2007年11月16日

南緯6度、東経106度。および北緯35度、東経139度。

日曜日、朝からインドネシアのジャカルタへ出張。機上で書き物をするつもりが、高度10000mで頭痛に襲われ、タイレノル2錠飲んだらノックアウトされて爆睡。

  • ジャカルタは赤道の少し南にあるため、GPSが見たこともない数字を示す。ジャカルタへ行くたびに、これがまず新鮮。
  • 道端に、雑草みたいにアロカシアやカラジウムが生えている。そのへんに柿の木みたいにバナナやマンゴーやジャックフルーツが植えてあって実が生っている。
  • 1日目は施工の検査と会議。2日目に樹木の材料検査に出かける。
  • 通常、ジャカルタの造園では、工事の際に施す植栽はほとんど「苗」である。特に高木は、ポットで持ってきた「棒」みたいな苗木を植える。ひとつには、熱帯気候なので植物の生長が早く、あっという間に大きくなってしまうからであり、もうひとつには、地元の造園屋に、大面積の農場に何年もかけて大きな樹木を育てておくなどという規模も余裕もないからだ。
  • でもこっちは、「高さ8mで葉張り4m以上」というような要求をする。地元造園業者は必死でジャカルタ中を探して、こちらの要求に合った大きさに育っている樹木を見つけてきて、その土地のオーナーに交渉して樹木を買う。だから、場所はバラバラだ。郊外の農地の隅とか、川のそばとか、道端とか、場合によっては個人の家の庭だったりする。材料検査はもう、1本1本見るために、あっちこっちへ移動して、たいへんなことになる。
  • 行って見ると、すでに移植のための養生を始めていた樹木の何本かは倒れている。根元を見ると、いきなり高木の周りを掘って根鉢を作って、ただ埋め戻している。そりゃ倒れるよ。「高木を移植する」というノウハウ自体が無いのだ。熱帯だし今は雨期だから、発根は順調みたいだが。
  • スコップを借りて、ちょっとやって見せながら、「根回し」のコンセプトを説明する。みんなやってきて取り囲む。造園屋の社長はノートをとっている。
  • 青年海外協力隊か?俺は。

    木曜日。朝7時過ぎに成田へ着き、都心の職場に立ち寄って荷物を置いて、そのまんま急いで大学へ。
    デザインスタジオ2の、街フィールドワーク第1課題の最終発表会。

  • 出来は予想以上。とだけは言っておきたい。まずは。
  • むろん、説明させるといきなり油断や隙や破綻や馬脚がパンドラ箱のナカミのごとく噴出するのはまあ、いつものことなんだけど。
  • どのチームも、プレゼンテーションがとてもキレイなのだが、なんというか、数年前のクラスのプレゼンで見たような、のたうち回って悩んだ辛さがあまり感じられない。いや、悩んでいるんだろうし、議論も重ねているんだろう。対象地もよく歩き回っている。でもこの、プレゼン全体の、やけに「良い子」な感じは何だろう。毎年そういう傾向が強まっているように感じるのだが。
  • 製作過程の変化、というのがあるかもしれない。パソコンや大型プリンターが気軽に使えるようになって、最近のこうした発表はほとんどデジタル出力である。Photoshopとillustratorが、逡巡や苦悩をそぎ落としてしまうのかもしれない。そうだとすると惜しい。デジタル作業が取りこぼしてしまう部分に、妙なリアリティの迫力があったりするのだが。このへんは難しいところだ。
  • あるいは、ほんとにみんな良い子なんだったりして。というか、そういう傾向を実感するという声も聞く。先日、塚本由晴さんにお会いする機会があったのだが、彼は、最近の学生は素直なので、最初から妙にヒネッたことをせず、ちゃんとオーセンティックなことを教えるように心がけているそうだ(塚本さんのいうオーセンティックがどんなオーセンティシティなのかにも興味はあるが)。
  • 中津・不良講師先生に命じられ、講評会後に持ちネタでスライドショーをした。
  • 学部4年の学生たちが何人か見に来てくれていた。僕がデザスタのお手伝いを始めた最初の履修者。神楽坂歩き回ったのなんか、ついこの間のような気がするけどなあ。いつのまにか、彼らは卒業設計に勤しんでいる。。。いかん、こういう感傷に浸るのはオヤジだぞ。いや、そもそも僕はオヤジだったんだった。忘れてたんだ。

  • スポンジ:境界を曖昧にする要素。
    要素の宝探しと類型化に留まらず、それが働き掛けることで周囲がどのような性格を帯びているかという観察にまで踏み込めると面白い。
  • 都市の平坦な床:地形と街の論理との拮抗と調停。
    ガレージはいわば、住宅と庭の確保の副産物的に造られた平面である。1次平面と2次平面、というような「層」があると言えるのかもしれない。敷地の平面の「規模」は、街の地形が顕現する「解像度」になっている。
  • 森のシークエンス:市街地のシーナリーに林地の豊饒さを発見する。
    たぶん、空間スケールが異なる。林地の比喩を市街地に当てはめるのは同一スケールでは無理で、それは移動速度とか要素の物体的な大きさとか、あるいは林地の要素の「複雑さ」に依っている。
  • エントランス:共有される公私領域の境界。
    「性能」だけではなく、「象徴」としてはどうだろう。入り口らしいとか、入り口を感じさせるとかいうのも「エントランス」のキャラの重要な側面だ。
  • 行き止まり:途切れる道路が見せる街の断面。
    たぶん、道路が「道路でないもの」に変わる瞬間が「見もの」なんじゃないか。そこから翻って、「では道路とは何か」という問いが上がってくると面白いんだけど。
  • 隙間の様態:
    使われているかいないか、なんていうのはたまたま現在の「様子」である。その隙間が「隙間」に見えるのはなぜか。つまり、その隙間が「隙間性」を自覚しているか、というところが面白いんじゃないだろうか。
  • 不安と安心のスポット:昼夜で反転する好嫌。
    時間があれば、その「反転の瞬間」を目撃すると面白い。反転したと感じる、その補助線がどこにあるか。その補助線はずらしたりできるのか。
  • アンチルール:「はみ出しモノ」を輪郭づける「見えないルール」の存在。
    これもスケールによって反転したり消失したりする。
  • 「参道」のシーン:そこを通過することが、他では味わえないような独特の体験記憶を残す場所がいくつかある。その経験を記述しつつ、それを成立させている状況を考察する。
    そのなかで自分がどう振る舞っているか、というのもキーなんじゃないか。どこを見たか。歩くスピードとか。地面の肌理とか。

    来週は最終課題へ向けた都心のフィールドワーク。残念ながら僕は行けない。しっかりやれよ。キッズ。

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    コメント

    コメントしちゃいます。
    六浦の最終プレゼンでこけました。悔しかったです。
    なんか、考えれば考えるほど、他のGroupと同じ内容になっちゃって。スポンジともEntranceとも隙間とも。どーしたらいいか。難しいです。まぁ。最終提出までトコトン悩んでみようかなと…
    すいません。コメントじゃなくて………

    「悔しい」のはいい徴候だ。悩みかたもトレーニングのうちだぜ。Keep it up.
    と先生らしいことを言ってみる。

    >> この、プレゼン全体の、やけに「良い子」な感じは何だろう。毎年そういう傾向が強まっているように感じるのだ...(略)...あるいは、ほんとにみんな良い子なんだったりして。<<

    普段は、あまり「世代論」的な単純化や一般化などに容易に与しないように警戒して、「人を個別に見る」ように心がけているのだが、こういう記述を見ると、やはり世代は「存在する」のかな、どとも思ってしまうね。その新しく獲得された観点で言うと、この若い人たちの親の代というのは今、幾つくらいの人々なんだろう? ひょっとして、引退しつつある団塊の世代? いや、もっと若い世代か?

    で、
    さっそくWikipediaで「日本の世代」を調べてみたら、「ポスト団塊の世代」というのがあった。その子供たちが「ポスト団塊ジュニア」だそうだ。全共闘の嵐がウソのように消え去った直後の世代が、大学にバリケード作ったりするのを止めて「いい子ちゃん」として卒業して生き延びて、優等生世代が出来た。さしずめ、その優等生世代のジュニアたちなのかな?

    ところで、われわれは「断層世代」とか「新人類」などにまたがっているらしい。われわれの子供は「新人類ジュニア」となる。

    どうだろうなあ。
    俺が手伝ってる大学が、素直な学生が多いっていう話も聞くし、建築学科という、「そのつもりで」入ってきた学生が多い学科はそもそも、専門領域の勉強にポジティブだっていう傾向があるんだろうし(おまけに演習は選択科目)。なんとなく「傾向」は感じるけれど、その背景はよくわからん。

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