2007年10月30日

バイキンマン支持。

昨夜、帰宅したら、アンパンマンとかカレーパンマンとかメロンパンナとか、アンパンマンの「仲間たち」が自宅の前のアスファルト道路いっぱいにチョークで描かれていた。わが家の子供らを含む、ご近所のキッズの仕業らしい。

僕は、何度かテレビを横目で見たことがあるくらいで、それほど詳しいわけではないけれども、個人的に「バイキンマン」に好感を持っている。

おおむね、「世界に何らかの変化をもたらす」ために、新しい装置を発明したり、物事の再解釈をしたりというような「創意工夫」を「始める」のはバイキンマンである。しかもそれが、何か大きな野望に基づいているよりも、しばしば「ドキンちゃん」という、ややエキセントリックな峰不二子的キャラクターの理不尽な要求をうけて実行されるところもよい。

クリエイティブなバイキンマンに比べると、我らがヒーロー・アンパンマンはウルトラ・コンサバティブな存在である。じつに何も生み出さない。アンパンマンは基本的に、バイキンマンの試みを破壊して世界の現状を維持するだけが仕事である。何の提案も変化も創造もない。おまけになんだ、あの「善人顔」は。弱るとすぐにジャムおじさんから反則的な補充を受けたりするし。ずるいぞ。もっと葛藤しろ。

2007年10月29日

ランド素ケープ

「住宅都市整理公団」別棟:白髭団地ツアー/現にいまそこにあること

ちょっと嫌な言い方をするとそういう街の風景を変えることができる「特権的」な場所にいる方々にとって風景を批判的に眺めることはこれはもう本能のようなものかもしれないけど、そうじゃないふつうの人にとっては街の風景は「現にいまそこにあるもの」であってそのオルタナティブが存在するだなんて思いもしないんじゃないかな。建築家にとって街の風景はパラレルワールドのひとつかもしれないけど、ぼくにはそうは見えない。あきらめでもなんでもなくて批判的に他の可能性を表すより、ぼくは「現にいまそこにあること」のパワーを愛でたい、と。

そしてたぶん、大山さんの様々な「工夫」は、「そこにあること」をそのまんま提示しようとしたときに纏わりついてくる「パラレルワールド」を払拭する努力なんだろうなと思う。けだし、我々は現にある光景の「先」にアナザーワールドを夢想するというトレーニングを積んでしまっていて、そういう「邪念」を忘れることのほうが難しい。極端な例は「美しい景観を創る会」が喧伝したような、「現にいまそこにあること」を相対化する教条だろう。現前の風景を相対化することが、しょせんは新しいストーリーを付加する下心をもっている限り「そっち」とおんなじだとすると、これは痛い。

ただまあ、僕にとっての救いは、実際の風景はえてして自分自身の姑息な思惑をふっとばしてしまうことである。たとえば「物体的な圧倒」はしばしば、こうした夢想される平行世界を打ち砕いて心を掴む。ダムや工場の「説得力」はそういうところにもある。そこにあるという事態を拝むより他ないという。6世紀の人たちをいきなり現世に連れてきたら、彼らはダムや工場を「祀る」だろうと思う。

「テクノスケープ」で論じられていた「異化」は、工場をきっかけにするまでもなく、日常のなかで常に起きているのではないか、ふとコンビニや電柱や自販機の並ぶ道が違って見えてくるというような、日々の「プチ異風景化」はみんな日頃から経験していることで、そのさりげない「風景化」の目線で都市を見る、というのが「新スケープ」なんじゃないか、と先日思ったのだが、大山さんは工場やダムが期せずして持ってしまっているパワー、「それ自体を見てしまうよりほかない」という接近方法で見れば普通の街の光景を作っているさまざまなモノへもパラレルワールド抜きに接することができるのだ、という「逆のアプローチ」をしているのではなかろうか。

誤解を招く言いかたであることを承知でいえば、大山さんが写し取っているのは団地やパーキングタワーやゴルフ打ちっ放しの「自然」なんじゃないか。と。

僕は、上記の文章を読んで、咄嗟に以下のフレーズを思い出した。これはすごく似ているような気がする。誰が何と言おうとだ。

いついかなるときにも、私たちは何かに触れている。これは実に驚くべきことではないだろうか。

ところで、

石川さんって詰め寄りがちだよね。石川さんは先生もやってるけど、学生さんの心中をお察しする。

愛だよ愛。いやまじで。

「祖父ダニエルの写真」

Grandpa Daniel Slides Box 2 (Set) on Flickr

こここここ、これは!

すげー!正面からも撮影しても欲しかった。。。
いや、そうじゃなくて、当時の人々がどういう目でこの建物を眺めていたのかが知りたい。

via:aki's STOCKTAKING: 八王子駅 /1953年

ハロウィン@深大寺元町2007

今年もまた、構想を練る間もなく気がつけば10月も終わりであって、カボチャに火を入れねばならない日になったのだった。

↓長男のリクエストによる、「ガイコツ柄」

↓表札。

↓妹が送ってくれた自家栽培のカボチャが、モーリス・センダックの絵本の怪獣を思わせる形をしていたので。

↓近所の「お姉ちゃん」とともに。

ふー。
なんとか間に合いました、HAMACHI先生@この時期はハロウィンのポータル・ブログとでもいうべき:まわりぶろぐ

2007年10月26日

Dear Mr. Architect

404 Blog Not Found:惰訳 - 建築士がプログラマーのごとく働かねばならぬとしたら

・・・どこがジョークなのかぜんぜんわからん。普通じゃん。
「建築士」じゃなくて「建築家」にしたら少しはニュアンスが違うかもしれないな。

いや、それでも普通だな。

つまり、プログラマーは「こんな理不尽な要求下で仕事をしてるのは俺たちくらいなもんだ」って思ってる、ってことかな。

追記:
いけねえ、クイックポストから書いたらうっかりトラックバック送ってしまった。。。そんなつもりはなかったのだが。

2007年10月23日

「里山萌え」はあるか(という話ではない)

「ぽむ日記」にデビュー。
ぽむ日記 2007年 10月
今後、僕のことは「けんちく系芸人」と呼ぶように。

先週、火曜日。

「『新スケープ』の著者を囲んであーだこーだと話を聞いてみる夕食会」を行うべく、思い当たる人々に声をかけて、夜、赤坂の中華料理店に集まって頂いた。中央アーキのみなさん3人と藤村龍至さん、ぽむ企画桂さん、大山総裁、住み団小林さん、千葉大の八馬先生、地図メカ元永さん、タケダ@調布市民、フリックスタジオの小園さん(最近、いろんなところでフリックスタジオのエディターにお会いするが、そのたびに違う人なのだ。奥が深い)、僕の勤め先の若手スタッフ、エンジェル・ササキ。うむ。ちょっと嬉しがって集めすぎたかもしれん。

僕自身は非常に楽しんだ。というか、興味深かったというか、いろいろと考えさせられた。本にサインももらったし。

弁護士、じゃなくて、寺田真理子さんをして「居眠りしていてもシンポジウムのレポートを書ける」と言わしめる「ラウンドアバウト・ジャーナリスト」によるレポート:
新スケープ vs 旧スケープ (round about journal)

いやべつに煙たがってねえってばよ。

でも、説教部屋っぽい空気にしたとすると僕の落ち度である。そういうつもりはなかったのだが。こっちとしてはむしろ、都市・郊外・団地・工場系に取り囲まれて四面楚歌化し、里山に追い込まれたという感じだったんだけど。
中央アーキの皆さんが辟易していたらすまん。でもまあ、「出版する」というのはそういうことだ。読者はこっちが困惑するくらい深読みするし誤読する。それもネタだと思えばさ。
帰路、地図メカとも話していたんだけど、もう少し違うセッティングで、ゆっくり話を聞いてみたいと思った。

話が展開するうちに以下のような構図が浮かび上がってきた。

新スケープ:団地、工場、高層ビル、首都高 etc...=郊外的、テクノスケープ的
旧スケープ:合掌造り、棚田、里山 etc...=正統的、伝統的

まあね。実際に僕らが話した内容もそういうまとめを示唆する方向だったのだろう。分かりやすいし。

でも実は、ほんとうはこれこそがずっと残念に感じていることなんだよなあ。上記のような対概念化はたとえば、僕の周辺で言えば、いわば「保守的ラ系」の言説に顕著だ。論者によっては、「郊外的、テクノスケープ的」な景観を称揚する物言いが、価値観を相対化することで都市の資本の論理に加担することになる、と、その政治性を批判し警鐘を鳴らすものもある。この「構図」では、「郊外的、テクノスケープ的」は、言ってみれば新奇な趣味として「ひと括り」である。

でも、もう言うまでもないが、「工場萌え」や「恋する水門」の、対象への接近のしかたと、「新スケープ」のそれとはいささか異なっている。工場やダムや水門は物体的な延長や輪郭を持っていて、景観的強度とでも言うべき「ランドマーク性」を有している。一方で、「新スケープ」は(それは著者ら自身が説明するように、揚げ足を取られたくないという気持ちがそうさせたという一面はたとえあるにせよ)「まなざしの提示」であって、その対象の選び方もどこか消去法的で、「遠巻き(@Motoe_LAB)」である。さらに、「団地」がある。大山さんの「団地」は必ずしも絶景系テクノスケープではなく、「新スケープ的手法によるランドマークの潜在性」とでもいうような宙吊り感がある。近年、「郊外的、テクノスケープ的」を享受する視点はけっこう多様になりつつある。

一方で、「旧スケープ」のリテラシーはどうよ。なんかこう、わくわくする「再発見」が感じられないのは、冴えた人材がみんな都市に行っちゃってるからなのか、あるいは僕自身がそういう斜に構えた目で見ているからか、どうも「社会善」に寄り掛かってしまって停まってるような気がするのだが。以前、木下先生が「パストラル度」というちょっと皮肉っぽい「田園景観評価」をやっていて、あれは面白いと思ったけどな。田園風景は、いつのまにかその「付加価値」を払拭するのが非常に難しくなってしまった。

「空撮」はひとつのやりかたではあるのだった。
Designs on the Land: Exploring America from the Air
Taking Measures Across the American Landscape

藤村さんのいう「(おそらくは都市を作る側にいるという自覚をもった)批判的に乗り越える」とはまた違うだろうが、「新vs.旧」の対立の先へ進むことが、僕自身にとっても踏まないといけない手続きである。ような気がする。

「デザインされた風景」や、いわゆる「美しい景観」についてはどうだろう。という宿題もあるな。ううむ。まいったなこれは。

追記:
そういえば、この翌朝、何気なくテレビをつけたら、NHKの朝のニュースで、「工場景観が熱い」という報道をしていて、あろうことか、ちらっと「工場ナイト」の光景が映り、その後「千葉県が観光資源として港湾沿いの工場のツアーを企画している」という話になり、工場の「中の人」に対して「見どころ」を説く八馬先生が映った。・・・これは何かの啓示なのか。

2007年10月18日

「音の地図」

@nifty:デイリーポータルZ:音の地図をつくる

音の世界地図がほしい

音の臨場感はすごい。目を閉じると本当にその場所にいるような気分になる。

今回は駅周辺の狭い範囲だけだったけど、これが世界地図になったらどんなに素敵だろうと思う。サハラ砂漠でラクダがげっぷする音や、ニューヨークの交差点にひびくクラクションが聞こえたりするのだ。たまにだれかが喧嘩する声が聞こえたりして無駄にはらはらするかもしれない。

そんな地図があったら、一日中でも聞いていたいです。

↓これ見てみて>三土たつおさん

音の地球儀 - リビングワールド

2007年10月15日

「西東京いこいの森公園」に行ってきた。

以下はこれの続きである。

「公園日和」とでもいうべき、うららかな秋の土曜日の午前中、件の、西東京市いこいの森公園へ「検証」に出かけた。
僕を含めて、こうした公共の外部空間の設計に関わる仕事をしている現役5名が同行し、加えて僕は公園の典型的利用者のサンプルとして、ウチの3歳&5歳の「純粋ノイズエレメント」を連れて行った。

調査(というか見学)のポイントは、当該公園は「設計ミス」と言えるか、という点であった。もちろん、今回の件をめぐっては、「子供」とか「地域社会」とか「都市居住と住環境」とか「権利」とか「個人と公共」とか「寛容と憎悪」とか、この件が喚起するいくつもの議論がありうる。が、それらはあくまでこの件が「喚起する」ものである。今回の措置の主旨は「騒音被害を訴えた住民の住居で基準値を超える騒音が観測され、それが認められた」というものであって、音源がコドモだろうとボードだろうとウマだろうとそれはこの件に関しては関係ないし、訴えた住民が一人だろうと100人だろうと健康だろうと何だろうと関係ない(新聞が、『女性が』『女性が』って書くのもなんか気に入らない)。そのへんの話をややこしくしないために数字を明記した条例があるのである。「その条例の妥当性」についてどういう言うことは可能だが、それはレベルが異なる議論である。

そこで、僕らが関心を抱いた点は、こうした問題は、公園の設計の内容によって回避が可能であったのか、ということだったわけだ。もし、まあ多少至らなかった点はあるにせよ、それなりに考えて作ってはある、という印象を受けるような公園であれば、議論は次のレベルへステップアップできるわけである。

しかし、公園の入り口に立った我々は唖然として、文字通り言葉を失ったのだった。
んもう笑っちゃうくらいダメな設計であった。学生を連れてきて、ダメな事例としてフィールドワークしたら教育効果があるんじゃないか、という話が出たくらいであった。というか、こう言ってはなんだが、ダメな物件のほうが、一緒に見回っているときに話が弾むので盛り上がるような気がする(シモダ君は『来なけりゃよかった』と呟いていたけれども)。案内図を見ながら議論をはじめると、大々的な改善案はいくらでも湧き出るので、学生の課題としていいサブジェクトかもしれない。ほんとに。

すでにいくつか、ご一緒したメンバーから報告が掲示されているので、こちらも参照されたい。指摘事項に付け加えることはあまりない。

スケッチ・オブ・ザ・デイ 「西東京いこいの森公園」について
Aquilo - Blog:ミス以前の問題でした…。

ツクイさんが書いているような具体的な不具合や、キノシタ先生が記している計画上の不備は議論の余地のないものだったけれども、僕は何より、公園全体に満ちている「適当さ」と「外し具合」に眩暈がした。今回の騒音裁判と仮処分決定は、この公園が具体的・潜在的に抱えている計画上/運営上の問題の一部が、極端にわかりやすく不幸な形で噴出露呈したに過ぎない、とすら思える。

加えて、仕事柄、民間の物件を見慣れているためか、「公園」のデザインやディテールの「ゆるさ」や、記号の強い既製品の羅列には愕然としてしまう。いや公園クオリティなんてこんなもんですよ、とキノシタ先生やタケダ君がしきりにフォローしていたけど(ツクイさんは、そんなことはない、公園としてもダメだ、と繰り返していたけど)。

公園を一回りしてのち、近くのファミレスで昼食を摂って解散。僕は子供らのリクエストでふたたび公園に戻って、プレイロットで子供らを遊ばせた。砂場の近くのベンチでは、常連らしいお母さん達がお喋りに興じていて、話題はやはり今回の騒音問題であった。しばらくしたら、ネクタイをした、どうやら市議らしい初老の男性が回ってきて、「いま、利用者の市民の声を聞いているんですがね」と、今回の件について質問された。隣に腰掛けていたお母さんたちは、マンション住まいだと普段から気を遣うので、自宅で子供らを遊ばせられない。ここは広くていい公園なので、残念だ。その住民のかたの気持ちはわかるけど。難しいですよねーこういうのは、人によって感じ方も違うし、と、穏やかに困惑しているという感じの応答だった。うがち過ぎなのかも知れないが、僕はその市議(だと思う)の、「1年半前からの陳情に答えて植木を足したり看板を出したりいろいろ対策をとってきたんだけど」とか「他の住民や、あの病院からはなんにも出てなくて、そのお宅だけなんですよ」とか、なんか、言い分けがましく、かつその訴えた住民の特殊性を示唆するような物言いにちょっとむかついたため、「公園のほうで何とかするしかないでしょうどう考えても。防音壁が一番効果的で安いんじゃないでしょうか」と提案した。

子供たちにせよ、スケートボーダーたちにせよ、少人数で汗かいて草刈りしておられた公園ボランティアの人たちにせよ、多くの市民にとってすでにここは取り換えのきかない場所になりつつある。さっさと遮音措置が行われて、噴水やボードの利用が再開することを祈るね。


追記。

子供の声「騒音」の時代、自治体への苦情増加 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

「部活の練習がうるさい」「児童館で遊ぶ声が騒がしい」——。学校や公園などで、子供の声を巡って、周辺住民との摩擦が生じるケースが増えている。

 最近では、東京都西東京市にある公園の噴水で遊ぶ子供の声を東京地裁八王子支部が騒音と認定し、市が噴水を止める事態に発展した。

 読売新聞が全国の県庁所在地、政令市、東京23区の計73自治体を対象に調査を行ったところ、各地の自治体が、子供の声や部活動で生じる様々な音に対する苦情の対応に追われている実態が浮かび上がった。

話を一般化するんじゃねーよ。まったく。

2007年10月11日

地図熱

Google Japan Blog: デベロッパー交流会(第2回) ─ Vol.3

Google Japan Blog: デベロッパー交流会(第2回) ─ Vol.4

以上で今回の掲載はおわり。

楽しい「交流会」でありました。上記blogではあっさりまとめられているが、中華料理店での懇親会は実に盛り上がった。地図熱に火がついた。ああどうしよう。

さしあたってこれ→創造工学研修、2007.10.11 (Motoe Lab, TU)履修したい。

追記:
あとこれだ。
設計演習A 第一期 - 早稲田大学 中谷研究室/授業ブログ
ああ履修したい。

Your place, My place

先週のことだったが。せっかくなので忘れないうちに。

・デザインスタジオ2、第2回。

先週作成したそれぞれの「キャンパスのわたしの場所」の提出物がシャッフルされて配られる。履修者は、自分ではない、「他の誰か」が、わたしの場所だと主張する「場所」を手にすることになる。

課題:他の人の「わたしの場所」を読み込み、現地を検分して、そこに何らかの空間的操作を加えることによってあらためてそこを「わたしの場所」に編集し直し、紙に表現して説明せよ。作業時間1時間。

不良講師先生が、「お気に入りの場所と『わたしの場所』は違う」という「なぞかけ」をし、これが学生たちをしてなかなか興味深い混乱をせしめた。

あと、「編集」という言葉がいささか高度に過ぎた(言葉そのものが難しいというよりも、こういう意味で用いる表現としてちょっと気取りすぎだった)。

それにしても、先週から脱落者がほとんどいなかったのが驚きだった。次回は学外へフィールドワーク。この人数で街歩きしたりするのか。ちょっとすごいぞ。。。

2007年10月 5日

寝耳に噴水

公園の噴水遊びを騒音認定、「基準超す」と使用停止に(読売新聞) - Yahoo!ニュース

 東京都西東京市緑町の「西東京いこいの森公園」の噴水で遊ぶ子供の声がうるさいとして、近くに住む女性が騒音差し止めの仮処分を申し立て、東京地裁八王子支部が噴水を使用してはならないとする決定を出していたことがわかった。
 決定は1日に出され、同市は翌2日から噴水を止めている。
 同公園は、旧東大原子核研究所の跡地を利用して、市が2005年4月に開設した。敷地面積は4万4000平方メートルで、噴水は、遊具などが置かれた広場の中にある。複数の噴水口から水が断続的に噴き出す仕組みで、水の間を縫って遊べるようになっている。
 決定書などによると、噴水と女性の家とは数十メートル離れている。都環境確保条例の騒音規制では、この地域の午前8時〜午後7時の基準値を静かな事務所内に相当する50デシベルと定めているが、市が観測したところ、噴水で遊ぶ子供の声は女性の自宅付近で60デシベルと、基準値を超えたという。

公園の空撮はこんな具合である。


View Larger Map

噴水と流れが、よりにもよって、公園に隣接する一戸建て住宅地に最も寄ったところに設置されている。

これは、住民に同情するね。僕は。

この公園は、西東京市の合併記念公園として整備されたものだ。設計コンペが公募されたため、憶えていた(僕は応募しなかったが、同僚が応募していた)。

一方で、周囲の住宅地は古い。30年前の空撮写真にはもう住宅地が写っている。公園の敷地が東大の研究施設だった30年間、ものすごく静かな環境だっただろう。

公園建設の際に市がどのくらいの内容を近隣住民に説明していたか知らないし、住民が裁判所に仮処分を申し立てるまでにどのくらい、市の公園課あたりに苦情や相談を持ち込んだのかもわからないし、市がそれまで、どういう対応を取ったのかもわからないので、その点については何とも言えない。

でも、噴水や流れで大騒ぎして遊ぶくらいの年齢の子供らを統率制御するのは不可能だ(まさか、中高生が遊んでるわけじゃあるまい)し、公園の噴水はそのように遊ばれることを望んで設置されるものだ。

どうして、もっと南側の端っこに置かなかったんだろう?土地の勾配の関係とか、給排水設備の配置の事情だろうか。あるいは単に、設計者と発注者の考えが足りなかっただけだろうか?なんとなくそんな気がするが。

追記:
公園の噴水遊びを騒音認定、「基準超す」と使用停止に : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 女性は病気療養中で、不整脈や不眠の症状があり、水遊びをする子供の声が精神的不安や苦痛をもたらすなどと主張。これに対し、市側は、子供の声は騒音とは言えず、他の住民の苦情もないとして、基準値を超えていても受忍限度を超える騒音にはあたらないと反論していた。  同支部の決定は、水遊びが出来ない構造にするなど、子供が歓声をあげることのない噴水を設置することは可能だったとして、女性宅付近での子供の声の大きさが基準値を超える状態で噴水を運転することを禁じた。女性の代理人の弁護士は「騒音問題について関心が高まっている今の時代、市はもっと注意を払ってほしい」と話している。

Yahooに配信してるニュースだとこの段落が抜けているから、ずいぶんニュアンスが違うが、なるほど、争っていたのだ。市と住民が。自治体はこうした前例に敏感だから、「水遊びが出来ない構造」の噴水なんてノウハウが一般化しちゃうんじゃないかと心配だ。

しかしそれより、配置が悪いよ配置が。この場合。

追追記:
西東京いこいの森公園 一部利用中止について(スケート広場等) 西東京市Web

 住民より騒音差止等仮処分申立がなされ、東京地裁より決定がされましたので、10月2日より「スケート広場でのスケートボードの利用」および「噴水装置の運転」を中止しますので、ご理解、ご協力をお願いいたします。
 なお、インラインスケートおよびBMXについては、従来どおりご利用になれます。

なんだ、しかもボードとセットだったんじゃんか。
「水遊びの子供たち」だけ選択的に報道するところが、なんかヤな感じだな。新聞。

追追追記:
ちなみに、ツクイさんはもっとストレートに手厳しい。

Aquilo - Blog:噴水遊びは、騒音?

まあでも、供給者を断罪するのも躊躇われる。見方を変えれば、事前に委員会を組織したり、住民とのワークショップをしたり、公園の建設前から住民グループによる愛好会的なサークルを作ったりと、配慮は頑張っていた、と言えなくもない。それこそ、騒音の苦情が持ち上がるくらいだから、利用者の非常に多い施設なのだろう。

この手の、住民からのクレームに関しては、自治体の公共施設管理関係の部署には、かなりの経験と事例とノウハウが蓄積している(だからこそ、どうしてこういう配置になっちゃったんだと思うわけだけれども)。自治体としては、こんなふうに裁判になってニュースになってしまうことをこそ、最も警戒するはずで、住民と「争う」まで行ったというのはもしかすると、子供らの遊び場を守れ的な「維持派」の声と板挟みになっていたのかもしれない。

これから、「遊んではいけません」ていう立て札つきで、水のない噴水が晒されている、という光景が出現してしまうことが寂しいな。うまく遮音する工夫ができればいいけど。