2007年12月21日

Googleのバックアップは誰が取るのだろう。

先日、Googleの「デベロッパー・カンファレンス」でお会いした古旗さんと、似たような場所でお会いする機会があり、その際に出た話。というか、古旗さんのひとことに目から不透明なウロコ群が音を立てて流れ落ちた話題。

古旗さんいわく「1000年もしたら、いまのデジタル情報なんていっこも残ってないんじゃないか」

ちょっとショックだが、考えてみたら確かにそうかもしれない。普段はあまりそういう風には考えないが、情報がデジタル化されることは、その情報の永続性をぜんぜん保証しない。

僕の手元には様々な媒体に記録した(つもりの)、業務上の、あるいは個人的な、情報アーカイブがあるが、そのうちのいくつかは3.5インチのフロッピーディスクであって、すでにこれを読み出す装置が会社にも自宅にもない。僕の両親の家に行けば父親のPCに確かドライブがついていたが、あれはWIN機だ。MacのOS、それも漢字talk6なんてので作ったディスクはもう、読めないだろう。せっせとコピーして保存したのはほんの10数年前のことだ。そういえば先日、数年前に手伝ったプロジェクトの図面を参照する必要があって、データを探したら、媒体がMOで、MOドライブを探して大騒ぎしてしまった。これもそのうちに、記録はある(はずだ)けれども読み出せないメディア、になってしまうかもしれない。ラベルが書いてないディスクなんか、何が保存してあるのかすらわからない。思えば自宅にも、8ミリビデオやベータのテープが箱に入ったままどこかに仕舞ってあるが、少なくとも家の中にはあれを読み出すすべはない。デジタル記録媒体の「トレンド」に沿って、つねにコピーし直して保存していればそれは「再生可能」な形式として残っていたのだろうが、そしてまさに僕も最近、VHSに記録した様々なビデオ情報をハードディスクやDVDに移してみたりしつつあるが、実際にそうやって新規に保存するものなんてほんの一部だ。そんなにマメにやっている人なんてあまりいないだろう。そのうちにカビでも生えて、物理的に劣化してしまうかもしれない。その際、そこに保存してあったはずの何かはどこへ行っちゃったのかというと、単に「失われた」のだ。

先日の元永さんのお話で、非常に気軽に驚くほどの量の記録を残すことができる時代だということに目からウロコだったのだが、古旗さんの話はそれはそれでかなり考えさせられる。わが家は4年前あたりから完全に「デジカメ期」に入り、子供の成長や家族の記録のほとんどは「データ」になった。住所録から講義のパワーポイントからGPSのログまで、ここ最近の「記録」はほとんどデジタルデータだ。そして、そういう大事な記録群は、うっかり外部に置きわすれて雨にでも濡れたら一発で消えちゃうくらいの「もろい」装置に入っている。CDだって、何かの拍子に踏んづけたらお終いだ。「もろい」というなら、たしかにフィルムや紙も物体としては脆い。でも、100年も昔の、祖父の幼少時の写真なんてのは、実家の納戸に物理的に残存している。閉じた本や手帳は火事に遭っても中までは燃えないらしいが、ハードディスクやCDなんて、炎天下の自家用車内に放置して変形しただけで読み出し不能になる。データが「データ」であるのはその「再生」による再現が前提である。しかし、その保持と再生の仕組みは、実は弱い装置に頼っている。ネットに「上げた」画像やテキストだって、つい、ローカルに保存するよりは永くありそうに思ってしまうが、それもネットを漂っているわけではなく、結局はどこかの記録媒体に「物体的に」保存されているのであって、それがどのくらい永く保存されるかなんて、誰も何も約束していない。記録は容易にできるようになったが、同時にとても脆弱になった。なのに、「データで残ってるから」、出力した「物体的媒体」は簡単に捨ててしまう。

何かの事情でわが家が無人の廃虚になったりしたら、100年後、発掘調査者は家族の記録が2003年ごろにぱったり途絶えているのを発見するはずである。何だかんだ言っても、僕らは「物体的な世界」で生きている。最後の勝負は「物体としての強度」である。いやもちろん、そんなに永続的に自分の記録が残らなくってもいいじゃんか、という話もあるんだけどな。

■追記:

コメント頂いた数人の話がそれぞれ面白い。

僕は必ずしも、記録の「不死」を願っているわけではなく、「デジタルデータだって、その存続の寿命は物理的には意外に脆い」ということに、端的にびっくりしちゃった、ということだったのだ。なぜそんな、考えてみれば当たり前だったことに驚いたのかということを後になってから考えるに、何となく、記録がデジタルになったことで、その記録が「メディアの物体的制約」から逃れたような気がしていたからじゃないかと思う。

情報のありかたを、「メディア」と「コンテンツ」に分けるという捉え方自体がもしかすると、「デジタル登場期」の、ややはしゃいだ一時的な見方なのかもしれないよな。ある友人が「ほんとうに大事なことは寓話として伝承される」と言っていたのを思い出したが、問題は「媒体の物体的強度」じゃなく、「作者の意図」ですらもなく、コンテンツ自体にあとから発見される「いくつか性」なんだったりして。

コメント

どもども。
ぼくはこれを勝手に「公文書問題」名づけ、ここ数年ずっと気になっています。公文書とは、よくニュースなんかでアメリカ公文書館で伊能図がみつかりましたなんて報道されるあれですね。
ニュースを見ている限り多くのお宝資料は偶然発見されているように見受けられます。きっとまったく別の探しものをしていた人が、目当ての資料の近くに怪しげなオーラを出している資料を見つけて、思わず詳しく見てみたらとんでもない代物だったというようないきさつなのではと勝手に想像します。
ご指摘のように、デジタルデータだとこの物理的な怪しさという公文書館で偶発的に発見される際の重要な情報要素が抜けてしまうのですよね。すべてのデータが、存在感も含めて均質化してしまう。
もちろん再生の術がないというのも致命的なのですが、この偶発性が人間の知的な営みの中から消えてしまうのも悲しいものです。Amazonの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を手に入れた代わりに失った代償は意外と大きいのでは、と思えて仕方がありません。

こめんと書き始めたらなんか長くなったので、エントリーに起こしました。(あんまりまとまってないけど)
トラックバックしたらエラーになっちゃったけど
http://minken.net/mt/archives/000630.html

やはり音声はレコードに。映像は8mmに・・・と
思ってしまった。昨日、娘達の小学校で『活弁師』の
講演会(?)があったのを思い出しつつ・・・

ぼくは「デジタルデータだからあやうい」には眉につば付けてます。問題はそういうことじゃない。っていうか、アナログはもっとあやうい。写真で言ったらアナログよりデジタルの方が確実に「保存性」は高い。

と、書き始めたら長くなったので、ぼくもエントリ起こしました。
http://blog.livedoor.jp/sohsai/archives/51168394.html

石川さん、ごぶさたしています~♪

遅ればせですが^^。
パソコン愛用している割にはデジタル保存に懐疑的な私。
ある日、デジタル過信?の友達に
「パソコンつぶれたら、デジタル写真が全滅するからアナログしか信用できない」と
言ったことがあります。
そしたら、「火事になればアナログも燃えるから一緒」と言われました。

>閉じた本や手帳は火事に遭っても中までは燃えないらしいが、(石川さん)

で、おおー アナログの勝ちか! と思ったら、

>写真で言ったらアナログよりデジタルの方が確実に「保存性」は高い。(総裁さん)

あぎゃ、デジタルの勝利??

・・・結局、失っていくものなのでしょうか。いや、運だな。
大事な写真は、残りますように。と 祈ることにしました。^^。