長がフィールドワーク日限定のケータイを持ち歩きます。
飛び入りや途中参加の方は、hajimebs@gmail.comにメールしていただければ、番号を返信します。

以下は副会長(石川)からの、『鳥の目』情報です。

スリバチ学会が観察する「スリバチ」のほとんどは、武蔵野台地と低地の境目にあるわけですが、今回の「境目」は武蔵野台地の南端、「国分寺崖線」という、いわば最もメジャーな崖線です。

今回のフィールド、等々力ー田園調布間の崖線も、斜面緑地と住宅街の緑がよく残存する、国分寺崖線らしい様子です。


標高差を表示すると、田園調布付近の高台ぶりが目立っています。台地の南東から、田園調布の高台を呑川の谷が回り込んでいて、等々力ー田園調布間が意外に細い半島状の尾根になっていることがわかります。


同じ縮尺で、スリバチ付近の標高を細かく表示してみると、崖線に沿って大小さまざまなスリバチ(小さな谷)が並ぶ一方で、崖線自体が凹型に、大きなスリバチ状地形をなしていることがわかります。親子スリバチ。
多摩川対岸の窪みも気になります。なんか、多摩川を挟んで半径1.5kmの大スリバチがあるみたいに見える。


道路パターンを見ると、崖線の「下」の地区の整然としたグリッドが台地の道路とコントラストを見せています。田園調布駅周辺の、放射状に計画された宅地割りの道路が印象的。
川の近くにある弓なりにカーブした道路がやけに思わせぶりな環境ノイズで、目に付きます。


調べるに、「八町土手」という堤防の跡地のようです。1947年の空撮写真には残っていました。


高低差はあるけど、散歩環境的には高質に牧歌的な予感がします。
お誘い合わせのうえ、ぜひおいでください>各方面。

三丁目の首都高

http://www.always3.jp/
おお。こ、これは強烈だ。
夕陽に映える、「首都高なし日本橋」。
いままで僕が目にした中で、ある意味では最も「説得力」のある、日本橋の景観シミュレーション画像だぞ。

都市風景論的には、かなり効果の高い視覚装置だと言えるんじゃないでしょうか五十嵐隊長。

まさに、囲い込み型ノスタルジー攻撃。なにせ、コピーが「日本の空は広かった」だ。べつに今だって広い空くらいどこにでもあるぞ。空が狭くなったのは、好きこのんで高層ビルや高架道路の陰を歩くからだろうがよ。

2007年4月13日

オープン軽トラ

樹木の材料検査に訪れた土浦近郊の農地にて。

検査したシダレザクラが植えられていた畑の隣にあったナシの農地に、
空港で見かけるみたいな、不思議な車輌を発見。


なんと、上部をカットした軽トラック。
どうやら、梨畑のワイヤーと枝の下を動き回れるように改造しちゃったもののようだ。
行為の大胆さと、細工の無造作さがすばらしい。ワイパーが片方だけ残ってる。

コンバーチブルでなくて、「コンバーテッド」。
動いているところを見たい。

2007年4月 6日

出来合いの物語の先へ

「住宅都市整理公団」別棟:「屈折した片思いとしての団地愛」よりさらに屈折して

おお。総裁が自分のスタンスをこんなに語るのは珍しいというか、貴重なエントリーだぞ。

「ノスタルジー」が「閉じている」という言い方は冴えてる。
たしかに、ノスタルジーは、対象物への接し方において、特定の世代とか、特定の時代を知る人たちなどを「特権化」するように働く。特にそれが「商品化」をドライブにしているとそうである。最近、昭和30年代の事物がノスタルジーの対象としてメディアに持ち上げられることが多いのは、それによって囲い込まれる集団がマーケットとして大きいからかもしれない。「閉じる」のは「限定する」ことだけれども、限定された集団の人数がものすごく多ければ、市場としてはおいしいいわけだから。

以下追記。

僕は、「団地を愛でるメンタリティがポピュラーになると、団地が美しく装ったり、美しく立て替えられてしまったりし、それは困るんじゃないか」ということではなくて、むしろ、その過程で、特にメディアを介したりするときに付加されてしまう傾向がある「ノスタルジー」のような、安直な物語性のほうが深刻なのではないか、なぜならそれは団地的なものをいわばテーマパーク化してしまうことだからだ、と述べたつもりだったのだ。だから、大山さんも僕もほとんど同じことを書いている。

もちろん、「自覚的になる」ことがそのまま「悪い」わけではない。自覚的に素敵な風景だってある。僕の本業の仕事なんか、本来そういうものをデザインしようとするものである。「媚びる」イコール「醜悪になる」わけでは決してない。と確信していないとこんな仕事やってられん。

ただし、まさに大山さんのいう「いわゆる良い風景とされる風景」に「なろう」とするとき、施設物体はしばしば、ハズした、痛い「様相」を呈する傾向がある。それには2つのタイプがあって、ひとつは公共施設構造物の「景観配慮化」で、もうひとつは「安直なストーリーをテーマにした意匠を帯びる」ことであり、80年代以降の集合住宅がその傾向を強めたのは後者であって、そのキーが「商品化」だと思うわけだ(そして、僕もそういう「商品化された、安直なストーリーで売る『景観』(←風景ではない)の構築に加担することもしばしばである)。ここで「安直な」という言い方をするのは、商品化が要請するストーリーが「用意された」物語だからだ。

ただし、「出来合いのストーリー」がなぜだめなのか、ということは、もう少し考える必要がある。それは、現実の都市の風景へのコミットメントを阻害する、ということなんじゃないか、という気がするが。

物語性の「なさ」を愛する、と読めるような書き方は、僕の書き方が足りていなくてよくなかった。もうすこし丁寧に、「出来合いの物語性がないことで(あるいは物語性が欠落したことで、あるいは物語性を抜くことで)露わになっていて、それそのものの美しさや面白さにいわば「邪念なく」接近できる、そういう対象であるところが、団地や工場や土木構造物に共通している」と言えばいいだろうか。「風景のリアリティ」というような言い方もできるかもしれない。

ダムや工場がこうした安直な物語性から免れやすい(ので、わりと落ち着いて愛でることができる)のは、エンジニアリングの「規模」が巨大なために、意匠がついてゆけないという事情があるのではないだろうか。たとえば、ダムと同じような土木的水利技術構造物でも、もっと小規模な都市河川の「護岸」などは、「物語」を帯びようとして醜悪なことになっている事例がいくつもある。

そういう意味では、たしかに団地はダムと比べるとこの手の「物語化」に対して脆弱である。それが、団地鑑賞者がしばしば有している、ある種の「ストイックな態度」のゆえんなんじゃないか、という気もする。小林さんのガラス張りのお風呂も、大山さんの撮影の手法も、そういう安直な物語化を抜く、あるいは拒否する操作に、僕には見える。

ところで、僕自身は、じつは、ノスタルジーという心情それ自体は必ずしも悪いものではないと思う。「たちが悪い」のは、たとえばメディアが喧伝するときに「わかりやすいストーリー」として「翻訳・分類」される際に選ばれる「メニュー」のひとつとしてのノスタルジーや、「商品化」が要請する物語性としてのノスタルジーである。

都市の風景に関わる規模で、出来合いのストーリーが「物体化」しているもっとも極端な例はおそらく、マンションのモデルルームと、五十嵐太郎さんも注目していた「結婚式教会」である。もっとも、結婚式教会くらいにむき出しで物語性を帯びていると、それはそれで別な読み方や鑑賞の余地を生んだりするけどな。しかも、マンションも結婚式教会もちゃんと「売れている」。

あと、自覚的なデザインが到達できない無自覚のよさ、というのは、それが何を指しているかによってもちろん違ってくるのだが、「ある」。逆説的に聞こえるかもしれないが、それへの確信もまた、僕がこの仕事をしている理由でもあるのだ。風景は、出来合いのストーリーを飛び越えて「発見される」ものである。大山さんが「団地でなくったっていいんだ」というとき、それは、出来合いの物語なんか踏み越えて先へ行こうぜ、という誘いなのだ。

それにしても、こういうことを書くときは、多かれ少なかれ「ひとくくり」にせざるを得ないので、「いや俺は違うね」という声があがることは仕方ないというか、そういうことを覚悟し予想していないといけないのだが、それはそれで様々な視点の獲得や検証になって興味深い。
というオヤジめいた結語にしてみました。

ああ、出張中に書かないといけない原稿があったんだが。。。
まあ、団地風景論が面白かったからまあいいや。