2007年10月29日

ランド素ケープ

「住宅都市整理公団」別棟:白髭団地ツアー/現にいまそこにあること

ちょっと嫌な言い方をするとそういう街の風景を変えることができる「特権的」な場所にいる方々にとって風景を批判的に眺めることはこれはもう本能のようなものかもしれないけど、そうじゃないふつうの人にとっては街の風景は「現にいまそこにあるもの」であってそのオルタナティブが存在するだなんて思いもしないんじゃないかな。建築家にとって街の風景はパラレルワールドのひとつかもしれないけど、ぼくにはそうは見えない。あきらめでもなんでもなくて批判的に他の可能性を表すより、ぼくは「現にいまそこにあること」のパワーを愛でたい、と。

そしてたぶん、大山さんの様々な「工夫」は、「そこにあること」をそのまんま提示しようとしたときに纏わりついてくる「パラレルワールド」を払拭する努力なんだろうなと思う。けだし、我々は現にある光景の「先」にアナザーワールドを夢想するというトレーニングを積んでしまっていて、そういう「邪念」を忘れることのほうが難しい。極端な例は「美しい景観を創る会」が喧伝したような、「現にいまそこにあること」を相対化する教条だろう。現前の風景を相対化することが、しょせんは新しいストーリーを付加する下心をもっている限り「そっち」とおんなじだとすると、これは痛い。

ただまあ、僕にとっての救いは、実際の風景はえてして自分自身の姑息な思惑をふっとばしてしまうことである。たとえば「物体的な圧倒」はしばしば、こうした夢想される平行世界を打ち砕いて心を掴む。ダムや工場の「説得力」はそういうところにもある。そこにあるという事態を拝むより他ないという。6世紀の人たちをいきなり現世に連れてきたら、彼らはダムや工場を「祀る」だろうと思う。

「テクノスケープ」で論じられていた「異化」は、工場をきっかけにするまでもなく、日常のなかで常に起きているのではないか、ふとコンビニや電柱や自販機の並ぶ道が違って見えてくるというような、日々の「プチ異風景化」はみんな日頃から経験していることで、そのさりげない「風景化」の目線で都市を見る、というのが「新スケープ」なんじゃないか、と先日思ったのだが、大山さんは工場やダムが期せずして持ってしまっているパワー、「それ自体を見てしまうよりほかない」という接近方法で見れば普通の街の光景を作っているさまざまなモノへもパラレルワールド抜きに接することができるのだ、という「逆のアプローチ」をしているのではなかろうか。

誤解を招く言いかたであることを承知でいえば、大山さんが写し取っているのは団地やパーキングタワーやゴルフ打ちっ放しの「自然」なんじゃないか。と。

僕は、上記の文章を読んで、咄嗟に以下のフレーズを思い出した。これはすごく似ているような気がする。誰が何と言おうとだ。

いついかなるときにも、私たちは何かに触れている。これは実に驚くべきことではないだろうか。

ところで、

石川さんって詰め寄りがちだよね。石川さんは先生もやってるけど、学生さんの心中をお察しする。

愛だよ愛。いやまじで。

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コメント

ボクも詰め寄られてみたかった、一度くらいは。
(だって、詰めより専門だもん、ボクって...)

さんざん、愛を感じたぜ。

でもさ、6世紀の人がダムや工場を見て「醜悪だ」なんて言ったりしたら、それはそれでぶっ飛ぶな。
「もうちょっと斬新なデザインは出来なかったんですか?」なんていわれた日にゃ、もう3年半くらい考え込んじゃうな。

ところで俺、もう何年も「風景をつくる」なんて考えてねーや。

でもあのストーンヘンジは作ってるぜ。風景を。

ななな何のことかね?石川君
あれは・・・あのそのつまり、えーとその俺じゃなくて・・・

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