2008年10月27日

地図師の思惑、遊歩者の驚き

先週。秋風の木曜日。

大学の演習は5週目。

解釈に幅のあるキーワードだけ提示して、出てきたものをグリルするという「スフィンクスのなぞかけ」みたいなやりかたは、こちらの準備や負担を軽減するものの、なんか後味が悪い(少なくとも僕向きではない)。講評後、「成果品」のイメージが掴めないでいるキッズの一人の質問に答えようとしながら(これがけっこう難しくて大汗をかいた)、今年はそういうのを避けようと思っていたにも関わらず、準備不足というか、見込みが甘かったというか、工夫が足りなかったというべきか、ちょっと宙吊りにしちゃったかなあ、と反省した。ダメ講師ですまん。

たぶん、「自分の地図をつくる」というテーマに固執すべきだったのだ。「地図は、マッピングされたダイアグラムである」というとそのまんまトートロジーだが、実は、何気なくベースに使っている官製地図も、演習で「マッピング」してみたり、それをダイアグラムに表現したりした行為と同じ手続きで作られたグラフィクスなのだ、ということが言いたかったのだ。

条件がそろっていて、ある明確なルールに則っているかぎり、その「マップ」は「正直」であり、その正直さへの信頼に基づいて何かを読み取りうる。地面の事情を「すべて」地図に示すことは不可能である。しかし、一方で地面の事情の「一部」を、ある観点から示すことはできるし、それが逆に地面の複雑で豊かな事情へ近接するきっかけになる。というか、地面の事情の一部を示すことによってしか、実際の世界の複雑さや豊かさを示唆することはできない。

地図は、それ自体ではろくな情報を掲載できないほど、キャパシティの小さい書式の媒体である(Googleマップをはじめとする、オンライン地図のごちゃごちゃな醜悪ぶりを見よ)。しかし一方で、地図は必ず、そこに描かれた図以上の意味を示唆してしまう。

ひとつには、地図という書式、「マップする」という手続きが、記載されたひとつひとつの要素に一段高い次元をつけ加えるという行為だからだ。

もうひとつは、なんだかんだ言って地図は、それを保障するものが地面だからである。地図は常に、何かについての地図である。逆に言えば、地図の「中」にいるだけ、地図を見ているだけでは何も読み取れない。

これはたとえば、単語の意味を調べるために辞書を引く手続きに似ている。辞書を引くとき、その言葉の意味を知ろうとして、定義に使われた語を連鎖的に次々に引いていっても、より抽象的・包括的な概念へ拡散していってエラーを起こすか、循環参照になって無限にループするか、どちらかである。辞書に記載された言葉の定義を保障しているのは、辞書に記載されていない、いわば辞書の外側で運用されている言葉の実際である。私たちの言葉とその体系があって、辞書はその言葉の断面を切り取って、(暫定的なルールに則って)それぞれの「関係」を示そうとするものである。

つまり、地図が示すものは、つねに地図師の思惑を超えているのである。だからこそ、調べた結果を地図へ加工してみて、その地図を読み込んでその示唆する結果に驚く、つまり自分で作ってみた地図にびっくりする「発見」ができるわけだ。

それが得られれば、その地図と発見とを携えてふたたびライブ地面へ出かけ、そこでの驚きをもとにまた新しい地図を作って重ねる、という「地図・地面系のポジティブ・フィードバック」を味わうことができる。

というようなインストラクションが貧弱だったのだ。

という反省。

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コメント

あらかじめ地図にさしたる興味もない学生にそんなことをズバリに伝えられたら、すごいっす。
言葉が示すものは常に教師の思惑を超えてしまうものなんじゃないか、という疑念が頭をよぎりました。

「教える」より「気づかせる」系のご指導を・・・

今週勝負ですね!どこまでこの時間を使うか。
学生には、もっと自由に表現して欲しいと思っています。なので別にこちらは要求していないけれど、どかんと模型をつくってきてプレゼンしていいと期待しているのですが。

模型作ってきたりしたらもう、それだけで許しそうです。

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