2004年7月21日

見え隠れする水

http://www.tokyo-canal.org/

すでにして、えらく濃いウェブサイトができている。

きっと、水をどう捉えるかによって、街の「何に」働きかけるか、という提案の方向ががらっと変わっちゃうだろうなと思う。

江戸時代だろうと現代だろうと、僕らの体が本質的に「水系内存在」であって、あくまで「水のサーキュレーション」のなかで生活していることに変わりはない。水の本質は「つねにぐるぐる回り続けていること」である。

「水」という観点からは、たとえば建築は「水の供給と排出の経路の編集」だと言えるかもしれない。屋根を防水して縦樋を排水枡に接続するのは、雨の経路をすこし変えて、乾いたスペースを確保するという操作だし、上水を引き込んで「水回り」を通し、汚水管をつないで外部へ排水させるのは、いわば「水のインターフェース」をつくる行為である、とも言える。僕らは建築を介して水に接している。そういう意味では、建築が用意する「水との接し方」は意外と典型的で貧弱だ。

都市のレベルだと、水のサーキュレーションはたしかに「見えにくく」なっている。それを見えにくくなさしめているのは、莫大な必要量を効率よくコンスタントに供給する工夫と、「乾いた床」への希求と、雨水、汚水から糞尿まで「排出される水」への忌避である。スケールは大きいけれど、建築に見られる水のインターフェースのありかたと、本質的には変わらない。

水をどうにかする「手法」はさまざま、ありうるだろうが、そもそも、そうやって都市を再生しようとすることで何が目論まれるのか、というところが重要だろうなと思う。というか都市の「再生」って何だ?

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://fieldsmith.net/mt/mt-tb.cgi/145

コメントする