・日本橋2.0
日曜日。
東京ピクニッククラブの、恒例「アニュアル・ピクニック」@皇居外苑。
週末の雨天が続いたため、期日が延びに延びて、異例の「夏ピク」になった。
しかしまあ、アニュアル・ピクニックの案内をもらうと「ああ、もうそんな季節か」と思う。花見や花火大会みたいに、なんだかすっかり「風物詩」になった。
ピクニシャン・太田浩史さんに、10+1最新号「都市景観スタディ」について、ちょっと話を伺った。
太田さんの論文、「景観の先を見よ」は、特集記事の最後に掲載されている。
太田さんは、たとえば五十嵐太郎さんもしばしば論じている、日本橋を跨ぐ首都高の移設問題について、これを景観の美醜の問題として(醜いと断じるにせよ、それに反発するにせよ)捉えるのは見当違いなんじゃないか、という。いささかでも東京を「よく」しようという気概のもとに日本橋へ向かうなら、課題は何よりもまず、リアルな日本橋川がどのようであれば都市空間と環境と生活を豊かにするか、ということであるはずであって、それをイメージできるのがプロ(の建築家)ってもんだろうと。
それはそうだ。「東京キャナル」だって、それをやろうとした(している)のだし(成功しているかどうかはともかく)。たとえ「自分が生まれたときからそこにある」高架道路であっても、その先に「こうだったら素晴らしい」を思い描いて、それを伝達可能な形に表現できる、そういうスキルを建築やラ系は持っている、はずなのだ。
議論が逸れてしまいつつある原因として、首都高の整備計画や景観法に関する基礎的な知識の不足だとか、「日本橋」というベタにリアルな場所の話を「国家が強いるオフィシャルな美への批判」というメタな話にしてしまう「心理」だとか、を太田さんは挙げている。そして、結語で「都市の設計に参加しよう」と呼びかける。
論旨は明快、というか、きわめて「まとも」な主張である。しかし、特集を頭から読み進んでいくと、最後にこれが出てきて、目がさめるような思いがする。僕は思わずコピーして、職場の若い連中やバイトに来ている学生たちに配ってしまった。反響がすごい。一人なんか、夜中にケータイに「感動しました」というメール送ってきた。
「(景観の)美は方便である」と太田論文にはある。たしかに、目指すところは「美しい廃墟」ではないだろう。でも、ベタな日本橋の「地元さ」も、そこが「天下の日本橋」なのだという誇りを抜きにしては成り立っていないし、実際の物事はけっこう複雑である。僕自身は、五十嵐太郎さんが「景観を笑う」や、今回の10+1掲載の「景観は記号ではない」で述べている危惧は理解できるし、共感するところも多分にある。ことに、僕らのような「屈折ラ系」は、「パストラルの古傷」がカユくて、心情的に、つい相対化に加担する傾向がある。そのへんの「開き直り加減」が僕自身の問題ではある。でも、太田さんも、今回は五十嵐論文を「足がかり」にしてはいるけれども、その趣旨を否定しているわけではない。たぶん、むしろ太田さんが不甲斐なく感じているのは、「景観を笑う」を読んで景観法を理解したと思っていたり、篠原先生の首都高論を読んで交通システムを把握したと思っているような人たちであり、何も声をあげようとしない同世代や、もっと若い建築家たちに対してである(声が上がらないことに焦れているのは五十嵐さんも同じだと思う)。
そういうわけなので、特にラ系諸姉諸兄、ぜひ10+1最新号を買ってください。上記だけでなく、面白い記事満載。中谷さんの「民家」も始まったし。(書店の本棚に、前号が置いてあったら、ついでに買ってもいいし)