2005年9月12日

"Universal Sex"

電網山賊経由にて。

テキトー@はてな - 『セックスボランティア』

また、もう一つ不十分だと思ったのが、「性的弱者は、何も障害者に限った話ではないだろう」という点です。この本で扱われている障害者のコミュニケーションの困難は、あるいは発語機能、あるいは半身不随、と言った点が理由になっています。これらは現行法で障害者とされる人たちですが、異性とのコミュニケーションの困難というその一点に絞って考えた場合、「不細工(キモメン)」だとか「あがり症」、「口べた」なども十分にその理由となりうるでしょう。これは、モテ・非モテ問題とも重なりますが、「異性との円滑なコミュニケーションが運べず、セックスの機会が失われている」のは、いわゆる「障害者」だけではないわけです。

 「セックスしたければコミュニケーションスキルを磨け!」と言うのは簡単ですが、生まれ持っての顔の優劣、ファッションセンス、身長・体重の多寡、しゃべり上手か否か…と言った点で、強者や弱者が存在するのはあきらかで、それを単に修練の問題に還元するのは、乱暴な議論でしかありません。

 この本では、オランダの事例として、障害者がセックスするために(売春宿に通うため)、一時金が支給されるという例を挙げていましたが、さて、私があげたような性的弱者には、そうした金銭が支払われるべきなのかどうなのでしょうか。

これは悩ましい。
僕は「セックスボランティア」はざっと立ち読みしただけなので、本の内容がちゃんとわかっているとは言いがたいが、車椅子の青年が「障害者もセックスがしたい。どなたかご協力下さい」という広告をネットに掲げ、実際に「協力者」があらわれる、というエピソードが書かれていて、これには考え込んでしまった。

上記の引用先が立てている(というか少なくとも僕が突き当たる)問いは二つあって、ひとつは「障害者とは何か」ということであり、もうひとつは「セックスとは何か」ということである。

「障害者とは何か」というのは、まともに考え始めるとけっこう難しい。
差し当たっては、その社会のなかでの「取り決め」である、と言うことができるだろう。(知力も含めて)身体能力なんて、全員がまったく同じということはあり得ず、グラフは正規分布を描いているはずで、現在「障害者」と見なされている人と、いわゆる「健常者」はグラデーション的につながっている。なんらかの「基準」を設けて、こっから先は健常、こっちは障害、と区分けるのは、社会システム運用上の約束事に過ぎない。相当タフで俊敏なやつしかまともな生活を送れないような社会であれば、現在の日本よりもずっと多くの人が「障害者」に分類されるだろうし、環境とテクノロジーが洗練されて、現在の車椅子のようなツールが、たとえばコンタクトレンズのように、「身につければ日常生活に不便はほぼ感じない」ようなものになれば、障害者ラインはぐっと後退するだろう。

いや、障害者の問題が単にテクノロジーの問題だ、などと言っているわけじゃなくて、要するに「障害者」を規定しているのは相対的な基準でしかない、ということである。と考えれば、「性的弱者は、何も障害者に限った話ではないだろう」という問題意識は、「障害者は障害者に限らない」とも翻訳できる。そうすると、障害は「程度の問題」ということになる。だとすると、「性的弱者」も「程度の問題」ということなんだろうか。これ、「ワーム缶」だよな。

そもそも、セックスって「すべての人が均等に享受できるはずなのに、ある種の人においては、何らかの不本意な理由でその機会を不当に奪われている」ようなものなんだろうか。厚生労働省の「食事摂取基準」みたいに、「人が送るべき健全なセックスライフ」なんて想定しうるものなんだろうか。つまり、セックスにおいて、ある種の人にはその機会が集中し、ある種の人は疎外されている、という事態は「よくないこと」なんでしょーか。

セックスに「ボランティア」とかいう話がからんでくると、なんとも割り切れないような、腑に落ちない気持ちになってしまうのだ。最低限与えられるべき「機会」があるとして、それって何を「数える」んだろうか?だって、セックスって「相手」あっての話だし、「性器的行為」だけ取り出してカウントできるようなもんじゃないだろう。お互いが気に入って、少なくともセックスの相手として認めたときに実現する「事態」なわけだろう。「僕/わたしのことを好きになってくれて、濃密なカラダのおつきあいもしてくれる相手を募集します」になったらそれは単に「彼氏/彼女募集」である。「僕/わたしのことを好きになってくれて、濃密なカラダのおつきあいもしてくれるボランティアを募集します」ってなんか、奇怪な文章じゃないだろうか。

あるいは、「性器的行為」に抽象化された疑似セックスでも、機会の再配分の内容としては「いい」のかなあ。いいのかなあそんなことで?医療行為みたいに、台に寝かされて、白衣にマスクにゴム手袋した「プロのスタッフ」が性欲、というか「セックス欲」を「処理」してくれる、というような行為で?いや、そういうシチュエーションのほうが萌えるやつもいたりして。

お金さえあれば、とりあえずは「一定時間のなかでプロ相手に(疑似)性行為におよぶ」という機会を「買う」ことはできるんだよな。その点では、これはいちおうフェアに、すべての人に開かれてはいる。あとはそれぞれの資金力の問題と、売り手の敷居の問題であって、風俗店が「バリアフリー」でありさえすれば、「セックス不均衡問題」は、お金の再配分の問題のほうに預けてしまうことはできる。大富豪であれば、「相手としての不本意さ」を超えて、異性を「そういう目的」で「確保」できるかもしれないし。

ええと、こんな話のつもりじゃなかったんだけど。
たぶん、セックスの機会がない、という状態を「不当にその権利が奪われている」などと言い始めると、「正当に得ているはずの、望ましい健全なセックス」という「想定」を呼んでしまう、というところが、引っかかるんだと思う。そんなの、聞きたくない。

でも一方で、僕自身が「まともだ」と思い込んでいる「性のありかた」が瓦解する楽しみというのもそれはそれである。正常さを補強してオフィシャルにしようとする言説は警戒しちゃうが、自分が正常だと思っているものや、異常だと感じるものが、どのくらい「単なる思い込み」なのか、ということには興味があるのである。

というわけで(どういうわけだ)、今週の通勤本:

・村山俊勝「(見えない)欲望へ向けて ---クィア批評との対話」人文書院、2005

Amazon買い。ううむ、読み応えある、などとうそぶくのが憚られる。すげー難しい。当分持ち歩きそうだ。

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