2009年1月16日

敵は工学・工学版

ああ。今年度のデザインスタジオ2が終了。

ここ数年、この時期は毎年そうなのだが、現在、精神的な抜け殻状態である。キッズ全員にハグをして、慰労して励まして送り出したかった。あいつにはああ言ってやりたかったとか、あの場面で厳しいことを言ったのは失敗だったとか、もっと引き出してやれたはずなんじゃないかとか、そういう忸怩たる思いばかり浮かんでもう、しばらく立ち直れない。未熟な講師ですまん。でも、この半年が無駄じゃなかったことだけは保証する。まだ先は長いが、あっという間でもある。健闘を祈る。そのうちまたフィールドで会おう。

さて、最終講評会のゲストクリティークには、藤村龍至さんをお呼びした。

これはいろんな意味で大正解だった。僕らに遠慮してか、個々のプレゼンテーションに対する講評はやや控えめだったが、総評後に上映してもらった藤村さんの近作を含むプレゼンテーションが非常に面白かった。これまで、いろんな場所で断片的に見聞きしていたことが繋がって腑に落ちた。いや、良いものを拝見した。ネタ満載。話題もスタジオの趣旨に大いにかぶっていたし、みんな良い刺激を受けたはずだ。

ご本人によれば、彼の現在の思想というか姿勢は、「希薄な風景を自動的(としか言いようがない)に生産し続けるシステムへの抵抗」であって、つまり藤村さんはエンジニアリングに喧嘩を売っているのである。本気で。それもエンジニアリングの土俵で。でもそれは単なるアンチ工学ではなくて、なんというか、「工学の『動機』をこっちに引き戻す試み」なのである。

その実践が、空調設備を抱え込んだ「垂直のバックヤード」をもつ建築物だったり、その『固有で濃密で複雑なカスタムビルド』を、『量産型』の速度とコストで作ることだったり、「ブログに記事を書いてネットで発表する速度」で、リアルタイムに「紙の新聞」を発行しちゃったりすることなのだった。

「建築ではない何か」が建築の良さや正しさを支えてくれるというナイーブな夢想が建築化したみたいな、伐採しそこねたヒョロヒョロの雑木の枝をよけた小部屋が地球環境にどうのこうのとか、床に並べたプラ鉢の観葉植物の名前を平面図に書き並べた建築物が外部と内部の境界がなんだんだ、とかいうような建物が称揚されたりする昨今(考えてみれば、空調の「屋外機」という装置を作り出している「思想」は、きわめて楽観的な自然観に基づいている)、ラ系として真に注目すべきは建築の問題を建築で落とし前をつけようと頑張っている建築家のほうだぞ。

むろん、ではその意匠の復権の主張そのものを支える動機は「プロの矜持」以外には何ですか、と突っ込む余地はあるだろう。たとえばビルディングKの外観をして「隣接するダメ建築」との差が歴然としている、と享受できるのは、それなりに訓練を積んだ、「建築的リテラシー」のある人だけなんじゃないか、という気もするからだ(実際に見学しないと何とも言えないけど)。エンジニアリングを逆手に取る「逆手具合」というか、「批判的工学主義」の「批判度」こそが実はとても「作家的」だったりするのである。逆説的に。

あと、「作家性を非作家的に実現する」手法として鍛えたメソッドが、「もっと平明でシステマチックな建築(教育)へ参加できるプログラム」たりうるというお話も興味深かった。これもいいネタだ。ちょうど別件の授業計画を考えないといけないところだったのだ。ふっふっふ。

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