2005年7月31日

「見えるものの先に、見えないものを見ようとする思い」に報いるということ。

(締め切り直前の原稿のためのメモ)。

哲学者・菅原潤氏が、「風景の哲学」(ナカニシヤ出版、2002)におさめられた「風景/風景化と倫理」という論考のなかで、加藤典洋氏の風景論を引用しつつ「風景化」という概念について述べている。

「わたし達は、さまざまなものを眼前に、そのうちの一つの対象を注目している限り、「風景」を見ているという意識を生じないのだった。一つ一つの対象へのデガージュマン[身の引き離し(菅原氏の注)]があって、そのデガージュマンがそのままアンガージュマンを形成するような場所に「風景」は生まれる。しかし「風景」は、いったん生まれると、今度はそれ自身が注目されるもの、見ることの対象になる。もしこの後者を「風景」と呼ぶなら(そして事実わたし達が日常「風景」と呼んでいるのはこちらのほうだ)、この対象としての「風景」の成立のうちに、・・・・「風景」は消えるのである。風景論の混乱が、この相反する二つのものを同じ「風景」の名で呼ぶことからきていることははっきりしている」(論文中より孫引き)

「風景化」が「デガージュマン」を通して生まれる、ということころが示唆的である(ていうか「デガージュマン」ってなんか凄い響きだ。『風景戦士デガージュマン!』)。「風景化」とは、「既知のものを未知のものにする」ことであり、それは「見る側の能動的なはたらき」によってなされる、というのである。

たしかにこれは、風景(ランドスケープ)をめぐる議論に補助線を引いてくれる。あらためてこれを「風景」と呼ぶことにすれば、これと区別される「それ自身が注目されるもの」としての「風景」を、たとえば「景観」と呼んでもいいだろう。今日、多くの「景観」の議論はほとんど、「目前に広がる風景のみを」対象として、それをいかに「われわれにとって快い知覚経験をする場」とするか、が問題にされている。むろん、美しい「景観」の探求と建設が無益だとは思わないが、現実にその「美しさ」を実現しようとするとき、その過程が安易な地域主義や教条主義に短絡する危険を孕んでいることは、しばしば指摘されている。一方で「風景化のロジック」は(風景の『美しさ』ではなく、風景化の契機を共有することによって)「一定の風景に拘束されない新たな共同を呼びかける倫理を提起している」。それを、「原風景を確定しそこから導出される伝統的な生活の様式を押しつける風景の倫理に対して「風景化」の倫理と呼ぶことができよう」と菅原氏はいう。

この「風景化のロジック」とまったく同じことを、風景を「デザイン」する、という立場から宮城さんが述べている。

「ランドスケープというのは、われわれを取りまく環境のある状態・状況を指しているものであって、その状況のもとにおいてデザインという行為が表象するものと、表象が指向する対象の間にわれわれの感覚、多くの場合は視覚つまりビジュアルなものだと思いますが、それを媒介としたコミュニケーションが成立している」

というのが(ご本人によれば暫定的な)定義であった。これは1998年の新建築の巻頭論文にも使われているし、『ランドスケープデザインの視座』のあとがきにも出てくるが、初出はTNプルーブ「再発見される風景」である(いや、「そこで宮城さんですか」というツッコミは無用である。黙れ)。この時期、宮城さんは三谷徹さんや佐々木葉二さんらと共同したりしつつ、こういう基礎理論の整備みたいな仕事をよくされていた。「視座」本はわりと注意深く一般的な記述に直されているが、TNプルーブのレクチャー録はその点ナマというか、説明がけっこうベタなところがあって、むしろわかりやすい。

ポイントは、ここでいう「デザイン」が、「風景」をあくまで「志向」する対象と見なす(いま気が付いたが、初出で「指向」だった箇所が、「視座」では「志向」に直されている)というところである。上記の用語を借りるなら、そこに意味のあるつながりを見出す観察者による「風景化」の「契機」の生成を試みる。つまり、ランドスケープデザインが「デザイン」しうるのは「風景」それ自体ではない、というわけだ。

これは、「定義」というよりも、「態度」の表明みたいなものである。というか、これを、あるプロフェッション特有の方法論ではなく、一種の世界観だと見ることが、じつは重要なんじゃないか、という気がするのだ。

「ランドスケープ」は、デザイン「できない」ものが「ある」ということを前提にする。「ランドスケープ的アプローチ」をとるなら、何よりもまずはそこに「デザインできないもの」の存在を認めるところから始める。そして、それを「デザインできるもの」に置き換えたり、覆ったりするのではなく、そういう「デザインできないもの」「コントロール不能なもの」を示唆することを目論む。

けだし、どのような場所であれ、いかに人為的に制御されたように見えるものであれ、その背後に「制御不能なもの」があってそれを支え、成り立たせているのだ、というのが「ランドスケープ的世界観」なのである。ランドスケープにはしばしば「自然」が引き合いに出されるが、それはたぶん、「自然」が「制御不能」の代表選手だからである。あるいは、ランドスケープはしばしば、「敷地」に対する「地形」、「空調」に対する「気候」、「植栽」に対する「植生」や「生態系」、「外観」に対する「景観」、というような、「より大きなスケール」との関係性で語られるが、それは物理的・相対的な規模の問題では必ずしもなく、それらがより「コントロール不能」だからである。

また、制御不能なものを認めることは、対象を制御することを破棄するものでもない。むしろ、制御しうる範囲を明確にし、そのスコープの範囲において「制御」や「デザイン」の落とし前をつけることを促すものだ。

解決不能なもの、複雑で記述が困難であるものを、単純化し、矮小化して図式にしてしまうことなく、「そのまま」で対峙すること。ランドスケープ的であるということは、そういう態度のことである。それは(いささか陳腐に響くことを覚悟の上で言うなら)(というかすでに全体が充分陳腐な気もするが)「より大きな秩序系」への畏敬の念とでも言うべきものだ。

「ランドスケープ」をこのように考えれば、これは既存の職種や産業や職能の枠を超えて敷衍される、あるいはすでに共有されつつある「思考」だと言えないだろうか。

中谷礼人氏らによる「先行デザイン」の試みなど、まさにランドスケープ的であるし、LivingWorld/西村佳哲の活動や、それこそ田中浩也氏の「ネイチャーセンスウェア」なんてまさしくランドスケープ的である(造園の人にそんな評価をされることを、ご当人がどう思われるかはともかく)。そういえば、先日の講評会では、いくつかの「センスウェア」のターゲットが、「わたしの気持ち」や「わたしの身体」に向けられていたことが印象的だった。たしかに、「制御不能」は「より外側」だけにあるのではない。「わたし」は灯台もと暗し的に、もっとも身近にある「制御不能な自然」であり「未知なるもの」である。

そんなわけで、時として、建築の論評において、従来の建築のイメージを逸脱したスケールや形態のものを、それをもって「建築と言うよりもランドスケープだ」なんていう物言いを見つけたとき、僕はいつも違和感をおぼえる(というかむかつく)のだ。

いや、こんな結語になるつもりじゃなかったんだが。

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コメント

こんにちは。僕は石川さんの硬派な文章のが好きですね。
「都市」っていう言葉はどうおもいます。「建築」が定義しようのない外部と思えば、ランドスケープ・風景ににてくるし、あるいは
「都市」をあつかおうとしている人がよっぽどの■■(一文字濁点含む)か、本当にすごいことをやろうとしている人のどちらかだということがわかる。
そういう意味で「身体」という言葉もにた位置づけを持っていますね。1年ぐらい前から急速に体の中に興味を持ち始めて(性愛も含む)、なんでだろうと思っていたのですが、ようは身体というものが
社会人としての私にとって、それに相反するようなことをするところが都市に似ていたのですね。そういう意味で、先端的には風景・都市・身体というのは実は同じ領域なのではないだろうか?
などとomolo.comの山内さんに教えてもらった楳図かずおのマンガ『錆びたハサミ』を眺めつつ、思うのであった。もちろん田中純氏の影響も強いけれど。

続いて書きこみます。
「平和 peace」という言葉も同じですね。それは実は人間世界のポリティカルな状況を超えて(最近の政治屋の国際貢献とかそういう「平和」主義がこれにあたる)、それは、ある平衡状態(私たちにすべてを関知することのできない)が存在していることを、ことによっては指し示す言葉だから。King Crimsonの『ポセイドンのめざめ』の一曲 "peace-an end"というのは、「平和」についての定義としてはうまいところを付いていると思います。

http://www.sing365.com/music/lyric.nsf/PEACE-AN-END-lyrics-King-Crimson/C85297172A6A20DA48256A870014C861

なるほど。「風景・都市・身体」って、同じ領域というか、方角はともかく同じ距離にいるのかもしれないですね。

「自然」みたいなもんかなあ。でも都市と自然、って、考え始めるとどっちがどっちの比喩なんだかわかんなくなります。田中純先生の「自然の無関心」も、デガージュマンなんだよな。あれは。

考えてみたら、図面の縮尺を上げるのも、「プチ・デガージュマン」効果なんだろうなあ。
情報量を、それまで眺めていたレベルでは処理できないくらいに急激に増大させることで、解像度を落として、いままでとは異なるレベルでのパターンへと目を向けざるを得なくさせる、というような。だからたとえば敷地を支えてる地形の文脈を発見する瞬間は「風景化」なんだろうなあ。

たしかに、「平和」も「風景」に似てますね。「兆候」というか、「逆エンジニアリング」が困難で、背後の見えないものを推し量る、という点では、「自由」なんかもそうかも。

そうすると、非・都市的な文脈での「都市の兆候」って何だろうなあ。。。
(山登りをしていていきなり携帯が鳴る、みたいなことだったりして)

しかしクリムゾンはまたツボを突いてます。
都市のフォーラムの冒頭にいきなりサボナローラ、みたいな感じ。
中谷さん流のこういう「度肝抜き作戦」を今後「スサノオ方式」と呼ぶことにします。

先日はお世話になりました。

「風景の哲学」、いま丁度読んでいました。
風景、風土。論じていくほど難解になるのはどうしてなんでしょうね。

その後、ラブザライフ勝野大先生から「面識有るのよ」って伺いました。(いまともにおんなじ学校で教えておりまして)
世の中狭いっすね。またお会いしましょう。

おお、これは旅芸人、じゃなくて久原さん先日はお疲れ様でした。

しかしまたどうして、「風景の哲学」なんて読んでるんですか。。。なんか、ただ事じゃないシンクロを感じるな。

またそれでしかも、カツノヤのおかみさん、じゃなかった勝野さんとお知り合いだったとは。けっきょく久野さんとも2クリックだったんだ。狭すぎる。

久野さんもぜひ、湘南台膳試食会にお越し下さい。胃薬持参で。

なのになんでみんなコンピュータがエラーを起こすと激怒するのですか。
コンピュータだけは特別に制御可能なものなのですか。無理です。

『・・・従って、コンピュータに対するランドスケープ的アプローチがあり得るとすれば、そこに制御不能なものを見いだし、それによって逆に制御可能なものの輪郭を明らかにし、あくまでもメモリーとプロセッサとグラフィックカードの能力の範囲内で処理をなす、そのようなストイックなコンピューティングになるだろう。装置の不完全さが私たちをして逆説的にコンピュータの先にあってそれを支えているネットワークの存在を風景たらしめるのである。より便利で安全で安定した、というふれこみの新しいOSをインストールするためにハードウェアを新しく買い替えるという倒錯に、私が違和感を禁じ得ないのはそのためだ』

ものすげ〜刺激受けましたぜ。おかげでtrackbackしたんだけと、どうもうまくつながらないようなので、こちらのコメントで「マニュアル」式に繋げときます。
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=102421#trackback
ヒマあったら読んでね〜。

どきっ。このシンクロぶり。

「バグ」「グリッチ」「ノイズ」といったコンピュータに内在する「制御不能性=自然性」のことを、研究会では何度か講義していたのでした。もちろん、音楽分野にその先端的な意識が現れているのは知ったうえです。

そのうえで、僕は「栽培性」というキーワードで、電子工作と生態系を結ぼうという無謀なチャレンジを試みているのでした。

ほほー。

「栽培性」の話は聞きたいですなあ。

佐藤師匠の顔がちょっと浮かびます。栽培。

なんだね~俺の顔を0もidaして ありがとサンスね
栽培の初心者は男・女性を栽培せよ{彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも」大爆笑
ついでに野菜ですが いきなり野菜はいけませんね~
とにかく難し杉です・・なんでか わかりませんね~コレから
一年かけて解明したいので、ご協力願います
と勝手な事を書いてみたりする

「実世界コンピューティング」(そんな言葉が情報分野で言われています)の面白さは、ユビキタスとかいうように、コンピュータが実世界や都市に進出したりすることではなくて、コンピュータが実世界のノイズやエラーや環境のダイナミックな変化に「さらされる」ことが面白いと思っているわけです。

風圧センサで風を記録して「おー」とか思っていたら、雨の日に水で壊れて故障して、次にはシリコンで風圧センサを固めて防水して再度チャレンジ、とか。

ロボットやってる人もきっとそんな感じだと思います。
2足歩行ロボットが、水溜りにはまってコケた、とか。

こうやって日々メンテナンスしながら、環境とつきあっていく感じは、「栽培」に近いと思ってます。

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