2004年8月28日

東京キャナル、東京ピクニック

金曜日は東京キャナルプロジェクトのシンポジウムに行った。それにしても、メニューとスケジュール満載のワークショップである。作業中の学生さんたちは大変だろうが、いい経験になると思う。僕が学生のときに体験したかった。こういうの。

ワークショップ参加者に造園学科の学生が「ゼロ」であることにはがっかりしていたのだが、今回のシンポの会場ではオタベはじめ何人かラ系を見かけた。ゼロスタジオ松川さんにも会った。松川さんは今回、Tokyo-Canalのウェブサイトを作られた。要するにみんなぐるっとひとつながりなんである。狭い世界だ。

なんと、写真家の福田則之さんが会場に来られていて、声をかけて下さった。福田さんは、以前、TNプルーブでスライド上映を拝見したのだが、ものすごい写真を撮るかたである。あのときに考えたことは、その後、なんだかんだと書いたりしゃべったりする際にずいぶんネタ的に使い回している。福田さんが冬の夜の化学プラントに接近するようなしかたで撮られた「都市」や「自然」を見てみたい、というのが僕の密やかで勝手な希望である。

シンポジウムのほうは、基調講演として、West8のエイドリアン・グーズさんが、有名なボルネオ・スポーレンブルグの住宅地や、デンマークの港湾再開発のプロジェクト、パリのコンペ、フィリップス社の本社/工場跡地の再開発マスタープランなど、いくつかの最近のものも含めたプロジェクトの紹介をされた。それぞれの内容も刺激的で面白かったが、そのちょっと皮肉っぽい語り口がまた最高だった(笑いどころやツカミをきちんと訳していた通訳のかたが素晴らしかった)。ロサンゼルスのパサデナの通りの「修景」計画案なんか、アメリカの郊外のニュータウン開発のランドスケープの事例調査をして仕事の提案に使っていたころの自分に見せたかった。。。自然/人工、ということについてや、あえて「我々オランダ人は」と強調するところ、その立ち位置なんかについては(わりと深く)いろいろと考えるところがあったけれども、まずはともかくもエイドリアンの「語り」を楽しんでしまった。いや面白かった。

続いて、シーラカンスの小嶋一浩さん、塚本由晴さん、オンサイトの長谷川さん、早稲田の佐々木葉さんの(時間が押しちゃったので駆け足の)プレゼンテーションがあり、その後五十嵐太郎さん司会のもと、四人によるディスカッションがあった。ディスカッションもまた時間がなくていささか欲求不満な幕切れだったのだが、五十嵐さんが冴えたことに、日本橋の上を覆う首都高の高架の風景について端的にどう思いますか、という質問をぶつけ、これが面白かった。

小嶋さんは、たった40年しか経ていないまだ若い構造物を、そんなに簡単に壊しちゃいけないといい、長谷川さんは、仕事でどういう立場で関わるかによって見え方が違ってくるだろうといい、佐々木さんは、あれを「美観」の問題に単純化してしまうのは思慮が浅い、という趣旨のことを述べた。

たしかに、首都高が建設された東京オリンピック以降にモノゴコロのついた僕らにとって、日本橋の上に高速道路が通っている風景は、それを醜悪なものとして取りざたする以前に「そこにああやってあるもの」だったし、あれが「かつてあった美しい(大切な)ものを損なった」ものなのだ、という「理解」はあとから「学んだ」ものである。さらに僕らは「大きな物語が失効した」とかいう思潮のもとで社会的トレーニングを積んだから、「まともに正しく美しい風景のありかた」を疑う習慣がある。だから、佐々木さんが「首都高を地下化するだけでは、何の本質的な解決にならない」という、それは腑に落ちる。

五十嵐さんが、5千億円から1兆円かかると見積もられる日本橋の首都高の埋設は、土建業の新しい延命なんじゃないか、と言っていた。そういう側面もあるだろう。それは、必ずしも悪意ではなく、時代の要請に素直に応じようとしているだけかもしれない。土木の「美しさ」だって、えてしてこういう強い要求への答えの工夫にあらわれるし、逆に外的要求が弱いときに、それ自身が単体で「美」を獲得しようと奮闘すると、しばしば奇妙で俗悪なものになってしまう。そういう意味で、「見えなくなれ」というのは土木には久しぶりのわかりやすい「強い要求」ではある。

美観にせよ、エコロジーにせよ、社会が「正しいこと」としてサポートする趨勢はしばしば「制度」になってゆき、手段が目的になってしまい、その手段によって何を実現しようとしていたのかという本来の「趣旨」が見失われてしまう。制度に絡め取られないためにも、物事を相対的に見たり、逆説的に肯定してみせたり、いっそあえて楽しんだりするという態度は有効である。そのほうが知的に見えるし。

でも、ほんとにそれでいいんだろうか。と、僕は特に最近、思うのである。佐々木さんの言う「本質的な問題」の「本質」ってなんだろうか。美観やアメニティなんて相対的なもので、現在の東京の三面張りの河川にも学ぶべき経緯や必然や、自分自身のメンタリティの問題に還元される「美しさ」が潜在していたりするとしても、そういう態度によって隠蔽されてしまうことは、ほんとに単に相対的なものなのだろうか。たとえそうだとしても、相対的である「他の可能性」を顧みないことが「いいこと」なんだろうか。

これは、今回のワークショップをお手伝いし始めるときに最初に発した疑問でもあるし、突き詰めると「よい風景やよい環境に普遍性はあるか」というような、際限のない問いになる。こうしたことをいつまでも不問のままにしておいていいのかな、という自問がたびたび浮かぶのは、あるいは僕自身が年を食ったためかもしれないが。

だから、塚本さんが、言葉を選びながら、実はもっと豊かな風景や環境を享受することができたかもしれなかった権利を放擲して、あるものをポジティブに楽しむ「だけ」では駄目なんじゃないかと思い始めている、と言ったのはちょっと驚いたと同時に、なんか、少し晴れ間が見えたような、大袈裟に言うと「次のフェーズ」のきざしみたいなものを感じて嬉しかった。シンポのあとの飲み会で五十嵐さんと隣席したが、五十嵐さんも、塚本さんが変わったな、と思ったそうである。

五十嵐さんは、塚本さんが思わず「権利」という表現をしたのに注目し、似たような文脈で「権利」を「発見」して「命名」するという実践において、東京ピクニッククラブの太田さんたちを評価している、といった。これには僕も膝を打つような思いがした。五十嵐さんご自身は、時代や社会から「あるべきだったかもしれないこと」を切り出して輪郭を与え、名前を付ける、という才能はなく、むしろ、現在の社会がどのようにヤバいことになりつつあるか、ということを描くことが役割だと自覚している、そうである。僕なんかにすれば五十嵐さんは充分そういう才能もあると思うが、いずれにせよ、現状の「報告」のほかに、権利を発見したりカタチにしたりしている人たちを発見してプロモートするという仕事もひとつ、よろしくお願いします。

ところで、この日にはちゃんとWest8の作品集を持参し、エイドリアンさんにサインを頂いた。ふっふっふ。あ、塚本さんも飲み会に来られるなら、「現代住宅研究」持っていってサインもらえばよかった。そういえば「過防備都市」も職場にあったのに。伊東豊雄さんもおられのに。。。

(サインもらうの好きなんだほっといてくれ)

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://fieldsmith.net/mt/mt-tb.cgi/162

トラックバック

» アテネオリンピックとパルテノン神殿、東京オリンピックと日本橋・・・ from アテネオリンピックのトリビア
■東京オリンピック(1964)と日本橋 17世紀に架けられた日本橋川の日本橋は、 川もろとも東京オリンピック(1964)開催に向けて作られた首都高速道路の下敷... 続きを読む

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)