2003年5月28日

RE: 「参加」の隘路

http://02.members.goo.ne.jp/www/goo/t/a/taakyon/diary.html

これみて、慌てて分科会講演集を読んだ。
「卓見」ていうか、これはものすごく冴えてるぞ。

造園・ランドスケープを「わかりにくく」あるいは「語りにくく」しているのは、「造園・ランドスケープ産業の多様化」とか「対象の拡大」とか「対象が多岐に渡る」とかそういうことじゃなくて(それはいわば本末転倒であって)、物理的な空間構造や社会システムによる空間構成と、造園・ランドスケープの「相手」が「異なる範疇」に属しているから、だったのだ。その「なんかズレてる」という腑に落ちない感じは、それにも関わらず、実際に仕事をするときも、あるいはそれについて論じたりするときも、「実体空間」や「社会空間」を手がかりにして行わざるを得ないということなのだ。考えてみればあたりまえのことなんだけど。

土肥さんが「参加のスピルオーバー」によってあらわれてくる「認識空間」と呼ぶものは、オタベたちが「風景としての抜け道」で考察した「逸脱する歩行」と同じだし、進士さんが「制度や場所の属性を超越して『アメニティ』を感じるものとしての『緑』」と呼ぶものと同じだ(ただし、進士さんの場合、自覚的に、「緑」という語感のほとんど呪術的な共感効果を戦略として使ってるみたいなところがあるので、僕らとしては気をつけないといけない)。あるいは、「猫マップ」でもいいし。

でも、実体空間や社会空間もまた、認識空間の反映だとも言えないだろうか。土肥さんが可能性をみている「生態系」も、予想できないことが多いとはいえ、実体空間と相互関係的にあらわれる。結局、その場所場所で有効な「新しい地図」の手がかりを探り続けアップデートし続けないと、「相手」は見えてこないだろう、という、うん、気負い込んだ割にはなんか凡庸な結論になってしまった。。。

2003年5月27日

感覚アンテナ

先日の造園学会・学術分科会でご一緒した杉浦榮さんによる、「子供向けワークショップ:『感覚アンテナ展』」
http://www.s-2.jp/image/main/projects/kankaku.html

黒く塗った床に世田谷区の航空写真が天井から投影されている。参加者は直径10センチくらいの丸い白いシートを「自分のお気に入りの場所」に貼ってゆく。多くの参加者が貼り付けてゆくことで、「お気に入り連鎖マップ」みたいなものが浮かび上がってくるわけだ。
これは。冴えてる。すごくいい。

杉浦さんは、大学で社会学部を出たあとGSDでランドスケープデザインを修めて、しばらくSEDO(三谷さんらがいたところ)で仕事をし、独立した人。分科会の議論はそれはそれで面白かったのだが、杉浦さんはちょっと「まともなこと」を言い過ぎる、というか、本音の語りが出てくるまでに時間がかかるたぐいの人のようで、(まるで書いてあるものを読んでるみたいな「正しい」意見を言う人である)もっとくつろいだ場面でじっくり話をしてみたい。

杉浦さんの「ランドスケープのエッセイ」
http://www.s-2.jp/NewFiles/about-landscape.html

以下は、別なワークショップで、同じものが、杉浦さんからワークショップの掲示板に投稿されたとき、僕が返信したもの。

『物体的なカタチをゴールとするのではない』とか『風景の良さは客観的に実在するわけではなくて、その土地のオリジナルなキャラとそこに住む(使う)人たちとの間に「あらわれる」ものだ』というような言説は、「態度」の表明としてはわかるような気がしますが、今となってはプロテストであるよりむしろ正論になったように思いますので、いささか気になった点について、「議論のため」ということで。 杉浦さん: >「風土」が、自然とひとの終わらない連鎖によって形成されるものだとすると、我々に可 > 能なのは、その連鎖の一過程に、一石を投じることだけだと思われる。それによって、ど > のようにその連鎖が変化するかを、方向付けることはできたとしても、完全にコントロー > ルすることはできない。また、そのように自然とひとの関係が連歌のように連なり「風 > 土」の循環が機能している状態を、「風土」が生きている状態ととらえると、「風土」の > 連鎖が断ち切られ、その循環が停止しているような状態は、「風土」が死んだ状態である > といえる。敷地の全てを一律に造成し地域性を鑑みず紙面の経済効率からプログラムがた > てられたようなバブル期の開発のあり方は、後者に属するものだったといえよう。一方、 > 誤解を恐れずにいえば、やみくもに保全を唱えるのも、状態を硬直させるという意味にお > いては、同様の事態をひきおこしかねない。(極論をいえば、環境保全の問題には、我々 > を含めた生命体の生息地をまもるという最終的な意図があるにもかかわらず、究極の解決 > は我々が死滅することだという矛盾につきあたる。)このような両極の「死んだ」状態に > 陥った「風土」から生まれる「風景」には、それを支えるリアリティがない。そのため、 > このような開発地(あるいは保全地)を含む周辺の地域は、長い間には機能不全に陥ると > いう事態に、往々にして至るようだ。 その語法で、こうも言えないでしょうか?どれほど山をケズって谷を埋めたとて、それが「敷地」という現実の土地の拡がりの上に行われる操作であり、かつ「経済」というどうしようもなく社会的な事象に絡め取られている限り、風土性から完全に逃れることはできない。乖離が生じているとしても、しょせんは「ある射程距離」の範囲内での話ですよね。あるいはまた、ある敷地に対して「やみくもな保全」がなされても、むしろそういう「引退した区画」は、その限られた土地から「人間活動」が排除されることで、その地域はそこに特有のリアリティを「抱え込む」ことができる。場合によっては下手に構想された「自然と人間の関係性」よりもずっとエコロジカルで「公平」なランドスケープになりますよね。 風景を支える「リアリティ」は、文脈によってまったく異なるものになりうるし、風景が「発見されるもの」であるという、風景のいわば相対主義的な立場に立てば、その文脈の「抽出のしかた」がまさにリアリティを規定する(風景が発見される)ことじゃないでしょうか?そうすると、風土が「硬直した」状態、「死んだ」状態を「悪い」と評価する論拠って何なんでしょうね?あるいは何をして「生きた風土性」を見出すのか? 仮に、「生き生きとしたよい風土性」という事態がそこに想定されうるとして、そしてその事態を生むため(誘導するため?)に有効なデザインが行われるとして、それが作用するためには、最後は空間的に「結像」しなければならないわけですよね。風景のリアリティとは、その「像」の強度というか「射程距離」なんじゃないでしょうか。「どこまで考えて作ったか」というような。いったい何を解決しようとして提案されたかにもよりますが、インターフェースの表現として選ばれるなら「郷愁」だってバカにしたもんじゃないと思います。(というか、郷愁が否定されるのは、端的にかっこわるいことが多いからなんじゃないかと思います) なんか、「風景」に対して「風土」っていうメタな概念を導入しても、結局はその「風土」をメタに記述する言葉を探さざるをえないんじゃないでしょうか。重要なのは、ともかくも「今の時点で」最善だと思われる「見切り発車ポイント」を探ることではないでしょうか。

2003年5月23日

「不条理」

宮下美穂さんによるランドスケープのエッセイ:

http://www.japandesign.ne.jp/HTM/REPORT/c_a_l/01/index.html

うーん。こりゃあつまんないぜ。文章も飛躍してるし。

でも「不条理」というのはいい言い方かもしれないと思った。
造園/ランドスケープというのは都市の論理からは不条理なことをあえて言い続ける「係」なのかもしれない。とかな。

2003年5月20日

都市の未来

都市新基盤整備研究会/森地茂、篠原修編著「都市の未来 21世紀型都市の条件」日本経済新聞社、2003

著者のなかの白幡洋三郎さんの名前に惹かれて買った。
白幡さんの稿は面白かった。篠原先生は何度も登場するが、言いたいことはわかるけれど、ちょっとうんざりだ。

2003年5月19日

invisible parallel

10+1のウェブサイトで、写真家、新良太さんの街の写真に文章が付いているコーナーのひとつ、
インビジブル・サークル:
http://tenplusone.inax.co.jp/underground/photo/atarashi25.html

岡崎氏(『建築士』っていう肩書きがなんか、いいですね)によると。
山手線の「環状」であることが、そのジオメトリーを「円環」に規定しちゃう、という。

いや、確かにそうだぞ。
僕の頭の中でも、山手線は奇麗な円を描いている。だから、田町−品川間で、山手線が「逆に」カーブするところでは、なんか変な居心地の悪さを感じる。巣鴨−池袋間でもそうだ。山手線のくせに外側に向けて曲がってゆくんだから。

あと、僕の頭の中では、中央線は新宿と東京をまっすぐ東西に結んでいる。なので、新宿から東京へ向かうとき、いきなり中央線が代々木へ向けて発車するといまだに軽い驚きをおぼえてしまう。特に小田急で新宿へ着いたりすると感覚が混乱する。西(本厚木方面)からまっすぐ東へ向けて新宿へ着いたはずの小田急は実は、参宮橋のあたりでぐっと北へ向けてカーブして、「南から」新宿駅に着く。だからそこで中央線に乗り換えると、東京行きの中央線がいきなり逆方向へ発車したみたいな感じがしてどきっとする。

それから、僕はいままで、東京西部を主な生息地にしてきたために、これまで日常的に使ったことのある鉄道、はすべて、西武新宿線、中央線、京王線、小田急線、田園都市線、池上線、と、「おおむね西方向へむかう」線路だった。これらは僕の頭の中では、放射状というより、どれも東西に平行に走っているような感じがする。ついでに京浜東北線とか京急なんかも、まるで中央線と平行のように、東西に走っているような感じがする。

だから、GPSを持ち歩くようになって、品川から先の京浜東北線が、東西じゃなくむしろ南北に走っているのを目の当たりにしたときは驚いた。実際、横浜は「経度的」には高円寺くらいの位置で、僕の住む調布よりもずっとにある。わかってる人にはあたりまえなんだろうけど、これは僕にはなんか受け入れがたい。成城も砧も大泉学園も、横浜より西にあるなんて。横浜って町田の真南くらいにありそうなのだ。ちなみに、地図を見ると、町田の真南はというと鵠沼くらいである。調布の真南も江ノ島とかだ。うう、勘弁してくれ。

2003年5月14日

Map Master

今尾恵介氏の、ほとんどオフィシャル・サイト:
http://www.geocities.com/imao_keisuke/

著作はほとんど全部持っている。
路面電車の新書のことを知らなかった。
これは買わねば。

2003年5月13日

voice of landscape

あるいは、「オヤジの説教としての造園的思考」

『人間は、システムの安定を配慮するのと同じ熱情をもって、システムの安定を犠牲にしても、財貨やサービスや権力や情報が「どんどん運動する」のを見たいという、非合理的な欲望に身を灼いてもいます。 システムの安定か、欲望の充足か、人類発生以来、この拮抗関係はゆるやかに「欲望」の優勢のうちに推移してきました。ですから、こう言ってよければ、欲望の充足を生態系の安定よりも優先的に配慮する生物、それが人間である、ということになるでしょう。』(内田樹「疲れすぎて眠られぬ夜のために」角川書店、2003、p244)

内田先生によれば、社会階層や年齢、性別などの社会的な集団が細分化され、それぞれが「らしく」ふるまうための「らしさ」の型が継承されていることは、社会システムの安定のために人類が培ってきた知恵であった。一方、精算と流通と消費を最大化させるシステム、「資本主義」は社会成員の欲望をできるだけ均質化しようとする。そして、その欲望が充足しきってしまわないために、狭い範囲の微妙な差異に執着させて、それを機動力にして欲望を不安定なものにし続ける。同じモノが一度に多量に消費されること、しかもその「殺到」が次々に繰り返されること、が資本主義の望みだからだ。

多様性のない系が脆弱であるということを人間が本能的に「知って」いて、それを持続させるためのシステムを伝統的に継承しようとしてきた、というテーゼは、ことに造園なんかの仕事をしていると度々耳にするけれど(いや、そんなにキレイに言葉になっていない主張が多いけど)それが、同じ人間の「資本主義的欲望」とバトルを演じている、というのは、いや、なるほどそういうことだよなあ。結局。資本主義的欲望が無いフリをしたり、それが簡単にコントロールできると思いこんだりする発想ももちろんいかがわしいけれども、資本主義的なダイナミズムに全面的に与するのをためらわせる「ほんとにそれでいいんかいな」という、「内なる造園の声」は、それなりに深い根拠のあるものだったりするわけだ。

「ランドスケープが都市とどう向き合うか」というような設問は(また話が飛ぶけど、いまそういうディスカッションの最中なので)、これくらいの文脈を念頭にしないと空々しい議論になっちゃうと思うな。「都市と住居」にしても「人工と自然」にしても、あるいは「地域性と普遍性(風景にからむアイデンティティとかリアリティの問題もきっとここにはまる)」とか、「建築と造園」でもいいけどさ、そもそも、人間が根元的に抱えている矛盾が様々な形になって露呈しているわけだから。例えば『「自然・都市」は旧弊な二項対立的図式である』なんて言って、それでそれを越えたり克服しようとしたりするとき、それは一体どこを向いて、何のために?という問いが先にあるべきだから。「ランドスケープ的模索」はたぶん、その矛盾をわきまえたうえで、どのへんに落とすか、というストラグルなのだ。

2003年5月12日

ふれあいひろばのエコロジー

「スタンダード 反社会学講座」
http://mazzan.tripod.co.jp/index.html
第10回、および第11回の「ふれあい大国ニッポン」を参照。

これは笑える。
近頃ではそうでもないけれど(いや、相変わらずそうなのかもしれないが)、公共施設にはやたらと「ふれあい」が冠されている。こういうの以前からキライだった。特に公園などに(仕事柄、公園が気になるのです)名付けられた「ふれあいひろば」というひらがなのタイトルが苦手だ。そんなもん作ったって誰もふれあうもんか。

ところで、ちょっと興味深いのは、「ふれあい」という言葉によって期待されている「事態」である。もちろん、深い意味もなく、『妙にしぶとい「善」のイメージ』(@反社会学講座)の語感で、いわば役所のアカウンタビリティを担保するために用いられている例が多いのだろうけれども、「ふれあい」には、「ゆとり」とか「うるおい」とかの「癒し系」の言葉とはまた違った響きがある。

「癒し」が、なんとなく、普段は人の集団の中にいる人間が、単独でやってきてネジを巻き戻して回復する、というような、「ひとり」のイメージがあるのに対して、「反社会学講座」が指摘しているように、「ふれあい」は(特にそういう施設においてでないと邂逅の機会がないような)複数の人間が出会って、「交流」し、何らかのポジティブな関係が生まれることを目論まれているように思う。

それは、ふれあいのシステムが作動して持続する、一種の「自立した系」の生成への期待なんじゃないだろうか。それってなんか、「自然」とか「生態系」が、ある「施設」として導入・設置される際に期待されるものと非常に似ているような気がする。

「あとは自然に任せる」とか「あとは人々の営為にまかせる」というのは造園・ランドスケープの常套句だけれども、そこで期待されるのは「自然に枯れて荒れ果ててゆくこと」じゃなくて、自立した系の生成と持続によってその場所がマチュアになってゆくことだ。だから、「あとは自然に」というのは、ぎりぎりのところでハードウェアを供給する側の「射程距離」の表明であるわけで、広場に「ふれあい」と名付けるのは、このネーミングがデザインの終端です、という射程を露呈しているわけだ。

2003年5月10日

Casa BRUTUS

カーサ・ブルータスの6月号、特集「東京1000」の発売日。

早速買ってきた。なぜかというと、特集の一部、「品川、汐留、丸の内の再開発を比較して言いたい放題あーだこーだ言う(ただし400字)」という記事を執筆したからです。しかも五十嵐太郎氏と分担する格好で。

入稿の際に、五十嵐さんご本人とは打ち合わせる時間がなかったので、編集部の方に確認したうえで、ちょっと図に乗って書いた。

で、蓋を開けてみたら、五十嵐さんは巧みにも、貶しているとも誉めているとも読めるような微妙なニュアンスでうまくまとめている。うーむ。%B


追記: ↑何かの拍子にログファイルからテキストが欠けた。このあと、正確に何と書いていたか、わすれてしまったのだが、主旨は、

・五十嵐さんは媒体の性格を睨んだ文章が上手だ
・俺のはその点、場所をわきまえないところがある
・でも総じてこの号の企画はいいので、お手元にどうぞ。

2003年5月 6日

地上のディバイス

注文してあった、MapSource日本詳細地図のCDが届いた。これをPCに入れると、eTrex Legend-Jと連動して、日本全国の2万5千分の1の地図を表示したり、地図(の一部)を転送したり、ルートやポイントを作成したり、トラックログを保存したり、ということができるのだ。

ただし、これはMapSourceじゃないとできないわけではなく、ルートやポイントの作成ならばアルプスの「プロアトラス」という電子地図のほうが楽にできるし、ログの保存や描画ならばカシミール3Dでもできる。特にカシミールはログの「再生」を立体で行うことができるので、飛行機に乗ったときの記録なんか、ちょっと壮観である。しかも、プロアトラスのフルカラーの地図画面と違って、ベクトルデータのMapSourceは地図としてはなんか無愛想だし、道路はただの黒い線だし、カーナビの画面みたいである。

それでも僕がMapSourceを気に入っている点は、「全国あまねく」2万5千分の1の地図が格納されているという点である。僕が使っている「プロアトラス2002全国DVD版」は、格納されている情報が都市に集中している。東京などの都心部は1000分の1で住宅地図並の詳しい情報が入っているけど、たとえば「山形県西置賜郡叶水」なんていう地域は20万分の1の表示までしかできない。表示すべき情報が都市に集中していて、ユーザーは主にそういうのを使う、ということが想定されているのである。まあそりゃそうだろう。

一方、MapSourceの地図は、全国すべからく2万5千分の1である。だから赤坂の地下鉄の出入り口は判別できないけれども、山形県西置賜郡叶水(ちゃんと「基督教独立学園」まで表示される)とか新潟県十日町市大字馬場乙とかも、都心と同じ縮尺で出てくる。うむ。この、街も山間部も広く浅く、フラットに扱うクールな態度がなんか、好感を持ってしまうのだ。いいぞ。

そこで、MapSourceを早速インストールし、全国をフラットに眺めて悦に入っているのである。地図フェチとして、ちょっと幸せだ。

渡辺保史氏が「情報デザイン入門」(平凡社新書、2001)で指摘しているように、「地図」は決して現実の地形そのものを平面に移し替えたものではなくて、土地の様々な特徴や属性からその地図の編集意図に沿ってピックアップした情報を抽象化して2次元に表現した「情報デザイン」である。

だからどんな地図も、その土地の「ある一面」しか伝えないし、何を伝え、表現することに重きが置かれるかによって地図はぜんぜん違う様子のものになる。たとえば道路マップと鉄道路線図と現況植生図がぜんぜん違うように。

(Design With Natureのレイヤリングは、地図を作成する際の『抽象化』を逆に辿って、現実の土地そのものへ遡行しようとする手法だと言える。余談だけど)

そして、現実の土地からの情報の取捨選択に抽象化という「手続き」が行われる以上、その地図が機能するためには、その「手続き」のルールが共有されている必要がある。つまり、地図を読むためには地図の言葉に通じていないといけないのだ(あたりまえだけど)。だから、特に一般むけの市街地図などは、その地域の社会制度をよく反映する。アメリカの市街地図が街路のインデックスみたいな様子なのに対して、日本の市街地図は街区の配置図という感じだが、これはそれぞれの「住所」の考え方の差である。

また、現実の土地は、道路も建物も、長い目で見れば地形でさえ、どんどん変化してゆく。だから地図は、それが作成された時点での「記録」であって、古い地図と見比べたり、実際の土地と見比べたりしてその土地の「変化」を目撃するという「読み方」もできる。実に、地図はハマると深いのだ。

でも、知らない土地で地図を片手に街を歩いていたりするとき、時折、自分が「地図」と「現実の土地」との中間に浮かんでいるような、不安感というか、奇妙な違和感に襲われることがある。地図には広範囲の市街地の形や道路が描かれて、自分は自分の位置を把握しているつもりで歩いているけれども、実際に自分が目の当たりにし、自分の足で感じる範囲はとても限られている。なんかこう、地図の抽象性と、自分が歩いている土地との隙間に折り合いをつけかねて、自分の体験を取りこぼしてしまっているような、惜しいような、言いたいことがうまく言えずに悔しいような、なんというか「地図的欲求不満」を感じてしまうのだ。

で、GPSが「効く」のはそこである。eTrexが表示するのは、そこが誰の土地なのか、道路なのか川なのか森林なのか、山なのか海なのか砂漠なのかということにまったく関係なく、単に「自分が地球上のどの座標にいるのか」というプリミティブな事実である。eTrexを介して、自分の「地図的視点」と「立ち位置」はほとんどダイレクトに接続している。その意味では、地図機能をもたない「素」のeTrexのほうがこの「接続感」は味わえる。Legend-Jみたいに詳細地図が表示されちゃうと、つい地図を見てしまう。まあしかし、これは実際に動き回る際に使う「補助線」みたいに思えばいいのである。おまけに表示画面が小さいから、自分の立っている場所の近くしか表示できないため、「乖離」が少ない。実に僕の心を豊かにする装置なのである。