2004年10月20日

電波なわたし。

おお。地図NIGHTに参加された谷口さんの日記を発見。
http://www.asahi-net.or.jp/~iw8n-tngc/dialy/

谷口さんが持ってこられたニューヨークの、角度を変えると地下鉄路線図が浮かぶ「レンチキュラーマップ」は面白かった。現代の都市の地表は、構造物が立体的に錯綜していて、平面に印刷した「地図」に表現することが困難になっている。でも、工夫次第で「平面への意外な照射のしかた」はまだまだありそうで、楽しみだ。

> GPSの数値を基準に移動してみると普段行かないようなところに行けるというのがぐっと来るそうだ。
> ある意味、衛星からの電波に動かされているとも言えるんじゃないかな。

ううむ。「ある意味」って「どの意味」だろう。谷口さんがどういうニュアンスでおっしゃってるかにもよるが、もし、(僕も含めてGPSで遊んでる連中が)自分が関与できないスケールのテクノロジーに踊らされている、というような意味だとすると、それは違うよな。僕の説明が下手だったんだなきっと。

別に、GPSでなくてもいいのである。GPSは、現在、たまたま使えるツールであるに過ぎない。所詮はアメリカの軍事技術の民間へのおこぼれの解放であって、何かの拍子に、やっぱりやめます、と言われて電波が消えちゃったりしても文句は言えないし、システムや機器の精度や規格が変われば地上の位置も数字も変わる。GPSが表示する「数値」や、衛星から降ってくる「電波」に、何か意味がある、なんてことを思って使ってる人など、誰もいない。そもそも緯度経度が恣意的な取り決めであることくらい、誰だってわきまえていると思う。要は、それに乗って何を見るか、ということなのだ。

GPSなど持っていなくても、僕らはいつも「動かされている」。地上を移動するとき、僕らは常に(自覚しているかどうかにかかわらず)大きく制約を受けている。自由に歩いているようなつもりで、実は僕らが足を踏み入れることができる場所というのは、社会制度的・物理的に、非常に限られている。歩ける面「以外」を塗りつぶしたら、隙間のようなわずかな「模様」を残して、ほとんど真っ黒な地図になるだろう。車に乗れば、「車道ー車両系」の制度・ルールと物体的な特性の制約の中でしか移動できないし、電車や飛行機だとその「決められたコース」はもっと極端に動かなくなる。道路地図や路線図というのは、「この交通手段ではこの範囲しか行けません」というルールの分布図みたいなものである。

でも、逆に、そういう「ルール」の補助線から見えてくるものがあるわけだ。道路の成り立ちからは、移動や居住や生産をめぐるその土地の歴史が浮かんでくるし、道路や橋梁の物体的特性からは、地形や土地の所有区分や行政の論理と、車両の性能との「拮抗」が見えてくる。その「拮抗」は、土地の意外な潜在性をあぶり出していると同時に、道路そのものの潜在性もあぶり出していて、たとえばそこに道路の「デザイン」の余地が見えたりするんじゃないだろうか。(引き合いに出すのもアレだが、宮本さんの「環境ノイズエレメント」とか、吉村さんの「超法規的建築」とか、TPCの「ブラウンフィールド・ピクニック」とかも、そういう着眼なんじゃないかと思う)

いや、なにも、何もかもをデザインの対象として眺めるということではないんだけれど。というか、こういうことをくどくどと説明したくなるのが僕の野暮なところだな。つまり、つい自明のことのように見てしまう「土地を覆う錯綜した事情群」を、いったんリセットして眺めてみることを可能にする、お手軽な補助器具として、ハンディGPSもなかなか優れものだと僕は思いますよ、ということです。
(それと、巨匠と呼ばれる、というのはやめてくださいね。まじで)

でも「記憶地図」は面白そうだなあ。自分が「知ってる」と思っているところの「記憶」と、他人の「記憶」とを重ねてみたいなあ。こういうの、考えはじめると止まらなくなっちゃうな。

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