2004年4月 1日

「ドア」の理不尽さ、など。

自動回転ドアに限らない。そもそもドアは危ない。ドアというのは、建物の内部と外部とを「閉じつつ開く」「遮断しつつ通過させる」という、禅問答のような矛盾を引き受けている。建物の規模が大きくなり、高層化し、視覚的な連続感を狙ってガラスが多用され、空調は高度化して、「内部」と「外部」の環境的な差はますます広がっている。自動車/車道とか、列車のプラットホームとか、ここ100年くらいその基本的な構造がぜんぜん変わらないままに技術的な規模だけが進んでヒトの体との断絶が大きくなってしまっている(エラーの際の身体的なダメージの深刻さが増す)装置系はいくつもあるが、「ドア」もそのひとつだったなあ、とあらためて思った。やっぱり、物理的に「断ち切る」ことによってしか、建物って成立しないんだろうか。気密性も持ち合わせた「暖簾」のごとき、「やわらかい境界」なんてできないんでしょうか。>山本さん

「作った側」をヒステリックに糾弾するメディアに嫌な気持ちになる一方で(森ビルはちょっと憎まれキャラだからなあ。事故のリスクには、一旦問題が持ち上がったら相当非難を受ける、という事態も含まれているべきだっただろうが)、事故に遭った子のご家族のことを思うと胸が痛む。いま、次第にコントロール不能になりつつある1歳半の子供を抱えているため、特に一緒にいた母親の悲嘆と自責を想像して暗い気持ちになってしまうのだ。

けだし、子供を持つと、都市部は思っていたよりもずっと理不尽な危険が夥しいことに気がつく。じつに危ない。

それでだ、神代植物公園前のバス停であきらかに幼児が動き回っているのに、歩道にいる人の間をけっこうなスピードで通過して、ウチの息子やバス待ちのおばあさんを危険にさらした、自転車に乗ったいかにもサラリーマン風の中年のお前。次に通るとき、俺の差し出す傘にタイヤを取られて転倒する危険を避けたかったら通勤経路を変えろ。←けっこうまじ。

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