月曜日は、造園学会の学術分科会で、全国大会開催地の生物資源科学部、六会日大前へ。
今回のテーマは、「都市の縮減と郊外のランドスケープ」。木下先生らと一緒に企画してきた「アーバニズムとどう向き合うか」シリーズの5回目。
僕は、大野先生の「ファイバーシティ」をネタにさせてもらって、1月にお手伝いした「縮小する都市の未来を語る」の際に作った材料を少し補強して使った。秋葉のトークインでは、実際に大野先生の構想のように都市を物理的に縮小させると、けっこうな面積の「廃棄地」が生まれてしまうことになる、どうしましょう?というプレゼンだったのだが、今回はこれに、「では、たとえば都営スタイルのように個人ガーデニングで土地をカバーしたら、どのくらいまで行けるか」を、僕の現在の地元の市に当てはめてみるという、まあ、毎度の「絵に描いた荒唐無稽」を作った。地元を対象にしたのは、地の利をよく知っている、という点もさることながら、こうした「マスタープラン的計画案」から欠落しがちな「個人の切実な事情」を絵にしてみる説得力も面白いんじゃないかと思ったためだ。それと、こういう「大鉈を振るう」たぐいの提案には、「実際にそこで生活する人の風景や顔が見えない」という突っ込みをする、むかつくスマートアスが会場に一人や二人いるためだ。
ディスカッションタイムで、会場からのコメントで面白かったもの:
・大阪芸大の篠沢先生:現在の地形や植生以外にも、ある土地を「寝かせる」ような、時間「利用」もありうる
・東大の小野先生:「都市の縮小」というサブジェクトでは、なぜか必ず「ある中心へ向かって縮まる」という前提があるように思えるが、実は都市の「中心」である行政府などのほうが、移動しやすい対象なのではないか。「中心じゃないところへ縮小する」というような発想もあってよい
以下は、配布された「講演要旨」に掲載したもの。
見知らぬ土地へのアプローチ 石川初(株式会社ランドスケープデザイン)
1. 都市のエッジ、里山のエッジ
多摩丘陵の農村・山林に開発された多摩ニュータウンは、その「都市域」が明確な輪郭をなしていることが特徴的である。ことに、ニュータウンの南端、多摩市・八王子市と町田市の境界部分は、北側の開発された領域と、南側の山林に囲まれた谷戸の農地とが、人工衛星写真でも目立つほどのコントラストを見せている。この境界は、開発域の境界であり、行政区域としての市の境界でもあると同時に、多摩川流域と相模川流域を分ける分水嶺でもある。尾根に沿って計画された道路、通称「尾根幹線」によっても、この「エッジ」は際立っていて、ニュータウン開発がきわめて計画的かつ短期間に行われたという事実をそのまま物語っている。
ところが、実際にこの「境界」付近を訪れてみると、地図上・衛星写真上に描かれていた「都市と緑のエッジ」の印象とはいささか異なる光景を目にすることになる。たしかに、落合地区や鶴巻地区の、緻密に計画・設計された住宅地や公園と、それよりも南の風景とはある意味で対照的ではあるが、その様子は必ずしも「都市を囲む緑」ではない。尾根幹線沿いには、粗造成されたまま放置されている「未利用地」が点在している。尾根幹線自体が、幅広い、フェンスに囲まれた「道路用地」を挟んだ未完成道路であり、とりとめもない「希薄な風景」が広がっている。
尾根幹線の南側には、尾根の向こうに小山田地区の谷戸を囲む林地が厚い緑を見せている。ところが、ここも実際に歩いてみると、衛星写真的な理解を裏切られる。山林を横断する未舗装の道路には、鉄条網の柵と不法投棄禁止の看板がびっしりと立てられている。そして、にもかかわらず、道路沿いには数百メートルに渡って廃車や家電製品などの粗大ゴミが散乱している。雑木林を抜け、農地に入って視界が開けるまで、この「ゴミ林道」の風景は続く。
一方は、従来その土地が有していた固有な状態を物理的に解除した(造成によって植生や地形を平坦化した)のちに、新たに担うはずであった機能が猶予されたために生じた一種の「空白」であり、もう一方は生活スタイルの変化とともにガスや電気などのインフラが普及し、農村における薪炭林の相対的な生産価値が低下するにつれて生じた「空白」である。様子は異なるが、都市的な「意味」が欠落しているという点で共通している。
2. 非・都市の風景?
「都市」は様々に定義し得るが、「都市的であること」とは、人間の社会的諸活動のために有用であると見なされる何らかの機能をもってその土地が意味付けられてあることである、と差し当たって言うことができるだろう。その意味で、多摩ニュータウンの南端部はまさに「非・都市」であった。都市ではない場所は必ずしも快適な癒しの空間ではない。
ランドスケープアーキテクチュアは、都市を前提とし、肯定する立場である。この職能がそもそも「都市問題」を解決する手法・思想として近代に登場したことを考えればそれは自明である。ことにランドスケープの「デザイン」は主に、都市にあってどのように「都市的でない場所」を構想し、確保するかという実践を重ねてきた。しかし、それはあくまでも都市のなかでの相対的な意味の差によって、空間の「明暗」を形作るという操作であって、結局それは「比較的都市っぽくない場所」をデザインすることで、いわばサブシステムとして都市を(逆説的に)正当化することなのである。例えば「緑地」や「農村(里山)」や、極言すれば「自然」も、都市的な立場から語られ、記述される限り、それは都市的な事態を成立させるために用いられる、疑似・非都市的要素である。
近年、主に都市計画の分野から提案される、コンパクトシティの発想に基づいた都市の構想「像」では、しばしば「都市の縮小跡」が一様に緑に塗られている。こうした絵図を指して、「緑の思考停止」であると揶揄することはたやすい。しかし、「シティ」が「コンパクトになる」というアイデアと、それを発想させる趨勢には、看過できない示唆が含まれている。都市活動の絶対量が減少し、都市が本当に物体的に縮小するとすると、それはいわば「真に非・都市的」な、サブシステムとしてすら必要とされない土地の出現と拡大を意味するからである。「緑の思考停止」の先にありうる光景は、私たちが多摩ニュータウンの南端でその一端を目撃したような、「意味の欠落」ではないだろうか。あらたな意味を付加できない、「見知らぬ場所」に接近する方法論を、私たちは持っていない。そのような土地をそのまま「風景」とすることは可能だろうか。それはデザインと呼びうるのか。「構想できない土地」といかにして対峙するかという、いささか理不尽な難問が、今後突きつけられるのではないか。と、そのように私たちは考えている。
ところで、「庭による郊外の逆スプロール図」を作りながら、先日の講演会でちょっと拝見した、宮城先生の「平城京の歴史的遺構と環境を基盤とした現代的土地利用の構想」がずっと頭にあった。
これは、奈良女子大が選ばれた、文部科学省の21世紀COEプログラムのひとつ、「古代日本形成の特質解明の研究教育拠点」のリサーチのひとつで、奈良盆地北部(平城京の跡地)を、農地と住宅がセットになったユニットで埋めてゆく、という構想(じつは、他に紹介された実施プロジェクトよりも、この構想案が面白かった)。ユニットには、農業のプロ向けから家庭菜園向けまで、いくつかのバリエーションがあり、それらがグリッド状に組み合わさって、なんというか、「都市的な農村」とでも言うべき土地利用風景を呈する。
描かれた「農住のピクセル群」の平面図は、ランドスケープエコロジーの中立景観モデルみたいな感じである。その、ゆるくリラックスした、しかしシステマチックな土地利用を可能にするのは、盆地北部に緻密に張り巡らされてアクセスが容易な用水路脈であり、それを成立させている南へ向かって緩やかに傾斜している盆地北部の地形と、グリッドの土地区画、「平城京の遺存地割」なのである。まさに「先行デザイン」の応用例。中谷さんらの都市連鎖や、05年の千年持続学第5回フォーラム「都市の血、都市の肉」でも発表された清水さんのリサーチも、おそらく参照されているだろう(と思う)。
これは、対象地の様子は異なるが、分科会で根本さんが紹介された「多摩ニュータウン自然地形案」と、その「精神」がとても似ている。根本さんによれば、「自然地形案」のキモは、たとえば単に環境保全的な観点などから原地形を残した、ということではなく、丘陵の地形そのものを街の「インフラ」、というか、「骨格」として組み込んでいるところだった。多摩丘陵の尾根や谷に相当するのが、「奈良農住」が使い回している「遺存地割」である。
平城京が撤退した際、けっこう短期間で「水田化」が進んだらしい。その都市グリッドと道路の形状がそれを「誘発」したとも言えるんじゃないか、というようなことは、僕も以前に考えたことがあった。「都市が減ってゆくという事態はこれまで誰も経験したことがない」と言われるが、実は平城京なんてまさしく、「非・都市化」がごそっと行われた土地だったのだ。「水田化」は、遺存地割の転用としてはきわめて巧妙で的確だった。グリッドシステムを継承したばかりでなく、インフラとして補強した。「農住構想」を見ると、もっと集約した都市でも、うまく建設できそうに見える。デリリアス奈良盆地。
そういう風に考えると、希薄になってゆくランドスケープを前に、そんなに途方に暮れることもないんじゃないか、とも思えるな。これをむしろ契機だと考えて、将来、どうなるかわからない土地の転用の多様さと豊かさを担保するために、「使えそうな痕跡」を残しておくことのほうが重要なんじゃないかと。もっと大きな目で見れば、人口だって減る一方じゃないかもしれないし。
その、先日の講演の最後、宮城さんは餅焼き金網みたいなものの上に紙を乗せてフロッタージュしてる写真を示し、「ランドスケープのリテラシーとはこういうものだと思います」と、それが「締め」だった。まあ、どれが「使える事物」なのかをあぶり出すのは難しいけどな。
学会の別な会合で、僕らの分科会を宣伝して下さっていたそうで、ありがとうございました宮城先生。
僕も茶団子好きです。