2005年8月 2日

庭というギャップ、庭というニッチ

(メモその2)

家は庭の一部である。庭は家の周辺環境である。つまり家は周辺環境の一部である。住宅の経験はそのどちらにも属している。そう言えるだけ、庭のある住宅の経験は潜在的に豊かである。あとはその豊かさにどうやって、生身の身体を参加させるかである。家と庭の関係性に対して、どのように身体をレイアウトするかである。(塚本由晴「現代住宅研究」INAX出版、2002)
庭が(建築に対して)「豊か」であると感じられるとすれば、その豊かさは、「庭」が、建築が供しきれないものを生成し許容する、というところにあるように思う。

「建築が供しきれないもの」は、住宅の建物から「はみ出してくる」形で、また敷地の外部から「侵入してくる」形で、庭にあらわれる。庭は建物よりも極端に、内部からの進出や外部からの侵入に「表現形として」反応する。

住宅の建物からは様々なものがはみ出してくる。空調の屋外機や電気・ガスの計器類のように、建物の内部の住環境を成立させるために外へ配置せざるを得ない装置(もちろん、住宅のデザインにうまく組み込まれている場合もある)。ゴミ箱や物置など、建築計画の「想定外」のプログラムの結果物。家族の人数分の自転車、バーベキューグリル、幼児の玩具のたぐい。多くの住宅の庭の、けっこうな割合の面積を占めていたりする「カーポート」もまた、自家用車がすでに「住まい」の一部をなしているという現状を考えれば、住宅が「建物的に納められない」はみ出しものだと言える(むろん、『曲り家』のごとく自家用車を建築的に取り入れた住宅もある)。

一方、庭は敷地の外からの「環境圧」に晒される。端的には、雑草が生えてくる。今日、いかに都心の立地でも、あるいは埋め立て地のような「白い土地」に見える場所であっても、土壌にはほぼ例外なしに帰化植物系の雑草の種が混入している。それらが芽吹くと同時に、隣家の庭のナガミヒナゲシやトリが運んできたトウネズミモチが生え始める。元来、相の異なる生態系が接した場合、それらは相互に干渉しながらある均衡へと向かう。原理的には、その庭の「意図された生態系」が周囲に影響を及ぼしうる。しかし、たとえば「新築」の庭の場合は、規模的にも時間的にも、その土地の生態系にとっては単なる「ギャップ(生態的空白)」でしかない。

しかしやがて、はみ出しものは敷地境界(や、それに準じる暗黙のテリトリー)に当たり、ギャップに侵入した植生は庭主の介入が引き起こす生態学的攪乱(一般にガーデニングと呼ばれる行為)を受けて、次第にその庭特有の均衡状態を得てゆく。それはまるで、住宅が庭を介してその土地のニッチに収まってゆく過程のようである。

ところで、住宅建築系の雑誌の写真を拝見したりするに、ことに建築家が設計した住宅の前庭や中庭には、ぽつんと樹木が植えられていることが多い(本当に多い)。

植物の存在は、そこに植物の生存を保証する環境系が存在することを端的に示す。だからそれは、それこそ住宅が建築的に提供しきれないもの:「自然」が据えられてある、と見なすこともできる。ただ、「住宅の中庭」的樹木の特徴は、そのほとんどが、(まるで版で押したみたいに)株立ちの落葉樹であることだ。単木で緑量が多いうえ、細い幹が林立する様子がどこか現代風であって、そうした様子が意匠的に好まれるのでもあるだろう。かつて、しばしば「庭」に植えられた、仕立てたマキやクロマツなどは、ほぼ見られない。

株立ちの落葉樹は、成長しかかった苗木を一旦根元まで切り戻し、萌芽させることによって育成される。もともとは農村の薪炭林、いわゆる「雑木林」において、10年単位の間隔で切り戻された樹木がなしていた樹形であった。和風の庭に植えられた「仕立物」が、100年単位の老木を模していたのに比べると、それがどこまで意識的であるにせよ、「中庭の株立ち」に期待されている時間のスケールの短さもそれはそれで象徴的である。う。字数多すぎ。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://fieldsmith.net/mt/mt-tb.cgi/405