2007年2月21日

Riverside Bluehouse

ああ。なんという迂闊な。
今朝、駅の売店で何の気なしに今週号のAERAを買うまで、「0円ハウス」の坂口恭平氏のことを知らなかった。いや、もしかするとどこかで見聞きしていたのかもしれないが、まったくノーマークだった。なぜかというと、端的に、僕の耳はロバの耳で、目はウロコが詰まった節穴だからだ。

■坂口恭平「0円生活の方法 ---大切なことが全部学べる隅田川の青い家暮らし---」(AERA 2007.2.26号)

記事は、路上生活者の家に興味を持って観察をはじめ、2004年に写真集「0円ハウス」を出した坂口さんによる、隅田川護岸のブルーシートの家に住む「鈴木さん」に取材したレポート。

文章がちょっとたどたどしいというか、メール調というか、いかにも若い人がブログに書いたみたいな調子だが、まあそれはそれで一種の臨場感がある。ホームレスのルポ、というと、わりとシリアスな、しばしば暗めの社会学的なアプローチが多いけれども、この記事は、ひとつには建築学科出身の坂口さんの、まず「住居」に注目するというアプローチのために、そして調査対象の「鈴木さん」の「明るい路上生活」のゆえもあって、ポジティブでユーモラスな「報告」になっている。

今和次郎が、じゃなかった坂口さんが指摘するように、「隅田川の青い家」のありようは、現在の住宅が実は巨大なインフラの「端末」になってしまっていることをあらためて考えさせるし、鈴木さんの生活は、この都市がある程度の数の「寄生者」くらい軽く養えるほどの余剰物を流している、ということを気付かせる。

「青い家」はGSからもらってくる廃バッテリーで照明用の電力を得ていて、これは象徴的である。乾電池式の装置はコンセントが要らない。コンセントが不要だから引き込み線も不要で、電柱も不要。装置の稼働のレンジを電池の寿命スケールに留める覚悟さえあれば。震災に見舞われた際に、プロパンガスが威力を発揮したのと同じ事情である。

もちろん、「青い家」とて、都市インフラをぜんぜん前提にしていないわけではない。飲料水は公園の水栓から得ているし、燃料や食料は集めた空き缶を業者に売って得たお金で買ってくる。何より、家の物理的「基礎」は「護岸」なのだ。通常の住宅との違いは、寄生の「サイズ」の相対的な差である。多くの住宅が本気で鈴木さんの「家」を見習って、エネルギー消費を極小に押さえた様式になってしまったら、都市の「余剰物」は激減して、皮肉にも「隅田川の青い家」は成立しなくなってしまう。

以前、南泰裕さんらのホームレスの調査を拝見したとき、路上生活者というのは現代の狩猟採集民族なんだなあ、と思ったことがある。狩猟採集生活は、本来の意味できわめてエコロジカルな生存様式であって、生活圏の土地そのものが生産する資源に強く依存するために、生活者を支える絶対的な「地理的規模」が必要になる。つまり、ある特定の地域が「養う」ことができる狩猟採集生活者の「数」には限界がある。「隅田川の青い家」の場合は、鈴木さんが押さえているテリトリーでは、他の同業者が「共存」することはできない。(何らかの「農耕モード」に移行すれば話は別である)。

これは、実はけっこう苛烈な競走である。記事を読む限り、鈴木さんは非常に勤勉な方のようで、それが「明るい生活」を支えているのだろうが、たとえばもっとお歳を召して自転車に乗れなくなったら、あるいは病気か何かに倒れたりしたら、鈴木さんの「資源圏」は別な青い家が乗っ取るのだろう。

むろん、鈴木さんがもっと若い人材を家族に迎え入れて、狩猟採集をリタイアしてもその若手の働きで食えるようになる、ということは可能である。そうなると「青い家」は部族的な社会性を帯びるな。そういう「集団」はいないのだろうか。隅田川護岸。いや、そもそも「ほっといてくれよな」という、群れを作りにくい性格の人がそういう生活に入る傾向があるのかもしれないけど。

0円ハウス −Kyohei Sakaguchi−

坂口さんのサイトにあった、都市の庭の観察記:
4次元ガーデン −Kyohei Sakaguchi−

いいところを見てるなあ。

4次元ガーデン05 へちまと鳥専用アパート

そうこれ。僕も以前、この同じ「庭」に注目したぜ。→環境共生型住宅群

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://fieldsmith.net/mt/mt-tb.cgi/618

コメント

ヤマシロです。
「0円ハウス」も読みましたが、「ASAKUSA STYLE」という本は読まれましたか?有名な本なのかよくわからないのですが。
こちらには「群れ」として生活している集団の話も出ていました。
私が見つけた 0円ハウス@湘南台駅コンコース with 雨傘
http://d.hatena.ne.jp/syamashiro0531/20050607

ちょっとこのタイミングで過剰刺激的over-stimulativeだな。
ウチのカミさんが刺激を受けて、こんな家で良い!もうやめよう!(←なにを?)とか叫び出しそうなので、目に触れさせないようにします。
http://www.0yenhouse.com/shop/index.html

そうか、そうすると「登山」や「探検」という行為は自らを都市インフラから断ち切る行為なわけだ(←ぜんぜん違う話)。山小屋や幕営地をあてにしないタフな登山であればあるほどそういう傾向が強まりますな。登山というのは、水場や幕営地の存在、つまりライフラインをどのように調達するかそのやりかたによって難易度が分かれますね。例えば、かつて僕は山小屋を利用する登山を、ミーハー(←死語)が好む堕落した登山と考えていました(←悲しいかないまや山小屋に依存しないと登山そのものが成立しない、、、体力的に)。それで、山小屋には決して泊まらず、山小屋に付随した幕営地にテントを張るのが次にえらくて、さらに、水も幕営地も全て自分で調達するバリエーションルートの登山が一番えらいんだと勝手に決めつけていました(←ばか) あ、(また脱線しますけど)、よくよく考えてみれば、沢登りという日本独特の登山形式は「水」(魚を釣れば食い物も)という基本的なライフラインと登山ルートとがピッタリ重なっているダメ登山の典型ですね。いや、ライフラインのことなど考えずに登山的スリルに没頭できるという点で、ものすごい合理的な登山形式と考えるべきか。

下界においても、登山のように、ライフラインの調達の仕方というか依存の仕方によって様々な生活のモードがあって、それを自己責任において選択できるようになると面白いですね。我々の都市生活(農村も)というのは、物理的にフィックスされた都市インフラに依存することが前提となっているけれども、それを前提としなければ、かなり違った社会空間設計が可能になりますよね。実際、コストの問題さえクリアできれば、高容量ハイパワーの家庭用電池は可能のようですね、技術的には。そうなるとまさに住居はインフラ・フリー化する。エネルギーインフラがモバイル化できれば、あとは食べ物ですね。農耕と狩猟(釣り)は趣味程度にしてあとはレンジローバーでまとめ買いするしかないのかな、やはり。

「圏外」に住むことを考えてるんでしょう。

おおお。Casa de Kasaだ。
「アサクサスタイル」アマゾンで注文しました。>ヤマシロさん

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)