パブリックスペースとしての、どうせろくな花壇じゃないんだろうが。
スケッチ・オブ・ザ・デイ:「パブリックガーデン、プライベートランドスケープ」に寄せて
ところで、公園だけが「公共空間」ぢゃない。オフィスビルや集合住宅のいわゆる「外構」は立派な公共空間だ。ホテルの庭園だって超(ちょー)公共空間だ。そして、これこそが「にわ」の系譜と言えるだろう。この点を見落としてきた、というか「所詮、民間の仕事だ」とかぬかして無視してきたことは、ランドスケープの近代史にとって大きな損失であったと思う。日本の公共空間は「にわ」の系譜において今一度見直すべきであると考えている。都営スタイルやパーソナルスケープの議論も、その意味で面白いのだ。
いやまったくそうなのだ。これは、今度木下さんらと着手したプロジェクトのひとつの目玉になりそうな題材なんだけど。
しかし、こうした、制度や管理や産業の論理による「区分け」を自明のもののように見てしまう硬直をすり抜けて(というか無視して)、そこにあるオープンスペースの質自体へ切り込んでゆくツールとして、「ピクニック」とか「キャナル」ってのはいい着眼だなあ。とつくづく思うのだった。
TWISTED COLUMN:名古屋がすごいことになっている。その1
ところで、白川公園にはダンボールハウスの村があったのですが、万博のために、すべて消えており、その代わりに花や緑を植えていた。外来種もあるようで、日本のホームレスを追いだすために、外来種の植物が使われるとはなんとも皮肉なランドスケープ。
ありそうな、やな話だ。
「外来種」についていえば、たぶん植栽のほとんどは外来種だろう。いや、よほど計画者に妙なこだわりがあって、「在来種」による緑化を行ったんだとしても、都市部で、緑化に用いられる植物が外来種であるかどうかは、もはやあまり意味をなさない(仮に、その場所に何も植栽せずに「裸地」として放っておいたとしても、生えてくるのはほぼ間違いなく外来種の雑草である)。
心に留めておくべきは、そこに「美観」を供する「花壇」が設えられたというところである。かつて、代々木公園の「リトル・テヘラン」が排除されたときも、まったく同じ手法が用いられた。造園が非常にしばしば、こうした行いを「政治的に正しいもの」にし、抵抗や反論を封じるために召還され用いられるということを、ラ系はよーく自覚しておく必要がある。よーく。


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