2006年1月15日

出番だ、ケイティ。

僕は、高校の3年間を、山形県西置賜郡小国町の山間部という、日本列島豪雪スポットベスト3くらいに入る地域で過ごしたので、そういう場所での積雪の「凄味」は、ちょっとは知っている。

冬になると生活は完全に「雪モード」にシフトする。雪の降らない地域からは想像もできないような生活ではある。でも、そこに住んでいれば、たとえば「夏は暑い」というのと同じで、「冬は雪が降り積もる」。僕が1年生だった年、「56豪雪」という記録的な積雪があったが、東北本線も北陸本線も止まったのに、米坂線という地元のローカル線が平気で動き続けていたのが印象的だった。毎冬の3mの積雪に備えている地域では、それがたまたま4mになろうと5mになろうと、あんまり関係ない。(とはいえ、絶対的な閾値みたいなものはあって、量があまりに多すぎると破綻する。米坂線も、羽前松岡あたりの渓谷で雪崩が起きてしまってついに止まった。でもそれはいわば「例外的な災害」である)。数十センチの積雪で大停電した仙台のニュースに、なんだ、もろいな、と思ったのを憶えている。

「雪国」とひとことで言っても、事情は場所によっていろいろである。住宅の1階が「埋まる」ことが前提に作られていたりする地域もあるし、ある程度「孤立」することくらい予想している地域もある。地下水を利用した融雪装置が道路に仕込まれている街もあるし、たかだか1mの積雪がダメージを与える街もある。およそ、人が住んでいる場所はすべからく、地域や季節や時間を問わず、車両がスムーズにアクセスし、物流が絶え間なく行われ、エネルギーが均等に行き渡っていることが当然だ、というような「グローバル」な論理のアミを被せたとたん、その地域のありようがネガティブなものごととして浮き上がるわけである。

もっとも、いまや、どこに住んでいようと、「グローバル」論理で地域を測り見るような全域的視点はあらゆる人が持ってしまっているから、「あるべき社会生活の基盤」という想定を無視することはできない。そこで、「高齢化した過疎の豪雪地帯のような、もはや「国全体の生産」に寄与できない、不要な維持費だけ浪費せしめる地域に住む人びとは、その土地を破棄して都会に移住したほうがいい」というような主張が、妙な説得力を持つわけだ。たとえ、本気で「日本国」のことを心配し、様々なリスクを検討したうえで発言されているのだとしても、そういう賢しげな物言いには警戒を要すると僕は思う。これは、自戒でもあるんだけども、「補給路が延びきった前線を維持するくらいなら、撤退して縮小するほうが、部隊の存続のためには有効だ」という発想は、特に、自分が本部にいるという自覚がある場合は、とても容易である。

「本部の論理」はスケールフリーで、あらゆる箇所に適用可能である。というか、下手をするとそういう視点でしか地域をみることができなくなってしまう。「豪雪過疎農村と平野の大都市」の対比は極端に典型的で「わかりやすい」だけだ。関東くらいの切り取りかたをすれば、「地方都市と首都圏」に同じ対比を見いだせるし、東京都内に照準すれば、「都心と郊外」にだって同じ対比を見いだせる。都心だって、そういう図式で眺めれば、公費を投入して堤防や排水施設で維持されているゼロメートル地帯や、洪水ハザードマップで色が塗られている神田川流域の市街地は「本部に不要な負担を強いている雪国」的存在になるし、ずっと合理的に集約できる(と説かれる)超高層から見れば、低層の密集地帯は「雪国」である。

たしかに、人口は減ってゆくみたいだし、僕自身も、高度に集約した超コンパクトシティの周囲に森林化したスーパー郊外が広がっている光景を夢想することもある。ただまあ、一見、「真摯に合理的な見地から、タブーをあえて犯して、言いにくいことを思い切って暴言する」みたいな、ラジカルなつもりに見える発言が、じつはより強力な、反論を封じる力のある「本部の論理」に裏打ちされている、ということに無自覚でいたくない。「本部みたいになってください。事情が違うから同じになれない?だったらそこを出て本部へ来て下さい」ってそりゃあんまりだ。ニューオリンズのゼロメートル地帯へ行って、クローゼットにショットガンが置いてある不機嫌な住民に向かって「こんなところに住んでるからですよ」と言ってみるテストをくぐり抜けた人にだけそういう発言を許す。(←それは違う)

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うへ、これは重いですね。僕自身も思い当たる節が大いにあります(汗)。でも、、、「論理の違い」というのはどこにでも避けがたく存在するわけで、それ自体は別に悪いこと... 続きを読む

コメント

こんばんは、石川さん。
はじめてコメントさせていただきます。
昨日は、拙ブログにコメントありがとうございました。
あれからも、いろいろ考えています。

ところで、こちらのエントリー、昨日いただいたコメ
ントとも、抽象化したレベルでは関連してくる問題で
すよね。「本部の論理」と「前線の論理」の対比はた
いへんよくわかります。特に、「そういう賢しげな物
言いには警戒を要する」、「ラジカルなつもりに見え
る発言が、じつはより強力な、反論を封じる力のある
『本部の論理』に裏打ちされている」という部分、納
得です。

さきほど、「いろいろ考えています」と書いたのは、
そのような「本部の論理」のようなものに、対抗して
いくための、さりげない日常的な実践ってどういうこ
となのかな、ということです。

いや、僕も、今後の試行錯誤というか、まだよくわかんないです。実はこう言いつつ、本部の論理で大鉈を振るう都市計画も好きだったり、GoogleEarthにどうしようもなく惹かれていたりもするし。「虫の目を持った神」は不遜なので、「神の目を実装した虫」になる、というのはどうだろう。。。(←意味不明)
いろいろとやってみます。ひとつよろしくお願いします。

うへ、これは重いですね。僕自身も思い当たる節が大いにあります(汗)。でも、、、「論理の違い」というのはどこにでも避けがたく存在するわけで、それ自体は別に悪いことじゃないし、どっちが良いとか悪いということじゃないと思います。各々に必然性と必要性があると思っています。そこで、「本部の論理」が往々にして「虫の目」に無関心なのは全くをもってそのとおりなんですが、それが常に間違っているかというとそうともいえない。というか「神の目」であればこそ見えてくるものがやはりある(と思いたい)。逆に「虫の目」が常に生きられる世界に注がれているとしても、その眼に常に曇りがないかといえばそうともいえない。問題は、これまで互いの論理の「摺り合わせ」が十分に行われてこなかった、あるいはそれを補完するシステムが未整備だったということなんじゃないでしょうか。論理の違いなんてものは、都市と農村、地域と国家、国家と世界まで広げなくても、石川さんがいうような、それこそ一町内にだってあるわけで、一住民と自治会長さんの立場、見方ってのはやはり違うでしょう。ただ、石川さんがいうように、「本部の論理」(というか広域の論理)というのは、常に権力とか権威と表裏一体なところがあって、行使の仕方を誤るとまずいことになるというのはそのとおりですよね。

Google Earthは神の目としてはきっとちょっと中途半端なんですよ。絶対MITAKA的なものと接続すべき。
宇宙飛行士の高度になると、逆に無数の地域それぞれがとてつもなく愛おしくなったりして、名言を残したり帰ってきて平和主義者や宗教家になってしまったりしますけど、そのレベルの視点にまで持ってってくれればもっと違うんじゃないかと。

でもその視点を得る事でもっと恐ろしい悪魔のようなものになる場合もあるかもしれないけど。

まあ地上に生まれた以上、虫でしょうなあ。堕ちた天使にもなりえない。

自分で下町を水没させたり多摩ニューを撤去したりする案を作ったりしてるくせに(木下先生と一緒に。)、どうして今回、「山奥にみんなが分散して住むというライフスタイルが、日本経済の高コスト体質をますます悪化させている!」なんぞという発言にいきなりムカついたんだろう。とちょっと考え中です。

Google Earthが絶妙に「中途半端」なのは、わかります。その綻びが逆に嬉しかったりするんですけどね。

石川さん、皆さん、こんばんは。スコどのさん(木下先生)がお書きになっている、「これまで互いの論理の『摺り合わせ』が不十分」で、「補完するシステムが未整備だった」という点、つくづく私もそのように思うのです。そして、最後にお書きになっている「常に権力とか権威と表裏一体」という点が、大変気になっているのです。そのばあい、圧倒的な“力”や“資源”の落差のもとで、どのような意味で、「虫の眼」の側にとっての公共性やガバナンスを担保できるのかということなのだろうと思います。「本部の論理」が「虫の眼」に配慮しつつも、意図せざる結果として、「虫の眼」を動員し、いわばエージェント化していくことは、しばしばあることのように思います。でも、とっても難しい問題ですよね~。Google Earth の“綻び”、きっとありますよね。

「現場(もしくは最前線?)」から見ると、「本部」のことも良くわからなくなったりするな。首都圏から見ると、夜の8時を過ぎると晩飯を食う店がなくなってしまうという世界が想像の埒外にあるのと同じく、手を放した鞄が床に落ちないほど混雑する電車に1時間半も乗って通勤する世界は、実感を伴って想像することは困難なのだ。
ま、全国ネットの7時のニュースも、あくまで「首都圏から見た全国の話題」という切り口であることが多いように思えるしね。

これは別に、ヒエラルキーに乗っかっている各ポジション間の問題だけではなく、たとえば「開発か保全・保護か」というような議論でも、往々にして顕在化していると思うな。これをお互い「こっちが正しい」と主張し、相手を論破しようとし始め、解決不能な泥沼に落ち込んでしまうのだ。

多分、想像力の問題なんだろう。
それぞれの立場にそれぞれの視点があることは当然で、これは、どちらが正しいかという問題ではなく、自分の考えと「なぜそう考えたのか」という視点の位置を一般化すること、つまり「何が違うのか」を共有(共感はできなくとも)することによってのみ、問題の解決が可能になるような気がする。相互理解ってのは、そう言うことなんじゃなかろうか。

話の本筋には関係ないけど、4月のカレンダーに描かれた「満開の桜の下の新入生」の絵を、窓の外の吹雪を見ながら不思議に思った小学生のころのことを思い出しました。(ところで、すでに奄美では桜が咲いたそうです。うーん)

しかしまあ、山奥で遭難したわけでもないのに、近代国家のなかで、雪のせいで都市部の人間が100人近くも死んでしまうとは一体どういうことなのだろうか?

>「山奥にみんなが分散して住むというライフスタイルが、日本経済の高コスト体質をますます悪化させている!」なんぞという発言にいきなりムカついたんだろう。
なんかあったの?

こんにちは~。ようやく石川さんのサイトにも訪れやすくなりました。>部屋でのインターネット接続が完了。
うぅ。なんだか私が今後自分の考え方をどう整理しようか?と思っていることに関連した内容ですので、今後の石川さんや皆様のご発言にもkeep my eyes open させていただきますne。

今住んでいる「離島」を地球上の場所のひとつとして、「都会」となんら変わりない、と思っている自分が居ます。
反面、グローバルな視点(といっても私自身が感じる世界観なだけだけれど:みんな平等、とか、肩書きなんかクソクラエとか)が、島で、本当に反感を買わない感覚なのだろうか?
そういう部分をほんの少し、考えてみよう、と思っています。でないと、ズレから誤解が生まれ、暮らしにくくなる可能性もある。
暮らしにくい場所では暮らせないから、周りも自分も気持ちよく過ごせるバランスを見つけなくてはいけないし。。。

TAKE様。奄美では、桜が咲いていますよ。
湯湾方面は、満開の木もありますし、葉桜も見ました。

でもさ・・・石川さんよ。
『「グローバル」論理で地域を測り見るような全域的視点』ってのは、本当にあり得るんだろうか?

keixxx from amami様
日本は本当に広い・・・というか、細長いですね。そちらの春がこちらに来るのは5月の中頃です。

当地は、奇跡的に例年並みの積雪なのですが、その代わり(という訳でもないのでしょうが)、例年以上の寒い冬です。数日おきにマイナス20℃前後まで気温が下がります。
立春を挟んで前後2週間、大寒からのひと月が、冬の本番です。

桜も春も、時間的・空間的に遠い世界の出来事なのです(泣)

>『「グローバル」論理で地域を測り見るような全域的視点』ってのは、本当にあり得るんだろうか?

これは面白い論点なのだが、わきた先生のようにいきなりちゃんとした書き込みができないので、ちょっと時間を頂きます。えへん。

あ、いや、別に・・・ふとそんな事が思い浮かんだだけなので、私も「そんな視点は無い!」などと、大々的に主張することができるとは思ってません。はい。

でも、ま、人間にとっての「視点」ってのは、その立ち位置とは不可分なもので、仮に「神の目」を手にしたとしても、それを通してみる風景は、自前の目を通してしか見ることができないのでは・・・と・・・うん。どうなんだろ?

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