大陸系の業務がいきなり激ペースになったうえに、今週半ばからアメリカへ1週間ばかり出張することになり、国内業務が圧縮されて発火寸前、であるにもかかわらず、相変わらず「月光仕事」が隙間に滑り込んでくる、のは自分が好きでそうしているのだから自業自得なのだった。
火曜日。
夜、MDRの編集長と、編集の横田さんが来られ、次号の企画についてすこし打合せ。グラウンディングの「実践編」第2弾や、今回の特集の打ち上げその他の話題なども。
「グラウンディング」で完全に消耗したので、10+1的ガッツはすでに残っていないが、ちょっとのご協力なら可能だとお伝えする。そしたら、まるで爆弾のお土産のように、誰がどう考えても僕に不相応な書評の仕事を依頼された。しかも著者の方のご指名だという。ううむ。嫌も応もなく拝命する。う。すでに胃痛が。
木曜日。
雑誌「confort」の編集のトヨナガさんが来られ(お会いするのは5年ぶりくらい)、次々号あたりの特集に関連して打合せ。話しているうちに、confortのノリを思い出した。そうだ、こういう雑誌だったなあ。
上記、10+1の次回特集に関連して、「景観」についてまた少し考える。
42号の連載でも、五十嵐隊長が「美しい景観を創る会」に代表される「醜い景観狩り」を批判している。論旨は「景観の美醜はあくまで相対的なものだ」という、いわばあたりまえのことである。ただ、五十嵐さんは、近年の動向に、こうした価値観がオフィシャライズされること、それを支える民族主義的なメンタリティに対して危機感を抱き、かつこうした動向に姑息に便乗して利益を誘導しようとしている相変わらずの不動産/建設資本に対してむかついている。あと、ハイ・アーキテクチュア関係者の矜持もあるかもしれないが。もしかしたら。
批判の内容自体はじつにまともで、付け加えることはない。現在、議論されている「景観」は、これまでの都市的活動の結果、現れている事態なのであって、それだけを取り出して「醜い」と評し、その部分だけの操作で「美しい」ものにしようとしても、そもそも無理である。この点については、去年制定された「外来生物法」に似ている。いくつかの在来の生物種が存続の危機に見舞われた、最大の原因は「開発」である。生物圏内の種の構成にだけ構図を狭窄して注目し、特定の外来生物を駆除しても、日本の生態系が守られるわけではないし、むしろそういう誤解は、より大きな「事情」から目を逸らしてしまう。
興味深いのは、彼らが槍玉に挙げている「悪い景観」が、どれもこれも「B級」というか、無意識の産物というか、「意図せざる景観」であることだ。なんだか、「コントロールされていない景」がダメだと言っているみたいに見える。「景観ガイドライン」とかを作って風景を「美しく」しようとする人たちが考えそうなことだ。
僕自身は五十嵐さんの危機感(ご本人によると「怒り」)はわかる。でも、いわば「景観相対主義」が強調されすぎることにも同じように危機感を感じてしまって、なんというかこのへんは割り切れない。いや、同じことを何度も書いているんだけど。
ところで、僕ら親子が自転車で毎朝通る、保育園への通園路沿いにあった、広い造園樹木の圃場(植木の畑)が消えて、宅地開発が始まった。自宅のすぐ近くである。妻が聞いたところによると、遺産相続に伴う分配問題の結果らしい。「畑」といっても、樹高10mを越えるケヤキやスダジイが文字通り「林立」した、ちょっとした緑地だった。このあたりの気温に影響が出るかもしれないと思うくらい、けっこうな面積の樹林帯がごそっと消えた。樹木の移設と整地が終わって、区画が区切られて基礎工事が始まったところで、うわ、やっぱり一戸建てのミニ開発だったのか、と嘆いた僕を、チャイルドシートから見上げた3歳の息子がいわく、
息子「お父さん、木がいっぱいのほうが好き?」
僕「うん、木がいっぱいあるほうが好きだねえ」
息子「ミノリはお家がいっぱいのほうが好き。」
僕「・・・・・」
なるほど。
こんな身近なところにも、景観相対論的事例が。