2007年4月 6日

出来合いの物語の先へ

「住宅都市整理公団」別棟:「屈折した片思いとしての団地愛」よりさらに屈折して

おお。総裁が自分のスタンスをこんなに語るのは珍しいというか、貴重なエントリーだぞ。

「ノスタルジー」が「閉じている」という言い方は冴えてる。
たしかに、ノスタルジーは、対象物への接し方において、特定の世代とか、特定の時代を知る人たちなどを「特権化」するように働く。特にそれが「商品化」をドライブにしているとそうである。最近、昭和30年代の事物がノスタルジーの対象としてメディアに持ち上げられることが多いのは、それによって囲い込まれる集団がマーケットとして大きいからかもしれない。「閉じる」のは「限定する」ことだけれども、限定された集団の人数がものすごく多ければ、市場としてはおいしいいわけだから。

以下追記。

僕は、「団地を愛でるメンタリティがポピュラーになると、団地が美しく装ったり、美しく立て替えられてしまったりし、それは困るんじゃないか」ということではなくて、むしろ、その過程で、特にメディアを介したりするときに付加されてしまう傾向がある「ノスタルジー」のような、安直な物語性のほうが深刻なのではないか、なぜならそれは団地的なものをいわばテーマパーク化してしまうことだからだ、と述べたつもりだったのだ。だから、大山さんも僕もほとんど同じことを書いている。

もちろん、「自覚的になる」ことがそのまま「悪い」わけではない。自覚的に素敵な風景だってある。僕の本業の仕事なんか、本来そういうものをデザインしようとするものである。「媚びる」イコール「醜悪になる」わけでは決してない。と確信していないとこんな仕事やってられん。

ただし、まさに大山さんのいう「いわゆる良い風景とされる風景」に「なろう」とするとき、施設物体はしばしば、ハズした、痛い「様相」を呈する傾向がある。それには2つのタイプがあって、ひとつは公共施設構造物の「景観配慮化」で、もうひとつは「安直なストーリーをテーマにした意匠を帯びる」ことであり、80年代以降の集合住宅がその傾向を強めたのは後者であって、そのキーが「商品化」だと思うわけだ(そして、僕もそういう「商品化された、安直なストーリーで売る『景観』(←風景ではない)の構築に加担することもしばしばである)。ここで「安直な」という言い方をするのは、商品化が要請するストーリーが「用意された」物語だからだ。

ただし、「出来合いのストーリー」がなぜだめなのか、ということは、もう少し考える必要がある。それは、現実の都市の風景へのコミットメントを阻害する、ということなんじゃないか、という気がするが。

物語性の「なさ」を愛する、と読めるような書き方は、僕の書き方が足りていなくてよくなかった。もうすこし丁寧に、「出来合いの物語性がないことで(あるいは物語性が欠落したことで、あるいは物語性を抜くことで)露わになっていて、それそのものの美しさや面白さにいわば「邪念なく」接近できる、そういう対象であるところが、団地や工場や土木構造物に共通している」と言えばいいだろうか。「風景のリアリティ」というような言い方もできるかもしれない。

ダムや工場がこうした安直な物語性から免れやすい(ので、わりと落ち着いて愛でることができる)のは、エンジニアリングの「規模」が巨大なために、意匠がついてゆけないという事情があるのではないだろうか。たとえば、ダムと同じような土木的水利技術構造物でも、もっと小規模な都市河川の「護岸」などは、「物語」を帯びようとして醜悪なことになっている事例がいくつもある。

そういう意味では、たしかに団地はダムと比べるとこの手の「物語化」に対して脆弱である。それが、団地鑑賞者がしばしば有している、ある種の「ストイックな態度」のゆえんなんじゃないか、という気もする。小林さんのガラス張りのお風呂も、大山さんの撮影の手法も、そういう安直な物語化を抜く、あるいは拒否する操作に、僕には見える。

ところで、僕自身は、じつは、ノスタルジーという心情それ自体は必ずしも悪いものではないと思う。「たちが悪い」のは、たとえばメディアが喧伝するときに「わかりやすいストーリー」として「翻訳・分類」される際に選ばれる「メニュー」のひとつとしてのノスタルジーや、「商品化」が要請する物語性としてのノスタルジーである。

都市の風景に関わる規模で、出来合いのストーリーが「物体化」しているもっとも極端な例はおそらく、マンションのモデルルームと、五十嵐太郎さんも注目していた「結婚式教会」である。もっとも、結婚式教会くらいにむき出しで物語性を帯びていると、それはそれで別な読み方や鑑賞の余地を生んだりするけどな。しかも、マンションも結婚式教会もちゃんと「売れている」。

あと、自覚的なデザインが到達できない無自覚のよさ、というのは、それが何を指しているかによってもちろん違ってくるのだが、「ある」。逆説的に聞こえるかもしれないが、それへの確信もまた、僕がこの仕事をしている理由でもあるのだ。風景は、出来合いのストーリーを飛び越えて「発見される」ものである。大山さんが「団地でなくったっていいんだ」というとき、それは、出来合いの物語なんか踏み越えて先へ行こうぜ、という誘いなのだ。

それにしても、こういうことを書くときは、多かれ少なかれ「ひとくくり」にせざるを得ないので、「いや俺は違うね」という声があがることは仕方ないというか、そういうことを覚悟し予想していないといけないのだが、それはそれで様々な視点の獲得や検証になって興味深い。
というオヤジめいた結語にしてみました。

ああ、出張中に書かないといけない原稿があったんだが。。。
まあ、団地風景論が面白かったからまあいいや。

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コメント

>小林さんのガラス張りのお風呂も、
>大山さんの撮影の手法も、・・・
>安直な物語化を抜く、あるいは拒否する操作に、
>僕には見える。

確かに。そしてそのとき
「ああ、別に”団地”でなくったっていいんだ」
となる。

ぶっちゃけていえば、日本の団地
(とくにいわゆる5階建ての団地ダンチした団地)
の偏愛って、例えば昔のSL(C55)のどうみたって
デキの悪い流線型のデザインを面白がるような
独特のイタイタしさに満ち溢れているのだが、
上記のお二人の活動は単純にイケてると思った。

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