2005年6月 9日

枯れない花、刈れない芝。

明治から続く「造花店」の経営者の方から、僕のサイトの造花に関するページについて、丁寧なメールを頂いた。

ひとつは、「ホンコンフラワー」という言葉についてで、これが正しくは『香港フラワーは、昭和37年頃から昭和48頃まで輸入された、ポリエチレン素材のちゃちな40センチ位の造花で装飾使用品ではない』、つまり、造花を指す一般名詞としてこの言葉を使うと誤解を広げるのでやめてほしい、というご指摘。

上記については、実は認識していたのだが、自分のサイトを探したらうっかり使っていた箇所を2つほど見つけた。これは「造花」に訂正し、その旨お返事した。

もうひとつは、造花を作る側として、あまり造花を「笑いモノ」にして欲しくない、という趣旨のメッセージ。

これは心外である。僕は造花の味方だ(まあ確かに、いささか皮肉っぽく語ってはいるが、それは僕の癖、というか、抜きがたい「芸風」なので、その点は簡単には変えられない)。

そこで、僕は決して造花をバカにしているわけではないこと、「建築あそび」の記録などでは造花をネタに笑いを取っているが、少し注意して読んで頂ければ、造花そのものを貶めているわけでは全くなく、むしろ下手な植栽などよりもずっと親近感を憶えるものとして紹介していること、聴衆の皆さんは造花に対してよりも、むしろ僕の偏執狂ぶりに半ば呆れ、面白がっている、という構造になっていること、さらに、造花自体よりも、造花が用いられる場面の、大げさに言えば人類学的背景に興味が向いていること、などをお返事差し上げた。

ただ、ちょっと気になったのは、そのメールに、造花は高度な工芸品であり、葬儀の花輪ふぜいと一緒にするな、というようなニュアンスがあったことだ。

ある種の造花がきわめて精巧にできていたり、場合によっては造形作品の素材として申し分ないほどの品質であるということは、わかる。でももし、造花業界的に、花輪や、商店街しだれ飾りが「ちゃち」なもので、精巧で本物に近いものが「えらい」というような価値観があるとすると(そういう心情は理解できないわけじゃないが)、それは悲しい。

だって、こう言っちゃなんだけど、造花は「造花」である。本物に近いことに造花の価値を置いてしまうと、それが精巧に、本物に近いほど、その「本物じゃなさ(偽物性)」が際立つという逆説的な存在になってしまう。何かの「代替品」であるとはそういうことである。というか、仮に造花が「造花にしかありえないような独自性」をその価値にしようとするなら、本物に近い精巧さをもって「良い」としてはいけない。それは結局、自らを代替品に貶めると思う。「葬儀屋の花輪」や「商店街のサクラ」の凄みは、これらはそうした「何かのふり」への意志が既に欠落していて、もはや「模造フリー」である(のに、あくまで植物としての最低限の記号性を帯びている)、というところなのだ。

でも、あらためて考えると、僕の造花への興味は、その参照先(オリジナルの植物)の何を「似せるための特徴」として抽出し翻訳しているか、というところなのだった。だとすると、造花業界的価値体系は置いておいて、精巧さとリアルさを追求する造花のモデルアップの過程を観察するのも面白いかもしれない。メールを下さった方は、造花の生まれる「動機」が、「きれいなものを手元に長く留めておきたいという思い」なんじゃないか、とおっしゃっていて、なるほど、そういう「ドライフラワー的造花」という範疇もたしかに、ありうる。

ところで、造園では、材料としての「植物」が「造花化」の圧力に晒される、という、逆の現象が起きている。維持管理の手間が軽く、常に瑞々しく緑色で、落葉したりせず、あまり成長もせず、過酷な環境に耐え、安価で、初期完成度が高く(つまり、植えた時から『理想的な樹形』であること)、大量生産品的に形状が安定して揃っていること、こうした植物材料への「要求」は、まるで造花のスペックである。で、花壇にはサフィニアが咲き、街路樹にハナミズキが並ぶ一方で、ホテルのロビーには近くで眺めても判別できないようなリアルなアレカヤシの「剥製」が飾られる、という。

「人工芝」が初めて登場したのはアメリカの競技場だが、これには、一般家庭へのカラーテレビの普及が大きく関与したそうだ。視聴者が天然色でフットボール観戦をするようになり、茶色い芝では絵にならないので、塗料を撒いて枯れた芝を緑に染色したり、いろいろと工夫を重ねた末に、ナイロン製の「芝」が開発された。これなんかまさに「造花化圧」の側から生まれた造花である。人工芝を「造花」とはあまり呼ばないけれど、あれは造花だぞ。

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コメント

造花は葬式花が一番!2番はパチンコ屋花・・と思う人間ですがい相手の許可を得てメールを公開して欲しい~・・
(できることなら記録に追加しておきたい~!・面倒ですね・・)

植物が花をモツ期間は圧倒的に短いのに 商売上の都合で愛でる商人根性 おぉ素晴らしいナイスです。それらは 
造花屋 傾向なんでしょうか・・葉だけも綺麗ですよ植物どもは・・ね~ 造花に「原生花や現在生花や潜在自然生花」が駆逐されやがて造花に占領されたァ墓場の様な公園に 造園に~いいすね さすが人間。

記録チェックしました香港になってました。安心
今月より 宮脇さんが公共放送でワイワはじめまので
記録の「造園」頁チョイト手入れしませんか・・・

石川さんの講義に参加した者ですが、石川さんの造花に関するお話は真摯でした。
あんなに造花を肯定し、世間への貢献(愛おしさ?)を語るプレゼンはなかった。伝わるといいなあ、明治から続く「造花店」の経営者の方にも。

ところで、私は生花のような造花こそ、触ってみて「おー偽物だ」と偽物よばわりしてしまいますが、これは、工芸品に対し失礼だったのかな? おおーやられた~みたいな驚嘆はどうだったんでしょう?勝ち負けではないっか。smile!
生花、簡単な造りの造花、精巧な造花、おそらくニーズが違うのだから、「造花」種差別は確かに残念デス。実際、安価にみえる造花にも人(私)は癒されているし。
そーいえば、プラネタリウムの星を偽物よばわりしたことないかも。 造花は「(造花の)本物」ってことなのかー? ぬいぐるみも、偽物と呼ばないもんなー。

う。頑張ります>師匠


>keiさん:
たしかに、精巧な模倣系には、「やられた!」っていう鑑賞の仕方がありますね。
僕もむろん、商店街フラワーのほうが「エラい」と思うわけじゃなく、それぞれの「違い」と「共通点」に面白さがある、と言いたいのでした。

たぶん、「共通点」の先には、「人はなぜ花を愛でるのか」っていう問いがあるんだと。

「違い」については、抽象化・記号化の「再構成」の過程に、目指す表現の差が出るんじゃないか、という解説を、「電網山賊」日記が書いてくださっていますです。↓
http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050610

なお、造花店のかたからはそのあと、また丁寧なお返事を頂きました。僕のエールが励みになってるとよいなあ。頑張れ造花。

今朝起きてふとよぎったんですが、剥製がぬいぐるみに「君、偽物みたいだな~」って言ったら「目くそ鼻くそを笑う」みたいになり、しかし、生きてる物・者が、生きてないものを「クソがどーの」と表現するのは傲慢?と思いました。ポジショニングが違う。その中のカテゴリーも多々ありそう。ぬいぐるみが剥製に「君、本物みたいやな~」と揶揄する世界もあるのか?視点の差か。深くて興味深いです。がんばれ、造花。私もがんばる!

なんかこう、ニセモノの存在論めいてきたぞ。

送信してから私もそう気づき、フラストレーションが。。。
笑。テレパシー飛べ飛べ!

須田悦弘さんの作品が、もう超絶にそっくりで、そのこと自体に感動すらしてしまい、あまりのことに笑ってしまいつつも、それはやっぱりちょっと「えらい」と思ってしまうのです。

うーむ、確かにあれは偉い。というかまさに「ねらいの違い」なんだろうなあ。
「アート」からは逃げ回っているので、これ以上はツッコミを遠慮させて頂きます。そそくさ。

でも、あと、「マン盆栽」をどう考えるかっていう問題もあるな。。。

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