2007年5月31日

Streets according to Google

Google Mapsにストリートビューとマッシュアップ・ツール | ネット | マイコミジャーナル

おおおお。

ニューヨーク、サンフランシスコとともに、なぜかラスベガスとデンバーが収録されている。

以前から気になっていた、このラスベガスの街の「端っこ」を見てみる。


街の中はいかにもアメリカの街並み。


町はずれのショッピングモール。角の向こうに地平線が。


砂漠。


「空撮」では見えなかった景色が見えるのは面白い。

ニューヨーク、マンハッタンのミッドタウン。ザイオン設計のペリーパーク。「ポケットパーク」の元祖。


グリーンエーカーパーク。


マーサ・シュワルツ設計の、ジェイコブ・ジャビッツ広場。


今後、私たちの世界は、Googleによる「空からのスキャン」と「地上のスキャン」に晒されるわけである。目隠しのサングラスをかけて外を歩かないとな。

2007年5月23日

私たちの減風景

月曜日は、造園学会の学術分科会で、全国大会開催地の生物資源科学部、六会日大前へ。

今回のテーマは、「都市の縮減と郊外のランドスケープ」。木下先生らと一緒に企画してきた「アーバニズムとどう向き合うか」シリーズの5回目。

僕は、大野先生の「ファイバーシティ」をネタにさせてもらって、1月にお手伝いした「縮小する都市の未来を語る」の際に作った材料を少し補強して使った。秋葉のトークインでは、実際に大野先生の構想のように都市を物理的に縮小させると、けっこうな面積の「廃棄地」が生まれてしまうことになる、どうしましょう?というプレゼンだったのだが、今回はこれに、「では、たとえば都営スタイルのように個人ガーデニングで土地をカバーしたら、どのくらいまで行けるか」を、僕の現在の地元の市に当てはめてみるという、まあ、毎度の「絵に描いた荒唐無稽」を作った。地元を対象にしたのは、地の利をよく知っている、という点もさることながら、こうした「マスタープラン的計画案」から欠落しがちな「個人の切実な事情」を絵にしてみる説得力も面白いんじゃないかと思ったためだ。それと、こういう「大鉈を振るう」たぐいの提案には、「実際にそこで生活する人の風景や顔が見えない」という突っ込みをする、むかつくスマートアスが会場に一人や二人いるためだ。

ディスカッションタイムで、会場からのコメントで面白かったもの:

・大阪芸大の篠沢先生:現在の地形や植生以外にも、ある土地を「寝かせる」ような、時間「利用」もありうる

・東大の小野先生:「都市の縮小」というサブジェクトでは、なぜか必ず「ある中心へ向かって縮まる」という前提があるように思えるが、実は都市の「中心」である行政府などのほうが、移動しやすい対象なのではないか。「中心じゃないところへ縮小する」というような発想もあってよい

以下は、配布された「講演要旨」に掲載したもの。

見知らぬ土地へのアプローチ    石川初(株式会社ランドスケープデザイン)

1. 都市のエッジ、里山のエッジ

 多摩丘陵の農村・山林に開発された多摩ニュータウンは、その「都市域」が明確な輪郭をなしていることが特徴的である。ことに、ニュータウンの南端、多摩市・八王子市と町田市の境界部分は、北側の開発された領域と、南側の山林に囲まれた谷戸の農地とが、人工衛星写真でも目立つほどのコントラストを見せている。この境界は、開発域の境界であり、行政区域としての市の境界でもあると同時に、多摩川流域と相模川流域を分ける分水嶺でもある。尾根に沿って計画された道路、通称「尾根幹線」によっても、この「エッジ」は際立っていて、ニュータウン開発がきわめて計画的かつ短期間に行われたという事実をそのまま物語っている。

 ところが、実際にこの「境界」付近を訪れてみると、地図上・衛星写真上に描かれていた「都市と緑のエッジ」の印象とはいささか異なる光景を目にすることになる。たしかに、落合地区や鶴巻地区の、緻密に計画・設計された住宅地や公園と、それよりも南の風景とはある意味で対照的ではあるが、その様子は必ずしも「都市を囲む緑」ではない。尾根幹線沿いには、粗造成されたまま放置されている「未利用地」が点在している。尾根幹線自体が、幅広い、フェンスに囲まれた「道路用地」を挟んだ未完成道路であり、とりとめもない「希薄な風景」が広がっている。

 尾根幹線の南側には、尾根の向こうに小山田地区の谷戸を囲む林地が厚い緑を見せている。ところが、ここも実際に歩いてみると、衛星写真的な理解を裏切られる。山林を横断する未舗装の道路には、鉄条網の柵と不法投棄禁止の看板がびっしりと立てられている。そして、にもかかわらず、道路沿いには数百メートルに渡って廃車や家電製品などの粗大ゴミが散乱している。雑木林を抜け、農地に入って視界が開けるまで、この「ゴミ林道」の風景は続く。

 一方は、従来その土地が有していた固有な状態を物理的に解除した(造成によって植生や地形を平坦化した)のちに、新たに担うはずであった機能が猶予されたために生じた一種の「空白」であり、もう一方は生活スタイルの変化とともにガスや電気などのインフラが普及し、農村における薪炭林の相対的な生産価値が低下するにつれて生じた「空白」である。様子は異なるが、都市的な「意味」が欠落しているという点で共通している。

2. 非・都市の風景?

 「都市」は様々に定義し得るが、「都市的であること」とは、人間の社会的諸活動のために有用であると見なされる何らかの機能をもってその土地が意味付けられてあることである、と差し当たって言うことができるだろう。その意味で、多摩ニュータウンの南端部はまさに「非・都市」であった。都市ではない場所は必ずしも快適な癒しの空間ではない。

 ランドスケープアーキテクチュアは、都市を前提とし、肯定する立場である。この職能がそもそも「都市問題」を解決する手法・思想として近代に登場したことを考えればそれは自明である。ことにランドスケープの「デザイン」は主に、都市にあってどのように「都市的でない場所」を構想し、確保するかという実践を重ねてきた。しかし、それはあくまでも都市のなかでの相対的な意味の差によって、空間の「明暗」を形作るという操作であって、結局それは「比較的都市っぽくない場所」をデザインすることで、いわばサブシステムとして都市を(逆説的に)正当化することなのである。例えば「緑地」や「農村(里山)」や、極言すれば「自然」も、都市的な立場から語られ、記述される限り、それは都市的な事態を成立させるために用いられる、疑似・非都市的要素である。

 近年、主に都市計画の分野から提案される、コンパクトシティの発想に基づいた都市の構想「像」では、しばしば「都市の縮小跡」が一様に緑に塗られている。こうした絵図を指して、「緑の思考停止」であると揶揄することはたやすい。しかし、「シティ」が「コンパクトになる」というアイデアと、それを発想させる趨勢には、看過できない示唆が含まれている。都市活動の絶対量が減少し、都市が本当に物体的に縮小するとすると、それはいわば「真に非・都市的」な、サブシステムとしてすら必要とされない土地の出現と拡大を意味するからである。「緑の思考停止」の先にありうる光景は、私たちが多摩ニュータウンの南端でその一端を目撃したような、「意味の欠落」ではないだろうか。あらたな意味を付加できない、「見知らぬ場所」に接近する方法論を、私たちは持っていない。そのような土地をそのまま「風景」とすることは可能だろうか。それはデザインと呼びうるのか。「構想できない土地」といかにして対峙するかという、いささか理不尽な難問が、今後突きつけられるのではないか。と、そのように私たちは考えている。


 
ところで、「庭による郊外の逆スプロール図」を作りながら、先日の講演会でちょっと拝見した、宮城先生の「平城京の歴史的遺構と環境を基盤とした現代的土地利用の構想」がずっと頭にあった。

これは、奈良女子大が選ばれた、文部科学省の21世紀COEプログラムのひとつ、「古代日本形成の特質解明の研究教育拠点」のリサーチのひとつで、奈良盆地北部(平城京の跡地)を、農地と住宅がセットになったユニットで埋めてゆく、という構想(じつは、他に紹介された実施プロジェクトよりも、この構想案が面白かった)。ユニットには、農業のプロ向けから家庭菜園向けまで、いくつかのバリエーションがあり、それらがグリッド状に組み合わさって、なんというか、「都市的な農村」とでも言うべき土地利用風景を呈する。

描かれた「農住のピクセル群」の平面図は、ランドスケープエコロジーの中立景観モデルみたいな感じである。その、ゆるくリラックスした、しかしシステマチックな土地利用を可能にするのは、盆地北部に緻密に張り巡らされてアクセスが容易な用水路脈であり、それを成立させている南へ向かって緩やかに傾斜している盆地北部の地形と、グリッドの土地区画、「平城京の遺存地割」なのである。まさに「先行デザイン」の応用例。中谷さんらの都市連鎖や、05年の千年持続学第5回フォーラム「都市の血、都市の肉」でも発表された清水さんのリサーチも、おそらく参照されているだろう(と思う)。

これは、対象地の様子は異なるが、分科会で根本さんが紹介された「多摩ニュータウン自然地形案」と、その「精神」がとても似ている。根本さんによれば、「自然地形案」のキモは、たとえば単に環境保全的な観点などから原地形を残した、ということではなく、丘陵の地形そのものを街の「インフラ」、というか、「骨格」として組み込んでいるところだった。多摩丘陵の尾根や谷に相当するのが、「奈良農住」が使い回している「遺存地割」である。

平城京が撤退した際、けっこう短期間で「水田化」が進んだらしい。その都市グリッドと道路の形状がそれを「誘発」したとも言えるんじゃないか、というようなことは、僕も以前に考えたことがあった。「都市が減ってゆくという事態はこれまで誰も経験したことがない」と言われるが、実は平城京なんてまさしく、「非・都市化」がごそっと行われた土地だったのだ。「水田化」は、遺存地割の転用としてはきわめて巧妙で的確だった。グリッドシステムを継承したばかりでなく、インフラとして補強した。「農住構想」を見ると、もっと集約した都市でも、うまく建設できそうに見える。デリリアス奈良盆地。

そういう風に考えると、希薄になってゆくランドスケープを前に、そんなに途方に暮れることもないんじゃないか、とも思えるな。これをむしろ契機だと考えて、将来、どうなるかわからない土地の転用の多様さと豊かさを担保するために、「使えそうな痕跡」を残しておくことのほうが重要なんじゃないかと。もっと大きな目で見れば、人口だって減る一方じゃないかもしれないし。

その、先日の講演の最後、宮城さんは餅焼き金網みたいなものの上に紙を乗せてフロッタージュしてる写真を示し、「ランドスケープのリテラシーとはこういうものだと思います」と、それが「締め」だった。まあ、どれが「使える事物」なのかをあぶり出すのは難しいけどな。

学会の別な会合で、僕らの分科会を宣伝して下さっていたそうで、ありがとうございました宮城先生。
僕も茶団子好きです。

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メディアとしてのインターネットと10年の意味

リンク先のクマガイさんの文章の趣旨とはいささか話がずれるけれど、「twitterはお手軽ロギングツールなのだ」という話は腑に落ちる。なるほど、「ロガー」に「ツボ」なツールなのだ。あれ。それはよくわかる。

だがしかし、「ログを取る喜び」とは、何なのだろうか。「ロガー」は「一部」なのだろうか。

インターネットも含めて、「新しいツール」というのは、多くの人がもともと潜在的にやりたかったことを促すという形でしか出現しないんじゃないか、と思う。というのは、人間の身体的「仕様」なんて、10年はおろか、1000年単位の時間が経っても、ほとんどまったく変わりないだろうからだ。ある地域で、栄養状態が改善するとともに、その集団の身体の平均サイズが大きくなる、というような変化はあるが、それはもともと潜在的に有していた特徴のひとつが現れたというだけだ。サボテンだって、ちゃんと水をやって育てると、原産地で見られるよりもずっと大きく立派に育つ。

ガリア戦記から家族アルバムまで、人は自分の生のログを取り続けてきた。そういう集積を思うに、我々には、外付けの外部記憶装置にアイデンティティの一部を預けようとする傾向がある、としか思えない。人類はどうしてか、文字を発明せずにはいられなかったのだ。

2007年5月15日

代々木上原にて



2007年5月14日

ムシマル


↑ マツムラ・ムシマル。

↓ 裏返して縦にすると、「ムシマル・マツムラ」。

いや、それだけなんですが。

2007年5月12日

<strike>click</strike> blink

Google、目玉カウントカメラで現実世界の注目度も集計 - Engadget Japanese

将来のSEOやサーチエンジンスパムは偽の目玉をぎっしり付けて広告の前を行ったり来たりする手法になるんじゃないでしょうか。

そのうち、駅の広告に何気なく目をとめながら通り過ぎようとしたら、いきなり手が伸びてきて「どうぞ」ってクッキーを手渡そうとしたり、するようになるんじゃねえだろうな。

2007年5月11日

ニート、トリノ、レノン

僕の勤め先の会社が入居しているテナントビルには、1階にビル共有の喫煙室がある。
その壁に、何のためか、赤いテープ状のマグネット(掲示物を壁に固定するアレ)が5枚、くっついている。
誰かがハサミで切ったらしく、太さはまちまちだが、長さはどれも同じ、30cmくらい。

あるとき誰かが、これを組み合わせて意味のある形にする、という遊びを始めた。
これは折畳み椅子の側面図。

タバコを吸わない人には奇妙に聞こえるかもしれないが、喫煙中というのは、意外に「手持ち無沙汰」なのである。喫煙はそれ自体に集中しないとできないようなものではないため、もともとは「何かをしながらするようなもの」だったのだ。近年、「喫煙」という行為だけが日常生活から抽出されて、喫煙用の特定の空間という「形」を与えられたため、タバコを吸っている時間がなんかこう、休憩しているような時間を持て余すような、ちょっとした「浮き時間」になちゃっているのだ。だから、喫煙室では多くのスモーカーが電話をしたりメールしたり、書類を持参してチェックしていたりする。そういう場所で、このゲームはちょっとしたツボをヒットした。

「文字」の登場。「区」。

「日」。面白くなってきたので、タバコを吸いにいくたびに記録した。

「正」。これは僕の作品。ちょっと無理がある。

「生」。

「仕」。よくもまあ、いろいろと思いつくな、と。

「月」。こうなると、来るたびにどうなっているか、楽しみになってしまう。「おー、こう来るか」みたいに。

「汁」(こういう無理やりな字はだいたい僕である)。

カタカナ登場。

なぜか食品の名称が多い。

これは、別な部品を使っているので、なんとなくルール違反。

ワニ。これはむろん僕の作。

「マリ」? 

そろそろ「カタカナ編」に行き詰まりが見えた頃、「3文字」が登場。これは冴えてた。

「レノン」(だからこういうのは僕)

このへんで、スモーカーたちのネタと熱意が尽きたようだ。
あしかけ2週間ほど、狭い喫煙室で、私たちスモーカーはささやけき参加意識というか、ゆるい共犯感覚を伴ういたずら心に盛り上がった。

2007年5月 9日

たとえば代筆するケータイ

日本語壊滅 (内田樹の研究室)

世代を追うごとに語彙力の低下が進行している、という感じは僕も抱くことがあるが、それが「ケータイメール」のせいかどうか、についてはよくわからない。まあ少なくとも、ケータイ「だけ」のせいではあるまい。

「現在のケータイ」が、考えを言語化するという意味で文章を綴るツールとしてきわめて不十分であるという点にはとても賛成だ。ただ、あれも一面では慣れの問題でもあって、時々びっくりするほど複雑でちゃんとした文章のメールを短期間に送ってくる人もいる。僕はぜんぜんダメだ。バイオやザウルスの両手親指キーボードですら、鬱陶しい。パソコンのキーボード並に容易いモバイル・テキスト入力装置がほしい。

思うに、現在のケータイはちょっと中途半端なんじゃないだろうか。ポケベルなんか、いまのケータイよりもずっと機能的に限定されていたが、むしろそのために独特の暗号文的お喋りの「文化」が発達した。いまのケータイは、下手に複雑なテキストを送れる能力があるくせに、入力インターフェースが貧弱であるところが何ともストレスフルである。

「相手に悪く思われないためには、30秒以内に返信するのが暗黙のルール。送受信の頻度は上がり、極端な場合、1文字だけのメールがやり取りされることもある」(田中教授)のが実情だ。(中略)「言葉足らずなやりとりなので、送受信回数は増える。結果として、読書などの時間が削られ、語彙力の低下を招いているのではないか」
友人関係の維持のために、素早くメールのやり取りを続ける必要があり、そのせいで「短文化」が進行し、かつ「読書などの時間が削られる」ことが問題であるならば、「メール代理人機能」でも作ったらどうだろう。受信したメールの文章を解析し、適度に単語を引用しつつ、当たり障りのない文面を自動的に作成して返信してくれるエージェント機能。送られてくる相手はある程度決まっているわけだから、それぞれに「親密さ」とか「引用頻度」とかをオプションでアサインして、あとは「緊急のヘッダが含まれるメール以外はエージェントが応答」という機能にチェックを入れておく。友達関係は安泰に維持され、こちらは心ゆくまでゆっくり「読書」できる。

いや、もしかしてこういう機能が普及したら、お互いに「自動応答」がオンになっていて、ケータイのエージェント同士が「当たり障りのないお喋りメール」を(素早い応答で)延々と送受信し続けている、という事態にもなりうるな。本人たちは「読書」していて、それぞれのケータイが激しく「短文の会話」を応酬し続けている。「この間は楽しかったね」「楽しかったね。また遊ぼうね」「そうだね。また遊ぼうね」「本当だよね。楽しかったよね」「ほんとにね」。メールの送受信履歴だけがガンガン溜まってゆく。それで、寝る前に履歴をチェックして、「ずいぶんおしゃべりしてたなあ。おまえ。ご苦労さま」とケータイに話しかけるのだ。


ところで、じつは僕は最近、ケータイのメールの作成・送信はほとんど、こういう風にやっているのだった。
 
文字入力はスムーズだし速いし、グラフィックもOK。他言語対応で文字化けもない。おまけにGPS位置情報も付加できるぞ。

2007年5月 3日

地域のプロモーション

「住宅都市整理公団」別棟:不動産コピー

僕は、この「プラネット」のやつなんか、興味をそそられるな。

「住宅都市整理公団」別棟:THE TOWERS DAIBA

PLANET DAIBA
その惑星に住める日がくる。
美しくも猥雑、夢のようで、とてもリアル。都心と絶妙の距離を保ちながら「惑星」のような輝きを放つ特別なエリア、港区台場。
まるでフィクションのようなこの地を、私たちは「プラネット」と呼ぶことにした。
ビーチ。カフェ。シアター。スパ。ショッピングにフィッシングまで。
想像の中にしかなかったリゾートライフを、いとも簡単に日常にしてしまうタフな場所。
この「惑星」にそびえ立つ33階建て超高層ツインタワーから、誰も知りえなかった暮らしがはじまる。

「惑星」である。リモートな場所にあって、自分では発光できないけれども輝きはする。非日常と日常とが離れ業的に接続されるという。なんというか、この工夫。

お台場周辺が作り物めいているのは、いかんともし難い。埋め立て地の開発は、良くも悪くも「にわか都市」である。商業施設のキャッチコピーならば、それはそれでもっと開けっぴろげに「急に出現した新しい街」を押せるだろうが、モノが住宅、特に分譲マンションだと、いささか歯切れが悪くなる。純粋な投資目的ででもない限り、購入者はある程度腰を据えて、テーマパークやショッピングモールの広告よりもずっと切実に、その土地と付き合う羽目になる。そのような目でその街を眺めたときに向き合うことになる、ショッピング的フィクションに押し込めきれない、ベタな生活の「日常」や、その土地の「現実」の有様を、どのように美しく言い回すか、に、コピーライターが努力を傾けるわけだ。

だから、マンションの広告を、一種の「地域のプロモーション」として見てみると、それはそれで興味深いのである。ちょっとばかばかしいものも含めて、それらの「言い回しの切実さ」は、大袈裟に言えば「その土地の独自性はその土地に住む人のアイデンティティに関わる」ということを示しているようにも見え、景観/風景について考えるヒントのひとつにもなりうると思うのだ。

僕の手元にあった広告雑誌のいくつかから拾ってみると、

地名を立てて、真っ向からストレート勝負しているもの:
・高輪の、深みに住まう。(東京都港区高輪)
・市ヶ谷、邸の景。(東京都新宿区市ヶ谷中ノ町)
・成城の高嶺。(東京都世田谷区成城)
既知の地域特性が「より一層純化されている」という押し方だ。

少し説明的な言葉が入るもの:
・文の都、本郷。その静謐に触れる。(東京都文京区本郷)
・東京の中枢、港区虎ノ門に生まれる超高層。(東京都港区虎ノ門)

地域の現状に完全には期待せず、むしろこの物件が地域を良くする、とうたうもの:
・とっておきの豊洲、はじまる。(東京都江東区豊洲)
・池袋が変わる。(東京都豊島区東池袋)
ただし、上記の池袋物件のキャッチにくっついている英語は「IKEBUKURO CHANGES Your Life」となっていて、それだと「池袋があなたの生活を変えます(住んでしまえばあなたも池袋色に染まります)」という意味に読めるけど。

「この地域の良さは、わかる人にはわかる」というノリの、開き直り気味のもの:
・船橋プレステージ・タワーライフ。(千葉県船橋市本町)
・それは、時を越えて甦る海神伝説。(千葉県船橋市海神)
・川口に誇らしく。(埼玉県川口市幸町)
・鶴川。こだわれば、この地に。(東京都町田市能ケ谷町)
・府中・芯・生活。(東京都府中市府中町)
川口の物件など、なんか住む人を励ましているような響き。

環境の良好さで押しているもの:
・荻窪二丁目、静閑の美景とともに。(東京都杉並区荻窪)
・閑静な丘の住まいならではの心地よさが、陽光の中で広がる。(千葉県船橋市前原)
・この街の静けさは、あたたかい。(東京都足立区綾瀬)
・深く住む。(東京都渋谷区南平台町)

利便性のみで押しているもの:
・STATION STYLE RESIDENCE 志木駅4分(埼玉県志木市幸町)
・駅へ3分。目黒へ3分。(東京都品川区小山)
・駅前にそびえる59階。(神奈川県川崎市中原区新丸子東)

「広域」の地名にシフトしちゃったもの:
・東京はこんな暮らしを待っていた(東京都東村山市野口町)
・東京粋都 TOKYO SUITE(東京都江東区北砂)
・深く美しい東京へ(東京都調布市深大寺南町)

内側を向いて、施設の質にフォーカスしたもの:
・暮らしが華やぐ、洗練を纏う住空間(東京都大田区仲池上)
・花鳥風月の情緒を採り入れたパブリックスペース。(東京都世田谷区梅丘)
・レジデンスはいま、次世代の上質を語りはじめた。(千葉県松戸市紙敷)

「生活スタイルのイメージ」に抽象化したもの:
・よくばりな生活(東京都墨田区江東橋)
・Sence of LIFE(千葉県柏市南柏)
・すべては、美しい人生のために。(東京都板橋区加賀)
・この街にはじめてお届けする”生活ブランド”(東京都日野市多摩平)
・「ゆとり」と暮らす、未来へ。(神奈川県相模原市下九沢字中段)

地面と決別したケース:
・ひばりが空。(東京都西東京市住吉町)