2006年1月29日

Tokyo according to Kenzo

土曜日。

江戸東京博物館|「東京エコシティ—新たなる水の都市へ」展のオープンにあたって開催された、『展開催記念シンポジウム・第170回江戸東京拡大フォーラム』の末席に出席するべく両国へ。

「総指揮」は陣内先生。展示もシンポジウムも、コンテンツ満載。田島さんによれば、陣内先生は「人格者だし知識も豊富でキレも鋭いし話もわかってくれるし気遣いもこまやかだが、唯一の欠点は、プロジェクトへのその豊富な持ちネタの注入をやめないこと」なのだそうだ。あおりを食らった展示関係者は、これ以上準備が続いたら全員息が絶えるんじゃないかという状況に追い込まれた。

「東京キャナル」は展示の一角に「未来へのビジョン」という趣旨でいくつかの提案を掲示したが、これもまた(このプロジェクトの抜きがたいノリとして)直前まであーだこーだと議論してプロダクションのスケジュールを圧迫したため、制作チームの最後の数日間は「死の行軍」になったようであった。「ようであった」と他人事なのは、今回は僕は申し訳ないけど制作に関わるのをお断り申し上げたからなのだ。経過は何度か拝見したけど。

しかし、ディスカッションの過程で共有されていたイメージというか、描こうとしていた「風景」は、こうやって展示品としてライトが当たる模型とパネルになっちゃうと、あまり「目をむくような提案」に見えなくなるのがちょっと残念。最後の仕上げに「建築模型的美学」が働いてしまうからかもしれない。しかしまあ、とは言うものの、最後にカタチに持って行った恐るべきパワーには素直に拍手。あらためて見直したぞsfc.keio.ac.jpおよびsoc.titech.ac.jp。

びっしり並んだ展示品群が訴えているのは、とにかく、江戸/東京はその始まりから、現代の価値観から見れば「エコシティ」としか呼べないような水の都市であって、そういう都市だった時代の方がずっと長く、かつそれはつい最近までそうだった、ということである。僕はかねてから、現代の東京の水辺が損なわれているという議論に必ず登場する「浮世絵」が嫌いで、そんなもん見せられて「こうでした」と言われても困惑するだけだと思っていたのだが、今回の展示みたいに手を替え品を替え時代を超えて畳みかけられるとさすがに、見終わった頃はへとへとになって、一礼して「御意」と言いたくもなる。かもしれない。ま、東京を重層的立体的に「感じる」にはよい展示かもしれん。

もうひとつの見どころは、「建築家たちによる東京湾の未来像」というコーナーである。渡辺真理氏のコーディネートで、丹下さん大高さん菊竹さん黒川さん槇さん磯崎さん川添さんら、名前を並べただけで背景に「メタボリズム」という文字がウキボリになるような大御所によるそれぞれの「東京計画」、および石川幹子さん宇野求さん隈研吾さん長谷川逸子さん石山修武さん篠原修さん庄野泰子さん小島一浩さん塚本由晴さんみかんぐみ、による東京の水辺への提案が並んでいる。それぞれへのインタビューのビデオも上映されている。

実は僕は模型を直接拝見したのは初めてだったのだが、過去の計画も現代のものも含めて、丹下さんの「東京計画1960」が一番かっこいい、などと思ってしまった。あれはやっぱり尋常じゃないな。シンポジウムで、1960年代に盛んに提案された東京湾に対する将来構想案をいくつも渡辺先生が紹介してくださった。どれもこれも、どういう形で「埋め立てるか」という計画案だったのだが、ひとり、丹下案だけが、地面から全体が「浮いている」。その姿勢が、先行デザイン会議で「あと出しジャンケンで、しかも負けてる」と(あらためて)批判されていたものでもある。でも、あれはあれで、たとえば水辺的にはエコロジカルな提案ではあった、と言えもする。首都高の大部分は「東京計画1960」的に建設された。日本橋川は水が淀んでいて水質が悪いそうだ。つまり、あの川は水流としては役立っていない水面なのである。だとすると、日本橋川を干して、そこに高速道路を通す、というオプションもあり得たわけだ。高架にしたからこそ明治の「地層」が温存された、のかもしれないじゃんか。いやさすがにそれは違うか。違いますね。

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■面白そうな企画展があることを知りました。江戸東京博覧で開催されている「東京エコシティ―新たなる水の都市へ」です。たまたま、私がずっと気になっている石川初さん(... 続きを読む

コメント

関西在住ですが、博物館のことを調べていた関係で、江戸東京博には何度もいきました。この企画展、たいへん面白そうですね。「建築家たちによる東京湾の未来像」というコーナー、じっくり見学したいと思いました。

おお、ぜひご来場下さいまし。
たぶん、見る人によって受け取り方がまったく違うと思います。わきた先生のご感想もうかがってみたいです。

ちなみに、展示コーナーの入り口に、まるでカシミール3Dで僕が制作したような大きな東京の地形図が掲げられていますが、あれは僕がカシミール3Dで制作したものです(笑)。

石川さん、また感想など拙ブログででも書かせていただきます。3月5日までですよね。ぎりぎり、最後のほうで拝見できるかなと思います。たぶん、専門分野のバイアスがでちゃうと思いますけど(^^;。

バイアスのない感想なんかつまんないです。
いやー、東京計画の模型群は、例の「全域的視点と局所的経験の乖離」について考えさせられました。
60年代の計画が東京全体への「大改造」で、近年の(若手による)計画がやけに地に足の着いた小さい空間への提案(の連鎖)だったのも印象的でした。

まだ企画展、拝見していないのに、石川さんのエントリーを拝見して、少し書いてしまいました(^^;;。ああ、自分でも、いいがげんなヤツだと反省しています。でもね、なんだか、とっても興味深かったものですから。「全域的視点と局所的経験の乖離」問題ですが。面白いですね~、若手が「小さい空間への提案」だったというのが。「メタボリズム」の時代への反発でしょうか。また、それが受ける時代でもあるように思います。小さくまとまったからといって、安心・安全なわけでもないし、無自覚な陥穽がありますから。でも、振り子のように左右に揺れているだけなら、困ったものです(人の学問分野だから気楽に書いてますけど、自分とこだって同じです)。結局、両者は、結果として、共犯的な関係を取り結んでしまっていますから。単なる対抗パラダイムを超えるような動きが必要でしょうね。そうでないと、なかなか進歩がないような気がする(進歩と書いたけど、この表現も問題ですね(^^;;)。

うわ、拝読しました。あんなに「先読み」されちゃうと、僕はもう、あまり何も申し上げることはないくらいです。。。というか、ご覧になった感想がコワイ。
建築の展示は、「編集意図」の反映もあるでしょうし(どのようにピックアップしたのか)、僕自身も建築はアマチュアですから、ウカツなことは言えないんですが、まずは、たとえば東京全体に対して大鉈を振るうような提案はもう出てこなくなった、という傾向はあると思います。「都市」の見方の変化を反映しているんでしょうけれど。「対抗」というより、あんまり関係ない、という感じがします。いや、これもあんまり良い言い方じゃないな。

石川さん。「対抗」は関係ない、ミクロな世界に耽溺するのよ、そんな感じなのでしょうか。私としは、困りました(^^;(専門家からは、勝手に困っておけばとの声が聞こえてきそう…)。私としては、「ミクロ」や「個」から対抗していくような発想があるのではないかと思ったんですね。ちょっと抽象的な言い方になりますが、でもそうなると、「ミクロな世界に耽溺する」ような計画っていうのは、容易に、別の上位レベルの計画のなかに、当初の意図とは全然異なる形で組み込まれていってしまうような気がしないでもありません。難しい問題ですね。でも、私としは、大変興味深い問題でもあります。

私たちの業界(?!)では、現代社会において、諸個人の関心が社会的・政治的(公共的)な事柄から、私生活に向かう傾向が強いと考えています。そして、そのような傾向を個人化・私化と呼んでいます。なんだか、石川さんのコメントを拝見していると、かつて大御所たちが建築を通して追い求めた社会的・政治的な事柄に若い世代の建築家たちは関心を失って、むしろ私生活に近い、ミクロなレベルのアメニティ等に関心を移していった、つまり、業界の私化・個人化のような現象がおきているのかなという気もしました(とんでもない事を言っているような気もします、ごめんさない)。でも、その一方で、かつての大御所的な血筋、ないしは遺伝子は、再開発等を担う大企業や企業グループのなかで脈々と生きているようにも思うのですね。規制緩和のなかで肥大化しているように思うのです。そうなると、この社会はいったいどうなるのか!!ということですね。

わきた先生:

うーむ。なんか、論点が沢山ありすぎて論点のヒョウ柄のようで目眩がします。

今回の展示に関しては、「60年代の大きな提案と、近年の個別で具体的な計画や実践」という「対比」のように「見える」構成にはなっています。だから、僕が記した「たとえば東京全体に対して大鉈を振るうような提案はもう出てこなくなった、という傾向はある」というのはきわめて「ベタ」な見方です。時代の「反映」は、建築でも造園でも、専門家の諸活動に大きく現れていると思います。

ただ、これはあまりによく言われる図式なので、あらためて「そういうことなのね」と問われると、よくわかんなくなってきます。「専門家」のくくり方によってもまったく違ってきますよね。いわゆる「建築」、というのは建築家の間で「建築」と呼ばれる物事(うわ、これは凄い定義だけど他人事じゃないな。『ランドスケープとは、ランドスケープ関係者のあいだでランドスケープと呼ばれる事態のことである』。「となりのトートロジー」とでもいうべきか)の自覚的なプロのコミュニティに限って見れば、広域的な視点から都市を「物体操作」でもって何とかしよう、という発言や提案は少なくなった、という言い方は(まずは)できると思います。どうしてか。社会の傾向を映しているのか、都市のあり方が変容しちゃったのか、あるいはそもそも都市はそんなふうに作れるものじゃないと思われるようになったのか、あるいは「冴えた、出来る連中」が、都市計画なんかでお金を稼いだり脚光を浴びたりはもうできないな、と「見切った」のか。いろんな議論がありうると思いますが。

でも、「専門家」を「主に建設産業に関連する分野のプロ」くらいの括りにすると、それは昔も今もずっと構想され続け、実践されつつあるのかもしれないし、あるいはおっしゃるように「大企業の資本の論理」が今はそれを(そのスピリットを受け継いで、かどうかはともかく)担っていると言えるのかもしれないし、あるいはそもそも都市はそんなふうに出来てゆくものではないのかもしれないし。個別の活動が、そういう資本の論理に、絡めとられて、結局はそれを補強してしまう、というのは僕自身の仕事にも言える(というか、そのまんま。)ことで、耳が痛いです。ただ、「対抗」の「戦術」は様々ありうると思うし、僕の関心は「没場所性の物質的豊かさと場所の最良の質とをつなぎあわせる地理学はあるだろうか。」ということかなあ。

それでまたしかし、冴えた連中の「都市」へのガッツがまったく失われたかというと、そういうわけでは決してなく、僕の知る範囲(きわめて狭い範囲)でも、いちいち紹介していると長くなりますが、コンパクトシティの研究とかランドスケープアーバニズムとか先行デザイン会議とか、60年代のアレとはまた違ったやりかたで「切り込む」提案はあるし、塚本さんの「マイクロパブリックスペース論」とか、「東京ピクニッククラブ」とか、都市資本の論理に身体尺度であきらかに「対抗」の牙を剥いてる実践もあるし、要するにこれは「一概には言えない」という。だったら言うな>自分

石川さん、こんばんは。前のコメントで、「とんでもない事を言っているような気がします」と書きましたけど、やはり「とんでもない事を言って」イライラさせてしまったようですね~。「小さい空間への提案(の連鎖)」と、「東京全体に対して大鉈をふるうような提案はもう出てこなくなった」、この2つに過剰に反応してしまい、ナイーブな誤った一般化をしてしまったようです(^^;ゞ。建築や計画の世界の事や状況を何も知らない者が、いいがげんなことを書いてしまい、ごめんなさいです。シュ~ンとしています(業界の皆さん、怒らないで)。

だけど「『対抗』の『戦術』は様々」あり、「没場所性の物質的豊かさと場所の最良の質とをつなぎあわせる地理学はあるだろうか」とお書きになっているのを読んで、嬉しくなりました。また、お書きになっていることの意味も私なりにでしょうが、よく理解できました。私が石川さんのサイトをずっと拝見してきたのも、全体に流れる問題意識にひきつけられてきたからだと思います。また、石川さんのいう「全域的視点と局所的経験の乖離」の問題についても同じように考えてきました。

私自身の職業的な関心は環境問題にあります。現在、自然科学の人たちと一緒になって流域管理に問題をやっていますが、そのとき、流域全体を管理しようとする視点と、流域の一部にかかわる個別地域(コミュニティ)の生活や生業の立場からの視点(あいるは経験)とのあいだには、まさに「乖離」があり、それが流域管理の問題点となっています。従来の流域全体を管理しようとする視点から正当化される環境計画であっても、そのような計画とは別の多様な文脈が複雑にからみあっている個別地域では、意図せざる結果ではあるでしょうが、それらは抑圧的に機能してしまうことが多々あるからです。しかし、個別地域のリアリティから批判的に計画をとらえているだけでは、流域の管理はできません。ここに、コモンズ、ガバナンス、コミュニケーションという概念が必要になるのですが、それは横においておいても、批判を超えた次のステップが必要になるわけです。そのような意味で、個別地域からの対抗的な実践がありつつ、しかしながらそれらが緊張関係をともないつつ計画とも相補的な関係を築くことはできるのか、そのあたりが私の関心になるように思います。

ただし、そのばあいも、私のばあい、環境計画をスタートに研究をしてきたわけではなく、むしろ地域(コミュニティ)研究に基盤を置いた研究をしてきたので、自分で自分のやっていることの“危うさ”を自覚しつつ、“不安”になりながら、頑張らなくっちゃと自分を鼓舞しているような状況です(^^;。以前、拙ブログでGoogle Earth について記事を書いたときコメントをくださいましたね。あのときも、このような事情から、石川さんのコメントに入食い状態で反応してしまいました。

おお、わきた先生ありがとうございます。いや、すいません、ブッキラボウな書き方は僕の抜きがたい「芸風」なので、べつにイライラしてるわけじゃなく、どっちかというと「とほほ」なのです。建築関係業界的シガラミフリーな視点から「それってこういうこと?」という設問があることが、いかに大切か(いつのまにか閉塞しちゃう)ということがあらためてわかりました。いや、「バイアス入り鑑賞」のご感想楽しみにしとります。

ここ最近、「全域的視点と局所的経験の乖離をめぐる問題」、略称「鳥虫問題」のことを考えてきて、つまるところ、何かを計画する(デザインする)という行為はすべからく、「鳥虫問題」をいかに統合する(というか折り合いをつけようとする)ものに他ならないのだ、と思いました。これは、まあそう言ってしまえば「あたりまえ」のことなんですが。

しかしこれ、「尽きない」な。CGCツール(コモンズガバナンスコミュニケーション)のお話も興味がありますし、機会を得てお会いしたいですそのうちに。

わわ、石川さん、こんなにはやくお返事ありがとうございます。怒られちゃった、どうしよ~と思っていたのですが、フォローしていただき感謝です。ホッとしました。気が小さいもので・・・。

いいネーミングですね~「鳥虫問題」ですか。鳥瞰的視点と虫瞰的視点との折り合いの問題ですね(←と、確認。正直いうと、最初、私「鳥虫?」って鈍かったもので)。石川さんの「統合」の定義をまずきちんとお聞きしないといけないと思うのですが。一般的な意味の「統合」だと、両者のあいだの緊張感をノイズとしてとらえて、そのノイズを処理するという感じが強いのですが、緊張感からむしろ意味ある次のステップが創造されないかなと・・・。まあ、そんなことを考えているわけです。ちょっと私などよりも上の年代や世代の方たちからは、すぐに「甘っちょろいこというな!」と叩かれそうなこと書いているんですが(^^;。

石川さんとのブログでやり取りさせていだき、「鳥虫問題」は、普遍性をもった重要な問題だということを改めて確信しました。ぜひ、私もお会いしたいです。私としては、石川さんにご意見をいだたきいこともありますし。どうか、よろしくお願いいたします。

しかし、なんですね~。私などとは違い、石川さんのお書きになる文章といいますか、表現されているものは、リズムとユーモア、そしてある種のカッコヨサに溢れていて、羨ましいです。ユーモア、とっても大切だと思うんですよね。

こちらこそよろしくお願い致します(深々)。
そ、そんなにおだてて下さっても何も出ませぬ。

いえいえ、おだててなんていませんよ。ずいぶん前、はじめて「都営スタイル」を拝見しましたとき、木下剛さんの引用を読んで、「そうなんだよ!」と納得しながら写真(「境界デザイン」「地面デザイン」)をみていくと、石川さんの視点に思わず微笑んでしまいましたよ~(^0^)。まあ、そういうことでありまして、こちらこそよろしくお願いいたします。また、コメント書かせていただくこと思いますが、どうかいやがらないでね。他流派の道場に稽古をつけてもらいにいくようなものですから。

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