2006年8月15日

神田にて、日本橋について。

「緊急討論:首都高速埋設と日本橋川の景観を考える」が無事終了。

予想を遙かに上回って面白い、充実したパネルディスカッションであった。

最初に五十嵐さんによる、景観論の現在、というか「『美しい景観』観を正しくせんとする近年の風潮」への疑念と批判のプレゼンテーション。論旨は、「日本の現在は(特に景観が)駄目です。美しくも正しいのはこれです」というオフィシャライズを国レベルが主導しつつあることへの反発と批判。日本橋については、説得力のない、何とも胡散臭い『美』という理由だけで五千億円もの公費が投入されようとしている事実について、何か誤魔化されているような、騙されているような、これが端的に「嫌だ」ということ。

「景観の美しさはあくまで相対的な、いわば『趣味』の問題だ」という「事例」として五十嵐さんが提示した、大学のクラスで、学部1年生を対象にした「美しい景観、醜い景観を、その理由をつけて採集せよ」という課題の提出物の一部が、ほとんど衝撃的だった。あれがほんとうに「フツウの感覚」だとすると、僕自身もかなり認識を改める必要がある。それから、あの課題を提出した学生たちの、三年後の変化を、そこに現れる大学の「建築教育」の「エフェクト」を見てみたい。

その他、平壌の「美しい景観」や、ソウルの清渓川プロジェクトなど、五十嵐さん一流の「割り切れない事例」の紹介。「景観を笑う」から「景観は記号ではない」までの、ダイジェスト・フラッシュという感じのプレゼンテーションだった。

次に、太田さんによる、「今一度、都市に参加しよう」という趣旨の発表。いわゆる「景観狩り」は目くらましであって、あれに拘泥していてはいけない。たとえば日本橋の問題は「都市」の問題であり、「東京」の問題である。首都高は、都市のインフラ、高速道路ネットワーク全体からきちんと捉えるべきであるし、今後どうするかという問題は、都市の公共空間をいかに創出し、つないでゆくかという課題であり、契機なのである。

太田さんのプレゼンも、事例や参考図版が多岐に渡っていたのだが、指摘していた「問題」のエッセンスはこういうことである。1.もっと声をあげ、集まってきてよいはずの多くの(若い)建築家が孤立していること。2.そうした人たちが情報から疎外されている(というか、物を知らない)こと。3.そしてそういう人たちが集まって情報を交換したり発表したりする媒体がないこと(カーサ・ブルータスはあるのに、チッタ・ブルータスがない)。

上記、2については、太田さんらの努力がコンパクトにまとまった労作がある。
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太田さんに言わせれば、日本橋川に蓋をしている首都高はやはり、あの場所にあってよい公共空間を、都市のアクティビティを阻害している。その意味では、費やされる5000億はまさに都市の活性化のためのお金なのであって、それは「誰かが勝手に使う」ものではなく、「俺たち(都市に参加するデザイナー)の設計料としてその一部が回ってくるかもしれないお金」なのだった。

それから、村山さんによる、アメリカのボストン、シアトル、サンフランシスコという三都市における、高架高速道路を埋設しつつ都市再整備を行っている、あるいは計画している事例の、主に合意形成のプロセスの紹介。

市民が参加しているワークショップの様子や出てくるアイデア、絞り込まれて図化された候補案の様子、工事の過程など、大変そうだけど楽しそうで、その水準もえらく高くて、なんだか羨ましいような事例だった。

村山さんが総括していた、それぞれの「プロ」の役割は、1.建築(ラ系でもいいが)はとにかく、描いてみせることでその話題をホットにする。2.都市プランナーは「プロセス」を提案する。3.メディアやNPOはそういうステージを提供する。4.行政が責任をもってコーディネートする。

特にボストンの事例は、日本橋の話題にもよく引き合いに出される、有名なプロジェクトである。ただ、アメリカのそれぞれの事例と首都高のそれがいささか違うのは、アメリカの場合、どれも、高速道路の老朽化やどうしようもない渋滞など、インフラの機能が低下・不全化したことへのエンジニアリングとして道路の「改良」が行われていることであり、「都市再生」はそれを契機として、付随して行われているということである。その点、日本橋はやはり、お金が投下されてバラ撒かれることが先に決まって、あとから「日本のシンボル景観を取り戻そう」というお題目をかぶせたみたいな感じではある。

パネル三人の三者三様ぶりはとても有効だった。後半のディスカッションも、場所が適度に狭かった(マイクなしで充分な人数と面積だった)こともあって、指名した会場の人(主に伊藤さんや磯さんや田路先生だったりはしたのだが)も活発に応じてくださったし、あとで聞いた反応も非常に良かった。あとで知ったが、地元の商工会の青年部の人たちなども多く来られていて、けっこう地に足の着いた「会場」だったのだ。来場者の何人かでも、背中を押されたように感じてくれていたらいいなと思う。もっと造園の連中を誘えばよかったなあ。「調布市民」が唯一のラ系来場者だったかもしれない。

行きがかり上、五十嵐さんの論考をダシにして、つまり五十嵐さんの「美百批判」で釣っておいて、それを太田さんが掠って先へ連れて行く、みたいな構成になってしまったので、後半は五十嵐さんの主張があまり検討されなかったけれど、僕にとっては、それぞれの論点や対象を再確認することができ、腑にボタボタと落ちたセッションであった。

五十嵐さんは、日本橋問題を、セキュリティや祖国愛や外来生物法や、そうしたものに共通する「風潮」のひとつとして見る。そして、この問題にはそういう側面がたしかにあると思う(太田さんも、その点を否定しているわけではない)。僕はこれはけっこう重要なことだと思う。というのは、難波和彦氏がウェブ日記で指摘しておられたことでもあるのだが、都市のハードウェアの「良質な」デザインが、必ずしもそのまま都市のアクティビティを生むとは限らないからである(もっとも、ピクニック運動を実践している太田さんはその点でも強いんだけど)。

むろん、「美しい景観」と「都市のアクティビティ」も必ずしも相関しない。横浜の中華街なんか、「美百」的にはメチャクチャな「景観」だが、たとえばすぐ傍のMM21と比べれば、「アクティビティ」はほとんど「明暗」をなしている。そして、「景観」がそういう街路の賑わいや街区自体の魅力をも含むものであるなら(本来はそうあるべきだが)、中華街は断然「美しい景観」をもっている。

だから、「五十嵐さん的リテラシー」をもって太田さんの主張に接する、というのが、この議論を有用にする、と僕は思う。太田さんの主張は、理念としては、首都高が埋まるかそうでないか、とは関係ない。それは単に「手法」に過ぎない。はずである。首都高が現在のまんまでも、あるいは道路が埋設されても高架の構造物がそのまま(解体費用が節約できる)でも、アクティビティと地域の連続性とが飛躍的に向上!というようなアイデアが選択肢にあってよい。ところが現状は、やみくもに「まず首都高を埋設する」ことが「前提」になっている。話が逆なのだ。五十嵐さんが批判しているのはその点なのである。

それで、まあこういうことを書くとまた太田さんに「議論を拡散しているだけだ」と叱られそうだが、東京キャナルのとき、WEST8のエイドリアン・グーゼが提案した、首都高の上にさらに、現代の技術と意匠の粋を尽くした巨大なアーチを架構し、一方で現在の日本橋の「下」に、江戸時代の木造の太鼓橋を再現して水に沈める、というのは、いままで見聞した中では最も冴えた「案」だったなあ。皮肉っぽい提案ではあるけれども。

あと、「本題」とはいささかずれるが、五十嵐さんがプレゼンの中で触れられていた「外来種法」関連で、隊長に入れ知恵として。

「ブラックバス問題」は有名ではあるが、もっとあからさまに極端な事例がある。
和歌山混血ザルはなぜ問題か?

農作物被害防止のための野生動物の個体数管理に、「遺伝子汚染」という「理念」が入り込んできて話が逆転し、結局タイワンザルとその「混血」を捕まえて殺してしまうことになったのだ。涙が出るな。これ。「ニホンザルの純血を守る」なんていうキャッチを聞いて、前世紀のドイツのあれを思い出さないほうが無理である。

ある種の思潮がドミナントになってゆくことで受ける「抑圧」は、喫煙者である僕はすでに体験している。いや、やっぱり吸うほうが悪いよ、というヤツとは付き合うつもりはないので帰っていいぞ。

あと、これも本題とは関係ないが、生まれて初めて「司会」というのを拝命してわかったこと。
司会は、各人の発言を聞き漏らすことができないため、終始まったく気が抜けない。がっくり疲れる。おまけに途中でトイレに立ったりできないし。機転が利いて気配りが良くて我慢強い、という、僕の性格から最も遠いキャラクターが「司会」にふさわしいのだった。冷や汗をかいた三時間半であった。ふー。

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