2005年5月13日

建て売り住宅の憂鬱

日曜日、ピクニックのあと。
玉川上水のほとりへ、新築成った友人のお宅にお邪魔した。

友人が自ら設計したその家は、特に奇をてらったようなところもない、スッキリと大人しい一戸建てであって、それ自体にも好感が持てたのだが、なにしろ上水の緑道に接した立地が抜群だった。

南面、2階の大窓からは、ちょうど目の高さにケヤキとエノキとヤマザクラの樹冠が重なり、見下げるとアオキやヤブツバキやアズマネザサの藪越しに用水が流れている。友人が冗談で、用水端の樹木の隙間に好きな木を勝手に植えちゃおうかなどと言ってるのを聞いて、「テリトリアル・ガーデン」を思い出した。「参加」を促すには、せめてそれなりに誘うような水準でなければダメで、途方に暮れるような風景に囲まれていても「皮肉屋」を生むばっかりなんじゃないかと。

新居のお披露目を兼ねて、妻が庭のデザインの相談を承るという企画だったのだが、先月も同様なイベントがあって、別な知り合いの新居の建つ二子玉川へ行ってきた。いずれも僕らとまったく同世代の、子供のいる核家族だった。

借金を厭わず、場所にこだわらなければ、ウチもまあ「持ち家」は不可能ではない、かもしれない、などと思いつつ、新聞に挟まっている不動産広告チラシを眺めるに、調布近郊なら、ものによっては都心の狭いマンションよりも安いような値段で土地付きの一戸建てが手に入る、ようなのだけど、チラシに掲載されている、そういう「お手ごろ建て売り」の広告に描かれている「外観」には、いつも(全部とは言わないがほとんど)げんなりする。

下手に色気づいてるもののほうが神経に触る。最近は、外壁に割り肌やコバ積み風の擬石タイルをごてごてと貼りつける手法が普及したみたいで、そういう、ボリュームはどう見ても片屋根の細い木造なのに1階部分に基壇みたいに自然石ふうタイルが回って、上部は土色っぽい吹き付けに出窓がくっついてるような、ビクトリアンとスパニッシュコロニアルの継ぎ接ぎみたいな面妖な「意匠」が蔓延している。おおむね外構は木製トレリス入りのイギリス・コテージガーデン風である。なんかこう、作る側の(どこまで意識しているかはともかく)買い手を嘗めたような適当さを感じてしまう。

ここ数年、調布あたり(向山くんによると多摩川を越えた稲田堤あたりのほうが凄いらしいが)の、建て売りミニ開発による風景の変化はすさまじい。僕の住む深大寺の北の方ですら、鉄道の駅からもっとも遠い不便な地区なのに、農地が潰されて、建ってもせいぜい3軒くらいだろう敷地に私道がつっこまれて魔法のように6軒建ってしまった、みたいな小住宅地が、おぞましい意匠を纏って蔓延りつつある。もしかしたら、いまはちょうど農地解放プチ地主の第一世代が亡くなる時期だったりし、土地の相続が大量発生しているのかも知れない。

切実なのは、こういう、「批評フリー」というか、いわば建築の埒外にされている建物、少なくとも建築家が「建築」とは呼ばないだろう建物のほうが、量としては圧倒的で、ほとんど街の主成分になっていることなのだ。まるで道路か何かのように風景の地をなしていて、道路のように無視されている。それをわが町の風景として享受してるのは他ならぬ僕らである。いや、建物だけのせいじゃないとか言うのはやめてほしいな(あと、ついでに、設備ヤードを何とかうまく植栽で隠してね、というのもそろそろやめてほしいな。『建築がデザインしきれなかった部分の目隠し植栽については建築工事範囲』って特記仕様書に書いたろーか。って関係ないけど)。

誰か、この「埒外」を埒の中へ入れてくれないだろうか。本来の意味で「デザイン」が必要とされていて、しかも効果が大きいという、結構なフィールドだと思うんだけどな。毎年、才能もセンスもある、建築のトレーニングを積んで卒業してゆく結構な数の建築学科の学生さんたちは、どこへいっちゃうんだろう。

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