2006年6月16日

いくつかの通勤本。

先々週。
朝、現場に立ち寄ってから出社すべく、電車に乗ろうとしていたら、千葉大のキノシタ先生からいきなり電話がかかってきた。「お薦めされた、中谷礼仁さんの『セヴェラルネス』買って読みましたが、素晴らしいですね!あれ。」というのが用事だった。おお。そーでしょうそーでしょう、どの章がお気に入りです?「弱い技術」ですか。僕は「自尊心少年」ですねえ。桂離宮もいいですよね。そーだ、今度ラ系の有志集めて読書会しましょうよ、などと、盛り上がってしまった。。。朝の川崎駅のホームで。

今週。
久し振りに、いつもより少し早めに仕事を終えた平日、帰路、思わず書店に立ち寄った(締め切りすぎてご迷惑をおかけしている原稿もあるんだけど。。。本屋が呼ぶのだ)。

建築のコーナーに、「マゾヒスティック・ランドスケープ—獲得される場所をめざして(学芸出版社、2006)」が出ているのを発見。
「LANDSCAPE EXPLORER」というグループが編集した本。

大阪での造園学会のおりに、グループのひとり、クツナさんから「進呈します」というメールを頂いていたのだが、当日、うっかりもらい損ねて帰ってきてしまった。せっかくなので、関西のラ系集団の熱心な活動にいささかでも貢献すべく、一冊購入。帰りの電車でざっと読む。

・・・こ、こりゃダメだ。これはつまんないぜクツナさん。どうしてこんなことに。

「前書き」のテキストは、ほとんど意味不明(理想に燃えてるっぽい『確信』だけは伝わってくる)。フィールドワークも、提案されているプロジェクトも、惜しいというか、なんか学部2年くらいの課題みたいだ。

「マゾヒスティック・ランドスケープ」なんていう扇情的なタイトルは、こう、たとえば都市に痛めつけられる、けどそれを倒錯的に嬉しむ、みたいな、ちょっとキレたランドスケープ論か何かかと思わせるが、そういうことではなく、使い手の関与によってその意味や形態を変容させもするような場所のありかたのこと、のようである。逆に、一義的に使い方を強いる空間のデザインを「サディスティック」と呼んでいる。

それはいくら何でも、用語の使い方が変じゃないか?というか、どうして普通に「ランドスケープ」じゃいけないのだろう。だって、「ランドスケープ」って「そういうもの」だろう。そもそも。問題意識はわからなくもないが、それっていま、そんなに「問題」なんだっけ?

使い手に対して、ある行動を強いるとか、制限する、というような観点からなら、近年の「環境管理型権力」の議論だとか、「ランドスケープ的スキル」がそういう環境の創成と洗練に「荷担してしまうこと」だとか、もっと掘り下げるに足る話があるだろうし、「使い手の関与」に関してだって、それこそ「弱い技術」的に、もっと「作り手」と「使い手」なんていう区分けを揺さぶるような事例の発見や考察があるだろうと思うが。

いや、集まってわいわいやってる議論の場では、もっと面白い話題や視点がバシバシ出ているのかもしれない。えてしてそういうものだけど。でも少なくとも、「今さら」感漂うこの本には落胆した。と記録しておきます。
今後に期待、ということで。

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