2007年12月12日

良い植生、悪い植生

「住宅都市整理公団」別棟:偽物の、本物の樹

最近ようやく気がついたのは、郊外とか工業地域とかそういう場所の何ともいえないあの雰囲気を作っているのは、実は郊外建て売り住宅の列や大型店舗や工場そのものじゃなくて、植栽なんじゃないかと。
ほったらかしで盛大に茂ってるんだけどかなり人工臭いあれ。個人的にはかなりぐっとくる。

工場緑地の「奇妙さ」に気付くというのは炯眼です。あれはいろんな意味で興味深い存在です。しかも、造園関係者も含めて、まだ誰もあれらを「そういう目で」見ていない。

以下、僕は特にこれに詳しいわけではないのだが、イントロダクションとして。
スコK先生、訂正・補足お願いします。

>「この土地でほったらかしにしたらどういう木がどういう風に育つのか」
というのは、「潜在自然植生」と呼ばれるコンセプトである。私たちが見た16号線沿道の工場緑地が潜在自然植生に基づいた計画がされているかどうかは正確には知らないのだが、あの様子からして、高い可能性で、少なくともそれに近い樹種の構成だろうと思ったのだ。

「工場緑地」は、昭和40年代に公害が社会問題化するとともに、盛んに作られた。昭和49年には工場立地法が改正・制定されて、計画敷地面積のなかの一定の割合を「緑地」として造成しなければならなくなった。当時、緑地は「公害防止のための緩衝・環境緩和のための性能と量」が最優先された、いわばインフラだったのだ。近年、生産施設や研究施設が施設の性能としてあんまり公害を出さなくなり、工場緑地は企業のイメージや施設のより良好な環境の確保というような、付加価値的な「ランドスケープ」にその性格を変えた。近年では生物多様性というようなエコロジズム価値観からの「生態系基盤」施設という役回りが期待されつつある。ラ系用語でいえば「用」から「景」へのシフト。団地がたどった「団地からマンションへ」という歴史と似ている。「向こうに土木が透けて見える」という点で、あのなんとも宙吊りな「工場緑地」はたしかにちょっと面白い景観である。

「潜在自然植生」に基づいた緑地、というのは、そういう工場緑地の「建設」にあたって、しばしば参照された緑化手法である。もともとはドイツで提唱された概念で、宮脇昭という植物生態学の先生が留学していち早くそれを持ってかえって多いに広めた。簡単に押さえておくべきは以下。

  • ある程度の規模の植生(植物の群れ)は、放っておくと、一定の方向へ少しずつその構成種を変化させてゆく、ということが知られている。これを「遷移」という。空き地が草むらになり、薮になり、そのうちに雑木林になってゆく、というように。
  • 変化の過程で、いくつかの段階に特徴的な植物構成が見られ、そうした「組み合わせ」に名前が付けられて分類されている。「ウリカワーコナギ群集」とか「クヌギーコナラ群集」というように。それらはさらに、大項目に分類されていて、生物種の分類表のようなツリーを描いている。植物群は様々な種で組み合わさって一種の共同体を形成している、という知見を植物社会学という。
  • 植物社会学は、人の手が入らないで成立している植生と、人為が加わることで変わってしまっていると思われる植生を区別している。前者を「自然植生」、後者を「代償植生」と呼ぶ。
  • 最終的には、植生はその土地の環境条件のもとで、ある「相」に達して安定する、と考えられている。これを「極相」という。聞いた話だが、千葉だと、千葉大の園芸学部の南側の斜面が極相林らしい。
  • この観点からは、現在そのへんに見られる代償植生は、遷移を途中で止められた、いわば「極相への途上」だと考えられる。
  • 「潜在自然植生」というのは、この究極の植物相を、現在の気候や土壌や現存する植生の断片などから推測したもの。土地の条件は気候変動などによっても変化するため、厳密には「現在の潜在自然植生」という。

    環境省が提供している、第6回・第7回自然環境保全基礎調査 植生調査 情報提供ホームページにある、「用語解説」とか、「植生図について」(自然植生と代償植生のコンセプト)もわかりやすい。

    ウィキペディアにも、いくつか妥当な説明が載っている。基礎的な用語としては、このあたり。
    遷移 (生物学) - Wikipedia極相 - Wikipedia植生 - Wikipedia潜在自然植生 - Wikipedia

    宮脇先生の「日本植生誌」というものすごい労作があり、これについている「潜在自然植生図」が有名である。この図はちょっとした見ものである。

    「現存植生図」。植生が「都市化」をよく反映していることがわかる。ちなみに、薄いオレンジ色の部分は主に農地なのだが、植生図の凡例には「耕地型雑草群落」とある。農作物はあくまでも「植生」ではなく、農地は「農地に生える雑草が生育している土地」と記載されているわけだ。この厳密さは面白い。

    「潜在自然植生図」。

    これによると、たとえば首都圏のほとんどの地域は潜在自然植生的には「シラカシ群集」である。つまり、私たち人間がいなければ、そのへんは見渡す限りシラカシの常緑樹林で覆われることになっている。僕は、この図の、埋め立て地もあっさりタブノキ群集の濃緑色で塗ってる徹底ぶりもけっこう好きである。

    このコンセプトは、いくつかの興味深い「観点」を私たちにもたらす。ひとつは、潜在自然植生を補助線とすることで、植物群落を動的な「プロセス」として観察できること。いわば、「成熟したオトナ」というイメージを持つことで、若者を「若者」、子供を「子供」として見ることができる(そうでなければ、これらの人たちの様態は単に「小さい」だけだ)みたいなものである。

    さて、宮脇先生の活動の特徴は、こうした研究成果を学説として発表する一方で、この価値観をもって日本の国土を改善する「実践」を行ったことである。宮脇先生はこう主張する。潜在自然植生は、つまりその土地本来の植生であるからして、最も自然な「自然」なのである。しばしば、長年人の手が禁じられてきた場所、たとえば古い神社の境内などに、そういう植生に近い森が成立していることがある(鎮守の森)。自然な「自然」はつまり、その土地に最も合った植生であるわけで、強健であるし、その土地の地域性をよく現している(ふるさとの森)。急速な都市化によって破壊されつつある環境を緩和し、私たちが生きる基盤を守るには、このような「森」を多く広く育成することが重要であり効果的である(緑化)。本来は100年とかをかけて成熟するものではあるが、潜在自然植生の研究によって、もう「ゴール」がわかっているわけだから、最初からひとっとびにその「究極の森」の主要樹種を植えてしまえばよい。ドングリを蒔いて(トトロの森)ポット苗を多量に作り、高密度で植えまくる。最初の数年は雑草取りなどの管理が必要だが、その後は放っておけばあっという間に「良い森」になる。

    これは、「緑化」すべき広大な面積を抱えた企業や自治体には、夢の植栽手法である。初期コストが低い(ポット苗だから)。維持管理の負担も軽減される(放って置けばよいから)。道徳的に正しく、社会的に善である(地域の自然を回復するわけだから)。植栽基盤の造成にはプロの工事が必要だが、ポット苗を植えるのは素人でもできるから、住民参加や子供たちの動員ができる。おまけに「郷土の森」とか「ふるさとの森」と、タイトルがキャッチーだ。第一、趣旨が非常にわかりやすい。

    工場立地法の制定前後に作られた緑地は、いまでは多くが鬱蒼たる「濃い樹林」に育っている。京葉工業地帯では、君津の製鉄所の緑地なんか、ものすごいことになっているが、

    View Larger Map
    これは場内に種子から苗木を育てる圃場まで作って緑化した、典型的な「潜在自然植生緑化」として知られている。

    「ふるさとの森」づくり運動は、いまでも各地で盛んに行われている。この企業の「森づくり」はけっこう有名。各地の工場もさることながら、青山の自社ビルの周囲も同じコンセプトで緑化されていて、ちょっとした眺めだ。
    「ファスト風土」などと揶揄される、地方都市の均質化の先兵みたいに挙げられるこの企業も、非常に熱心に「ふるさとの森づくり」に取り組んでいるし、最近は新聞社の後援で小学生に参加させて行う「学校の森づくり」というキャンペーンもある。

    一方で、批判もある。「潜在自然植生」というのはあくまで現在の状態を手がかりに「推測」したものである。つまり誰も本物を見たことがない。なのに、この強烈なイメージが「正しい自然」として置かれてしまうと、現存するあらゆる植生がそれを軸に序列化されてしまう(より潜在自然に近い植生が偉い)。大山さんのいう「パラレルワールド」である。「良い植生と悪い植生」。でも、たとえば農村とその周辺で、人為的な撹乱を長年にわたって受け続けてねじ曲げられた「ゆるく管理された植生」のほうが、下手な極相林よりも生態的に多様であるとして注目されたりしている(いわゆる里山)。生物群はけっこうしたたかで、その状態が恒常的に維持されていれば、それなりのユニークな生態系が成立する。また、「究極の森」の予定調和的なイメージとは違って、近年では、極相林も倒木やその他のハプニングによって生態的な空白ができ(撹乱によってギャップが生じる)、森のあちこちで常に「プチ遷移」が進行したりし、ぼこぼこ沸騰するみたいに更新が行われているダイナミックな「系」であると見なされている。極相林であっても、決してそこで完結した「静かな森」ではない。おまけに、温暖化にともなって、地域の環境基盤自体が変化しつつある。いつまでもタブノキが「潜在自然」として通用するかどうかもわからない。また、常緑樹の濃い緑地は必ずしも「好ましい緑」にはならない。「本来の自然」っていったって、私たちの先祖は1万年以上も、それなりに手の入った緑と接してきたのだ。だいたい、人が暮らす以前から氷河期もあったわけで、どのポイントを「本来」と呼ぶのか、難しいところだ。

    ラ系は特に、「ふるさとの森」運動の実践が嫌いである。「損保ジャパン環境財団」の市民公開講座で、東京農大の近藤三雄教授は、セイタカアワダチソウだってキレイだぞ、とラジカルな主張をしている。
    環境公開講座2005.08.30 緑化の視点から外来種、在来種について考える

    ある学者が30年くらい前から「ふるさとの森づくり」という運動をしております。日本の西南の自然林の多くは常緑樹のスダジイやシラカシの林で、それらを使って緑化する活動を展開している。しかし常緑樹が生い茂る公園は薄暗く、公園として利用しづらいものになってしまった。本来、公園は人が利用する場であります。

    (ただし、ラ設計では、植栽デザインの「理論的補強」として「潜在自然植生」はよく持ち出される。僕もよく使う)

    参考図書:

  • Amazonで「宮脇昭」と検索するとぞろぞろと本のタイトルが並ぶが、内容はどれもまったく同じなので、どれを読んでもよい(笑)。

    近年の保全生態学的な植生の見方の入門書としては、↓が読みやすかった。

  • 鷲谷 いづみ「生態系を蘇らせる (NHKブックス)」日本放送出版協会 (2001/05)

    一般的な「植生」や「生態学」への入門として「クラシック」なのは、

  • 沼田真「図説 日本の植生 (講談社学術文庫)」
  • 沼田真「景相生態学--ランドスケープ・エコロジー入門」朝倉書店 (1996/10)
    特に後者は、沼田先生の「射程距離」に圧倒される。地形学の貝塚先生のような感じ。

    ラ系学生は最低、↓これを買うように。

  • モニカ・G. ターナー他「景観生態学--生態学からの新しい景観理論とその応用」文一総合出版 (2004/09)

    あと、手前味噌ながら、10+1のグラウンディング特集でこのサブジェクトに触れているので、お手元にあった場合はどうぞ。

  • 「10+1 No.42(2006)」INAX出版 (2006/03)

  • コメント

    >>「潜在自然植生」というのはあくまで現在の状態を手がかりに「推測」したものである。つまり誰も本物を見たことがない。<<

    オモシレーなー。いつになく長かったけど。
    「潜在自然植生」の寿命って、1、2万年のスパンでも不動の強さを持っているのかな? 興味が尽きない。

    極相に達しているいわゆる「原生林」の類が、前の人類(神々の時代)の人工的な植林の影響を受けている、なんてことはないのかね? 鬱蒼としたアマゾンが実はかつての工業団地の後だったとか、ね。(んなこと、あるわけねーだろ!)でもなにしろ、「ブラジル」ですから。

    「潜在自然植生」の「自然」が頑強なことは理解できるが、彼らの頑強さは単に「そこにあった環境」にたまたま最も適しているということだけでなく、その環境中で最初にそこに「住む」機会を与えられた結果であって、そもそも発端からして機会均等ではなかった(つまり、“所帯”ごとの経済格差は世代を超えて受け継がれていた)ということがあるんじゃないか、とか想像の翼が広がったのでした。

    と、途中まで読んで書いたんですが、最後まで読んだら書いてあったね、やっぱり。

    >>いつまでもタブノキが「潜在自然」として通用するかどうかもわからない。また、常緑樹の濃い緑地は必ずしも「好ましい緑」にはならない。「本来の自然」っていったって、私たちの先祖は1万年以上も、それなりに手の入った緑と接してきたのだ。<<

    やっぱり落とし所はここでしょう!

    PS. 先日の見学はとても参考になりました(ハードではなくて住み方の点で)。ありがとう!

    「本来の自然」とかいう話には全く興味はないんですが、大山さんが言われる、工場緑地の、ほったらかされている一方での「人工臭さ」にはちゃんと目を向ける必要があると思っています。例えば、工場の建物を愛でるまなざしは獲得されたけれど、じゃあ工場緑地/緩衝緑地はそのようにまなざされる対象となりうるのか、とか。石川さんが言われるように、「誰も本物を見たことがない」ので、潜在自然植生とか本来の自然の姿とかいわれてもいまひとつ実感が湧かない。むしろ「鎮守の森」には、あの時代の工場や公園で盛んに用いられた植栽手法としての「歴史性」や「時代のニオイ」を僕なんかの場合は感じてしまいます。つまり、あれはあれで時代を象徴する「デザイン」の一側面であって、僕の中ではあの植栽景観はモダンデザインの一要素ですねぇ。「鎮守の森」植栽を見ると、条件反射的に「おっ、湾岸モダニズム」みたいな。。。暗くて鬱蒼としていて利用という面からはもちろん評価できませんけれども、あの林相をそのままに、何か今日的に上手く使っていく/風景化していく方法ってないものでしょうかね。

    また来てください>entee

    湾岸モダニズムって面白い。>スコ殿。モノレールから見える大井の埋立地の「森」。薄いくせにやけに濃いあの。

    僕は植栽モダニズムというと、むしろ、カイヅカイブキの列植とか、キョウチクトウの列植を思い出します。あれこそ性能重視の単植の極みな感じ。郷土の森グリーンは、それとはまた違った、独特の雰囲気をしています。樹木ひょろひょろだし。あれの「再発見」は面白いぞ。まじで。

    はじめまして。
    工場ナイトに参加するなど興味がありつつも、植生のほうはあまりに身近すぎて気にしてませんでした。
    私も真っ先にイメージするならキョウチクトウです。
    猛スピードの大型トラックの脇で、海草のように揺れるキョウチクトウが、夏の工場街かなと。

    埋め立て地の公園管理をしているので良い植生・悪い植生には並々ならぬ興味があります。
    今後もちょくちょくお邪魔します(^_^)

    >埋め立て地の公園管理をしている

    おおお。それはぜひ一度お会いしたい。
    「プチ・工場緑地ナイト」でも非公式にやりましょう。

    工場(とか研究所とか)のランドスケープ一筋20年ですが何か?

    ま、カイヅカもキョウチクトウも、樹木図鑑よりコトブキのカタログの方がしっくり来るくらいだからねえ。ほとんど工業製品扱い。
    ただ、当然のことながら、これらの木は、ああいう場所の雰囲気のイメージキャラみたいなもんで、樹種ありきではないと思うんだがな。忍び返し付きのネットフェンス(H=4,000)に沿って、延々と植えられたら、何の木でもね。その性能ゆえたまたま・・・

    ただ、幸か不幸か最初の親分が「カイヅカとキョウチクトウ禁止」だったもんだから、必死になって「新しいスタイル」を模索することができたんだけどね。そのころからすでに、ありきたりの工場緑化を封じるとは先見の明が有ったのか?と、親分を後で問い詰めたら、ただ単に「嫌いな木だった」んだって。

    まあ、埋め立て地に代表される臨海部の植栽は、塩害対策として期待されている部分があるからね。これは、海がある限り変わらんでしょ。
    この点(に限ってか限らずかはわかんないけど)では、昔も今も、工場緑化は純粋に(工場などの)施設のためのものであり、別に人間がどう見るかなどは二の次の、極めてクールな装置として取り扱った方がいいような気がする。それで、その上で「愛で」たり「何とかし」たりするの。
    (ここを履き違えると、空と雲を描いた煙突みたいにちゃうのか?)

    ところで、「潜在自然植生」は、「その場所本来の自然」とは必ずしも一致する概念ではない、と、どこかで見聞きしたような気がするのだが。「潜在自然植生」は、あくまでも人為の結果であると。どうなの?

    話は変わるが、ちょっと前のTV番組で宮脇さんのことを放送していたのだが(見た?例によって潜在自然植生の森づくりをPRしていた)、その中で、住宅庭園にまで照葉樹を植えて、オーナーがちょっと迷惑そう・・・というか困惑している様子が笑えた。

    とりとめなく、長文失礼

    「嫌いな木だった」は笑える。わはは。

    「本来の」は、その言葉の解釈の仕方で、「人間がいなけりゃそうなるはずの」か、「人間が来る前にそうだったはずの」という違いだろう。でも、どっちも誰も見たことがないし、ほんとにそうかどうか検証できない点では似たようなものだけど。

    たしかに樹種ありきではない、という面もあるけど、緑地帯がぜんぶハゼノキだったらとか、アオギリだったりしたら、ずいぶん雰囲気ちがうぜ。アオギリの全長10kmの密植の緑地帯なんてすごいぜきっと。

    追記:

    >「潜在自然植生」は、あくまでも人為の結果であると。どうなの?

    「土地の形状」なんかは人為の結果。でもそこに成立する見込みの植生は地元の気候と土壌。

    だから、アオギリはヤバいんだってば!(楽屋落ち失礼)

    >「土地の形状」なんかは人為の結果。でもそこに成立する見込みの植生は地元の気候と土壌。

    植生についても、スタートの段階が代償植生であれば、「このままほったらかしにした場合の極相」という意味での潜在自然植生は、自然植生と異なったものになる、とかなんとかいうことだったと思ったけど。その頃は、いまいちピンとこなかったんだけど。(今もだけどさ)
    まあ、何万年も経てば何の違いも無くなるのだろうし、おっしゃる通り、そもそも確かめようのない概念だからね。

    考えてみれば、我々の生活の中で「人為を排した状況」を理想とするというのも、なんとなくおかしな話ではあるな。
    むしろ、より良い代償植生のあり方を追求するというのもひとつの手かもしれない。(里山の神格化とかとは別にね)

    よりよい代償植生ってどういうものですか?
    なんかわくわくしますが。
    詳しくお願いします!

    >よりよい代償植生

    「造園された空間」は、言いようによってはすべて「よりよい代償植生」をめざしたものだと言えますよね。どう逆立ちしても、代償植生「以外」のものは意図的にはセットすることができないから。だから問題は、その「よさ」の根拠をどこに置くかということであるわけで。

    >「造園された空間」は、言いようによってはすべて「よりよい代償植生」をめざしたものだと言えますよね

    然り。まさしくその通りだと思う。
    あとは、その場所と我々がどのような関係を築きたいのかに沿った植栽(とうか「造園」全部)ができるかどうか。
    植物を扱っていると、ついつい「自然」の枠組みにどれだけ合致させることができるかが「正さ」の尺度になってしまいがちだけれども、(もちろんその方向性を否定するわけではない)、所詮人間が生活する場所を作っているのであれば、開き直り気味に「好きなように」作ってもいいんじゃないかと、最近思うようになってきた。

    ただ、それぞれの可能性の中でもやはり「力ずく」ってのは良くないと思う。そういう意味では、いかに潜在自然植生に合致した樹林であっても違和感を感じる物はあるし、例えば逆さに植えた木を水耕栽培するようなキテレツな(チープなキテレツさで申し訳ない)物であっても、その場所とユーザーが納得するのであれば、そこにふさわしい人為的な・・・そう、「潜在代償植生」とでも言うべき物が出来上がるんだと思う。

    それが、「より良い代償植生」かどうかは・・・良くわかんねーや。わかんねーで適当に書いたの。ごめんね。

    ありがとうございます。
    通勤時の電車で幾度も読み返してます(^.^)
    「プチ・工場緑地ナイト」開催の際はぜひ参加したいです。

    >> まあ、何万年も経てば何の違いも無くなるのだろうし、<<

    あくまでもこの部分(万年という単位)が、スゴく気になるんですが、「何の違いもなくなる」とは、一体「何が何に対してどのように違いがなくなる」ということでしょう?

    すごく、すごーく、気になる。

    「長い間過ぎれば、そこがもともと人工林だったか、自然林だったかなんて差は消えて、単なる原生林になっちゃうだろう」という意味だと思う。

    でも、「数万年」したら次の氷河期が来て、氷河の打撃でそれこそ何もかも「根こそぎ」かも。

    むしろ「差があってもそれを検証する術が無くなる」ということか?

    仮に、日本にイチョウが入らないまま人為が排されて1万年経った場合、そこにイチョウがある確率は低いと思うけれど、現状でスタートした場合、もしかしたら残っているかもしれない。
    その時、そのイチョウがどこからどのように来たかは、良くわからなくなってるんじゃないのか、と。

    まして、イチョウが無くなっていたら、ますます人為の痕跡は希薄になり、人工林なのか自然林なのか区別がつかなくなるのは、石川の言う通り、と・・・思えるのけど・・・どうなんだろ。

    つまりは、学術的に検証できるレンジを越えてしまうような時間があると(トーシローなりに)思うんだ。それが何千年なのかはわからないけど。
    ま、普通の木の寿命が数百年として、何世代か何十世代分か?
    「並木」の痕跡なんて、「不思議な網目状の分布」とかになって、1万年経っても残ってたりして。

    >でも、「数万年」したら次の氷河期が来て、氷河の打撃でそれこそ何もかも「根こそぎ」かも。

    それ以前にまず水没か?(東京湾マングローブ)

    それって、時間的・空間的な「スケールの問題」だなあ。景観生態学的に。

    芝生と、植え替え花壇と、宿根草花壇と、低木のエリアに分けてデザインされた庭があったとして、3年放置したら、花壇の区分けは消滅するだろうが、芝生だったところと低木だったところの差は残存している。10年放置されたら、それぞれの植栽エリアの境界も差異も不明になってしまうが、その庭から少し目を引いて、住宅地全体の植生分布くらいの焦点にすると、その庭だったエリアは「近年まで人為の撹乱が集中していたパッチ」として浮かぶ。100年放置されたら、庭だったところと空き地だったところの差は消滅するが、地域の植生くらいのスケールで見れば、「住宅地跡」と「裏山の雑木林跡」の差は明瞭にある。みたいな感じで。

    ミクロスケールで観察すると、植生は「より広域の植生と同調する」という方向で推移するが、マクロスケールで観察すると、その成立条件を反映して多様化を示す。

    一面、田んぼにしちゃうと、生態系は均質化するが、広域的に見ると、水田の配置は土地条件や気候条件をよく反映している。圃場整備が進んで、より均質な水田が広がることもありうるが、世界的に見れば、水稲を栽培する地域は明瞭な分布パターンを示す。みたいな感じで。

    いろんな服を組み合わせて、友人とは微妙に違う「個性的」なファッションを心がけても、ガキどものアウトフィットはオヤジにはみんな同じに見える。が、旅行先の海外で見かける日本人は一発でそれとわかるくらい、日本人としか言いようのない装いをしている。みたいな感じで。