・RE: 「参加」の隘路
http://02.members.goo.ne.jp/www/goo/t/a/taakyon/diary.html
これみて、慌てて分科会講演集を読んだ。
「卓見」ていうか、これはものすごく冴えてるぞ。
造園・ランドスケープを「わかりにくく」あるいは「語りにくく」しているのは、「造園・ランドスケープ産業の多様化」とか「対象の拡大」とか「対象が多岐に渡る」とかそういうことじゃなくて(それはいわば本末転倒であって)、物理的な空間構造や社会システムによる空間構成と、造園・ランドスケープの「相手」が「異なる範疇」に属しているから、だったのだ。その「なんかズレてる」という腑に落ちない感じは、それにも関わらず、実際に仕事をするときも、あるいはそれについて論じたりするときも、「実体空間」や「社会空間」を手がかりにして行わざるを得ないということなのだ。考えてみればあたりまえのことなんだけど。
土肥さんが「参加のスピルオーバー」によってあらわれてくる「認識空間」と呼ぶものは、オタベたちが「風景としての抜け道」で考察した「逸脱する歩行」と同じだし、進士さんが「制度や場所の属性を超越して『アメニティ』を感じるものとしての『緑』」と呼ぶものと同じだ(ただし、進士さんの場合、自覚的に、「緑」という語感のほとんど呪術的な共感効果を戦略として使ってるみたいなところがあるので、僕らとしては気をつけないといけない)。あるいは、「猫マップ」でもいいし。
でも、実体空間や社会空間もまた、認識空間の反映だとも言えないだろうか。土肥さんが可能性をみている「生態系」も、予想できないことが多いとはいえ、実体空間と相互関係的にあらわれる。結局、その場所場所で有効な「新しい地図」の手がかりを探り続けアップデートし続けないと、「相手」は見えてこないだろう、という、うん、気負い込んだ割にはなんか凡庸な結論になってしまった。。。