2005年8月22日

ecology inside

(夏休み自由研究企画:僕の体と水道)

アセテート編集者日記

なんでこの話にぎくっとしたかと思うと、人間の皮膚を介した外側のより単純かつ有限なかたちと、その内部にある複雑、怪奇、かつ無限とも思えるオルガンとの対比が、人間が解明できないのひとつの根源的な差異としてあるのではないかと思ってきたからだ。もしかしたらそんなこととっくに誰か言っているな。まあいいや。もっと勉強しよう。

外の世界がきれいになるほど、人を殺したくなる人が増えたり
ひびでぶと音がして、顔がくずれるシーンが子どもに人気があった(僕の時代ね)も
全部そのおおいなギャップに起因しているのではないかと。
でここから空間論をはじめたら、どんなに根源的なのだろうかと。


僕も最近、似たようなことを考える。

きっかけは二つほどあって、ひとつは、子供のオムツを替える際に、毎日のようにウンチを眺めることである。乳幼児のいるご家庭のかたはよく実感されていることだと思うが、ウンチは、自覚体調を言葉にできない乳幼児の健康状態を最も端的にあらわすメディアなのであって、だからほとんどの育児書には大便に1章が割かれてあり、様々な色や形のウンチの写真が、さながらウンチ図鑑のように載っている。

子供が生まれるまでは、日常、こんなに排泄物と鼻つき合わすことはなかった。こういう目に遭ってみると、「入るもの」、つまり食べることと、「出るもの」が一続きなんだということが、手応えとしてよくわかる。そして、同じ「消化器系の行動」でも、「入るもの」の操作、つまり「食べること」がきわめて文化的になされていることに気づく。食事という行為そのものも高度に儀式化されているし、食事に供される「料理」において、ことに動物系の食材は原型を留めないほどに加工されている。

その点、「排泄」はずっとプリミティブでワイルドである。むろん、それは身体の状態を推測する様々な手がかりのひとつの「兆候」に過ぎないが、口へ入って咀嚼される直前までの「入ってくるもの」の洗練性(だから何かの拍子に、一旦飲み下した食物が逆流して口から出たりすると、とてもプリミティブでワイルドな光景を呈する)と比べると、体内を通ってきた「出てくるもの」のむき出しの野生性は凄い。

いつごろから僕らはこれを「忌避」するようになったのだろう。行動を見ている限り、乳幼児の時点ではネガティブな意味でもポジティブな意味でも排泄物にそれほどこだわりがあるようには見えない。僕らはほとんど反射的にこれを汚物視するが、これはどれほど文化的刷り込みなのだろう。排泄物の匂いをして僕らに顔をそむけさせるのは、あるいは「摂取できないもの」を感知するためにデフォルトで実装されている本能なのかもしれない。でも、考えてみれば、納豆だのクサヤだの、僕らは相当やばい匂いのする発酵食品も平気で食っている。

排泄物の状態が身体の状態を端的に表すのは、それが自分の意志の力ではどうにもできないものだからだ。僕らは石鹸で体を磨き、体毛を剃り、毛髪を切りそろえて染め、下着で体型を矯正し、衣服を羽織って、自分自身の身体の制御不可能な部分を覆い隠して、その「表面」を環境に晒している。僕らは人為的なアウトフィットによって、身体を都市に適合させている。あるいは、僕らの人為的な身体のアウトフィットの都合の集積が都市的環境を周囲に作り出している。

ところが、ほんの薄皮一枚の内側で、僕のささやけきアウトフィット構築の試みを無視して「身体のエコロジー」は独自の論理で遷移し、うっかり風呂に入り忘れたりすると、体中から「制御不能物」が分泌され、ナチュラルでエコロジカルなニオイを発し始める。どれほど文化的に洗練されまくった食事を摂っても、数時間後に出てくるのはおぞましくもプリミティブでワイルドな排泄物である。そして僕らはその、どうしようもなく「自然」な、結像した身体のエコロジーを、素早く、文字通り水に流して、「なかったこと」にしてしまう。

もうひとつのきっかけは、去年の暮れ、「東京キャナルプロジェクト」の展示品のひとつとして、上水道と下水道について調べてみたことだった。

西村佳哲による、「水道は川?」フィールドワークの記録:
Route of Water

上水道は、網状に張り巡らされて圧力のかかった水タンクなのである。上水道に「出口」はない。
一方で、下水道はあくまでも「流下」するものだ。どちらかというと下水道が「川」である。

都市地図くらいの縮尺で、上下水道の本管の配置を見比べると、この差が顕著である。
上水道は、配水施設から都市の隅々へ、途切れずにまんべんなく行き渡ることを目的にレイアウトされている。インフラの設計思想としては「道路」に似ている。

上水本管だけで描いた東京都心部

実際、上水本管の配置は都心の道路の配置にほぼ重なっている。

主要道路と重ねたもの

下水道は、土地の傾斜に沿って集めて流すという原理上、地形の「谷間」を描くことになる。

下水道本管だけで描いた東京都心

等高線を重ねて見ると、まさに「川」である。

1m等高線と重ねたもの

同じ「水道」ながら、上水道に比べて下水道は非常に自然に近い、「プリミティブでワイルド」な様態なのだ。これは、わかっていたことだし、予想していたとはいえ、あらためて図にしてみるとちょっとした驚きだった。

上下水道を重ねて見ると、「人体の不思議展」の血管標本みたいである。

(これらの図版協力:川添善行、栗生はるか、小牧正英、斉藤隆夫、斉藤太郎、新川藍。企画のクレジットはTokyo-Canal Project)

上水道も下水道も、それぞれの論理があり、それぞれの事情に対して合理的な建設をした結果、こういう配置になったのではある。しかし、それぞれの論理を成り立たせている、もとの「理由」を辿ると、それは「食事」と「排泄」を区別している僕らのありかた、僕らが操作しようとする身体のありかたに帰着するんじゃないだろうか。

ことに、汚物を流し去る下水道のほうが「自然」に親和している、というところが、なんか象徴的である。この二つの、性格の異なるインフラが接するところ、水道の蛇口からシンクの排水溝までのほんの短い間に介在しているのが、僕らの身体なのである。水を飲んで排泄する。あるいはシャワーを浴びる。僕らの身体をちょこっと通過しただけで、水はそのモードをぜんぜん違うものに変えて出てゆく。これが上水と下水の差を作っている。つまり、僕らの「身体の自然」の扱いが、都市のインフラに拡大投影されているわけだ。


ところで、若林幹夫氏のこんな考察もある(のを見つけた)。

かくして、環境の近代の環境において、社会-環境関係や人間-環境関係は、科学的な予測や技術的な制御、シミュレーションが可能になったにもかかわらず、旧来の社会よりも大きな予測不可能性と不確実性を、その内部に産出してしまうのである。
この予測不可能性と不確実性の中から、現代的な環境のリアリティの二つの極が迫り出してくる。
一方では、あらゆる予測不可能性と不確実性を自らの周囲から消失した後に残る確実性の根拠としての、人々にとってもっとも身近な自己の身体と心理状態が、唯一の確実なリアリティをもつ極小化した環境として現れてくる。「心とからだのエコロジー」とでも呼ぶべき心理学やカウンセリングの興隆は、そうした現実の広がりを指し示している。そして他方では、本論の冒頭に述べたように、あらゆる存在の予測不可能性や不確実性を自らの内に引き込みながら、そのすべてを包含し統合するものとしての「エコロジカルな環境」をめぐる諸観念が召喚される。エコロジカルな環境観の様々な形での普及は、環境の近代の環境が実際に生み出した環境の破壊(=環境に対する予測不可能性と知識の不確実性の暴露)に対応していると同時に、そうした破壊を生み出す環境の近代に孕まれる予測不可能性と不確実性に対する人々の不安と救済への願望に対応している。(若林幹夫『浮上するエコロジー---環境の近代と、その環境』季刊d/sign no.7、2004)

「自然としての身体」への志向が、近代の社会/環境の「わからなさ」に起因する、という指摘は興味深い。生態系や身体の自然性の「わからなさ」は、近代の社会/環境のそれよりも頼りになる、信頼に足る「わからなさ」だと見なされるのかもしれない。「自然の無謬性」(Motoe Lab, MYU: アーキテクトニクスからホーティカルチャーへ)というのはそういうことなのかもしれない。

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コメント

あれからこっそり拝見してます。

これ面白いですね。大感心。身体の循環自体が「自然」なことですものね。

実は先週末に海の波を相手したのですけど、自分の身体の循環が最悪でして(食あたりなのか風邪なのかがまったく分からず、「下痢のちきっと大腸方面キリキリ」のあげく微熱まで出た状態でずっと車の運転やら設置やら)。。自然とアジャストするときくらい自分の身体も調律しておけないなんてイカンなぁ。と、思ってしまいました。

あ、「からだのひみつ」って本(田口ランディ+寺門琢巳/著)、ご存知ですか? 面白いですよ。時間有るときにでもご一読を。

僕はなんか、下痢のときは辛いけど、出し切ったあとは普段よりもすっきりしたような気持ちになります。たまに下痢したほうがお腹の中がキレイになるんじゃないか、なんて思ったり。って何の話なんだ。「からだのひみつ」アマゾりました。

こんにちは、最近ワークショップをしていて無我夢中だったので、引用していただいたことに気がつきませんでした。ありがとうございます。
しかしいつもながら、提言をグラフィカルに提示してしまうところのお手並み関心であります。
今回の当方のワークショップ(東京の四谷で今結果を公開しています)でも、実は家の「肛門」が話題になりました。まあ普通はそれを下水道が担当しているわけですが、そういうすぐに流れ去るものがなければ人は自分の中にあった理解不能なもの(なんであんなに臭いのか!)ともう少しお付き合いできると思うんですね。というかそう思ったワークショップ参加者の女性がいたわけです。
彼女は家の最後のどん詰まりに正座するヘヤを作って、ちょうど正座をすると肛門がホースにあたって、気が開放される自然換気扇を作っていました。あ、ネタばらしちゃった。
今後ともよろしく。

うわそれ見たいです。>家の肛門。

僕は高校の時、自分たちで汲み取りをし、それを下肥にして畑に撒く、という生活を送っていたんですが、あれやってると、身体への出入力が、少し大きなスケールで「ぐるぐる回ってる」というのは実感できますね。

いい話ですねー。視界がひろがります。

僕がもともと専門としている(もうかなり離れてますけど)商環境設計なんかだと、動線計画を流体力学的に解釈して、特にショッピングセンターの共用通路なんかは良くプランニングしてました。それでいくと通路幅多め&斜め多様になり、リーシングが大変なんですけど。。

風水の方位と身体の部位の関係が語られることもありますが、北の窓に耳(そしてサッシュの埃は耳アカ)。とか言いながら設計したら面白いかもしれません。

福笑い設計術とか、よじれ変腸通路とか(冗談です)。

「おめえの設計は福笑いなんだよ」
「それをいっちゃあおしめえよ」

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