2008年10月29日

Inside, Outside, Between

ランドスケープデザイン誌の最新号で、先日、日本ランドスケープフォーラムの企画にて、鹿島の山田さん、平賀さんと、大山総裁がパネルを勤められたシンポジウムが、なんと神代植物公園で開催されていたことを知る。なんだよ、誰も何も教えてくれないから完全にノーマークだったじゃんか。神代植物公園なんて、僕の自宅の「隣」だぞ。一言知らせてよ。

それにしてもしかし、先日の「建築夜学校」といい、土木のLAUDサロンといい、大山さんを一種のトリックスターとして招聘して議論を活性化するという手法が、建設産業界の意匠系分野で流行ってるみたいである。たしかに、「中の人」ではないけれども完全な「素人」でもないという大山さんの「エッジ」な立ち位置は絶妙である。大山さんも自覚的にそのへんを挑発してくれるので、企画者にとっては得がたい存在である。もっとも、大山さんに撹乱してもらったあとは、それをその後の内部の議論を鍛える契機に消化しないと、そのうちに、「年頭対談・この分野の将来の展望」みたいな企画記事で、外部の識者ばっかり呼んで対談させて、「中の人」が不在になってしまう「日経コンストラクション」みたいなことになっちゃいそうだ。

エッジといえば、先日、建築系の定期会合に出席したのだが、メンバーのほとんどを占める「前線の当事者」よりも、建築メディアで長く仕事をされていたような、別な意味で「エッジ」にいる人のほうが、ステレオタイプないわゆる「建築」の定義や「建築家」像を強固に主張するのが印象的だった。考えてみたら、ラ系でも、自分で設計事務所を主宰したり、学校で教えていたりする、実質的にその分野をドライブしている層よりも、専門の勉強をはじめたばかりの学生や、前線からリタイアしたOBの皆さんのほうが、「分野のプリンシプル」にうるさい傾向がある。熱狂的なファンがスタジアムのプレイヤーにものを投げつけるみたいなもので、そういう乖離はどの分野にもあるんだろう。もしかすると、ステレオタイプな建築・建築家のイメージというのはエッジな連中、批評家や卒業生やワナビーたちが、その願望を投影して作った虚像なんじゃないか、などと思ったり。

でも、中の人がみんなエッジな風貌であーだこーだ言いはじめたらそれはそれで嫌味な、生産性の低い専門分野になりそうで、そういう意味では、日経コンストラクション的な慎みはむしろ、健全なのかもしれないけどな。

2008年10月27日

地図師の思惑、遊歩者の驚き

先週。秋風の木曜日。

大学の演習は5週目。

解釈に幅のあるキーワードだけ提示して、出てきたものをグリルするという「スフィンクスのなぞかけ」みたいなやりかたは、こちらの準備や負担を軽減するものの、なんか後味が悪い(少なくとも僕向きではない)。講評後、「成果品」のイメージが掴めないでいるキッズの一人の質問に答えようとしながら(これがけっこう難しくて大汗をかいた)、今年はそういうのを避けようと思っていたにも関わらず、準備不足というか、見込みが甘かったというか、工夫が足りなかったというべきか、ちょっと宙吊りにしちゃったかなあ、と反省した。ダメ講師ですまん。

たぶん、「自分の地図をつくる」というテーマに固執すべきだったのだ。「地図は、マッピングされたダイアグラムである」というとそのまんまトートロジーだが、実は、何気なくベースに使っている官製地図も、演習で「マッピング」してみたり、それをダイアグラムに表現したりした行為と同じ手続きで作られたグラフィクスなのだ、ということが言いたかったのだ。

条件がそろっていて、ある明確なルールに則っているかぎり、その「マップ」は「正直」であり、その正直さへの信頼に基づいて何かを読み取りうる。地面の事情を「すべて」地図に示すことは不可能である。しかし、一方で地面の事情の「一部」を、ある観点から示すことはできるし、それが逆に地面の複雑で豊かな事情へ近接するきっかけになる。というか、地面の事情の一部を示すことによってしか、実際の世界の複雑さや豊かさを示唆することはできない。

地図は、それ自体ではろくな情報を掲載できないほど、キャパシティの小さい書式の媒体である(Googleマップをはじめとする、オンライン地図のごちゃごちゃな醜悪ぶりを見よ)。しかし一方で、地図は必ず、そこに描かれた図以上の意味を示唆してしまう。

ひとつには、地図という書式、「マップする」という手続きが、記載されたひとつひとつの要素に一段高い次元をつけ加えるという行為だからだ。

もうひとつは、なんだかんだ言って地図は、それを保障するものが地面だからである。地図は常に、何かについての地図である。逆に言えば、地図の「中」にいるだけ、地図を見ているだけでは何も読み取れない。

これはたとえば、単語の意味を調べるために辞書を引く手続きに似ている。辞書を引くとき、その言葉の意味を知ろうとして、定義に使われた語を連鎖的に次々に引いていっても、より抽象的・包括的な概念へ拡散していってエラーを起こすか、循環参照になって無限にループするか、どちらかである。辞書に記載された言葉の定義を保障しているのは、辞書に記載されていない、いわば辞書の外側で運用されている言葉の実際である。私たちの言葉とその体系があって、辞書はその言葉の断面を切り取って、(暫定的なルールに則って)それぞれの「関係」を示そうとするものである。

つまり、地図が示すものは、つねに地図師の思惑を超えているのである。だからこそ、調べた結果を地図へ加工してみて、その地図を読み込んでその示唆する結果に驚く、つまり自分で作ってみた地図にびっくりする「発見」ができるわけだ。

それが得られれば、その地図と発見とを携えてふたたびライブ地面へ出かけ、そこでの驚きをもとにまた新しい地図を作って重ねる、という「地図・地面系のポジティブ・フィードバック」を味わうことができる。

というようなインストラクションが貧弱だったのだ。

という反省。

2008年10月20日

記録すべき秋の週末の記。

土曜日。

出張カボチャ彫刻ワークショップはつつがなく終了。いや、じつは当日、事前に会場入りするべく余裕を持って出かけたのに、京王線が人身事故で全面的に止まっていて、急遽バスに乗り換えて中央線にバイパスして、予定時間に大幅に遅れる羽目になった。会場は大入りで、子供たちやお母さんたちも参加してくれて、ランタン作りは楽しく遂行。しかし、大学の演習よりも緊張した。

なんと、「ハロウィン・ジャパン・インフォ」の主催者、HAMACHI!先生がわざわざお見え下さった。初めてお会いする場がオレンジ色だという、感激のカボチャウィークエンドであった。

まわりぶろぐ: 石川初さんのパンプキンカービングワークショップ@区民ひろば南大塚

カボチャの穴に入りたくなるごとき過分なご紹介ありがとうございます。今度また、ゆっくりお会いしたいです。Happy Halloween!!


日曜日。

昼間、子供らをつれて「調布飛行場祭り」へ。

屋台テントの並ぶ「祭り」の高揚感に加えて、ヘリコプターや消防車が並び、滑走路では小型機が空母の演習みたいに発着するという、5歳の男の子の魂を直球でワシヅカミする演出に長男はノックアウトされた。インフラの力というか、あの、空港のむき出しのドボク系のリアリティに心を奪われる様子はまさに「工場萌え」であった(でも、先日行ったディズニーランドでのはしゃぎぶりも似たような様子だったので、必ずしもドボクエンタテインメント的な見込みがあるというわけではなさそうだ)。

夕方、ドボク系濃度100%の濃い集まりへ。

会場では相変わらずディープで興味深い話題が飛び交った。さしあたって、たとえば「写真からはみ出すリアリティが、ともするとより深刻な既成の物語であるという陥穽」とか「今日のリサーチエンタテインメントの形式はフロッドゲイツが作った」、「Jマートの2階の半分を占めている『カントリー調』は、あれは何なのか」、「ハロウィンと浮かれ電飾の意外な関係」、「公共施設や生産施設の独特の色調は、かつての建築計画学のような『牽引する理論』があったんじゃないか説・証拠文献20円」、および「占いと料理と子育てとダイエットには手を付けたくない編集者の矜持」などであった。

上記といささか関連して、久しぶりに腕まくりをして、苦労して書き上げた、会心のブレークスルーだったと思われた原稿のゲラが戻ってきて、あらためて読み返してみたら、もうなんというか、涙が出るほど舌足らずで稚拙なテキストであったことが判明してがっくりし、でもこれが現実なので、自分の力量と正直に向き合いつつ校正することにする。涙。

2008年10月10日

街へ出よ、驚愕せよ。

関東学院の「デザインスタジオ2」が始まった。

久しぶりの金沢八景。遠い。

去年や一昨年に履修した学生たちがスタジオ周辺をうろうろしてくれて、心強くも嬉しい。今年は最初に、3月にちょっと実験したワークショップのやりかたで始めさせてもらってみた。けっこう消耗したが、思わぬ冴えた発表が出てきたりもして、今年もまた、苦楽両方味わう予感がする。

ナカツ不良講師先生によれば、教員の頭には「去年のクラスの最後のころ」の記憶しか残らないため、大学の演習ではえてして、毎年少しずつ、学生に対する要求の水準が高くなってゆく傾向があるそうだ。なるほどたしかに、僕もこの3年間の、それぞれのクラスの最後のころの、よくやったなみんな、というような思い出ばかり浮かぶ。なんか、毎年のように、おい、去年のキッズのほうが手も動いたし、発想もユニークだったんじゃね?と思ってしまうような気がするが、それは前年の最後のほうの、成長したあとのクラスのことしか覚えていないからなのだ。うん、きっとそうだ。

そういうわけなので、まあ、演習が進むにつれて開眼して練れて研がれてゆくのだろうと信じているが、等高線と境界線と海岸線と住宅地と大学施設がめくるめく交錯する六浦の地図を前に、なんかヘンだと思う箇所なんていくつもあるだろ?と問い詰めた僕に面と向かって、何がヘンなのかわかりません、普通だと思うんですが、と、本気で白状されて途方に暮れた。

いや、変だと思えよ。びっくりしろよ。建築学科だろうがよ。ずれたグリッドが衝突して、その接点のヘタ敷地に無理に建ってる施設の様子とか、鉄道線にブチ断たれた街区の痕跡とか、丘の上に新しく開発された集合住宅へのアプローチ道路の地形との戦いぶりとか、団地をジグザグに横断する市域境界線とか、そういうのに「ん?」と引っかかるメンタリティを持てよ。それで現地へ出かけていって2度びっくりしろよ。街の風景に驚けよ。多くの人が見過ごしたり見慣れたりしている何気ない街の様子に、引っかかったり驚いたり怪しんだりできないと始まんねえよ。たかだか20年間で育んだおまえの「あたりまえ」なんて全然だめでショボいことを思い知れよ。「デザイン」なんてそっから先だよ。

そういう感受性がないと、街灯に照らされたジャンクションとか屹立する鉄塔とか水門とか工場とかダムを愛でることもできないし、中央分離帯でピクニックしたろーかとかいう発想もわかないし、「いついかなるときにも、私たちは何かに触れている」とか、「つまり、都市は環境ノイズである」とか、「没場所性の物質的豊かさと場所の最良の質とをつなぎあわせる地理学はあるだろうか」とか「3次自然の緊張感」とか「都市を舞台としたアニミズムをめぐる「草木虫魚の人類学」が書かれうるのではないだろうか」なんていうフレーズに戦慄できないし。。。というのはまあいいけど。もう少し後でも。

2008年10月 8日

バックヤードとしての港湾

先日の「中防」ツアーの前半は、「視察船」で埋立地の周囲を一周するというコースであって、思わぬ東京湾観光をしてしまった。

港湾というのはしかしこれもまた凄い風景で、積みあがったコンテナとクレーン群、建設中の横断橋梁、タンカーやバージやサンドポンプ船、進行中の中央防波堤外側埋立地、と、まさにドボ系が好む(傾向のある)「飾らない」というのもおこがましいような「無意識の景観」であった。

「視察船」の船窓からそれぞれの施設や機械や建造物の規模や様子を愛でながら、風景全体として、ちょっと「空撮写真」に似ているな、という気がした。最近、Googleマップの空撮が普及して、上空からの高解像度の写真を眺める機会が増えるにつれて、建物の屋上が街のバックヤードと化していることがよくわかる。特に都心部にはほとんど「屋根の景」がない。空調の屋外機が延々と並んでいる光景は、自動販売機を後ろ側から眺めているみたいなおもむきだ。

これが、都市のスケールでは、「海岸」がでかいバックヤードになっている。高度に近代化した都市の港湾の「海側からの眺め」というのはほんとに、都市の「裏側」である。きっと、沿岸の「栄養源」から「物資の流通媒体」へと、海岸がその価値を転換させたときから、海側は巨大な荷捌き場になっちゃったのだ。

バックヤードの景はしかし、下手に洒落ている余裕がないため、一見とっちらかっているようでいながら、見てくれとはまた違う層の、けっこう厳しい「秩序」が感じられもする。それぞれの要素が、要素の単位で物理的に「最適化」をした結果、全体としては統率されていない混沌とした「景」が出現していて、しかし、混沌としているにも関わらず、そこにはある「系」が感じられる、と、産業景観、工業景観の特徴を羅列すると、だんだん「自然景観」の記述に似てくる。

たとえば樹木は、なりふりかまわず必死で太陽光や雨水や土壌や地盤のコンディションに対して「最適化」してああいう様子になっているわけで、眺める人間を「いい気持ち」にさせようなんてこれっぽっちも思っていない。「機能美」の最たるものは、緑豊かな「自然風景」なのだ。。。って、いや、こんなオチにするつもりじゃなかったのだが。

2008年10月 7日

スリバチ・フィールドワークのおしらせ

東京スリバチ学会からのお知らせです。
なお、当日、僕はコドモらの保育園の運動会なため、晴れた場合には高い可能性で
参加できません。逆に、天気が悪ければ参加します。


以下、お知らせメールより転載:


みなさま、

東京スリバチ学会の長い歴史において、
初の目黒台スリバチ探索に出かけます!
お誘い合わせの上、奮ってご参加ください。
(出欠は取っていないのでご自由にいらして下さい)
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東京スリバチ学会 秋のフィールドワークのご案内

日時:10/25(土) 10:30に東急東横線(日比谷線)中目黒駅 改札を出たところ近辺

午前中は目黒川の支流が刻んだ、目黒台北辺崖線を巡ります。
この近辺、遺跡も多く、「谷戸前交番」なんてスリバチ臭い地名もあり、期待大です。
13:00ごろ、祐天寺駅近辺で適当にランチ。
午後はいよいよ蛇崩川の刻んだスリバチ探しに出かけます。途中湧き水のある神社もあるらしい。。
全般的に起伏が穏やかで、上級者向けのオトナのコースといったところです。
元気が残っていたら東山の団地を眺めて、16:30ころ中目黒駅に戻ってくる予定。

雨天決行、途中参加・途中抜けOK。
スリバチ専用ダイヤルもご利用ください

(石川注、皆川会長が当日のみ有効な番号のケータイを持ち歩きます。事前に石川にメール
 くだされば連絡先をお教えします)

ちなみに次回フィールドワーク(今年最後!)は、
12/6(土) 文京区のスリバチ+銭湯+忘年会、を予定してます。
真冬は寒いのでフィールドワークはお休み・・です。
(予定は勝手に変更されることがあります)


東京スリバチ学会
会長  皆川典久
http://blog.livedoor.jp/suribachi/

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▼東京LOREのスリバチ紹介(日本語版)
http://www.tokyo2016.or.jp/lore/jp/

▼Photo Archives 89のスリバチ紹介「スリバチのすすめ」
http://tenplusone.inax.co.jp/archives/cat_0101photoarchives.html


以上。

あと、みんなこれを見ろ。
jm@foo: iPhone で地形図を表示

2008年10月 5日

懐かしい島。

またコアなメンツで、ずっと気になっていた、「中防」を見学した。

R0022548.jpg

中央防波堤埋立処分場にはいくつかの見学方法があるが、今回は東京都環境整備公社による個人向けの見学ツアーに参加した。
(財)東京都環境整備公社:普及広報事業
手配の労を頂いた「壁クイーン」杉浦さんありがとう。

ツアーガイドの職員さんからは、いかにゴミのクリーンな処分に先端技術が投入されているか、とか、東京が排出するゴミの量が桁外れであることや、風力発電や植樹によってエコロジカルな施設を目指していること、処分場の物理的な制約によって近い将来はこのような処分にも限界が来ること、すなわち皆さんゴミの減量を心がけるべく生活様式を見直そう、というような良い話をたくさん伺ったのだが、僕らは(言うまでもないが)お話そっちのけで「中防の風景」に魅入られていた。

R0022533.jpg

標高30m強、すでに本郷や上野よりも高いこのゴミの島は、現在進行形の「地形の生成の最前線」である。上の写真の、帰化植物に覆われた「谷間」を見て思わず「これは谷戸だ」と叫んで大山さんに笑われたが、この、埋め立て盛り土台地の境目の谷の大きさはすでに千鳥ケ淵よりも大きい。

R0022558.jpg

でも実は、僕はもっと、想像を絶するような、途方に暮れるような荒々しい茫漠とした風景を予想していたのだが、いやそれは充分に、かなり荒涼とした景色ではあったのだが、なんというか、雑草の生い茂る造成中の丘に、僕はどこか懐かしいような感じさえ抱いてしまった。

思えば、多摩ニュータウンからお台場まで、高度経済成長期とシンクロしていた僕らの世代の少年時代、都市の風景にはいつもでかい「造成地」があった。「中坊」には、近年東京から姿を消した「ナマの土地造成の現場」の風景が生きていて、これはある意味で、最後の東京の原風景である。
そういえば、未利用の空き地にヒューム管がころがっているドラえもんたちの遊び場の風景はすごく「土木的都市風景」じゃないか。

Das Otterhaus:東京湾岸丘陵地帯
 都内の大平原 - Future Description ‐何かからはみ出した、もうひとつの風景
underconstruction: 30mのサンドイッチ