2005年8月19日

ランドスケープ・デザインは建築を変えるか?ん?

建築雑誌(建築学会の学会誌)の8月号が「ランドスケープ・デザインは建築を変えるか?」という特集を組んでいて、マーク・トライブ、宮城俊作、大野秀敏、三谷徹、と、半分くらいお馴染みのお名前が並んでいる。

またどういういきさつで、あらためていま、ランドスケープデザインが建築を「変える」のかという議論をしようと思ったんだ建築学会。

などと言いつつ、ばしばしコピー取ってしまった(借り物だったので)。

三谷徹さんの論文「60'sアヴァンギャルド再考 建築とランドスケープの閾(いき)」。
いわく、建築に「ランドスケープ」という言葉が浸透し、頻繁に用いられるようになったのはいいのだが、「さて、屋上緑化という鎧を着込む建築、コンター模型のような建築、饒舌な曲面を多用する建築が次々と現れ、建築家自らもそれを地形としての建築であるとか建築生態などと呼んだりしているのを見ると、なにか釈然としないものを感じているのも事実である」。

三谷さんは、60年代、建築のボキャブラリーを拡大しようとした試みの一端が有機物の比喩へ向かっていたことを引きつつ、今日の、形態が有機的だったり、「動態内施設」的プログラムを前面に押し出した建築が「ランドスケープを装う」のは、問題のすり替えだ、と述べている。

 あらためて、コンクリートが成長することはなく、樹木が高層建築の構造になることがないーーー建築は、建築であってランドスケープではないーーーという素朴な視点に戻れば、建築がオールマイティにランドスケープを包含することはあり得ず、またその逆に、ランドスケープが建築となり得ないことも自明の理である。問われるべきは、むしろ相互の「相似」ではなく「相違」であり、互いの立脚点の再認識ではないだろうか。60年代アヴァンギャルドのドローイングは、一見建築がランドスケープに限りなく近づけることを示しているように見せかけながら、逆に建築が建築でしかあり得ないこと、建築に行き着けない領域をわれわれに突き付けていると読み解くべきではないだろうか。
 中村敏男は『a+u』(No.83)でA.A.スクールを中心とする若手建築家のプロジェクトを編集し、「アンビルト・イングランド」というタイトルのもとにまとめた。そして編集後記でこう述べている。「建設可能と不可能の領域のヘアラインのような境界・・・このふたつの領域の電圧が高まれば高まるほど、緊張が高まれば高まるほどこのヘアラインの意味は重要になるであろう」と。ところが今日設置されつつあるランドスケープ的建築の多くは、緊張を高めるものというよりは調和を求めるものとして語られている。しかるに緊張が解決されたのかというとそうではなさそうであるし、むしろ急速な建築技術の展開が境界の存在と意義を拡散してしまいかねない様子である。彼らの問いを今日翻訳し直すとすれば、アンビルドかビルドかではないであろう。建築自身の問題を外在する問題にすり替えぬように監視すること、言い換えれば建築とランドスケープの間に横たわる、ヘアラインのような境界ーーー閾(いき)ーーーをあらためて発見していく作業なのではなかろうか。

建築の問題は建築でしか解決できないはずで、あるいは建築に建築では解決できない問題があるとしても、それを安易に「ランドスケープ」の「例え」を引いて誤魔化してはいけない、というわけだ。

いやまさに。そうなんですよ。僕もまったく同じ主旨を書こうとした。というか、似たようなことを主題にして、どうして僕はこんな風にストレートにキレイに書けないのであろうか。くそ。しかも、業務の大半が「屋上緑化という鎧」の建設を支援する設計だったりする僕には、いささか耳が痛い。

僕は、建築家はそれほど(一時期ほどには)ランドスケープランドスケープ言っていないようにも思えるけれど、やはり建築は建築で落とし前をつけようとしてほしいと思う。建築の問題に、建築そのものがなんとかして答えようとするところ、三谷さんの言う「閾」に、建築が輪郭を現すんじゃないかと思う。だって、その部分こそが建築をして建築たらしめるところで、建築の面白いところじゃんか。建築ではないものへの志向が建築を免罪するかのように説明されたり、「もはや建築ではない何かになっている」なんて評が誉め言葉になったりしたら、それは思い違いも甚だしい。

少なくとも僕には、たいていの場合、建築家の文章の方が、造園/ラ系のそれよりもずっと面白い。たぶんそれは、あるいは時代状況のためもあってか、建築がいちいち、「そもそもここで、どうして建築じゃないといけないのか」というような、根元的な意味の問いから始める傾向があるからだ。悩める建築家には申し訳ないけれど、その切実さが建築や建築を巡る言説をスリリングにしているんである。

翻って、ラ系の文章が得てしてつまんないのは、あらゆる角度から「善」のカタマリで、その点を保証されていて、わざわざ考えずに済むからだと思う。「閾」はほんとはランドスケープにとっても切実な問題になるはずである。でも、ランドスケープ研究(造園学会の学会誌)で「建築はランドスケープを変えるか」なんて特集は見たことがないし、ラ系唯一のジャーナリズムでは、建築家の設計した庭を造園の専門家が訪問してあれこれ評するという、なんだかズレた記事が連載されている。

ところで、特集の冒頭で、

日本においては、80年代になって、都市における公共空間への意識の高まりとともにランドスケープ・デザインという領域が認識されるようになり、アメリカで教育を受けた多くのランドスケープ・アーキテクトがさまざまな分野で活躍を始めるようになった。それまでとかく外構として、都市の残余、敷地の残余を埋める以上の役割を担っていなかった空地は、こうしてデザインの対象であることが認識されるに至った。また、建築家とランドスケープ・アーキテクトがコラボレーションをすることが当たり前になったのも、この時期以降である。(下線は引用者による)

・・・あのう。こんな「総括」があっさり書いてあるんですが。木下先生。これって「釣り」でしょうか。

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コメント

しかし「アメリカで教育を受けた多くのランドスケープ・アーキテクト」の功績ってのが「外構がデザインの対象であること」を建築界に知らしめたことって括られちゃうのもある意ですごい話ですな、まったく。誰ですかこの「総括」書いたのは?

え、それって建築の問題なの?というものまで建築で解決しようとすると、往々にしてなんかよくわかんないことになりますよね。
なんというか、Tボーンステーキを箸だけで食え、みたいな無茶なことが起きていると、ユーザにとっては不幸だよなあ、と思います。面白いかもしれないけど。

アメリカで教育を受けた人じゃない、といいんですが>スコどの

そうなんですよね。でも一方で、そういう面白いものもなくなってほしくなかったり>元永さん

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