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gpot自分の位置を確かめること

風の中で(場所性)

僕はグラスが好きでして、庭にはススキやスゲの園芸種やなにかをやたらと植えています。華やかに咲く植物が嫌いなわけではないのですが、どうも草類の姿に心惹かれるのです。オーナメンタルグラスという言葉がわりと一般化したのはここ3、4年のことじゃないかと思いますが、僕もそういう目でグラスを探したり育てたりするようになったのも最近のことです。しかし高校生の頃に、裏山の茅地へ出かけてススキの写真を盛んに撮ったりしていましたので、今にして思えば昔から「草フェチ」だったかもしれないとは思いますが。それと、園芸に手を染めた方はもちろんご存じのことですが、花を美しく咲かせるというのは、手間のかかる、独特のセンスが要求されるものでして、僕のように飽きっぽくて面倒くさがりの素人庭師にはなかなか、大変なのですが、グラスはとりあえず茂っていればそれなりに見える、という利点があります。

そんなわけで、ウチの庭は草だらけ。酒を飲まない僕は、帰宅して、庭に設えたベンチに腰をおろして一服するのが毎晩のささやけき楽しみのひとつです。グラスの庭の輝きは、風が通り抜ける時です。狭い裏庭なのですが、それでも向こう端からさわさわと穂がそよぎ揺れて、葉が擦れ合うかすかな音とともに緑が波打ち押し寄せ、ざわめきが頬をなでて通りすぎ、草がまた静かに直り立ちます。こういうとき、僕が味わうのは「庭体験」としか言いようのないものです。風という、それが「ある」ことは何気なく知っているけれども、普段は目に見えないような現象を、庭はそれ自体で「庭体験」に変換します。

この「庭体験」がもたらすのは、「自分がここにいる」という感じのようなものです。庭に出て、風を庭的に感じ取るとき、大げさに言えば僕の意識はすこし拡張し、多摩川から国分寺崖線を這い上って深大寺北町を過ぎて、野崎から下連雀、吉祥寺方面へと吹き過ぎてゆく風に同調します。自分の庭が、この北多摩の「土地」のなかにあって、周囲と「つながっている」という気がします。

我が家の庭が「風に吹かれ系」なので、つい風を題にしてしまうのですが、庭が住まいのなかで最も外部と接している場所であるということは、バラとクレマチスのガーデンだろうと、多肉植物のポット群のベランダだろうと、変わりはありません。地面には雑草は生えてくるし、隣の家に降る雨は自分の庭にも降る。庭はまるで家にくっついた外部環境のセンサーのように、周りの様子を映し出します。

ただ、「映し出す」と言っても庭は、単に鏡のように天候を映し出すわけではない。あるいは風鈴のように、情報を変換し続けるだけではないわけです。庭はそれ自体が変化しながら、周囲の状況と同調(抜いても抜いても、隣家のポピーが生えてくる)しようとし、その土地の潜在的な様相へと「回復」(抜いても抜いても雑草が生えてくる)しようとします。このように見れば、ガーデニングは、庭に対して恒常的に働きかけ、介入し続けることで、そのプロセスをあるフェーズで留めおこうとする行為のように思えます。この一種の「せめぎあい」において、自分が「どこにいるのか」という、この場所のありかのようなものを「手触り」として感じるのです。

実に、僕らは常に自分の位置を確かめることを欲しているように思います。

たとえば、地理的な広がりのなかで。たまに道に迷うことは楽しいこともありますが、僕らは常に道に迷い続けることはできません。それは不安すぎる。「地図」は自分の場所を確認するツールです。カーナビほど典型的でなくても、電車に乗りながら僕らは何気なく通過する駅のサインに目を留めて、自分がどこにいるのかということを確かめています。

あるいは人間関係において。家族の中で、職場で、友人づきあいの中で、僕らはいつも自分自身のポジションを見定め、そのことで自分の存在に意味を与えつつ日々を過ごしています。そこにいることがまったく無視された会議の席に居続けるのは非常に苦痛だし、自分の居場所の感じられない家庭は精神的な砂漠だし、自分が相手にとってどのように大切であるかという手応えを得られない恋愛関係は破局します。

おそらくこうした傾向は、自分の存在のアイデンティティと関わっていて、この世界で人として生きるためには抜きがたい「ありかた」ではないかと思います。「なぜ」人は自分がどこにいるのかということを求め続けるのか?という問いはあまりに深淵で、僕の手には負えないのですが、実感として僕らは周囲との関係において自らの生に意味を見出そうとする生き物であり、庭はそうした僕らの「ありかた」に応えて『わたしはここにいる』を味わわせてくれる場所になりうるものである、と思うわけですよ。

時間の中で(歴史性)

もうひとつ、僕らがそのなかで位置を見定めようとするものに、「時間」があります。

僕らは毎日、今何時かということを断続的に気にしながら生活しています。時計ばかりではなくカレンダーを見ながら、今日が何月の何日で、何曜日で、ということをいつも確認する。これは、もちろん社会的に共有されている「時刻」から逸脱してしまうと、まともな社会生活が送れないというプラクティカルな理由があるわけですが、同時に「時間の流れ」のなかで、自分自身の位置を確かめる、という行為なのではないか、と思うのです。今日がいつだかわからないとか、いまが何時なのかわからないというのは、実に不安な状態に僕らを置きます。

しかし、僕らが時計やカレンダーで確認する時間というのは、実は便宜的なもので、恣意的に刻まれた「目盛り」に他ならないわけです。たとえば日時計を見るとよくわかる。日時計は地球の回転によって変化する太陽光の「影」を、僕らが決めて使っている「時間」というルールに「翻訳」します(そういえば、サマータイムのある地域では日時計はどうするんだろう。目盛りが2種類あるのかな)。なんとなく日が傾いてきて影が伸びてきたという様子を、一日を24時間に等分した単位に刻み直して見せているわけです。この単位時間は大切な了解事項であって、各自がバラバラに時間を認識していたら社会は成り立たなくなります。でも、自分の身体的なリズムは、たとえば女性の生理が月の満ち欠けに同調しているみたいに、もっとナマな時間のリズムに従っているんじゃないか、と思うことがあります。別に、何か神秘的な言説を弄して解釈を拒否したいわけではないのですが、やっぱり僕らには元々のペースというか、なんかこう、どうしようもない「生物としての側面」みたいな部分があって、庭はそういうものを受け入れる余地がある、または、その部分に働きかけて、デジタル時間を確かめつつ送っている日常からふと脇へそれて「そっか、春だったんだ」という大雑把なスケールの時間へとネジをゆるめる役割があると思うのです(ゆるみっぱなしじゃダメですが)。

庭の持つ時間性は、日の繰り返しや季節の巡りに加えて、「取り返しのつかない一方的な流れ」としてもあらわれます。庭木は大きくなってゆきますし、宿根草は同じ場所に芽を出し、伸びて花を咲かせたりするものの、やはり昨シーズンとは違う。大きくなっていったり、やがて枯れたりします。ここで僕らが目の当たりにするのは、季節はただ巡り来て円を描いているだけではなく、まるでらせんを描くように、なんとなく繰り返しつつも不可逆的に流れているということです。今年の春は一回しかない春だし、今年の夏は二度と来ない一度きりの夏。庭は常に後戻りできない時間のなかで変化し続けます。この、いわば「一期一会時間」のなかで、僕らは自分の生の一期一会性と向き合い、自分自身の位置を切実なものとして実感するんじゃないか、と思います。

余談ですが、おそらく、本物の花と造花の最大の違いはここです。造花のある種の「不健全な感じ」は、変化しないというところではないでしょうか。ただ、個人的には、春はサクラで秋はモミジに取り替えられる、商店街を飾るプラスチックの花には「地域の季節と同調しよう」という商店の営みが感じられて、微笑ましく思うのです。ついでに言えば、造花も長時間日にさらされていると劣化します。退色した造花の「侘び」たるや、枯れススキの比ではありません...

庭のもたらす時間は時として、いきなり超・寿命スケールへ僕らを接続します。個人的な体験なのですが、僕がまだコドモだったころ、はじめて土地の歴史というものを「手触り」として実感したのは、調布市のある小学校の風景でした。その小学校の校庭(校も庭ですな。)には、周囲にサクラの大木がずらっと植わっているのですが、あるとき母がその木々を指して、あれは私たちのクラスが卒業記念に植えたものだ、と教えてくれたのです。これは、まさに目から鱗が落ちるような経験でした。それまで、自分とはあまり関係なく存在していると思っていた街のカタいもの、学校や何かの建物や、道路や橋や、そういう「土地のハードウェア」が、時間の中にある歴史的な存在であって、現在の自分につながっている、という、これは発見でした。当時はそこまで言語化して考えたわけではないのですが、その時に感じた、風景が歴史の積層であって、しかもそれは「他人事ではない」という新鮮さははっきり憶えています。歴史は博物館のガラスの陳列ケースの中ではなく(陳列ケースの中にあるものもありますが)、自分の足元から「地続き」で過去へ連続している。

こういう連続の「実感」は大切だと思います。それは、前述した「風的」な関係とはまた違った意味で周囲との関係を成り立たせる、その土地や風景への帰属感のようなもので、その場所で生活する自分のアイデンティティに関わってくるものです。この「実感」が、その土地に住む自分の営為、───家を建てたり、庭を作ったりすることから、窓辺に花を飾ることまで含めた様々な「営み」は、継承されている土地の歴史の延長にあり、同時に自分がその土地の歴史を積み足してゆくことである、という、一種の切実な「参加意識」へとつながるのではないかと思います。「地域性」とか「らしさ」というような言葉を(しばしば自治体のキャッチフレーズとして)聞くことがありますが、そういう場所の固有性を尊重するという態度は、自分自身がそこに流れる土地の時間に巻き込まれていて、土地も自分の営みを記憶してくれるだろう、という当事者的な自覚によって生まれるのではないでしょうか。おそらく、伝統的な集落の鎮守の森や墓地などは典型的な「帰属感を担う係」だっただろうと思います。

ある種の植物、特に樹木の面白さのひとつは、それが経ている時間がひとめでわかるように顕在化されているという点です。若い苗はいかにも最近のものだという感じがするし、巨樹は何の説明がなくても「ものすごく時間が経っている」という圧倒的な説得力がある。個人の庭ばかりでなく、新しく建設される道路や広場などの施設に大型の樹木が植栽されることは、『緑化』することの環境的な効用もさることながら、そこに視覚的な時間の厚みを持たせようとする行為である、とも言えます。その場所に一種の「ハク」をつけるために、お金と引き替えに時間を積むわけです。そして、そうした建設がこれもしばしば「やっぱり慌ててデカイ木を植えただけ」な感じがするのは、本来はそこでゆっくりと費やされるはずだった時間の欠落が見えちゃうからだろうと思います。

生態系の中で(エコロジーと庭)

近年、庭のあたらしい「位置づけ」の視点をもたらしたものに、生態学(エコロジー)があります。

生態学は、自然をあるシステムとして捉え、その構成要素としての生物とその環境の「関係」を探求する学問です。近代になって、博物誌的な生物学と進化論が結びついて急速に発達したこの学問が明らかにしたのは、およそ地球上にある生き物とそれをとりまく諸々の環境はすべからく有機的にダイナミックに結びついていて、その複雑に絡み合った「系」の時間的・空間的な多様な相の中に僕らは生きている、ということです。

生態系という複雑なシステムは要素や変数が非常に多くて、完全でキレイな把握が難しいし時間がかかるとはいえ、生態学そのものはあくまでもそれを定量的に解析して仕組みを抽出することを目指すものです。庭にとって、生態学が意味を持つのは、その「応用」の場面においてです。応用のしかたには、そのターゲットや立脚点によって「自然保護」「環境保全」「環境共生」と様々な主張や呼び方がありますが、共通していることは、いずれも生態学によって得られた「世界像」に基づいて、主に現在の人間の活動による生態系の急速な破壊に対する危機感から、人間の活動を律しようとする思想やその実践(多くの場合はこうした実践をエコロジーと呼んでしまいますが)であるということです。この立場からは、その土地に「あるべき生態系」「より望ましい生態系」があり、それによって現在の状態や、それに対する態度を「評価」することができます。「評価する」ということは、つまり、その土地の生態系と庭との関係に「よい/わるい」「豊かな/貧しい」「健全な/病んだ」というような価値観を持ち込むことができる、ということです。

エコロジー的に見れば、庭は周囲の生態系と無関係ではなく、庭がそこにあるということが生態系に何らかの影響を与えるし、庭もまた生態系から影響を受けつつしかそこにあることができません。この「上位概念」は、前述した「場所性」や「時間性」とはいささか異なる意味を庭に与えます。場所感や時間感は言ってみれば主観的なもので、その庭に身を置く人が勝手に感じるものですが、エコロジーは外部から庭のありかたに「正しさ」を与えるからです。その正しさにおいて、生態系に寄り添うにせよ、反抗するにせよ、あるいはそこに「あるべき」生態系を目指すにせよ、庭はその態度の決定を迫られる。現代に生活する僕らは、もはやエコロジーを「無視する」わけにはいかない、というわけです。

このような「庭の取るべき姿勢」に加えて課題になるのは、そのエコロジカルな「正しさ」という庭の性能が、空間的にどのように「結像」しうるかということでしょう。どのような手法によっても、現実の空間として庭が立ち上がるとき、それは庭の「表現」としてあらわれますし、そうした表現は「スタイル」や「テイスト」に翻訳されてしまう。ことに、下手にエコロジカルな正しさを喧伝しようとすると、庭は「スタイル先行型」になってしまいます。なんか「自然風」というように。おそらく、そこに表現としての洗練や成熟が関わってくるだろうと思います。


インターフェース論

Sensoriumというたいへん示唆に富んだプロジェクトのなかで、西村佳哲氏が、「インターフェースのデザイン」論によせて、風鈴について興味深い指摘をしています。風鈴は、きわめてシンプルなやりかたで「風」を味わう、すぐれたインターフェースであるというものです。

風鈴が表現しているのは、音そのものではなく、「風が吹いている」という事実です。庭に面した軒先に吊された風鈴は、暑い夏の日、軒下を流れる風の存在を伝えます。この時、部屋の奥にいる人は、「ああ、風が吹いている」と、イメージの中で涼を取る。そして同時に、数秒後には部屋の奥へ到達するその風を待ち受け、無意識に肌の感度が少し上がる。風鈴とは、五感とイマジネーションを駆使して外界の情報を享受させる、複合的な「Senseware」の好例なのです。

私は“風鈴”という「Senseware」を生み出した昔の人を、尊敬してやみません。冒頭で私は、「デザインとは、インターフェイスすることであって、インターフェイスをつくることではない」と言いました。そして、「しかしそのインターフェイスに、人を拘束してしまうようなデザインが多い」と指摘しました。この点において、“風鈴”のさり気ないデザインは、群を抜いてよく出来ています。

Designing World-realm Experiences: The Absence of World "Users" (for Vision Plus 6, Vienna, 10. July 1999) (世界経験のデザイン_"世界"に"ユーザー"はいない)より引用。 http://www.sensorium.org/vp6/lecture/index-j.html

★ 西村氏個人はLiving Worldというレーベルを主催していますが、そこで「風灯」という冴えたプロジェクトが実践されました。

僕にとって、センスウェアの概念は、庭の素材論や形態論よりも、庭を「どう位置づけて見るか」というような「方法論」に、非常にヒントになりました。「機能」と「表現」についてはまた後述します。

「センスウェア」については、Sensoriumのサイトが最も近道ですが、渡辺保史著『情報デザイン入門』(平凡社新書、2001)に詳しい解説があります。また、landscape network 901*編『ランドスケープ批評宣言』(INAX出版、2002)所収の拙稿「センスウェア:インターフェース考」でも紹介しています。


bs garden index